2024年1月29日月曜日

マイルストーン

  正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし  一休禅師

 

 誰か知らないが余計なことを言ったものです、人生百年時代などと。どこかの評論家輩が命名して今頃したり顔でいるのでしょうが、浅墓です。自分の命がいつ果てるか知れないからこそどんなに齢を取ろうが不安ながらもどこか能天気に暮らしていけるのですが、こうもはっきりと「百年」と区切られたのでは82才ともなればあと幾つと数えてしまうではないですか。百才という数字が今になってはそれだけリアルなのです、平均寿命がアレヨアレヨと伸びつづけて70才を超え80才もこえてソロソロ限界だろうなと思い始めたころにバーンと「百才」と決めつけられたのでは「そうだよなぁ」と皆が納得してしまうではないですか。いくらなんでもこれ以上は無理だよなぁ、そりゃなかには百十才のひともいるだろうけど「ふつうのひと」は百才が限界だよなぁ、そう思い込んでしまうのです。私のようなものは今でさえよくここまで長生きできたものだ、それも思いもしない健康で。欲をかいてはいけない、百才なら上出来、「年貢の納め時」というではないか。そう合点して自分の余命の限界がいつのまにか「百才」になってしまうのです。余計なことを言ってくれたものです。

 そんなことで今年の正月は珍しく行く末を考えてしまいました。コラム連載千回は来年の春頃だからこれはいける、あの子(孫)の小学入学は86才だからなんとか大丈夫だろう……などと。そして問題は妻ではないかという思いに至ったのです。結婚以来ヘルペスで寝込んだ以外は健康そのものだった妻が二年ほど前からチョコチョコ風邪を罹くようになって、膝が思わしくなくシャガムのが窮屈になり、睡眠が十分でないのかうつらうつらすることが多くなってきて。それで一番恐れているのが私と反対に夜型なので夜遅くの入浴中に眠り込んでしまわないか、知り合いにそれで亡くなった人がいて心配の現実感はかなり切迫するものがあるのです。二時ころ目が覚めて襖の向こうから妻の寝息が聞こえてこないとひょっとしてなどとツイ思ってしまうこともあるのです。以前娘の引越を手伝いに行って一週間ほど留守にすることがあったのですが、それまではひとり生活に不安はなくかえって過ごしやすいとさえ思っていたのですが、自己中だからひとりの方が向いていると妻や娘にいわれてもいたのですが、そのとき初めてひとり暮らしに不安と孤独を感じたのです。若い頃自炊したことがあって家事はなんとかこなせるので障害になることはないと思うのですが孤独に耐えられるかどうか自信を失くしてしまいました。

 

 昨年は5月の連休に肺炎に罹った影響もあって「老い」を痛感させられました。80才になったら衰えるだろうという覚悟は杞憂に終わって毎日のトレーニングの効果かと喜んでいたのですが、コロナがいけなかったようです。

 そこで健康を維持するためにどうすべきかを考えてみました。結論は「睡眠」と「排泄」です。二ヶ月ごとにかかりつけのクリニックに循環器系の定期検診に行くのですが、多くの年寄りが「睡眠剤」の投与を受けているのに驚きます。でも仕方のない一面もあって常用しなければ、十日に一度くらいは薬を服()んででも熟睡する方が健康法としては理屈に適っているのかもしれません。後期高齢者――それも80才も半ばを超せば運動量が極端に減りますから、まして寒い冬の間は外出する機会もほとんどなくなり一日中ソファに寝転んでテレビを見る、そんな生活になってしまいますから7時間も8時間も寝られるはずもないのです。せいぜい5時間、夜中の目覚めをはさんで6時間も寝られたら十分なのです。たとえ眠りに入れなくても暗い寝床で横になって目を瞑って安静にしておれば9割方睡眠と同様の休養は得られますから実際の睡眠が3、4時間でもそんなに心配はないのです。テレビのニュースショーで8時間睡眠を最高レベルであるように喧伝しますがそれは仕事をもった健康な成人の場合であって、そんな年寄りの弱みにつけ込んで毎日何回も「睡眠薬まがい」の健康食品の広告が繰り返し放映されますから気弱な年寄りは「強迫観念」におそわれてなおさら「睡眠恐怖症」になってしまうのです。人間死にそうになったら勝手に身体の方が熟睡できるようになっています。

