2026年1月20日火曜日

84才現在地 (後)

  国内に目を転じると病院の倒産、学校の荒廃など問題山積です。バブルがはじけて高度成長時代の終焉を迎えて混乱、当時世界を席巻していたサッチャー、レンガーンが主導する新自由主義に救いを求めました。聖域なき構造改革を標榜して規制改革という名の「民営化」を強力に推進したのです。矛先は医療、教育にも及びその結果は今、病院の倒産と大学の基礎研究の衰退となって表れ、ノーベル賞の日本人受賞はあと3~5年もしないうちにゼロになって以後現れることはないであろう惨状を呈するに至っているのです。

 なぜか。新渡戸稲造は『武士道(1899年)』でかく述べています。

 あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみなされるる仕事のあることを、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銭をもって支払わるべきでなかった。価値がないからではない、評価しえざるが故であった。この点において武士道の非算数的なる名誉の本能は近世経済学以上に真正なる教訓を教えたのである。けだし賃金および俸給はその結果が具体的になる、把握しうべき、量定しうべき種類の仕事に対してのみ支払われうる。しかるに教育においてなされる最善の仕事――すなわち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定しえざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用うるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、これは支払ではなくして捧げ物であった。したがって通常厳正なる性向の人として清貧を誇り、手をもって労働するにはあまりに威厳を保ち、物乞いするにはあまりに自尊心の強き師も、事実喜んでこれを受けたのである。彼等は艱苦に屈せざる高邁なる精神の厳粛なる権化であった。彼らはすべての学問の目的と考えられしものの具体化であり、かくして鍛錬中の鍛錬として普く武士に要求せられたる克己の生きたる模範であった。

 

 国民生活の基礎をなす社会インフラである教育・医療をはじめエネルギー、水道、鉄道などは競争原理に馴染まない領域に属する機能です。それを一律に民営化(あるいは民営化手法による管理体制の導入)した結果、医療・教育の崩壊、地方の疲弊を招いているのです。ここは一旦立ち止まって「公共財」という範疇を設定して「純粋な競争原理」ではない「管理基準」を定めて運営するよう方向転換するべきではないでしょうか。

 

 生成AIの活用を政府は強力に推進しようとしています。かって我々は兵器の野放図な進化、原子爆弾の開発と使用、原子力発電の廃炉、核ゴミの処理技術も確立しないままに実用化するという愚挙を行なってしまいました。現在の生成AIの活用策は再び同じ過ちを犯しかねない危険性を含んでいます。

 なぜこんな愚かな過ちを繰り返すのでしょうか。それを中谷宇吉郎はこんなふうに諭します。

 このごろ音速をはるかに超えるような立派なジェット飛行機ができている。これは今までの自然界にはなかったものである。(略)これには非常に強い空気の抵抗があるが、そういう問題を、現在の流体力学は、見事に解いて、超音速のジェット機の翼の設計をしている。(略)しかしそれならば、塵紙を一枚とって、頭の上から地面に落とした時に、それがどういう落ち方をするかといったら、これは解けないのである。超音速のジェット機の翼ができるのに、なぜ塵紙が落ちてくる問題が解けないかというところに、非常に重大な点がある。(略)「火星へ行ける時代になっても、テレビ塔の天辺から落ちる一枚の紙の行方を予言することはできない」のである。この点に、科学の強力さと、その限界とがある。(『科学の方法』1958年)

 

 科学を万能のように信奉する風潮がはびこっていますが科学が解明した部分は限られています。科学は発展しやすい方向へ進化しがちです。だから科学は謙虚でないといけないのです。中谷宇吉郎はそう言いたかったのだと思います。ところが今科学は傲慢です。暴走しています。危険極まりない状況にあります。

 

 科学もそうですが政治も混迷の極にあります。なぜこんな事態に至ったのでしょうか。晩年の読書でそれを追求してきたのですがその答えが思わぬところにありました。

 天皇制そのものに問題があるとして、これを廃止し、あたらしい国の仕組みをつくるのは、途方もない作業だよ。そのためには、自分たちの過去に向かって、これから再建する未来に向かって、ゆるぎない目標を掲げてみせること、これが必要になる。さらに、それを実現させる道筋を描いてみせなければならない。つまり基本設計だね。それを内外に宣言し、実際の行動に移すには、法律や教育を整備しなければならない。これは実施設計だ。そうした面倒なこと、忍耐力の必要なことを乗り越えようとする気構えや勇気、知恵が、政府はもちろん、国民にもなかったんじゃないのかね。天皇が、お上がいてくれたほうがひとまずは安心だというような。(『天使も踏むを畏れるところ』松家仁志著2025)

 

 『天使も――』は昨年読んだ最高に面白かった小説です。皇居の昭和新殿建設をテーマにした人間模様を描いた上下巻千頁を超える長編ですが詳細な資料に基づいて細部も疎かにしない作者の総決算的作品ですがその一節に上の章句があったのです。

