2017年12月29日金曜日

日馬富士問題の深層 

 日馬富士問題が連日報じられているが「核心」に触れるものがない。
 
 問題は二つある。「暴行事件は何故起ったか?」という視点と「貴乃花は何を改革したいのか?」である。
 まず、暴行問題の発端と問題の所在について考えてみよう。貴ノ岩がモンゴル会に参加したのはそれが、恩師主催の「鳥取城北高校出身力士の激励会」と聞かされていたからである。恩師というのは同校の校長であり相撲部の監督でもある石浦外喜義氏のことである。彼はモンゴル人力士の発掘と養成に顕著な功績を残し照ノ富士や逸ノ城などを輩出、貴ノ岩も中学卒業と同時に相撲部に受け入れ、両親のない彼の親代わりとなって育成に尽力した。今やモンゴル人力士なしでは成り立たない日本相撲協会にとって石浦氏は欠くことのできない存在として隠然たる勢力を誇っている。
 そんな彼が主催した「鳥取城北高校出身力士の激励会」に何故白鵬以下のモンゴル三横綱が出席していたのか。報道によれば白鵬だけが招待されていて白鵬が日馬富士と鶴竜を呼び寄せたことになっている。これが表面的な事情だが、高校出身力士の激励会に何故白鵬が招かれる必要があったのか?そして何故モンゴル力士の二次会に石浦氏が参加していたのか?さらに事件後、貴ノ岩を日馬富士の元に詫びに行かせた「地元の人」とは誰なのか?
 
 最も納得のいく推察はこうではないか。白鵬は貴ノ岩の言動、振る舞い更にモンゴル会との関係に不満と不信感を抱いていた。そこで貴ノ岩の親代わりである石浦氏に相談を持ちかけ、石浦氏が仲介をして「激励会」という名目で会を催した。従って白鵬の出席は当然であり、表面的な「激励会」のあと石浦氏がモンゴル会の二次会に参加したのも当然の流れであった。そもそもの目的である貴ノ岩への叱責、説教が二次会で為され日馬富士の少々の「可愛がり」が黙認され、石浦氏が止めに入らなかったのも想定内であった。想定外の「重症」にもかかわらず貴ノ岩を日馬富士に詫びを入れさせたのも「会の目的」、貴ノ岩の「改悛」を促すためには不可欠の過程であった。そんな事情を一切知らなかった貴ノ岩が「なぜ誰も止めてくれないのか」と不満と不信感を抱き石浦氏の裏切りを口惜しんだのは、親代わりとまで信頼し思慕していた石浦氏への思いの強さの証であろう。
 マスコミ報道が石浦氏の関与と責任について一切触れないのはどうしてだろうか?それが明らかにならない限り今回の事件の『真相』は明白にならないし、従って事件の『真の解決』に行きつかないのも当然なのだ。「一番悪いのは八角理事長だ、白鵬だ」という一般ファンの追及がくすぶり続けているのも、そこが明かされないままになっているからであろう。
 白鵬と石浦氏の「日馬富士事件」での役割と責任こそが『核心』である。
 
 貴乃花の目指す「協会改革」とは何か。
 三つの問題点から解明を目指そう。第一は「入場券問題」、第二は「力士の給料と雇用関係」、最後に「力士のセカンドキャリア問題と年寄り制度」である。
 一般ファンが関係する直接的な問題点は「欲しい入場券が手に入らない」協会の「入場券発売方法」にある。入場券には三種類あり、テレビによく映る土俵間際の「砂かぶり」は「溜席(たまりせき)」といい、その後の「マス(升)席」には三種類あって、土俵近くから「Aマス席」「Bマス席」「Cマス席」となっている。2階がイス席でこれも土俵からの遠さによってA、B、Cに分けられている。二階席の最後列14列目が自由席となっていてこれだけが当日発売されている。
 購入方法は(1)先行抽選申し込み(約二ヶ月前から受付)(2)前売り(約一ヶ月前から受付)(3)当日売りの三種類に分かれている。或る人がインターネットを通じて先行抽選申し込みを行ってみた。一回だけでなく数回(数場所)試みた。その結果、「溜席」と「マス席A」は何度挑戦しても買えなかったと報告している。東京国技館の種類別席数は協会のホームページには公開されていないが定員は11.098人である。
 ここで大相撲独特の「お茶屋制度」がクローズアップされる。現在東京国技館には20の「相撲案内所」が存在するが、これが昔の「お茶屋」になる。お茶屋は「お客様に代わって、入場券やお弁当など飲食の手配を引き受ける代行業としてあった制度で「現在お茶屋案内所と名称を変えてはいますが、お客様に大相撲観戦を楽しんでいただく気持ちに変わりはありません。チケットの手配にお食事とお土産、そして雰囲気をご満足いただけるよう、上質なサービスを心掛けております」とホームページ(HP)に載っている(なお取り扱うのは「溜席」と「マス席」と断ってある)。
 ここまで堂々とHPにうたっているところをみると、溜席とマス席は「案内所」を介して買わないと入手できないのだろうということが窺われる(マス席のどのクラスまでが案内所の取り扱いかは明らかでない)。誰もが欲しい、観戦に最適の「溜席」と「マス席」の『販売独占権』が江戸時代から脈々と続くお茶屋制度存続のために『既得権』として認められているということか。しかし、これによって一般ファンが「適正な価格」で『公正』に入場券を入手することが「妨げられて」いるとしたら「公益財団法人」として「税制上の優遇」措置等を受けている「日本相撲協会」として正しいあり方だと言えるだろうか。
 貴乃花の「改革」のひとつがここにあるのは明白である。
 