 私は晩酌を毎晩していましたのでそれを週2回か3回に減らすことにしました。加えて運動量を少しだけ増やす工夫をしました(寒い間は控え目に)。お医者さんは飲酒は睡眠の質を悪くするといいますし私の経験でもそれを実感しているので良い睡眠が得られることが期待できます。幸いなことに多種多様な「ノンアルコール飲料」が出るようになってわりあい簡単に節酒はできそうです。晩酌は習慣で「酔い」も半分は「プラシーボ(偽薬)効果」のようなものもありますから慣れればノンアルで十分です。

 

 問題は「排泄」です。年を取ると排泄のための括約筋が衰えますから排泄困難になります(ゆるい便秘薬を使用している人は結構います)。若いうちは一日一回の排泄で十分ですが年寄りはそうはいきません。必ず起床とともに便器に座る、コップ半分ほどの「白湯(さゆ)」を飲んでから。座ったらお腹を10回凹ます、そのあと腹筋を深く3回して徐々に凹ます部位を上げ筋肉を引き下ろす――便を押し下げるような感覚。この作業で私の場合は必ず排便します、分量は少なくても。シャワーと紙の刺激でもう一度便意を催すことも少なくありません。立ち上がっても便意があったらもう一度座ると排泄することが少なくありません。便意は一日に2、3回ありますが感じたら必ず便器に座るようにしています。結局日に3回ほどは排便していることになります。筋肉の衰えた年寄りには若い人のように「快便一発」というわけにはいかないのです。

 

 80才も超えた年寄りが健康を維持するためには最低限、良質な睡眠と十分な排泄に努める、加えて栄養を考えた食事と効率的な運動。さらにトーマス・モアが「ユートピア」で最高の快楽と称賛している「知的生活」が実現できれば「望ましい老年期」を送れるのでは。そんなことを考えた今年の正月でした。 

 

 あらたまの年 ハイにしてシャイにして  後藤比奈夫 〈白寿の詠〉

 

 

 

2024年1月22日月曜日

能登半島地震と国土強靭化

  能登半島地震が起こって3週間が過ぎました。この間の新聞の報道を読んでいるとこの地震は極めて高い可能性で「起こるであろう」、それも「近いうちに」と『覚悟』できた地震ではないかと強く思うようになりました。

 

 能登の群発地震は2020年末から活発化していました。これによって「周りの活断層が刺激される」と複数の研究者が懸念を表明していましたが、地震の危険度を評価する政府の「地震調査委員会」は無難な一般論に終始して誘発するかもしれない大地震や津波を警告することはありませんでした。

 例えば22年6月19日にM5.4(最大震度6弱)の地震が起こったとき地震学者で同委員会の平田直委員長は、「地下で何が起こっているか分からない」などと「分からない」を連発するばかりでした。23年5月5日、M6.5(最大震度6強)が発生、震源が海底活断層に近く影響を心配する声はさらに強まりましたが、調査委の評価は「原因不明でしばらくつづく」。平田氏の会見も「分からない」づくしで活断層との関係についても「今後の調査を見ないと分からない」と濁すばかりでした。ただこの時の評価文には末尾に「強い揺れや津波には引き続き注意が必要である」と津波を登場させましたが公式見解としては海底活断層への警戒は強調しませんでした。ところが産業技術総合研究所(産総研)出身の一委員は「活断層でM7級の地震が起きる可能性も否定できない」と取材で答えています。産総研は広島大学などとの複数の調査で能登半島の海底から南東側に長大な活断層が傾いて延びており地震が起きれば震源は能登の真下になる可能性が高いと発表していたのです。

 地震発生2日後の会見で平田氏は「たまたまここで起きたから『見逃した』とおっしゃるが、群発地震の影響で活断層が動いたという例は私は知らない」と答えています。しかしほかの地震学者によれば、先行する小さ目の地震で大地震が誘発されたとされる例は珍しくなく、トルコ・シリア大地震(23年)、鳥取県西部地震(00年)のほか16年の熊本地震や11年の東日本大地震でも似たようなことが起きているといっています。

 以上は2024年1月15日の京都新聞「核心評論」をまとめたものですがこの記事は、おそれるべきは「空振り」ではなく「見逃し」だと結んでいます。

 