 戦後80年経ってわが国の政治状況は多党化時代を迎え混迷の極に至っています。それは「そうした面倒なこと、忍耐力の必要なことを乗り越えようとする気構えや勇気、知恵が、政府はもちろん、国民にもなかったんじゃないのかね。天皇が、お上がいてくれたほうがひとまずは安心だというような」という作業を怠ったつけが今になってわれわれに降りかかってきているからではないかと思うのです。東京裁判で捕虜虐待の責任を問われたいわゆる「BC級戦犯」、命令を出した上官でなく実行した下級兵士が死刑されたという矛盾を含めて「戦争責任」――天皇も含めた――を丁寧に総括せずに今日に至っているために、シベリア抑留という紛れもない「捕虜虐待」をソ連に、従ってロシアに問えない。アメリカの日本人強制収容も原爆投下責任も、そもそも東京裁判という勝者が敗者を裁くという裁判そのものの正当性もうやむやの内に不問に付す以外にない屈辱を受容しなければならないのです。戦争犠牲者への謝罪、甚大災害の被災者の慰撫、アジア諸国への謝罪と慰霊の哀悼――このすべてを天皇にお願いして「われわれの子どもや孫にまで責任を負わせてはならない」などと言い放つ政治家さえ出てくる昨今の状況は「アジアの盟主」を誇った先人たちの矜持の欠片もありません。

 

 84才という紛れもない「晩年後期」になって、体力の衰えは隠すべくもなく生きていくことの覚束なさをひしひしと感じる今、弱者という立場を甘受しなければならないだろうことを覚悟して、それでも我が現在地を明確に認識するためにこの稿を記そうと思いました。今後の選択と決断に責任を持って行えるように意識づけしようと試みたのです。

 あとどれほど生きるかは誰にも分かりませんが先達として振舞えるよう願うばかりです。

 

 

 

2026年1月5日月曜日

84才現在地 (前)

  核を保有する軍事大国の傍若無人な振る舞いが世界を混沌に陥れ一触即発の戦争危機と到達点の見通すことのできない軍拡競争を招いています。そんな折高市総理の台湾有事に関する不用意な存立危機事態発言がわが国をのっぴきならない状況に追い込みつつあります。

 こうした事態は根本原理を認識すれば至極当然の結果であることが理解できるのですが根本原理とは何か。カントが300年前に提示した次の公理です。

 

 将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない。その理由は、この条約はたんなる停戦条約にすぎず、敵対的な状態を延長しただけであり、平和をもたらすものではないからである。平和とはすべての敵意をなくすことであるから、永遠のという言葉をつけることさえ、そもそも余計なことなのである。平和条約というものは、締結の時点では当事者ですらまだ意識していない原因を含めて、将来の戦争の原因となりうる原因のすべてをまとめて排除するものである。(略)常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、他国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争が生まれる。こうした軍拡費用のために、短期の戦争よりも平和時の方が大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして、常備軍は戦争の原因となるのである。(『永遠平和のために――哲学的な草案』)

 何と簡単な原理でしょうか。常備軍がある限りいつでも戦争を始める用意があるのですから平和状態は次の戦争までの“停戦状態”にすぎない。軍備を持てば二位では不安で一位をめざして限りない軍備増強に走る。その負担を軽減するために先制攻撃をしかけたくなる。

 現在世界で進行中しているトランプ主導の軍拡競争。世界最貧国北朝鮮が突っ走る核武装の高度化。ここで機能不全に陥った国連を再び80年前の「理想追求の場」に再生しないならば世界は限りなく暴発へと傾斜していくにちがいありません。とりわけ北朝鮮の経済状況はもういくばくの猶予期間も残していないはずです。緊迫度がここ一両年で急速に高まっていくであろうことを肝に銘じておくべきでしょう。

 

 エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読んだのは65年前です。彼は言います。人類の歴史は「~からの解放」の歴史であった。飢餓、感染症、暴力(戦争)からの解放、自由の獲得が有史以来近代までの人類の歴史だった。ところがその自由を手にした途端人類は新たな「依存・従属」を選んだのです。ナチズムへの従属の危険性をフロムは1941年に書いたのです。

 すなわち近代人は、個人に安定をあたえると同時にかれらを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していないということである。自由は近代人に独立と合理性とをあたえたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。その孤独はたえがたいものである。かれは自由の重荷からのがれて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性にもとづいた積極的な自由の完全な実現に向かうかの二者択一に迫られる。本書は予測よりもむしろ診断――解決よりもむしろ分析――ではあるが、その結果はわれわれの行為の進路に一つの方向をあたえている。なぜなら、全体主義がなぜ自由から逃走しようとするのかを理解することが、全体主義的な力を征服しようとするすべての行為の前提であるから。(『自由からの逃走』フロム著1941)

