2024年2月19日月曜日

蕪村の眼差し

  小澤征爾さんが亡くなりました。毎年正月のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを楽しみにしていますが2002年の小澤さんの演奏は特別でした。指揮はどの年も世界有数の名指揮者がタクトを振りますから素晴らしい演奏は当然なのですがこの年のウィーンフィルの音は私の心底を震わせました。同じシュトラウスなのにいつもの年と違う音だったのです。ぞれがテンポなのかピッチなのか素人の私には説明不能ですが敢えていうなら「日本的なもの」をその音楽が色濃く帯びていたのです。クラシック音楽はヨーロッパのものですから小澤さんはそれを理解するのに随分苦労したはずです。単なるコピーであれば上手なひとはいくらでもいるでしょう。しかしそれではウィーンフィルや世界の有数のオーケストラを心腹させることはできません。彼らが「小澤」をマエストロとして受け入れ尊敬したのはコピーでなかったからでしょう。ひょっとしたらそれが私のいう「日本的なもの」だったのかもしれません。

 いつだったか京都で小澤さんが若い人たちに教える練習風景を見学する催しがありました。途中舞台から降りた小澤さんが私たち夫婦の三列ほど前に座って教えだしたのです。予期しなかったことであれよあれよのあいだの出来事でしたから呆然と眼のまえを見るばかりでしたが、生まれて初めて「オーラ」というものを見ました。感じるというよりも「見た」のです。決して怒鳴るわけではないのに指示する声がおだやかに会場全体に沁みわたっていました。あのままの風貌が目の前にやってきて座って、その空気感がいまでも胸に伝わってきます。夢のようなハプニングでした。ご冥福を心からお祈りします。

 

 去年芭蕉を読んで今年は蕪村を勉強しています。三年前から古典を学ぶようになって、古今和歌集を窪田空穂の評釈で学ぶことで古典の学習方法と味わい方を覚えて、和歌や俳句の短詩形は導き手なしに上っ面だけを読んだのでは絶対に理解できないことを知りました。芭蕉は小澤實の『芭蕉の風景』という抜群の手引きで鑑賞することができて芭蕉をはじめて知ったように思いました。蕪村は中村稔という恰好の書き手の『与謝蕪村考』という名著を得て更なる高みに導かれたようとしています。まだ完読には至っていませんが今の時代、今の私に訴える句のいくつかを紹介しようと思います。

 

 芭蕉(1644~1944)と蕪村(1716~1784)を比較するのに格好の句があります。

 五月雨をあつめて早し最上川  松尾芭蕉

 さみだれや大河を前に家二軒  与謝蕪村

 芭蕉の句は雄渾そのもの、降りつづく五月雨が最上川を溢れ返すとともに矢のような急流となって眼前を流れ去っていく。その景を見事に詠んだ芭蕉の傑作にたいして、蕪村は大河の濁流の前にポツンと建っているいる二軒の小家の不安な様を詠んでいます。岸近くの湿地に建っている家は貧しい百姓家にちがいありまえん。増水しつづける大河が溢れれば粗末なあばら家はひとたまりもないことは住んでいる百姓がいちばん分かっているはずです。しかし逃げ出せば家を失うことは自明ですがかと言ってそうなればどこへ行けばいいのか手立てもありません。そんな不安を抱えて呆然としているにちがいない貧しい百姓に対する思いが伝わってきます。三軒でもなく四軒でない「二軒」にしたのは、「二」という数字は本来相互に扶助し励まし合う気持ちを含んでいます。貧しい百姓が村はずれに見出した土地にあばら家を組んで助け合ってなんとか生きてきた、そんな「二軒」なのです。

 

 蕪村は芭蕉と違って貧しく困窮のなかで生きた詩人でした。したがって彼の句には貧しい人、不遇な人に対する思いやりが冷徹なリアリストの眼とヒューマニストの心で描かれています。

 こがらしや何に世わたる家五軒 「木枯らしが吹き抜ける寒村に、数えてみると家は五軒のみ。いずれも古びたあばら家で、田地も僅か、山林も豊かではない。一体何を以って生計を立てているのだろうか」。「何に世わたる」により、荒寥たる寒村を強調した」。

 蕪村自身は貧しさに負けるのではなくそれを一歩離れてながめやりながらおかし味を感じる余裕もありました。

 売喰(うりぐひ)の調度のこりて冬ごもり  「必要最小限の調度だけを残し、それ以外の調度を売り払い、その代金で暮らして、冬籠りしている。貧窮の生活をむしろ愉しんでいる、悠々自適の心境を描いた作と解する」。

 かと思えばこんな「閨怨(けいえん)」な句もあります。

 身にしむやなき妻のくし()を閨(ねや)に踏(ふむ) この句について正岡子規はこう評しています。「こんなつまった句はめったにあるものではない。(略)亡妻の櫛といひ、閨に踏むというやうに言葉をつめていふ事は、蕪村でなければ出来ぬことだ。蕪村集中でも珍しい句だ。特によい句といふわけではないが、他に比類のない句として、且つ俗な趣向を俗ならしめざりし句として、一言しておく」。

 

 彼は「老い」をどのように見ていたのでしょうか。

 霜あれて韮(にら)を刈取(かりとる)翁(おきな)かな  「霜で土も荒れた畑に、わずかに韮だけが残っている。その韮をとるよりほかにすることもない、追い詰められた百姓の老人の落寞(らくばく)、荒寥たる情景を詠った痛切な句である。このような情景に「詩」を、「情」を見た作者の心境に敬慕の思いを禁じ得ない」。

 我(わが)骨のふとんにさわる霜夜哉  「老齢になると肉が落ちて骨がじかに蒲団に触る感を覚えるのは多くの人が確実に体験するところである。(略)痩せて肉が落ち骨がじかに蒲団に触ることから、老いを痛切に感じた述懐の句である」。

 

 子規以来写生が俳句の王道であるかのように順守されてきました。「芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠なく、名句の中には殆どない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしかすぎないのである」。

 最近の現代俳句や短歌の句、歌集を読んで強くその感を持ちました。

 

 

 

 

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