2024年1月15日月曜日

小沢昭一さんの思い出

  十年ほど前からたけしさんとさんまさんを全く見なくなりました。

 タモリさんを加えて「お笑いビッグ3.」と持て囃されテレビ界に君臨していましたが、三人が一緒のテレビに出ることはめったになく唯一と云っていいのがお正月の三人による「ゴルフ」番組でそれぞれの個性が際立っていて毎年正月いちばんの楽しみでした。それがなぜたけしさんとさんまさんを見なくなったのかはっきりこれといった理由は思い当たらないのですがとにかくふたりが面白くなくなったのです。

 

 若い頃から「まんが」と「お笑い」が好きでした。お笑いというか芸能全般が好きで、それは私の生い立ちと関係しています。幼・少年期育った西陣には7、8軒の映画館と数軒の実演劇場とストリップ劇場があり千本通りと西陣京極は食い物屋と呑み屋があふれており「五番町(遊郭)」さえあったのですから昭和2、30年代の西陣はまさに「歓楽街」そのものでした。勿論「西陣織」の街ですから正業の繁栄が根本ですが、大勢の職人さんや奉公人さんの「うさばらし」の需要も旺盛でしたからわずか1km四方(多分)にこれだけの娯楽・飲食産業が共栄できたのでしょう。銭湯も多く、ストリップ劇場に隣接した銭湯に劇場がハネた時刻を狙って友人と一緒に通いましたが、なぜかウキウキした小学高学年がわたしのヰタ・セクスアリスの始原だったかもしれません。

 

 わが家の祖母と母親も芸能好きでしたがジャンルがまったく別で、祖母は歌舞伎が好みで晩年は「ご詠歌」に凝り「教導」になっていたはずで、月に何回か自宅にご詠歌仲間が集って「鉦・タイコ」と大音声で詠っていましたから今でも節と文句の幾らかは耳底に残っています。その縁で即成院さんの二十五菩薩さん(お練り供養)にだしたもらった記憶は今でも鮮明に残っています。

 母親は庶民そのものでしたから松竹新喜劇のファンで、祖母から「あんなにわか(俄)みたいなもん」と馬鹿にされても臆することなく大江美智子の「女剣劇」や寄席にも連れて行ってくれました。新京極蛸薬師に「富貴(ふうき)」という寄席があって小学五年ころ兄弟4人一緒に行ったときのことはよく覚えています。当時は今と違って落語漫才だけでなく講談や音曲や手品・奇術のごちゃまぜの文字通り、「寄席」そのものでした。

 

 そんな私でしたから大学を卒業して東京に就職した最初の娯楽は上野の「鈴本(寄席)」と有楽町の「日劇ミュージック」だったのは当然といえば当然で、鈴本に出ていた志ん生の姿は今でもはっきりと覚えていますし、日劇の踊り子のキレイさは圧巻でした。幕間にコント(軽演劇)があったのですがひょっとしたら渥美清さんか欽ちゃん(萩本欣一)が出ていたのかもしれませんが覚えていません。

 就職した広告会社がなんとも開放的な会社で私生活は完全不干渉、終業後の会社内の活動も自由で私たち同期の2、3人で「まんが」と「推理小説――エラリー・クイーン」の同好会を作りました。まんがは当時創刊まもない少年サンデーと少年マガジンで人気は「巨人の星」と「あしたのジョー」でしたから正に「漫画世代」の第一世代です。その頃はまだ「まんが」はおとなが読むものとは承認されていませんでしたのでインテリ集団の広告会社では変な連中が入って来たと見られていたのは承知していました。ところが1968年に小学館がおとなの漫画週刊誌「ビッグコミック」を創刊するに及んで情勢は一変、斜陽の雑誌界の救世主にマンガ誌が成長することになるのですが、広告会社のおとなたちは半信半疑で雑誌部の部長が「市村君、こんな雑誌流行るかね?」と教えを乞いに来られた時には快哉を叫んだものでした。

 

 まんがもお笑い(芸能)も本質は「反権力・反権威」だと思います。わが国では主流になりませんでしたが欧米ではまんがといえば「政治1コマ漫画」をいうのであって、であったからこそわが国のまんが――「劇画」が海外で大流行になったのです。お笑いも芸能の一分野ですから本質は同じで、そもそも芸能民という存在は一般社会からの「はみ出し者」でしたし「傀儡子」「白拍子」「今様」などと「蔑称」呼ばわりされていたのです。今でこそ「能楽」は高尚なものですが前身の猿楽は芸能そものものでそれを観阿弥世阿弥親子が能楽に高めたのです。歌舞伎もそうで女歌舞伎、若衆歌舞伎の時代は河原者と蔑まれた存在でしたし新劇すら明治時代欧米から移入された当時女優は「芸者まがい」に扱われていたのです。

 

 こう考えてくると私がたけしさんとさんまさんを見なくなった理由がはっきりしてきます。彼らが望んでそうなったわけではないのですがいつの間にか二人共「天皇・王様」に祭り上げられてしまったのです。たけしさんには「たけし軍団」なるものが存在して彼は「との(殿)」と呼ばれて『絶対的存在』となりましたし。さんまさんも吉本興業をはじめとしてお笑い界の「怪獣」的存在として扱われその「権威」の前にお笑い界の全員が「ひれ伏す」存在に祭り上げられてしまったのです。そうなった二人はもはや「お笑い芸人」ではあり得ないのです。私が彼らを拒否したのはそうした「におい」を嗅ぎ取ったからにちがいありません。昨日きょうの「お笑い」好きではないのです、新京極の富貴で『猥雑』な芸能を見て育った私にはふたりの「藝」は芸能とは感じられないのです。

 

 「宝塚」もそうです。妻たちのように戦後の「宝塚華やかりし頃」を知ってる世代には最近の、高級ハイヤーから降り立ったトップスターを「赤絨毯」でお出迎えして女王様扱いする最近のファンの有り様は異様に映るのです。そんな扱いを受けた「宝塚」のスターたち、そしてその予備軍が「勘違い」するのは当然なのです。

 

 「M-1(M-1グランプリ)」が始まって以降のお笑い芸人たちの「松本人志」に対する『憧憬』と『尊崇』は正に「神様」扱いです。「絶対的存在」として「君臨」するその姿をわたしなぞは「滑稽」にすら感じていました。そりゃ「勘違い」するでしょう、そう思います。そもそも漫才は多様性に面白さがあります。次々と「前の存在」を否定する「新しい笑い」が新陳代謝するところに漫才の「生命力」があるのです。それが今や「M-1」基準一辺倒になっているのですからこんなおかしなことはありません。

 文春砲が炸裂した「松本騒動」の真実は不明です。しかし「お笑い界」が常軌を逸している現状は異常です。そのことを認識せずに事件の「解決」はないでしょう。

 

 亡くなった小沢昭一さんが「みんながいいということに私はいつも『眉に唾』しています」と言っていたのをなつかしく思い出します。

 

 

 

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