 アメリカの半数の国民がトランプに依存しているのは明らかです。アメリカだけでなく世界中で極右勢力が跋扈しているのは多くの国民が既得権の回復を標榜するポピュリスム極右政党に依存して一時の救済を求めようとしているからです。個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由――これまでになかった新しい価値への自由を創造しなければ人類の進歩は頓挫しまた暗黒の「前近代」へ陥落していくのは確実です。

 

 84才になっていよいよ「晩年後期」に入った我が人生の立地点を明らかにしておこう。なにやら頭脳に薄靄がかかったように感じる昨今、幾分でも頭がはっきりしている今それをしておこうとこの稿を書いています。次回はわが国の賢人からの学びで現在地を明らかにしたいと思います。        (続)

2025年12月24日水曜日

書くということ

  昨年の3月から手書きの日記をはじめました。パソコンやスマホの電子文字の打ち込みばかりで済ますようになったのに危機感を抱いたからです。80の手習い、を4年近くつづけてみて書くことの快感を知ったことも影響していますが、書くことと人間の知能に重要なつながりがあるように考えたからです。

 人間が文字を発明して約五千年、人類の知識は飛躍的に増大しました。人類の文明の驚異的な進歩は文字の恩恵と言っても過言ではないでしょう。勿論「記録」という機能は文字のもつ一面ですが「書く」という作業が、新しい概念やヒラメキ、発見・発明を促した側面を忘れてはならないと思います。「ペンが勝手に走る」という表現を作家はよく使いますがこれは「書く」という行為(作業)の持っている「機能」をよく表していると思うのです。「書く」という作業は記録とともに創造という機能にも重要なな作用を及ぼしているのです。

 もうひとつ「歩く」という動作・運動も創造と深く結びついていると言います。ノーベル賞を受賞した多くの研究者が歩いている途中で発明のヒントを得たとか作家が想像もしていなかった「表現」がヒラメイたということをよく言います。

 「書く」と「歩く」は思索や創造のための知識や情報の「整理とヒラメキ」に深く関わっているのです。

 

 もしそうなら「書く」ことを放棄した人類は大いなる危機に瀕していることになります。

 

 話を日記に戻すと今「メモ型日記」が流行っているそうです。スマホのメモ機能を使ったものと紙のもの両方がはやっているのですがなぜ今日記なのでしょうか。SNS全盛となってLINEなどで人と人のつながりが何重にも張りめぐされてそこからの脱出が困難になり、すべてを曝け出すことが当たり前になって、本来人に見せるものでなかったはずの日記まで自己表現として公開することに抵抗がなくなり「承認欲求」が満たされることでむしろ積極的に「見せびらかす」のが当然のようになっています。その結果本当の「自分だけの自分」を残しておきたいという欲求が芽ばえてきたのではないでしょうか。それを満たすメディアとして日記が再評価され小さな流行となっているのではないでしょうか。

 

 なんとも錯綜した状況ですがこのまま放置しておいていいのでしょうか。

 最近「WEIRD(ウィアードゥ/ウィアドゥ)」という語が注目されています。「西洋の、教育水準の高い、工業化された、裕福な、民主主義の」の頭文字をとった造語なのですがWEIRD社会は決して人間全体の代表ではなく、むしろ変わり者であることへの注意喚起とされています。根本的な問題提起は時間の流れ、つまり過去から現在、現在から未来へと一直線につながる時間という概念も、もしかしたらWEIRD社会のローカルな考え方ととらえた方がいいのかも知れません。

 

 同じような考え方として「ポストヨーロッパ」があります。

 近代のテクノロジーの拡張は西洋的な思考様式の拡大に他ならない。その暴力性が世界に均一の思考様式――西洋の哲学に支配される「哲学の終焉(ハイデガー)」をもたらした。「テクノ=ロゴス中心主義」が世界を席巻し、テクノロジーと西洋哲学による世界の統一的支配をグローバル思考とよび人間中心主義的な単一世界の志向を是として邁進してきた結果今、あらゆる矛盾が蓄積して世界は大転換点に至っている。

 ではどうすればよいのでしょうか。西洋と異なるテクノロジーの探究を通じてテクノロジーの多様性を可視化する、そのためにはアジア思想をテクノロジーの見地から再考ないし再構築することが必須だというのはユク・ホイです。世界には多数の思考様式がありそれを探求することで世界のグローバルな均質化を退ける。局所性と多様性を同時に追求して行き過ぎた資本主義や消費主義、新自由主義を乗り越える。ただし「アイデンティティポリティクス(性別、人種、宗教、性的指向などを基に社会問題や政策を考え解決を図ろうとする政治的な動き)」や「差異の中和」「ナショナリズムの回帰」に陥る危険性を避けローカルかつ世界に開かれた「惑星的思考」を構築しなければならない。「特定の価値を絶対化しない」ことが現在の混乱の反省を生かす絶対の条件である、とユク・ホイは訴えています。

