2012年4月30日月曜日

東電問題の見方(1)

東電問題を消費者(需要側)の立場から考えてみたい。
 
 地域独占の下で同一商品=同品質の電力を他地域と等しい価格で購入できない市場は、最早地域独占が容認される状況に無いのであるからこのまま放置せず早急に是正されなければならない。現状に至ったには種々の原因があるがそれによる供給側=電力会社の追加費用を電力料金の改定などの形で消費者に負担を強いる正当性はどこにも認められないからである。政府と電力会社は東電地区の消費者=需要家に他地域と同価格で電力を提供できる体制=仕組みを早急に構築する責任がある。
 
 これまで我国電力市場は、全国一律(概ね)の電力料金で安定供給することを条件として地域独占を認められてきた。良質な電力の安定供給を最重要条件として国際的に相当高い価格を消費者は受け入れてきたのであるから、供給価格と供給量の安定した体制は(今回のような地震、津波、原発事故など多重災害があっても)供給側(地域独占を認めてきた政府も含めて)の責任で保持されるのが当然である。
 今回の多重災害による追加費用を現状のままの体制で東電に負担させ、結果として地域の消費者に負担を押し付けるようなあり方は決して認められるものではない。政府と東電―他地域の電力会社も含めて―は全国一律の電力料金が保持できる体制を構築する責任がある。
 
 これまで討議されてきた解決策を勘案すれば、原発事故に関連する諸費用は政府負担とし一刻も早い地元の復興を政府の責任で行うことが妥当であろう。その他の追加費用は東電の責任であり、一旦倒産させた上で発電関連資産を含む資産売却や人員整理、人件費等の合理化を徹底して、送電事業に特化した企業として企業再生し長期に亘って債務返済に取り組むべきである。地域独占の既得権を共有してきた他地域電力会社の費用負担も想定されるがその際も消費者に負担が及ばないことが必須の要件であり、電力各社の累積内部留保の取り崩しなどで対処されるべきである。

 料金改定は今回の1回限りでは済まない。現体制が続く限り繰り返し料金改定される可能性のあることを覚悟しておく必要がある。

2012年4月23日月曜日

つれづれに

水温む、とか、山笑う、とかいう常套句がしみじみと心にしみ入る季節になってきた。同様に、何気ない日常の無聊にフト手に取った川柳が人生の機微を見事に写し取っていてほのぼのと感じ入るときの嬉しさも捨てがたいものがある。

 「本降りに なって出ていく 雨宿り」/チェッ、降ってきやがった、暫くここで雨宿りだ、と若い衆の声。でも若気の短気はものの5分も待っていられない。面倒くせぇ、と飛び出していく気配。雨足は最前よりずっと激しくなっている。
 古川柳には味なものがある(カッコ内は前句、小学館・日本古典文学全集による)。「模様から 先きへ女の 年がより(うちばなりけり 々 )」/渋く上品に落着いた服装をするのが老婦人の教養とされた。だから肉体の老化より着物の模様が細かく地味になるという指摘。「三十振袖」「四十白粉」などと顰蹙をかったものである。
 色っぽいのもある。「年寄りが ないでさいさい ねだが落(くるひこそすれ  々 )」/核家族が主になってしまった今では考えられないが、昔は新婚といえども同居する親兄弟や家族を気にして存分に夜を楽しむことができなかった。たまたま夫婦きりの新生活を始めた若夫婦を「(夜が激しいから)床が落ちるぞ」とひやかしているのである。
 「くまの皮 見て女房の ぎりをいい(はずみ社(こそ)すれ 々 )」/お世話になっている主家へ挨拶に伺う。ご主人はご立派な熊の毛皮を敷いていらっしゃる。黒く艶々とした剛毛の熊の皮を見た男は「そうそう、女房もよろしくと申しておりました」。
 艶笑川柳も現代ものになると少々品が落ちる。「死にたいわ にの字を取って欲しい後家」。
 古川柳を読んで感心するのは江戸庶民の教養の豊かさである。「阿房宮(あぼうきゅう) 今は虚(うつけ)の 名に成りて(使い捨てたる金の惜しさよ)」/万里の長城を築いた秦の始皇帝は1万人を入れるという阿房宮を造ったほどの絶大な権力を誇ったが僅か三代で潰えてしまった。そして今に残っているのは馬鹿の別名「あほう(阿房)」だけである。