 地震本部はこれまで、陸域にある114ヶ所の「主要活断層帯」と、東日本大地震を引き起こした日本海溝沿いや南海トラフ、相模トラフなど各地の海溝型地震の長期評価は公表していましたが、海域の活断層評価は22年に公表した日本海南西部(九州・四国地方の北方沖)のみに留まっています。海域の活断層が引き起こす地震の切迫度に関する評価が後回しになってきたことは明かです。このため地震本部が公表している2020年から30年間に震度6以上の揺れに見舞われる確率を示した「地震動予測地図」でも能登半島は3%程度の予測で「白色」になっているのです。「地図作成時に能登半島沖に活断層があるという情報が入ってないので結果的に評価が低くなった可能性がある」と政府の地震調査委員会の西村氏は述べています。

 日本海側の津波防災に向け海域の活断層を評価した国土交通省の調査検討会は、能登半島沖に今回の震源とほぼ一致する活断層のモデルを想定していましたが「津波想定としては良かったが、地震による揺れの予測に用いていなかったのは反省すべき点だ」と東北大の遠田晋次教授(地震地質学)は述べています。(2024年1月17日京都新聞「インサイト」より

 

 次は「凡語」(京都新聞2024年1月.6日)からの引用です。

 天災から助かった命なのに――。その後の避難所生活の苛酷さは、十年一日の感が否めない。雑菌やほこりを吸い込んでしまう床上の雑魚寝、不衛生なトイレ、冷たい食事。長期化すると、ストレスはなおさらである。▼我慢を強いられ体調を崩し、持病の悪化や肺炎などで亡くなる。2016年の熊本地震では、犠牲者(筆者注・276人)のうち約8割がこうした災害関連死だった▼日本は自然災害が多発しているのに、身を寄せる避難所の環境は二の次にされてきた。市町村の努力義務のため、地域間で差も生じている(略)▼先進地とされるイタリアでは、災害発生から48時間以内にトイレ(T)とキッチン(K)、ベッド(B)を整備することを法で明記する。被災者はテントで暮らし、キッチンカーによる温かい食事を口にできるという。日本でも専門家らが「TKB」の必要性を訴えるが、能登半島地震ではいまだ最低限の水や食料も行き渡っていない。

 さらに10日の社説はこうも書いています。

 「助かった命」を守ることに全力をあげたい。(略)避難所生活の疲労から心の健康を失った人や、車中泊でエコノミークラス症候群になり、命を落とした例も報告されている。繰り返してはならない。メンタルも含めた医療分野の支援を早期に充実させたい。(略)関連死を防ぐためにも、ホテルなどへの2次避難を進めるべきだ。石川県は、被災者を地域ごとに都市部の宿泊施設に移す準備に入った。民間の賃貸住宅を自治体が借りて提供する「みなし仮設住宅」の開設も急がれる。(略)住宅の耐震化を急ぐのはもちろん、被災者になった場合に、どう支え合い、生き延びるかを、それぞれで考え、用意しておきたい。

 

 2011年3月11日の東日本大震災を教訓に国は2013年12月「国土強靭化基本法」を定めました。大規模な自然災害などに備えるために、事前防災や減災、迅速な復旧・復興につながる施策を計画的に実施して、強くしなやかな国づくりや地域づくりを進める取組を法制化したものです。以来毎年数兆円単位の予算が計上されてきましたが、令和2年(2020)12月には15兆円規模の「防災・減災、国土強靭化のための5ヵ年加速化対策」も閣議決定されています。このような莫大な予算はどのように使われてきたのでしょうか。

 流域治水対策、港湾津波対策、災害に強い市街地形成、治山などの対策、医療・福祉施設の耐災害性強化、道路ネットワーク、道路等の機能強化――。ほとんどがインフラ関係の土木・建築建設に係る工事に使われているのが分かります。そしてその全国的な完成は20年50年先になるにちがいありません。

 しかし災害は毎年全国のあちこちで起こります。インフラなどのハードも大事ですがそれよりもっと緊急性があるのは被災者の「安全・安心な避難生活」です。快適で早急な「TKB」の整備が最緊急必要事項です。強靭化予算の1割りでもこの方面に活用できれば今すぐにも実現可能です。発想を転換すべきです。

 

 石川県知事は有感地震が頻発する能登地方の住民から寄せられた「不安・恐怖」と「対策要望」にどう対処していたのでしょうか。もし彼が緊迫感を持って対応していたら今発生している被害の何分の一かは防げていたはずです。にもかかわらず彼の口から「反省」と「謝罪」の言葉は一度も発っせられていません。彼にひとつの責任も無かったのでしょうか。

 

 

 

