一茶といえば「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」とか「目出度さも中位なりおらが春」のような童心あふれる句や軽妙洒脱な句が人口に膾炙していますがそれだけでは捉えきれない多面性を備えた俳人だったようです。一般に、芭蕉の正格に対する奇の意識、蕪村の文人的雅語に対する日常的俗語の意識をもって語られますが晩年にはそれだけに納まらない深い句があってそうした側面から一茶を見てみたいと思います。
花の影寝まじ未来が恐ろしい
この最晩年の句などその代表的なものでしょう。句意は「花のかげでも寝るのはいやだ。うっかり寐ると、先がどうなるかわからないから。死ぬのはいやなのだ」ということになるのでしょうが未来ということばが新鮮ですし「未来が恐ろしい」という口語体に今でもリアリティがあります。桜の花に浮かれて呆けてしまったがこのまま寝てしまったら65才にもなった老身の我が身では明日にも死んでしまうかもしれないという年寄りにつきまとう「ぼんやりとした死への怯え」を感じます。84才という晩年後期にいる自分との間にあまりにも近さがあるのです。
宝暦13年(1763)信濃の宿場町柏原の中農の家に生まれた一茶は何もなければこの地でそこそこ安楽な一生を過ごしたにちがいないのですが継母との折り合いが極めて悪く心配した父が15才のとき江戸に奉公に出したのです。そしてそこで出会った俳句が彼の一生を変え、業俳として全国を漂白放浪の末50才の頃柏原にふるさと帰りします。長年の複雑困難な継母、弟との遺産問題結着を得て定住、結婚もします。しかし初婚再婚はうまくいかず65才三度目に32才の「やを」との結婚でようやく成人する娘を得るのですがそれは彼の死後のこと、結婚してすぐに柏原大火にあいそのうえ脳卒中(中風)で文政10年(1827)65才で急死するのです。句にあらわれた軽妙さ飄逸さとは裏腹に彼の一生はあまり恵まれたものではなかったのです。
そんな彼の歳を重ねるごとの感懐の句はこんな風です。
我が春も上々吉よ梅の花 (四十九才)
目出度さも中位なりおらが春 (五十七才)
春立つや愚の上にまた愚にかへる (六十一才)
六十一才の句に共感します。
上にも書いたように浮草のような定着地を持たない放浪のうちに歳を重ねていくのですが、それでも俳界の評価も得て少しづつ生活も安定しそれなりの安らぎを得るようになります。
春立つや孤もかぶらず五十年
おのれやれ今や五十の花の春
斯う居るも皆がい骨ぞ夕涼み
あたら身を仏になすな花に酒
春立つや、の句の「孤もかぶらず」は乞食になることもなくという意味で不安定な生活への不安がようやく払拭できた安心感がうかがえます。夕涼みしている輩(ともがら)にふとがい骨を見るところが冷めた一茶です。
柏原は雪国です。長い冬籠りの生活は座りっぱなしですから腹に異常をきたします。屁は皆公認です。
屁くらべや夕がお棚の下涼み
屁くらべがまた始まるぞ冬籠
垣外へ屁を捨てに出る夜寒哉
垣外へ、の句は今ならタバコを外で吸うホタル族になりますかね。
晩年は余裕のある句も少なくありません。
青い田の露を肴やひとり酒
うつくしや年暮きりて夜の星
はつ雪を煮喰(にてくらい)けり隠居たち
雪とけて村一ぱいの子ども哉
しのびよる老いを従容として受け入れる一茶。
老いたりないつかうしろへさす団扇
日の長い長いとて泪かな
くやしくも熟柿仲間の座につきぬ
熟柿仲間、というのは歯がなくなって歯茎だけでも食べられる熟柿しか食べられない年寄り連中のことです。悲哀を笑いにもっていくところが一茶です。
しかし衰えはいかんともし難く老いは確実につのります。
死下手(しにべた)とそしらば誹れ夕炬燵
やがて焼く身とは思えど更衣(ころもがえ)
極楽に行かぬ果報やことし酒
人誹る会が立つなり冬籠
人誹る会、というのは冬籠りした老人連中が寄るといない人を誹って気晴らしする雪国にありがちな風俗を言っているのです。「死下手」は一茶の子が何人も生れてスグに死んだので体毒があると噂されていて(安ものの女郎買いをしていたので花柳病に罹っていると噂されていたのです)それもあって死に下手ということばをまとっていたのです。更衣の句に清々しさを覚えませんか。
今度『小林一茶(金子兜太)』を読んで、彼は放浪したのですが彼を受け入れた俳句仲間や豪商・豪農の存在を羨ましく思いました。そして文化は余裕があってはじめて豊饒な実りをもたらすものだと痛感せずにはいられませんでした。日本は豊かな国だといわれますが、博物館に自己収入目標を押しつけ財政改善が達成できないと再編に追い込むという制度を冷然と施す、そんな国がほんとうに豊かなのでしょうか。
(この稿は『小林一茶(金子兜太著)』)に全面的に依拠しています)
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