 

2017年12月18日月曜日

神さんのいけず

 長年気にかかっていた――積年の疑問が氷解した。解いてくれたのは「日文研」の磯田道史氏たち。京都の西京、桂坂の京大校区の一角にある国際日本文化研究センターができて30周年になる今年、数々のイベントがあったが、そのうちのひとつ、10月28日に行われた一般公開の記念講演会「日本史の戦乱と民衆」での磯田氏の講演が「東京遷都――明治政府は何故京都を見捨てたか?」という疑問に答えてくれた。
 それなりにいろいろ見聞きして、天皇制をいただく明治新政府を成功させるには、天皇家と千年を超える縁故を保つ公家や社寺との関係を『断絶』させなければ天皇の権力と新政府を合一できないと考えて「京都」を切り捨てた。この見方が一番真実らしいと受け入れていたが、なにかもうひとつ足りないところがある、ずぅっとそこにひっかかっていた。
 磯田氏は維新前後の京都の状況を戦乱と、データと、京都日出新聞などの資料を基に、民衆のたくましい生き様を描いてくれた。そのなかで、1864年の「禁門の変」―京都では「蛤御門の変」といわれることが多いこの内乱で上京、中京のほとんどが焼き払われたこと、当時の京都の住民数が30万人足らずであったこと(大坂は35万人ほどだった)、これに対して江戸(東京)はすでに120万人に達する世界的な大都市だった。京都の膨大な戦後復興資金、東京の確立した先進的な大経済圏、国際化に適合した地理的利点。どこからみても、江戸=東京こそ新時代にふさわしい『首都』だった。
 これでスットした。口惜しいけれど明治政府要人の選択は「合理的」だった。納得した。
 
 話は変わるが最近「仇(かたき)みたい」という「京都弁」を時々思い出す。今やめったに聞くことの無いことばだが、幼い頃おとな達はよく口にしていた。「そんな、カタキみたいにセイて食べんでも、誰もあんたのおやつなんか、取らしませんがな」とか「カタキみたいな目ェして」とか使った。要するに「必死に」という意味なのだが、何とも物騒な言葉づかいではないか。そして「ユーモア」あふれているではないか。こんな奇想天外な表現を思いつくところが妙に京都人っぽい感じがして懐かしい。(この系統では「目くじら立てる」が横綱だろう)。
 もう一つ、めったに使わなくなった京ことばに「こうと」というのがある。どんな字を嵌(あ)てるのか知らないがひょっとしたら「玄人(くろうと)」が訛(なま)ったのかもしれない。ことほど左様に「中年あるいは年輩の女性の渋い粋な装い」を表していた。私のイメージでは、縦縞の地味な色合いの生地の着物に銀鼠(ぎんねず)の帯をあしらったそんな風情が、「奥さん、こーとどすなぁ」となる。「はんなり」とは少々趣を異にするが好い京ことばだった。
 