 

 生成AIが席巻しています。社会的合意もないまま暴走しています。このままでは人間が蹂躙される可能性も小さくありません。生成AIはある意味で産業革命以来つづいてきた西洋思考――「テクノ=ロゴス中心主義」の窮極の到達点かもしれません。もう一方の結晶である資本主義、民主主義の西洋型は矛盾が飽和点に達しています。人間社会のシステムが破綻に瀕している中にテクノロジーの究極形を投入することの危険性ははかり知れません。未熟な社会に破壊力絶大な技術がおとなしく納まるとはとても思えないのです。

 

 西洋型を東洋思想で、あるいはスラブ系のイスラム系の――西洋型からすればローカルな思考で修正することが現在の混沌を解消する必須の工程だと世界は動き始めている、それが「WEIRD」批判であり「ポストヨーロッパ」という動向なのではないでしょうか。

 

 しかし「書く」も現状改革の有力な方法になる可能性を秘めています。「歩く」は健康と思索には必須です。どちらも現代テクノロジーが見過ごしてきたものですが再評価されるべき時期に来ているのではないでしょうか。

この稿は毎日新聞書評(2025.12.13)――渡邊十絲子「無数の言語、無数の世界」、中島岳志「ポストヨーロッパ」を参考にしています

 

 

 

 

 

 

 

 

2025年12月8日月曜日

天才とAI

  ETV特集「藤井聡太と羽生善治 対談 一手先の世界(2025.11.29放送)」はAIを語るうえで非常に示唆に富む放送でした。さすが天才と感じ入った次第です。

 

 AIは知識の整理と体系化に利用します、という藤井さんの言葉はAIに対する最も望ましい在り方を示した含蓄のあるものと感じました。

 マスコミ等で報道される多くはAIの言葉(解答)をそのまま受け入れて仕事に利用したり論文にしたりという形がほとんどです。解答を導き出すための勉強――本を読んだり情報を収集したりという過程を省略して結果だけをAIに求めるという姿勢が目立ちます。いわば「AIに教えられる」――依存しているパターンです。これに対して識者は警鐘を鳴らすのですがあまり効果は無いようで大学教授は論文の独自色を見分けるのに苦労しているといいます。痛ましいのは生きる苦悩をAIに相談して「自殺」を選ぶしかなかったというケースです。

 独創性を要求される棋士――それも天才と呼ばれる藤井さんの積み上げてきた万余の棋譜や知識を整理。体系化して実力のレベルアップに結びつけるという受け入れ方は「理想的」なAI利用の方法ではないかと教えられました。

 AIを無批判に受け入れる弊害として、羽生さんのいう「将棋が早くなった」という傾向が相当するかも知れません(藤井さんはそうした変化はないという意見ですが)。人間は時間をかけて理解するけれど、その間(ま)を飛ばして進めるから将棋が早くなるのではと羽生さんは言います。早回しで映画を観ても分からないから面白みが理解できないのと同じだというのが羽生さんの見方です。AIの答えを鵜吞みせずにそれを吟味して過程を理解することが必要だというのです。言い換えればAIを無批判に受け入れるのは面白くないし危険だということになるかも知れません。

 

 羽生さんの「ユラギ」と「どこで止めればいいか」問題も本質的な視点です。AIが答を出すのに時間がかかって揺らいでいるように見える時は「AIも分からないことがあるのかなぁ」と感じているといいます。このユラギの一種としてAIの出す最善手の変わることが上げられます。藤井さんが時々意表を突いた差し手をするときその手がAI評価の3位4位ということがあります。しかし後でプログラマーが「推定最善手確率」を操作して解析を繰り返すと最終的に藤井さんの手が最善手1位になるのです。一般の人が仕事や学習で答えを求める場合は最初に出てきた最善手1位を採用して終わってしまうにちがいありません。批判的にAIを受け入れることをしない利用者は最終的な最善手を知らないままに次手、3位の方策で事を進めて問題解決できないことは十分想像できます。しかし「この手は最善手ではない」と判断してもAIに「更に解析を進めろ」という指令を出せるようなプログラムは用意されているのでしょうか。それを使いこなせるようなスキルを一般利用者は獲得出来るのでしょうか。このあたりがAIにひそむ大きな「危険性」のひとつです。

 さらに大きな問題は「どこで止めればいいか」問題です。AI同士の将棋は先手優位と言われていますが名人の二人は「引き分け」ではないかといいます。将棋には時間制限がありますがAIにはそれが分かりませんから限りなく勝負しつづけるというのです。それは「円周率」の答えに限りがないのと同じだと羽生さんは言います。このことはAIにすべてをまかせると「無間地獄」に陥る危険性をはらんでいることを予想させます。窮極は戦争でしょう。AIが状況に応じて次の作戦を出し続けて互いに相手が「全滅」するまで戦争がつづくとしたら恐ろしいことです。