 

 

2024年1月15日月曜日

小沢昭一さんの思い出

  十年ほど前からたけしさんとさんまさんを全く見なくなりました。

 タモリさんを加えて「お笑いビッグ3.」と持て囃されテレビ界に君臨していましたが、三人が一緒のテレビに出ることはめったになく唯一と云っていいのがお正月の三人による「ゴルフ」番組でそれぞれの個性が際立っていて毎年正月いちばんの楽しみでした。それがなぜたけしさんとさんまさんを見なくなったのかはっきりこれといった理由は思い当たらないのですがとにかくふたりが面白くなくなったのです。

 

 若い頃から「まんが」と「お笑い」が好きでした。お笑いというか芸能全般が好きで、それは私の生い立ちと関係しています。幼・少年期育った西陣には7、8軒の映画館と数軒の実演劇場とストリップ劇場があり千本通りと西陣京極は食い物屋と呑み屋があふれており「五番町(遊郭)」さえあったのですから昭和2、30年代の西陣はまさに「歓楽街」そのものでした。勿論「西陣織」の街ですから正業の繁栄が根本ですが、大勢の職人さんや奉公人さんの「うさばらし」の需要も旺盛でしたからわずか1km四方(多分)にこれだけの娯楽・飲食産業が共栄できたのでしょう。銭湯も多く、ストリップ劇場に隣接した銭湯に劇場がハネた時刻を狙って友人と一緒に通いましたが、なぜかウキウキした小学高学年がわたしのヰタ・セクスアリスの始原だったかもしれません。

 

 わが家の祖母と母親も芸能好きでしたがジャンルがまったく別で、祖母は歌舞伎が好みで晩年は「ご詠歌」に凝り「教導」になっていたはずで、月に何回か自宅にご詠歌仲間が集って「鉦・タイコ」と大音声で詠っていましたから今でも節と文句の幾らかは耳底に残っています。その縁で即成院さんの二十五菩薩さん(お練り供養)にだしたもらった記憶は今でも鮮明に残っています。

 母親は庶民そのものでしたから松竹新喜劇のファンで、祖母から「あんなにわか(俄)みたいなもん」と馬鹿にされても臆することなく大江美智子の「女剣劇」や寄席にも連れて行ってくれました。新京極蛸薬師に「富貴(ふうき)」という寄席があって小学五年ころ兄弟4人一緒に行ったときのことはよく覚えています。当時は今と違って落語漫才だけでなく講談や音曲や手品・奇術のごちゃまぜの文字通り、「寄席」そのものでした。

 

 そんな私でしたから大学を卒業して東京に就職した最初の娯楽は上野の「鈴本(寄席)」と有楽町の「日劇ミュージック」だったのは当然といえば当然で、鈴本に出ていた志ん生の姿は今でもはっきりと覚えていますし、日劇の踊り子のキレイさは圧巻でした。幕間にコント(軽演劇)があったのですがひょっとしたら渥美清さんか欽ちゃん(萩本欣一)が出ていたのかもしれませんが覚えていません。

 就職した広告会社がなんとも開放的な会社で私生活は完全不干渉、終業後の会社内の活動も自由で私たち同期の2、3人で「まんが」と「推理小説――エラリー・クイーン」の同好会を作りました。まんがは当時創刊まもない少年サンデーと少年マガジンで人気は「巨人の星」と「あしたのジョー」でしたから正に「漫画世代」の第一世代です。その頃はまだ「まんが」はおとなが読むものとは承認されていませんでしたのでインテリ集団の広告会社では変な連中が入って来たと見られていたのは承知していました。ところが1968年に小学館がおとなの漫画週刊誌「ビッグコミック」を創刊するに及んで情勢は一変、斜陽の雑誌界の救世主にマンガ誌が成長することになるのですが、広告会社のおとなたちは半信半疑で雑誌部の部長が「市村君、こんな雑誌流行るかね?」と教えを乞いに来られた時には快哉を叫んだものでした。

 

 まんがもお笑い(芸能)も本質は「反権力・反権威」だと思います。わが国では主流になりませんでしたが欧米ではまんがといえば「政治1コマ漫画」をいうのであって、であったからこそわが国のまんが――「劇画」が海外で大流行になったのです。お笑いも芸能の一分野ですから本質は同じで、そもそも芸能民という存在は一般社会からの「はみ出し者」でしたし「傀儡子」「白拍子」「今様」などと「蔑称」呼ばわりされていたのです。今でこそ「能楽」は高尚なものですが前身の猿楽は芸能そものものでそれを観阿弥世阿弥親子が能楽に高めたのです。歌舞伎もそうで女歌舞伎、若衆歌舞伎の時代は河原者と蔑まれた存在でしたし新劇すら明治時代欧米から移入された当時女優は「芸者まがい」に扱われていたのです。