 そんな私は幼いころ病弱だったお蔭で、随分珍しい治療を受けていた。これは治療ではないが東山・即成院さんの「二十五菩薩お練供養」で菩薩様にならせてもらったことがある。どの菩薩様だったか覚えていないが、同院の本尊・阿弥陀如来と二十五菩薩が極楽浄土から現世に来て衆生を極楽浄土へ導く姿を具現する行事で、境内に特設された橋の上を練り歩く。祖母が御詠歌の講で教導まで勤めていたご縁で引き上げて下さったと覚えている。菩薩様のご加護を頂戴して少しでも私が健康になりますように、と祖母が願ってくれたのだろう。今でも十月の第三日曜日に盛大に行われている。
 「おさすりさん」と「穴村の墨灸(もんもん)」は今ではほとんど聞かなくなった。「おさすりさん」は今でいう「幼児マッサージ」になるのだろうか。年輩の女性のおさすりさんが自宅に来てくれて、縁側に座った祖母の隣で女性の膝に体をあずけながら、「ぼんは…」「ぼんは…」と語りかけながら優しく全身をさすってくれる。陽射しの暖かななかでうっとりと身をまかせているとうつらうつらして病のつらさを忘れてしまう。マッサージというよりもセラピーに近い療法だったのだろうか。
 「穴村の墨灸」は「モグサからつくった墨のような液をツボに塗る」鍼灸の一種で子どもの「カンの虫」封じなどに効くとされていた。浜大津から船で行ったから竹生島の一地域かと思っていたがネットで検索すると、草津市の西北、琵琶湖近くに穴村はあった。小さな和船に大勢が乗り合っていたから随分流行っていたのだろうに、今は知る人もいない。
 
 先日八十才と八十二才の男性が「トライアスロン」に挑戦しているテレビを見た。4kmの水泳、10kmの長距離走、20kmの自転車走を完走したおふたりは輝いていた。聞けば八十才の方は「かなづち」で六十才になってからトライアスロンに参加するため水泳を始めたという。それから20年、波の高い荒れた海を泳ぎ切った彼の肉体は健康そのものだった。
 先にも書いたように病弱だった私も本当に健康体になったのは六十才を過ぎてからだった。禁煙して、テニスをはじめて、体力増強が必要だったので食事を改善し鍛錬を重ねた。朝起きてから二時間近くもろもろのプログラムをこなして、健康を維持している。しかし、決して、ひと様に「誇示」しないように勉めている。それは、幼いころ、「あんまりイバッてたら『神さんにいけず(いじ悪)』されまっせ」と戒めてくれた祖母や母親のことばを思い出すからだ。良いことばではないか、「神さんのいけず」。
 
 京都に生まれて、長生きさせてもろて、ほんまに「おかげさん」ですなぁ。
(今年は本稿にて最終と致します。ご愛読有難う御座いました。よいお年をお迎え下さい。)
 

2017年12月11日月曜日

パロディができなくなった

 先日の「たけしのこれがホントのニッポン芸能史『喜劇』(NHK・BSプレミアム12月2日)」でゲストの伊東四朗さんが「最近はパロディができなくなってきた」と慨嘆していたのは昭和喜劇界を知る人らしい「シメの言葉」だった。パロディとは「誰でも知っている演劇(歌舞伎など)や映画、文学や詩歌を揶揄や風刺、批判する目的を持って模倣した作品、あるいはその手法」のことで、文学でいえば江戸時代の川柳や狂歌の古今集などの有名な和歌をもじった作品はパロディのひとつと言えよう。また昭和の芸人さんは、尾崎紅葉『金色夜叉』の「熱海の海岸」の場面――恋人のお宮が裏切って大金持ちの富山に結婚するのを怒った主人公貫一が熱海の海岸でお宮を蹴飛ばす場面――を借用してよくパロディを演じていた。パロディ芸能の最たるものは「俄(にわか)」であろう。歌舞伎や文楽の演目を土台にした即興的なドタバタ喜劇で、俄狂言とも仁輪加とも呼ばれた。戦後いち早く関西喜劇界で人気を博した曾我廼家十吾、渋谷天外(二代目)の「松竹新喜劇」はその流れを継いでいたが、いつの間にか「俄の伝統」は消えてしまった。伊東さんは歌舞伎をもとにした古いパロディではなく、みんなが知っている国民的な映画や歌謡曲をベースにしたパロディをいっていると思うが、その元になる『国民的』な『文化的共有財産』が世の中から消えてしまったことを嘆いているのだろう。最近で言えば小学校の音楽教科書から「小学唱歌」や「蛍の光」「仰げば尊し」が無くなったし、夏目漱石や森鴎外が国語の読本に不採用になった、ように。
 
 そういった意味では、最近高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が発表した「坂本龍馬」「大岡忠相(大岡越前)」「武田信玄」「上杉謙信」「吉田松陰」などの人気の人物を教科書から削除するという考え方は、ますますパロディを我国文化から――少なくとも「お笑い」からは遠ざけてしまうに違いない。「大学入試の歴史の問題で細かい用語が多数出題されて暗記中心に偏っている傾向を是正する」ために歴史教科書に載る用語を半分近くに絞り込む方針らしいが、これによって歴史の面白さが削がれるようなことにならない配慮が望まれる。
 しかし視点を変えるとこれは、歴史をどう捉えるか、という根本的な考え方にも関係している。歴史は人間が作るものだからその時代時代の中心となった人物の活躍を重要視して歴史を視る――ある意味で「英雄主義」的歴史観と、人間社会を「政治」「経済」「文化」などの変遷と捉えてその時代的推移を歴史と視る――謂わば科学主義的な歴史観、この二つのどちらに重点を置くかで教科書の編成も変わってくるわけで今回の研究会の提案は後者に重点を置こうとする考え方と見ることもできる。それはそれで意味のあることで、願わくば中途半端にならないで、変化の激しい今の「時代」を見抜く『歴史の目』が子どもたちの身に付く、現代にふさわしい歴史教育になることを願っている。
 