 

 AI将棋が成長するのを実際にふたりは体験しているようです。同じような局面に対したとき前回より旨い手を指すことがあるというのです。これは一般的にもあり得ることでディープラーニングやデータマイニングなどの手法がシステムに内蔵されていますからAIは成長するように作られているのです。

 

 どんな将棋を指したいですかという質問に藤井さんが「面白い将棋を指したい」と答えていたのに共感しました。AIは記憶している膨大な棋譜を用いて最善手を答えるシステムです。将棋としてはそれが正解なのでしょうがそれでは生身の人間が指している面白味がありません。人間同士で会話して――データには現れない感情とか雰囲気とかを感じながらAIを超えた将棋を指す、それが面白いと藤井さんはいうのです。それは組織内の問題解決においても同様だと思います。論理的には最善の解決策をAIは提案してくれるにちがいありません。しかしそれを受け入れるのは人間ですからどんな感情的な反応が出てくるかはAIはまだ対応できないにちがいありません。そこを埋めるのが人間の仕事です。仕事に面白さを求める姿勢がAIを人間社会に生かす重要なポイントになるのではないでしょうか。

 

 藤井さんの研究仲間である永瀬九段が「角換わり以外は木刀なんです」という発言をしたとき、羽生さんも藤井さんも苦笑いしていたのが印象的でした。永瀬さんは将棋の真髄は「真剣勝負」だということを言いたかったのでしょうが、そしてそれは「角換わり」がもっともふさわしい手なのでしょうが、いつもいつも角換わりで指せるわけではないのですからそれを「角換わり以外は木刀です」とズバリ言っちゃうのは反則だよ永瀬さん、とふたりはいいたかったにちがいありません。

 

 羽生さん藤井さんは天才です。AIに対しても我々レベルとは比較にならない高みで体験していると思います。それだけに我々の知りえないAIの側面を把握してきたであろうことがしのばれて多くのことを学ぶことができましたが、なにより天才二人の対談の面白さは稀有な体験でした。

 

 

 

2025年11月13日木曜日

AIとカン

  菊花賞は惜しかった。カンを信じるべきでした。

 本命と対抗は人気通りで仕方ないとして穴馬を探って、結果⑫ゲルチュタールと⑭エキサイトバイオにたどりつきました。まず目についたのはエキサイトでした。夏レース直前のラジオNIKEI賞(GⅢ、1800m)を勝って能力に目途をつけた調教師は夏を全休して菊花賞にそなえた、そんな陣営の姿勢から菊花賞に賭ける強い意志を感じました。もう1頭がゲルチュタールです。ダービートライアルの青葉賞を3着した底力と初出走以来2000mから2400mの長距離路線を選んできたステップに加えて近年菊花賞で良績を上げている日本海ステークス(2200m)を勝ち上がってきた戦績はいかにも菊花賞向きと判断したのです。さてどっちを選ぶか?

 ゲルチュタールでした。菊花賞は3000mです、どの馬も未経験の過酷なレース。初出走から長距離路線を歩んできたデータは陣営の並々ならぬ菊花賞への執念を感じます。一方のエキサイトも2000mの中距離路線を選んできましたが勝ったGⅢが1800mというのがひっかかりました。そして最後は騎手です。坂井瑠星と荻野極、この差は大きい。

 結果はご存じの通り1、2着は本命対抗のエネルジコとエリキングで3着がエキサイトバイオ、ゲルは4着でした。何故ゲルチュタールを選んだかといえばカンよりデータに重きを置いてしまった、そして最後の最後に13番人気よりも5番人気の安全性へ走ってしまったのです。

 

 2年前にケイバを止めようと思いました。でも競馬は好きなのでレースを見るのですがあまり面白くない、勿論検討はしますがどこか緊迫感がないのです。そこで思い出したのが虫明亜呂無氏です。60年ほど前、第一次競馬ブームのころ――シンザンが戦後初の三冠馬になって競馬人気が盛り上がった当時の競馬評論家で「文学系」競馬評論の先駆けでした。競馬評論家なのに「馬券は複勝200円券1枚」しか買わないという変わった人でした。当時の私は、そんなもん馬券とは言わん、と嘯いていたのですが、今度馬券はGⅠだけ、それも「複勝500円」と決めてレースを見てみると買わない場合より格段に面白いのです。私もやっと虫明氏のレベルに達したかと少々悦に入ったものでした。

 

 もともと馬券は下手な方です。それがコロナ以降パソコン購入に変更して猶更当たらなくなってしまいました。現場の喧騒と鉄火場めいたヒリヒリした緊張感のなかでのヒラメキの決断とヌクヌクとした日常生活のユルイ環境での馬券では決定的な乖離があるのでしょうか。出馬表も電子版はだめで競馬新聞(またはスポーツ新聞)、それも横書きではなく縦書きでないとシックリこないのです。でんま(出馬)表を下の欄(直近のレース)から上に舐めるように見上げているうちにヒラメキが来る、それが「カン」なのです。同じようにこうした作業を繰り返しても馬券を買う買わないでは「没入感」がまったく異なるのです。