 

 こう考えてくると私がたけしさんとさんまさんを見なくなった理由がはっきりしてきます。彼らが望んでそうなったわけではないのですがいつの間にか二人共「天皇・王様」に祭り上げられてしまったのです。たけしさんには「たけし軍団」なるものが存在して彼は「との(殿)」と呼ばれて『絶対的存在』となりましたし。さんまさんも吉本興業をはじめとしてお笑い界の「怪獣」的存在として扱われその「権威」の前にお笑い界の全員が「ひれ伏す」存在に祭り上げられてしまったのです。そうなった二人はもはや「お笑い芸人」ではあり得ないのです。私が彼らを拒否したのはそうした「におい」を嗅ぎ取ったからにちがいありません。昨日きょうの「お笑い」好きではないのです、新京極の富貴で『猥雑』な芸能を見て育った私にはふたりの「藝」は芸能とは感じられないのです。

 

 「宝塚」もそうです。妻たちのように戦後の「宝塚華やかりし頃」を知ってる世代には最近の、高級ハイヤーから降り立ったトップスターを「赤絨毯」でお出迎えして女王様扱いする最近のファンの有り様は異様に映るのです。そんな扱いを受けた「宝塚」のスターたち、そしてその予備軍が「勘違い」するのは当然なのです。

 

 「M-1(M-1グランプリ)」が始まって以降のお笑い芸人たちの「松本人志」に対する『憧憬』と『尊崇』は正に「神様」扱いです。「絶対的存在」として「君臨」するその姿をわたしなぞは「滑稽」にすら感じていました。そりゃ「勘違い」するでしょう、そう思います。そもそも漫才は多様性に面白さがあります。次々と「前の存在」を否定する「新しい笑い」が新陳代謝するところに漫才の「生命力」があるのです。それが今や「M-1」基準一辺倒になっているのですからこんなおかしなことはありません。

 文春砲が炸裂した「松本騒動」の真実は不明です。しかし「お笑い界」が常軌を逸している現状は異常です。そのことを認識せずに事件の「解決」はないでしょう。

 

 亡くなった小沢昭一さんが「みんながいいということに私はいつも『眉に唾』しています」と言っていたのをなつかしく思い出します。

 

 

 

2024年1月8日月曜日

このままでは渡せない

  新年明けましておめでとうございます。

 昨年は孫の成長に驚かされつづけた一年でした。4月から保育園に通いだしたのですが歩行が安定した6月頃、赤子から幼児になって認知力が急速に高まり明かにヒトになって「この子」という感覚がめばえだすにしたがって「この子に今の社会を、日本を引き渡すことはできない」という気持ちが強く起こりました。世界をこのままで、地球を今のままこの子に引き継ぐことはできないという思いが痛切に胸を打ちました。

 

 折りしもこの正月、令和6年能登半島地震が起こりました。1995年1月17日阪神淡路大震災、2011年3月11日東日本大震災と福島原発事故、2016年4月14日熊本地震。僅か30年の間に4回もの大地震(震度7以上)が頻発しています。地震以外の自然災害は温暖化どころでなく「沸騰化」して、豪風雨も山火事も旱魃も容赦なく人間社会を蹂躙しています。化石燃料の使用が原因の温暖化ガスを早急に排出規制・中止するようCOP(国連気候変動枠組み条約締結国会議)で約束しておきながら大国はエゴを剥き出しにして真剣に取り組む気配も見せません。わが国は「環境先進国」は遠い昔のこと毎年のように「化石賞」を突き付けられても恥じ入ることもなく「火力発電依存」を止めず、あまつさえ「3.11」の教訓も忘れて「原発主力電源」指向に方向転換さえしているのです。こんな状態を孫世代に引き継ぐことはできません。

 