 文化的共有財産が消失した原因は娯楽とメディアの多様化のせいだろう。パソコン、スマホ、インターネットが出現するまでは、紙媒体(新聞、雑誌、本)と映画とラジオ(テレビ)が伝達手段のすべてだった、勿論『実演』が有力だったのは言うまでもないが(紙芝居も実演になるか)。コンテンツとしてパロディを支えて重要な働きをしたのは「講談」と「浪花節」だったのではないか。特に『講談全集』は「貸し本屋」の主力図書として国民の多くが読んでいた。「忠臣蔵」「忠臣蔵外伝」「義士銘々伝」「水戸黄門」「幡随院長兵衛」「曽我兄弟」「太閤記」「寛永三馬術」「川中島ノ決戦」「山内一豊」など挙げればキリがないが五十巻以上あった。私たちより年輩の層は小学校で学校を卒える人がほとんどだったが『講談』は共通の教養としてあった。「貸し本屋文化」は戦後も長く存在感を保ち、吉川英治、山岡宗八、五味康祐、柴田錬三郎などの作家の早期の作品は貸し本屋が出発点だった。やがてこの流れは松本清張、司馬遼太郎に引き継がれていくことになるが、この系譜は徳川期の頼山陽『日本外史』、大正昭和期の徳富蘇峰『近世日本国民史』に源流を求めることができる「英雄主義的歴史」の系譜といえるだろう。
 学校で学ぶ歴史と講談で得た知識が渾然となって「庶民の歴史」は描かれ、学歴の差もなく国民の共有するところとなっていた。これに加えて、歌舞伎、文楽の演目も講談と重複しながら多くの人の知るところであったし、百人一首、いろは歌留多、俳句や漢詩の有名なものも人口に膾炙していた。歌謡曲はレコードとラジオで庶民の共有物であったし、映画も「娯楽の王様」として君臨していた。
 男女、年代の隔たりもなく「全国一律」の「一般教養」として『文化的共有財産』は平成になる直前まであった。
 
 僅か三十年で世の中は一変しインターネットとSNSは国民を『分断』した。テレビゲームをはじめとした若者の娯楽と中年の娯楽は共通するところを見出せないし老人はそのどちらともつながっていない。これでは「パロディ」は成立のしようがない。
 
 ところで私が「白村江の戦(はくそんこうのたたかい)」を知ったのはつい最近のことだ。天智二年(西暦663年)朝鮮半島の白村江(今の錦江河口付近)であった我国と朝鮮との戦いで我国は惨敗した。なぜこの我国初の国際戦争が歴史から消されたのか?明治維新以来第二次大戦勃発まで我国の歴史は「神国不敗」と教えられてきた。この「歴史観」にとって「白村江の戦」は『不都合』だったのだろうか。
 
 これまでも、これからも、歴史は権力者に「歪められる」。英雄主義の歴史もそんな権力者の恣意に加担してきた一面があることを知る必要がある。
 
 
 

2017年12月4日月曜日

 ほんのちょっとの「心づかい」

 この十日ほどで三つ忘年会があった。中華のコース、豚しゃぶ会席、和食会席とバラエティに富んだ料理と有名ホテルの中華店、最近若い人に人気の店、地元桂の名店とお店にも特色があって堪能した。集まりはPTAの同窓会、高校と大学の友人、馴染みの喫茶店の食事会とこれもまたそれぞれで楽しかった。中華は素材が豪華版だったし豚しゃぶは調理法が豆乳シャブシャブでユニーク(私は初体験)、和食は板前の腕に感心させられた。
 最近は「インスタ映え」とかいってそもそもの食事の「旨さ」がそっちのけになっているがわれわれ世代はやっぱり美味しさに拘りがある。別に高級なものが食べたいわけではない、料理人の心の感じられる食事がしたいのだ。料理の良し悪しはほんの少しの「心づかい」と「てまひま」にあるのではないか。最近知ったのだが湯を沸かすのでも、高温で短時間で沸かしたのとじっくり時間をかけて煮沸した湯ではまったくちがうものといっていいそうで、舌ざわり味わいに驚くほど差が出るという。そういえばインスタントの味噌汁やコーヒーを淹れるときそれを感じたことがある、速成でいれた味噌汁が舌を刺すようで美味しさが半減していた。素材選びにしても目利きが選んだものと素人が何の考えもなしに手に取った物ではびっくりするほど良し悪しがちがう。また包丁の切れ味が悪いと素材の味が損なわれることはよく知られているし、素材の下処理で仕上がりがまったく異なることは料理本の最初のページに載っている。インターネットの人気店で期待を裏切られることが多いのは、お客が若い人がほとんどだから店側が客をなめて手を抜いているからだろう。ほんの少しの気づかい、それがびっくりするほどの味の差に結びつく。コワイことだ。
 