 データだけでなくお金を賭けるという緊張感の中で繰り返し繰り返し馬券を買って、スッて痛い目にあって、反省して、勉強して知識を深めて、ようやく身に着いたのが「カン」というものです。

 お金を賭けて馬券を買って、こうした作業を繰り返して「カン」ができ上がる、この過程をAIはプログラム化できるでしょうか。競馬の「カン」とは知識やデータを飛躍した「ヒラメキ」のことだと思います。

 AIは「カン」をプログラム化できない、そう考えます。

 

 生成AIがブームです。この流れを止めることはできないでしょう。あっという間にあらゆる分野でAIは活用されるにちがいありません。それほどAIは有効で便利です。生産性は飛躍的に向上して少子高齢化による「労働力の不足」は相当部分解決されるにちがいありません。ただその時の社会のかたち――人間とAIの役割分担の予想図が明らかになっていませんし、だから社会的合意も醸成されていません。にもかかわらず膨大な投資が行われ社会は一方向へ傾斜を強めています。

 極めて危うい状況です。

 

 特に危惧しているのが「教育」です。

 これまでの教育は――特に日本の教育は極言すれば「AI的人間」をつくることを目指してきたのではないでしょうか。広く知識を吸収して適応力の高い、配置された場所で要求される能力を速習して定められた機能を遂行できる人材の養成を国家は教育に求め管理してきました。明治維新以来高度成長期までこの教育モデルは成功してきました。しかし新自由主義のグローバル経済社会になって破綻しました(不登校児童35万人、全小中学生の約4%というデータはその一端を表しています)。独創性と批判精神の欠如がこの教育制度の欠陥です。しかも今要求されている能力はこのふたつです。

 生れたときから高度なIT環境の中で育つこれからの子どもたちはAIを簡単に使いコナすでしょう。しかしAIのもたらす結果を批判的に受け入れる能力は身につけているでしょうか。AIの答以上の創造力を発揮することはできるでしょうか。結果、AIに使われる「奴隷」に成り下がらないと自信をもって言えるでしょうか。

 電子教科書さえまだ根づいていないわが国の教育環境。偏差値でランク付けされた学校制度に公私の社会組織(企業も役所も)がベースを置いている日本社会。教育を根本的に改革しないと本当にAIに支配される社会になってしまのではないか。そんな恐れを抱いています。

 

 天皇賞3着したジャスティンパレスも実力馬が宝塚記念3着で復調気配を見せて4ヶ月半休養、そして好走のパターンです。次のGⅠエリザベス女王杯もこのパターンがあるかも知れません。

 やっぱり競馬は楽しいですね。

 

 

2025年10月20日月曜日

明治の知識人から

  しかれども他国を論ずる眼もて支那を観るは誤れり。支那は当座の目的を遂げんがためには、過去の恩義を埋没し去りて微塵も良心の苦痛を感ぜざるのみならず、恩義の主たる日本を不利の地位に陥れんがために、一時あらゆる手段を用うることをも已まざりしもののごとし。これその一方には頑固に日本の施政に反対して日本をして知らず識らず強硬の手段を取らしめ、また同時に他方には盛んに営口等に在住する欧米商人を煽動して、日本の専権に関する真偽の報道を世界に伝播せしめたる所以なり。

 これは朝河寛一の『日本の禍機(1909年刊)』にある言葉です。見事に中国の本質を捉えた一文に感じますが日本人だからでしょうか。彼は日本人初のイェエール大学(アメリカ)の教授になった歴史学者で終生彼の地で過ごしました。アメリカから世界的視野で日本の政治動向を注視し非戦を主張しました。

 

 回顧すれば1899年以前、英国が二原則の形成に力を尽くしたるの功は大なり、この年に米国がその一原則の重要なるを列国をしてますます意識せしめたる功もまた少なからず、1900年列国が我慢を抑えて一時相共に二原則を護りたる功もまた没すべからず、しかれどもこれらは皆その後の露国が驚くべき大胆なる偽善貪欲を抑うる力なかりき

 アヘン戦争によって国力の疲弊した中国を欧米列国が簒奪の限りを尽くし利害関係が錯綜して収集困難に陥ったのを「清国主権」「機会均等」の二大原則で安定を図ろうとした経緯を述べたもので、にもかかわらず抜け駆けをして満州を侵略したロシアの暴挙を指弾したのです。日露戦争は利害関係の深い日本が二大原則順守を迫ってロシアと交渉を重ねたのですが決裂した結果勃発しました。国際的には正義は日本にあり、しかも「後進国日本」が無敵を誇るバルチック艦隊を擁するロシアを破ったのですから全世界が喝采するとともに日本を「一等国」として認識しました。

