2016年10月31日月曜日

半ドン

 半日休み―午後から仕事の無いことを「半ドン」という。今どきこんな言葉は「死語」かもしれないが、もともとはオランダ語の日曜日を意味する「zondag」がドンタクと訛って休日や休業を意味するようになった。それが1876年に官公庁が土曜半休になった折に「半ドン」と呼ばれるようになり以降土曜日の半休を一般に「半ドン」と使うようになる。
 ここで問題にするのは官公庁が「半ドン」を就業形態として定着させると一般私企業も一斉に右に倣えして「土曜半休」を「半ドン」として採用したことだ。勿論最初は大企業だけだったろうがやがて中小企業もそれに倣うようになり週休二日制となるまで日本の就業形態として定着することになる。
 
 昨年今年と賃上げに政府が口出しするようになり、マスコミの批判にもかかわらず経団連をはじめ我国の経済界は一定の理解を示して政府の要望に応えベースアップなどの賃上げを行った。マスコミがいうように本来賃金交渉は労使の交渉にまかせられるべきであり政治的な圧力によって力関係が歪められるべきではない。しかし「半ドン」にみられるように「お上」になびく、というかおもねる気風が国民性としてあることは否めないしお上だけでなく外国の力―欧米先進国の評価にも極めて弱い一面がある。たとえば国内では全く評価されていなかった黒澤明の『羅生門』がアカデミー名誉賞(現・外国語映画賞)を得るや一挙に評価が高まり、黒澤の地位は一気に上って以降の作品製作に無理が利くようになったなどという例には枚挙に暇がない。
 賃上げへの政府介入についてももし海外のしかるべき機関の後押しがあればマスコミの批判の矛先が弱まる可能性は極めて高いにもかかわらず6月20日に公表された「IMF対日審査報告」はほとんどニュースになっていないのは不思議きわまる。ひょっとしたら7月10日に控えた参院選挙への影響をかんがみたマスコミの自粛か政府の働きかけのせいではないかとかんぐりたくなる。なぜならこの報告はアベノミクスの失敗をはっきりと明言しており「アベノミクスは当初成功を収めた景気回復は失速した。高齢化や人口減で国内市場が縮小しているほか、賃上げが十分波及していない点問題、労働市場の改革と所得政策が重視されるべきだ」という内容になっているからだ。
 IMFがここでいう「所得政策」は本来の「物価安定のためにする賃上げ抑制」ではなくその反対の「賃上げで需要拡大と物価上昇を実現しよう」というもので、バブル崩壊以後物価上昇の範囲内の賃上げではデフレ脱却はできなかった20年の学習を経済政策に生かそうとする、まさに今政府が経済界に要望している内容に沿うものである。アベノミクス失敗の部分を忌避したいがための無視かも知れないがIMFの処方箋は的確であるだけに「外圧」に弱い国民性をよい意味で利用して政策に反映してもらいたいものだ。
 
 賃上げと併行して政府は「働き方改革」を推進しているが、有識者を集めてあれこれ難しい議論をするよりも、改革の根本にある『時間外労働―残業の削減(撤廃)』を『官公庁』が率先垂範すれば改革はスグにでも実現できる。「半ドン」で明らかなように我国の国民性は「お上」に弱いから少々無理でもお上がやればそれに倣うのは確実だ。それによって仕事の効率が上り予算のムダ遣いが減ったりすれば間違いなく日本から残業は姿を消すに違いない。慣習的な残業で無限定に行われていた諸々の仕事が必要なものとそうでない仕事の「選別」が行われ、必要な仕事が「新たな職務」として雇用を生み出す効果もある。
 