 最近続発している日本企業の「品質偽装・詐称」も根っこは同じだろう。
 端緒は構造計算書偽造問題を起こした2005年の「姉歯事件」だったのではないか。次に記憶にあるのは昨年の横浜のマンション傾斜事件で「杭打ち施工」が基礎地層にまで届いていない不具合が原因と特定され、杭打ち施工に関わった三井住友建設など3社が行政処分を受けた。その後同種の不正が計56件8社の偽装が見つかっている。製造業の品質偽装、詐称は「東洋ゴム」「タカタ製欠陥エアバック」「神戸製鋼」「日産自動車(等)の無資格検査」「東レ子会社製品検査データ改竄」と出るは出るはの驚くべき惨状を呈している。製造業の品質偽装の根本問題は「できることをやっていなかった」ことにある。
 戦後復興を牽引した我国製造業は「安かろう、悪かろう」のバッシングに耐え、血の滲むような苦労を重ねて世界に誇る『ジャパニーズ』を獲得した。「日本製」というレッテルがあるだけで「最高品質」という信用と「ブランド」を得たのだ。トヨタの「カイゼン」は世界語となり品質向上の世界標準となった。その日本の製造業の現場で何が起っているのだろうか?
 この問題を考えるとき真っ先に浮かぶのは、1978年ダグラス・グラマン事件で国会に証人喚問された日商岩井・副社長海部八郎が宣誓書に署名する際手が震えてなかなか署名できなかったテレビの画面である。汚職を犯したという罪悪感と衆人環視の中で「偽証」できない、「真実」を明らかにしなければならないという『倫理観』の葛藤と「国会」と「国民」への『畏怖心』が彼を追い詰めて、筆を進ませなかったのであろう。
 海部氏が保持していた『倫理観』と『畏怖心』は、今、私たちにあるだろうか。「森友事件」の籠池氏や佐川現国税庁長官、「加計学園獣医学部新設問題」に関わった安倍首相、加計孝太郎理事長、萩生田光一現自民党副幹事長たちに海部氏と同じ「倫理観と畏怖心」があると思えるだろうか。『否!』と叫ぶ声が強く響く。
 
 ゴムであれアルミ板であれタイヤ・自動車関連の繊維であれ、生産システムは自動化されているから、素材に原因があったかシステムの制御不良であるかのどちらかだろう。素材は厳密に選別されてから生産ラインに入るから「ほんの微量」の異物混入であったろうし、システム制御の不具合にしても完成度の高いシステムであるから「わずかな」パラメータの異常であったにちがいない。エアバックと自動車の完成品は検査項目それぞれの検査手順の「愚直」な実施を資格を持った検査員が行っていれば発生しなかった問題である。
 「わずかな」「微量の」「愚直な」『齟齬』、それが『大きなちがい=間違い・欠陥』につながる。料理人のほんの少しの「心づかい」と「てまひま」が『味』の決め手になる、根っこはまったく同じなのだ。
 何故それができないか。『利益』が優先されたのだ。利益追求に盲進して顧客と地域との共存を放棄するのは「資本主義の冒涜」以外の何物でもない。
 
 
 民主主義と資本主義がすぐれて『倫理観』と緊張関係にある制度であることは自明である。政治の条件は複数性にあり、複数の人間の間にある不一致を受け入れて、一致を探り、一致を達成し、コミュニティを動かしていく活動が政治に他ならない。選挙で得た「多数」を振りかざして「少数意見」を押さえ込む『丁寧さのない傲慢(=謙虚のない様)』は民主主義の対極であろう。
 
 権力の特質は人間が一致して行為するところにあり、暴力によってはそのような一致はもたらしえない。
 権力は相手の行為する力を利用するが、暴力は行為する力そのものを抑え込む。
 ――國分功一郎著『中動態の世界』より――