 ところが戦勝国日本の民衆はロシアの賠償金拒否など犠牲に見合う給付を得られなかったことに不満を抱き「日比谷騒動」など全国で暴発行動を示しました。それに乗じた陸軍が満州を浸潤したのです。これによって国際社会は一挙に日本批判に転じます。

 

 日本が国際的に窮地に陥ったのは、原理原則として、対清二大原則を世界に向かって扶植しておきながら、その実南満州における利権を、対ロ対清において、自ら作為し獲取したるの内外の相矛盾するところを遂行せんとするところにあり。

 されば日本が南満州における経済的首位に立たんとするは、決して遠国の少数者が植民地の富源を独占せんとすることがごときの類と同日に語るべきにはあらず。実に彼我の蒼生の発達の相頼り運命の相継がるところなるがゆえに、我は前には非常の犠牲をもってこれを清国のために保存したり。今は力を極めて共同の成長を促し、兼ねて遍く列国をも利せんとことを志すにいたれるなり。

 

 こうした状況下で当の中国人はどんな考えを持っていたのでしょうか。

 米国は常に支那の友邦にして、機あるごとに無私の態度を示したるがゆえに両国間の交情変わるざるべきは最も必要のことなり。米国は元来東洋諸国に対して厚意を有し、未だ一度もこれを侵略せんとしたることなし。もし近い将来において、支那の主権および領土を危うくするがごとき事情起こることあらば、余は米国が支那の権を確保せんがために力を尽くさんことを望みかつ信ずるなり。勿論これすべての友邦のなさんことを望むところなれども米国に信頼するの情最も深きものあり。(袁世凱のことば)

 我が日本が支那と同じ東洋にあり、これと人種および文字相通じ、文明の縁故深く、かつ将来の利害極めて親密なるべき自然の地位に立ち、過去の宣言および事業を継ぎて、最も誠実に支那の主権を擁護し、もっとも熱心に支那における機会均等を確保するの首動者なり。これによりて米国とかつ競争しかつ協同し、もって相共に東洋の進歩・幸福を助成せんことにあり。是豈地理及び歴史の自然の配置にあらずや。日本もし正路を踏みて誤らずば清国に関する日米衝突の一の理由だになく半ばの機会だになかるべし(以下略)。

 

 日本は正路を踏み外し、かくして日中の隔絶は修復不能の段階に転げ落ち開戦の止むなくに至るのです。

 朝河寛一は在米という特殊な環境にあった人ですが明治知識人の一典型でもあります。そんな彼の存在は現在ほとんど知る人がありませんが今度『日本の禍機』を読んで(戦前の文語体に少々手こずりましたが)この書は戦前の日本を知る必読の一書だと認識しました。

 

 翻って現在の日米関係を鑑みるにトランプ関税は論外としても、核抑止力を紛争解決の手段として振りかざす勢力の跋扈する現状において「唯一の被爆国」を常套句とする政治家蓮はアメリカ追従ではなく核保有国以外を集約して現在の緊張関係を緩和する運動の中心的存在として明確な方向性を打ち出すべき時期にあるのではないでしょうか。現状は余りに情けない日米関係です。

 最後に一つの事実を分かり易く述べている池上彰さんの文章を掲げてこの文を閉じたいと思います。

 

 2015年秋の叙勲に旭日大綬章を受ける人物に「リチャード・リー・アーミテージ」の名前がありました。(略)安倍政権の安保関連法の改正を前に、その内容について、早くから提言をしていた人物です。(略)彼らの提言によって、安倍政権が集団的自衛権の容認に動いたことは明白だ(略)/「ドナルド・ラムズフェルド」の名前もありました。ブッシュ(息子)政権時代の国防長官です。イラク攻撃を中心になって推進し、イラクの大混乱を招いた責任者の一人。ラムズフェルド長官は、イラク攻撃の計画立案にあたって(略)戦後の治安維持ができなくなり、本人まで更迭されてしまいました。その人物に勲章を与える!これが日本なのですね。/そういえば、太平洋戦争中、東京大空襲で一晩に10万人の一般市民を殺害する結果になる計画を立てたアメリカ空軍のカーチス・ルメイは戦後、航空自衛隊の育成に尽力したという理由で、1964年、やはり旭日大綬章を授与されています。/日米関係とは、こういうものなのだ、ということを改めて思い知らされます。(『日本は本当に戦争する国になるのか?』より)

 

 

 

 

2025年9月9日火曜日

星になっても

  この齢になると伴侶(つれあい)を亡くした友人も少なくありません。彼らが今どうしているのか、妻の死をどう受け入れたのか気にかかります。というのも今年の異常な暑さに、この先何年生きていけるか不安になったからです。そんな折、若い(1987年生まれ)哲学者――岩内章太郎さんの書いた『星になっても』(講談社)という本を読んで、死や死の受容の仕方について教えられることが多かったのでそれについて書いてみようと思います。本は七十才の誕生日に亡くなった父君の死をエッセーにしたものです。