 2020年に「残業ゼロを目指す」日本電産が2017年3月期の連結純利益を1000億円に上方修正する決算見通しを発表した。永守社長は「「『モーレツ』はもうウチにはない」と語ると同時に、労働時間を減らして収益力を底上げするという方針を示し更にこう語る。「優秀な社員を採用できなかった時代はハードワークしかなかった」「今は優秀な社員が入ってくる。欧米はゼロが当たり前。もう時代が違う」。昨年から残業削減―定時退社を推進してきた同社は、残業削減による4~9月期のコスト削減効果は10億円に上るという。これは単純に来年三月期の1000億円の連結純利益の1%に相当する。定時になると『早く帰れ』と言われる若い社員は「ムダな仕事が理由の残業は認められないので、どう仕事の効率を上げるか必死で考えるようになった」と語っている。会議時間の短縮、会議用資料を減らすことによる残業削減効果など業務の生産性を落とさずに残業を3割減らすことができたという。
 
 日本電産が永守社長のトップダウンで残業削減に取り組み実績を上げたように、安倍首相が決断すれば『日本の官公庁の残業ゼロ』は間違いなく達成できる。予算編成時の財務省主計局などの殺人的な残業をどうするのかという反発も予想されるが、『ビッグデータとAI』を活用すれば「資料作成時間の短縮」は必ず実現できる。彼ら日本でも有数の優秀な官僚が、公正で公平な最適予算の編成という最も重要な作業に集中できるから日本国の成長発展に資する素晴しい「予算」が編成できるに違いない。
 
 「お上」や「外圧」に弱い国民性は特殊かも知れない。恥ずかしいと考える人もいるかもしれない。しかしこれは我国の長い歴史から生まれたものだから今すぐどうこうできるものではない。欧米先進国では賃上げに政府が圧力をかけることなど論外かも知れないが、20年以上苦闘してもデフレ脱却ができないできたのだからここは素直にIMFの勧告に従って「逆所得政策」を取り入れてもよいのではないか。少子高齢化社会の問題を解決するためには「時間外労働―残業ゼロ」を実現して女性や高齢者また障害を持つ人たちの労働参加が必須であるならば政府が「旗フリ」をして実現できるのであればそうすればよいのではないか。日本には日本の事情があるのだからそれに合った方法でやるしかないではないか。
 
 「日本式」も捨てたものではない、と喜ぶ日が来る。そう信じている。
 

2016年10月24日月曜日

時間の値段

 Amazonで古本を買って代金を郵便局で振り込んだのだが振り込み手数料がいらなかった。Amazonはすごいと思った。最近ちょくちょく古書を買う。図書館で借りて蔵書にしたいと思って出版社のリストを検索すると「絶版」になっていることが多いのでネット古書店のご厄介になるのだが良質のものが少なくないうえに安いので重宝している。しかしネット古書店では当然のように振り込み手数料がかかるからAmazonの無料に驚いたわけだ。ドローンの配送を考えたり、当日、いや三時間以内の配送を約束するAmazonプレミアムなどAmazonのネット通販は進化しつづけている。
 テレビショッピングのサービスもすごい。先日の電気シェーバーの売り出しでは販売価格自体は街の家電量販店と同じだったが「替刃」がついた。これが結構高くて五千円ほどする、それがタダなのだから「お買い得」だ。一年前に買ったばかりで今スグ必要じゃないが、もし五、六年も使っていたら間違いなく購入したに違いない。テレビショッピングはとにかく「おまけ」が「お得感」を与えてくれる。
 今年の夏の暑さは格別だったからスポーツドリンクが絶やせなかった。スーパーやドラッグストアへ行ってケース買いしたが自動車や自転車が必要だった。あと五年もしたらそれもままならなくなるに違いない。そうなったらどうしよう?そう考えたとき、そうだネットで買えばいいと思いついた。トイレットペーパーなど嵩張ったものが必要なときもそうすればよい。
 この二三年日用品をドラッグストアやホームセンターで買うことが多くなった。酒類の特売チラシがドラッグストアから出ることも少なくない。百貨店、スーパー、SC(ショッピングセンター)のすみ分けがボーダーレスになってそれにドラッグストアとホームセンター、家電量販店が加わって、更にコンビニもあるから…、勿論まちの商店街もとなると我々の購買行動の選択肢は30年前とは比較にならないほど多様になっている。
 