 江戸の粋―小唄を最後に記しておこう。「羽織かくして、 袖ひきとめて、 どうでもけふは行かんすかと、/言ひつつ立って檽子窓(れんじまど)、 障子ほそめに引きあけて、/あれ見やしゃんせ、 この雪に」。帰るという客の羽織を隠して袖に縋りついても出て行こうとする。あきらめ風に檽子窓の障子をそっと開けると雪がちらついている。纏綿たる情緒である。

2012年4月16日月曜日

遼と真央と翔

ゴルフの石川遼とフィギアスケートの浅田真央の不振が続いている。1992年のバルセロナオリンピック競泳女子200m平泳ぎで金メダルを史上最年少(14歳6日)で獲得した岩崎恭子のようにジュニア期に活躍した選手がその後伸び悩む例が少なくない。何故なのだろうか。
 
女子シングル史上初となる3回転アクセルに成功(ISU非公認)した浅田真央がトリノオリンピックへの出場を期待されたがISUの定めた「五輪前年の6月30日までに15歳」という年齢制限に87日足りず代表資格を得られなかった。この措置について賛否両論あるが私は賛成派である。フィギアスケートという競技の場合特にそうかもしれないが、体重の軽い子供の身体が優位に働く傾向があると考えているか。肉体が幼いジュニア時期に驚異的な記録を上げた選手が成人の肉体に成長した後以前同様のレベルに到達できない例を繰り返し見てくると、その間に因果関係があるのではないか、一定以上のレベルに到達した技術・技能を幼い肉体から成人の肉体へ移し変える過程が必要なのではないか、そう考えているのだ。ところが選手はそれに気付かず結果が伴わないうちにジレンマに陥り才能を埋もらせてしまう。指導者もこのことに気付いていないかコーチング技術がない。
日ハムの中田翔はこの時期をうまく乗り越えた。超高校級スラッガーと期待されながら2年間は泣かず飛ばずでいたが3年目の昨年目覚しい活躍、そして今年は押しも押されぬ中心選手に成長した。翔の晴れ姿を見るのは嬉しい。
苦しむ遼と真央、乗り越えた翔。スポーツ医学等関係者の奮起を望む。

却説。若い彼らを眩しく見詰めざるを得ない高齢期。かといって「アンチエイジング」で老いに抗う醜悪さを晒す愚も厭わしい。そんな危うさを戒めるような言葉があった。
疾病と老耄とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。(略)老いと病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は、頗妙である。(永井荷風「正宗谷崎両氏の批評に答う」より)

老いを高みから眺めると「可笑しみ」に満ちている。それをそれとして認める余裕がまだ無い。生まれて初めて食中りに罹り経験の無い「痛み」に怯んで先端医療特約を見直す周章狼狽。まだまだ荷風山人の域には程遠いふつつか者であります。