 

 死は心臓や脳の活動停止だけを意味するのではなく、これまでの親密な関係を徐々に失い社会の表舞台から姿を消していく過程として経験されるものです。

 閉ざされた人は、死を排除する社会の力学に従って隔離されたまま死ななければならない。この、死に向かってますますひとりぼっちになっていき、死以前の段階で〈私〉の存在の意味が消えかかるという、死と孤独の耐えがたい結びつきは現代社会に特有の現象である。

 愛する人を失うことは、自己と世界の結び目そのものを失うことである。それはつまりフィギュレーション(自己を取り巻く形態)の全体が変わることを意味する。(略)だから、愛する人を失うとき、〈私〉は〈私〉自身を失うに等しい。

 ※ 死全般についての彼の解釈です。関係性の喪失に力点が置かれています。なぜか?

 

 死にゆく者の孤独は神話や宗教が共有されないからこそ生じる現代ならではの課題なのだ。

 神話は死に形を与えたのである。(略)理解不能な出来事としての死に脅かされる時代は終わり、人間は死をわがものにしたかにも見えた。

 死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない、という新しい問題が現れたのである。

 ※ この分析は新鮮です。科学万能になって、また昨今の墓じまいの風潮はますます死が自分だけのこと、自分とその家族――身内だけの出来事に閉じ込めてしまう、他者との共有が物理的にもできなくなってきています。

 

 健康に生きることのみを第一義とする社会は、老いと死を周縁化する。

 私は以前、死という当り前の事実を「必然」の意味で考えていた。しかし現在は、それを人間の「自然」だと感じている。(略)必然と自然。似ているが、その語感はちょっと違う。(略)前者には、死への抵抗の気分がどことなく伴うのに対して、後者にはそれがなく、生と死を一つのものとみなす気持ちがないだろうか。死は自然の事実にすぎない。それは、論理的なものというより動物的なものだ。

 ※ 父の死を経験することで、それをどう受け入れるかに悩んだ彼の結論です。頭で考えてるうちは必然として納得していたけれども、受け入れ拒否を論理で抑え込もうとしていたけれど、実際に経験するととても論理の及ぶものではなく、自然の事実として動物的に受け入れるしかないということに若い哲学者は気づいたのです。

 

 ここまでなら普通の哲学書の書き振りですがこの本の一番の魅力は お母さんと作者の、夫であり父の死の受容に関する会話のリアリティにあります。

 自分の気持ちの中でお父さんに対して自立していると思ってた。経済的なこと以外は。あー、だけど違ったんだな、と。この日常という人間との関係性って、これほど深いものなんだな、ということを実感したよね。

 私には日常(仕事と家族)がある。それが生活のリズムをつくりだしていく。私の思いとは無関係でつくられるこのリズムはもちろん一概によいものだとは言えない。が、日常とともにあるかなしみと、日常を持たないかなしみでは、そこに生じる情動の質がまったく異なる。日常を持たないかなしみは、静かで深い。出口がない。母は「日常」を失って、父がいない家に閉じ込められた。私はそれに気づけなかった。(略)正直辛い時間だったが、それは日常という背景に支えられていた。ところが母の日常は父である。母にとって父がいなくなる、ということは日常がなくなるということを意味した。母の喪失を支える背景は存在しない。母にとって父の不在は、日常のない生活を続けるということだったのである。

 一人で生きていくぞ、っていう、そういうものと、現実は一人で生きていけないかもしれないという葛藤が、かなしみに拍車をかけているのかな。(略)子どもたちは結婚しているんだから、自分の人生を考えていかなければならない。でも、それにはあまりあるんだな。すぐに解答がないわけだ。自分の中で。(略)そして、母の現在のほとんどを父の不在が占めている。このことの意味を私はうまくつかめない。私の現在には、家族がいるからである。(略)母は「こうやって生きていけばいいんだな」という感覚を取り戻そうとしている。(略)自分に人生をどうしたいのか、という問いに、切実さがでている。まだ、父の死を総括したくないのだ。

 ※ 日常という繰り返しの中で私たちは生きています。そしてそれは人間関係でありそれを通じた仕事――ルーティンの繰り返しです。人間関係がなくなるということが喪失なのです。もし妻が私より早く亡くなったとして、その空虚さに耐えられるでしょうか。悲しみは当然ですが日常性の欠落という頼りなさのもたらす不安はそう容易く解消できないにちがいありません。

 

 最近時々「名前のない不安」を感じることがありました。そのうちのいくらかがこの本を読んで理解できました。書評で紹介されていなければこの若い哲学者のエッセーに出会うことはなかったでしょう。信頼できる書評(子)の存在は良き読書生活に必須の伴走者です。