 最大の「環境破壊」である『戦争』は冷戦終結を境に終息に向かうとの期待も空しく、イラン・イラク戦争(1980~1988年)、湾岸戦争(1990年)、アフガニスタン紛争(2001年)とまるで安易な外交手段でもあるかのように通常化したあげく、ロシアのプーチンによるウクライナ侵攻、イスラエル・ガザ戦争と問答無用の侵略戦争が国際世界の注視の下で非難を無視して終戦の糸口も見出せないままでいます。国連の無力化は無惨です。第一次世界大戦という人類未曾有の総力戦の経験を反省して形成された「世界共存の思想」という『人類の知恵』が空しく踏みにじられ『人類の進歩』という希望は完全に『退歩』してしまいました。こんな状態を孫世代に引き継ぐことはできません。

 

 有限な資源を最も効率よく活用できるシステムとして創出された「資本主義」という制度は、実はビルト・イン・スタビライザー(自動安定化装置)としての『戦争』が定期的に起こることで「自己矛盾」としての「蓄積・格差・分断」のサイクルを「リセット」する制度だということを知らなかった、学習しなかった人間社会は戦後80年という戦争のない時代=平和という幻想を安穏と享受するばかりで「自己矛盾」を「知恵」で「新しい資本主義」に改造する努力をしませんでした。その結果「格差の極大化」と「修正不可能な分断」を国内的・国際的に引き起こしてしまいました。あまつさえ「金融資本主義」という『幻想』をリアル資本主義社会の敗者である基軸通貨国アメリカに強制されたことによってグローバル資本主義は終焉を迎えようとしています。こんな状態を孫世代に引き継ぐことはできません。

 

 国内に目を向けると安倍一強の驕りの腐敗物である「安倍派裏金問題」で「民主主義」が存亡の危機に瀕しています。この件に関しては年末のニュースショーで元明石市長の泉さんが政治評論家田崎史郎さんに噛みついて話題を呼んでいます。田崎さんが「政治には金が要りますからね」と言ったのに対して「田崎さんがそんなことを言うからいけないのです。金のかかる政治をやっているから金が要るんです。田崎さんにも責任がありますよ」と至極正論を投げかけたのがSNSで反響を呼んだのです。

 「金のかかる政治」は「世襲議員の政治システム」そのものです。古の「ムラ社会」を引き継いだ「ジバン、カンバン、カバン」で「地元の親分」連中を縁故と金で組織した制度がいまだに基本的な政治システムとして厳然と生き残っているのが現代日本社会の政治制度なのです。それと並行して「県会議員―市・村会議員」のヒエラルキーが存在しこれにも盆暮の付け届けが要りますから金がかかります。21世紀の現在に明治から連綿と続いた「世襲制度」が根を張っているから新しい血が流れ込まないのです。日本の政治の革新は「世襲制度」と「金のかかる選挙制度」を廃止しないと実現できません。こんな因襲塗れの政治制度の状態を孫の世代に引き継ぐことはできません。

 

 孫の世代を考えるとき「教育」は最も改革の求められているものでしょう。戦後の追いつけ・追い越せ時代には画一的で同価値観の一定レベルの能力を持った、与えられた仕事を効率的に遂行できる人材が求められました。そのためには「国定教科書」を採用した「一斉授業」が適していました。しかしグローバル化が進行した現在、既存の価値観にもとづいた商品の「陳腐化」は著しく、絶えず「新奇」の創造がないと「グローバル・スタンダード」を獲得して「創造者利益」を独占、競争を制覇することはできません。教育制度を現在のままの状態で孫世代に引き継ぐことはできません。

 もうひとつ、学校教育法にもとづいた「公的教育」の一斉授業の限界を補完して「知識教育」を専門的に付与していた「公的外教育」――塾、予備校、家庭教師等の廃止または改編も行なう必要があります。本来であれば必要費用を投入して「少人数」「多教師」「専門化」教育が公的教育で行なえれば公的外教育は不必要なのですが、公的費用がOECD国中最低レベルの低額なせいでこれまで個人負担の公的外教育が存在していたのですが、これが原因となって国家的な才能の「未利用」という損失を被ってきました。そしてこれが原因となって「国際競争力」の喪失につながり「貧困の固定化」と「格差拡大・分断激化」を招いていたのです。こんな状態を孫の世代に引き継ぐことはできません。

 教育分野への公的費用の拡充こそ孫世代への必要不可欠、最大の引継ぎ事業です。

 

 初孫を授かってわれわれ世代の子弟教育がいかに間違っていたかに気づかされました。あとどれほど時間が残されているかは分かりませんができるだけのことをして、孫世代に引き継ぎたいと願っています。