2012年4月9日月曜日

それっきり!でいいんですか

NTT西日本のCM「それっきりIT篇」が面白い。伊武雅刀扮する中小企業の社長がIT導入後セキュリティの更新やアフターケアを“それっきり!”で放置したままでいるのを井上真央に「それっきりITでいいんですか」と窘められる構成になっているのだが、このCMを見て苦笑している人も多いのではないか。「それっきりIT」は決して珍しくない現象なのだ。たとえば先日あった“J-ALERT”の誤作動などその典型だ。
 J-ALERTとは「消防庁が整備した全国瞬時警報システムの通称です。津波や地震など対処に時間的余裕のない事態が発生した場合に、通信衛星を用いて国(消防庁)から情報を送信し、市町村の同報系防災行政無線を自動起動するなどして、住民に緊急情報を瞬時に伝達する(HPより)」もので2007年から運用開始され5年に1度の定期点検が義務付けられている。
ところが5日行われた北朝鮮が予告している「人工衛星」打上げに対応した沖縄県26市町村を対象とした伝達試験で那覇市や浦添市など7つの市町村無線が起動しないトラブルが発生した。J-ALERT導入時にどのような点検が行われたのか、5年に1回の定期点検は確実に行われていたのか、多分「それっきり!」かそれに近い状態であったに違いない。

 国や行政の仕組みには「それっきり!」が極めて多く年金はその代表例であろう。社保庁の乱脈運営など点検が適切に行われていたら防げたであろうし、AIJ問題にしても投資運用業務が2006年の法改正で従来の許可制から登録制に変更されたときに投資顧問会社の定期検査を厳重に行う体制を構築しておけば今回のような事件の起こる可能性は相当低かったはずである。

 行政もそうだが企業でITや年金・健康保険関連の事故が多いのはその業務が本来の企業活動とは異なっているとして軽視されている傾向が強いからだ。メガバンクのシステム障害が多発するのも役員の中にIT業務を理解する人材が不足していることによるといっても強ち間違っていない。
年金財政が国を揺るがし年金による倒産が現実化する現在、IT活用によるイノベーションがグローバル経済下での企業存続を左右する現在、社会保障とITを国と企業の中心業務として見直す時期にきていることを知るべきである。

 郊外に造成された「巨大団地」も「それっきり!」になるのだろうか。

2012年4月2日月曜日

学校秀才

プロ野球が開幕した。日本ハムの斉藤佑樹投手が入団2年目にして初の開幕投手、自身初の完投勝利を収めた一方でライバルの楽天・田中将大投手は初開幕投手の栄を担いながら6回5失点で敗戦投手になった。「持っているんじゃなくて背負っているんです」という斉藤に対してマー君は「情けない、恥ずかしい」とうなだれていた、という。斉藤投手には往年の広島・長谷川良平投手のような「小さな大投手」になって欲しい、長谷川は167cm56kgしかなかったが広島一筋で通算14年197勝(208敗)も上げた大投手なのだ。それにしても野球は面白い。誰が考えても田中マー君の方が断然有利で斉藤ユーちゃんにとって過酷な予告・開幕投手指名という条件の中で結果は見事に予想を覆されるものとなってしまった。
今年は大波乱がありそうだ。

 閑話休題。このコラムを始めたのが2006年4月であるから丁度丸6年、数えて7年目になる。今回で332回だからほとんど毎週書いていたことになる。原動力となっているのは「読書」だ。漢文古文をはじめとした文学から経済、科学まで幅広く読んだ。そして、何を書くか、より、如何に書くか、が大事だと思うようになった。書くとは削ることだ、と覚った。それは鴎外、荷風を徹底的に読み込んだお陰であり一葉、二葉亭などの明治文学に親しんだことによる。彼らは一様に「書き方」にこだわっている。そのための『蓄積』がすばらしい。その意味で「蓄積」を始めたのが遅かったと悔やんでいる。

 書くことは方向を示すことでありある意味で結論を出すことだと思う。高学歴社会になって「解説上手」が溢れている、しかし彼らには「自分としての結論」がない。『学校秀才(学校で得た知識はあるが行動力に乏しく知識を実生活に生かせない)』ばかりが増えているようで寂しい。

 鴎外や荷風などを読んで「文化の断絶」を痛感した。明治維新を境界線として、いやひょっとしたら「戦後」を境としてそれ以前の文化が読めない、分からない状態がある。同じ事情が中国にも韓国にもある。それが僅か240年足らずの歴史(=蓄積)しか持たない米国に敵わない原因ではないか、最近強くそう考えている。