2024年2月12日月曜日

古書とネット

  私が古書と本格的につき合いだしたのは十五六年前大阪の天満橋で小林秀雄の『本居宣長 上・下』(新潮文庫)に出会ってからです。その頃府庁や中央官庁の出先機関への取材がルーティンになっていて毎日のように天満橋から谷町をブラつくことが多くそのつれづれに入った横町の古書店でたまたま見つけたのです。思いのほか程度がよく以前から読みたかった本だったので迷わず購入しました。それまであった古本に対する拒否感のようなものが一挙に払拭されて古書が身近なものになり、その気になると大阪には古書店が随分あるのです。それも梅田や天満橋などのターミナル近くにあって便利なのがよく阪急茶屋町のかっぱ横丁にはそれぞれ専門化した古書店が何軒もあって特に美術関係の古書店はその方面に興味のある人には垂涎の的にちがいない掘り出し物が揃っています。JR大阪駅下の地下街にも何軒かあって古典や漢文関係の本を何冊か購入したことがありました。

 

 先輩の関係していた業界紙を辞めて大阪へ通勤することがなくなり一時古書店から遠ざかっていました。閑になったのでじっくり読書するようになるにつれて専門書を読むことが多くなったのですが読みたい本が絶版になっていることが少なくないのです。とりわけ本文中の参考文献や引用文の出典の多くが絶版になっているのです。勿論図書館はほとんどをカバーしていますが中には蔵書にしたいものも出てきます。そんなときは古書店に頼るしかないのですがこれがなかなかの難物なのです。京都に古書店は数多くありますが散在していてしかもそれぞれが専門化していますから目当ての本に出合うのは至難の業なのです。古書店であれこれ目についた本を手に取って吟味するのも古書店巡りの楽しみですが、そして思わぬ掘り出し物を見つけることも少なくないのですが、とにかく時間と労力を費やさなくてはならなくてしかも徒労に終わることもあるから始末に負えないのです。

 そんなときフト「ネットはどうだろう」と思ったのです。今となってはどうして最初からそこに思いつかなかったのか不思議なのですが、どこかで古書店という職業が古いものだからネットと縁遠いものという勝手な思い込みがあったのかもしれません。「日本の古書店」で検索して、出会って、私の読書環境は一気にベターなものに変貌しました。

 

 突然ですが本の体裁にいろいろあることに気づいていますか。今問題にしているのはページ建(各ぺージのデザイン)ですが、天地(ページの上と下)が大きく空いている本がありますがそれは何のためか考えたことがありますか。最近になって「書き込み」するためではないかと気づいたのです。難解な字句があったときその訓みや意味を書き込んだり、気に入った文章を書き出したり、まとめを書いたりといろいろ利用法はあると思いますが、あの余白はそんな為にあるのではないでしょうか。難解な専門書であればあるほど書き込まなければならない箇所が多くなりますから図書館の本は不適切です。したがって古書が欲しくなるのです。

 

 気がつけばこの四五年で購入した古書は二十冊を超えていました。最近でいえば尾山篤二郎著『西行法師名歌評釋』(非凡閣・昭和十年一月十五日発行)と飯田秋光著『三体千字文』(高橋書店・昭和四十七年九月三十日発行)の二冊は重宝しています(いずれも二千円以下で購入)。前者は昨年から読み込んでいる西行の『山家集』の評釈本ですが考証が行き届いていて字句の解釈を押えながら訳が詩的で、数ある山家集評釈本の中でも最右翼ではないかと思っています。後者は今年になって始めた漢字の書の「お手本」ですが菊版(150×220mm)で一頁に6文字を三体(楷書、行書、草書)に配してありますから字の大きさが丁度よく書体が私好みなので気に入っています。ちなみに「千字文」とは「いろは」と同じように書のお手本として漢字千文字を重複なく選んで「詩(漢詩)」に編まれたもので漢字の字体・字形のすべてと必要文字数が網羅されています。中国南朝の武帝(502~549)が周興嗣に命じて部下の兵士に漢字を学ばせるためのお手本として作らせたものです。古くからわが国でも漢字の習字のお手本として採用されてきました。

 

 ネット時代になって学問の環境も大変化の時代になっていますが、出版(出版社、書店)、図書館、古書店とネットがうまく機能しあうことが最も良いのではないでしょうか。研究論文などはネットの流通が主体ですがその保存という意味では「(紙の本の)出版(出版社、書店)」は必須で、普及のための図書館も必要です。また昨今の出版事情としてサイクルが短く早いために「絶版」は止もう得ず、そうした事情を踏まえると「古書店」の必要性はますます高まってくると思います。最近驚いたのはD・リースマンの『孤独な群衆』が絶版になっていました。戦後すぐに出た「社会性格論」の嚆矢となった書物で社会学の基礎文献と思うのですがこれさえも絶版となる時代ですから古書店の価値が今ほど高まった時はないのではないでしょうか。一度ネット書店(新古本店だったかもしれません?)で古本を買ったことがあったのですが保存状態のあまりの粗雑さに唖然としました。本に対する「愛―扱い方の丁寧さ」がまったく違うのです。さっき取り上げた『西行法師名歌評釋』はほんの少し函が汚れているのですがパラフィン紙で装丁してあって本そのものの表紙もパラフィン紙で装丁してあります。古書店さんの百年近い歴史を帯びた本を大切に後世に伝えていかなければならないという慈しみと覚悟がしのばれます。

 

 古書店はネットとの親和性が極めて高い仕事だと思います。もしネットがなかったら消滅していたかも知れません。それは流通量が余りにも多く必然的に専門化せざるをえず購入者に過分な時間と労力を要求するうえに一冊の本であっても出版年次や保存状態に多様性があって購入者の選択肢は多ければ多いほど満足度が高くなるのです。リアル書店では選択肢はほとんどありませんがネットなら一冊の本に何冊何十冊と展示することができます。実際に統計を見たわけではありませんがネット時代になって古書店はそれ以前より繁盛しているのではないでしょうか。それは町の本屋さんの衰退傾向と真逆です。

 

 ネットは消滅の危機にあった多くの仕事を延命させました。たとえば「螺鈿屋」さんは本来の机や指物以外にアクセサリーやファッションなどにも販路を広げて活性化しました。世界を見渡せばそんな可能性を秘めた仕事や職業は無数にあるはずです。

 ネットは一大文明革命を実現するだけの可能性をもっています。特に学問・教育面での可能性は無限です。悪意をいかに慰撫するか、それが問題です。人類の叡知が試されています。

 

 

 

 

 

 

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