 もうひとつ考えなければならないのはこうした「モノ消費」以外に「コト消費」が増えたことだ。例えば美術館の特別展示―最近では「ルーブル展」など今までで一番の混雑で図録などのグッズ販売も豊富にあって併設のレストランで食事を楽しむ人が溢れていた。音楽会へ行く機会も増えたし講演会へも良く参加する。娘は「ドリカム」の追っかけで年間4、5回、うち2回ほどは東京か横浜の公演が入っているしエステやネイルも程好くたしなんでいる。勿論旅行にも年に何回かは出かける。マンションの若いお母さんの話を聞いていると、ネットで買い物を済ませて空いた時間を家族とお弁当持ちで公園で遊んだりママ友同士でランチをしているようだ。
 共働き世帯が増え働く女性は忙しくてぱんぱん、子育中はもっと大変で、限られた時間をいかに有効に使うかが消費行動に直結している様子がネット通販の盛況ぶりに現れている。お金を使わない節約から時間を有効に使うことが「節約」の意味になってきている現状をもっと理解する必要がある。金利ゼロのこのご時世にコンビニATMの利用手数料が平均年間3000円に達しており5000円の利用者も2割もいるという数字がこの間の事情を明らかにしている。
 
 企業はコスト削減ばかりに目が行って、コストをかけた商品開発、イノベーションへの取り組みが弱い。それが結果的に潜在成長率に悪影響を及ぼし、デフレを再生産している。また消費が不振な背景には賃上げが不十分なことが大きく影響している。企業は賃上げに消極的だが、しつこいデフレ状況を考えると、欧米型の成果主義よりもなだらかでも賃金上昇が続く方が望ましいとする国民性があって、それが一方的に否定されている風潮が将来不安をよび経済を萎縮させているのではないか。
 アベノミクスで一時はデフレ脱却かと思われたが尻すぼみで、今は格差拡大があからさまになって重苦しい閉塞感が漂っている。消費額自体はバブル期の1980年代後半とほぼ同じ水準であるにもかかわらず消費不振といわれるのは何故だろうか。「コト消費」が「モノ消費」と同じくらいの消費量になっている今、モノを買うことには実感が伴うが、サービスはその瞬間に消費されるからなかなか実感として残らないことが影響しているのかもしれない。しかし時代はもう消費を物販主体の小売業の数字だけで判断できなくなっている。にもかかわらず政府や日銀が政策判断する「経済統計」は依然として物販主体の「商業統計」や、ネット経済とは距離のある対象者と集計方法に基づく「家計調査」がベースになっている。消費統計などの経済統計体系が実体経済と乖離しているのではないかという批判が経済学者やジャーナリズムに強いのはこうした現状を突いているのであろう。
 このような統計の欠点を補う試みとして「東大日次物価指数」が注目される。これはスーパーマーケットのPOSシステム(スーパーのレジで商品の販売実績を記録するシステム)を通じて日本全国の約300店舗で販売される商品のそれぞれについて各店における日々の価格日々の販売数量を収集しそれを原データとして消費者物価を推計するものだが、即時性、速報性で従来統計より優れており今後の展開が注目される。
 ネット通販やサービス関連の統計を充実して実体を正確に反映する統計の整備が望まれる。
 
 IT――特にスマホが普及して世の中は一変した。にもかかわらず『世間を見る目』はそれに追いついていない。だから『世の中』が正しく掴めていない。個人個人の動きとそれを積み上げたはずの『全体』の間の隙間がドンドン拡がっている、「日銀のマイナス金利」って何?という風に。
 
 いずれにしろ我国をアングロサクソン型資本主義や金融理論の実験場にするのはもう勘弁して欲しい。
 
 
 

2016年10月17日月曜日

地方創生と農業

 「日本の農薬は品質がいいんですよ」と知人の農家の方から聞いた。小泉進次郎議員のJA改革について会話しているときのことである。JAの農薬や肥料・農業機械は韓国など外国の2~3倍もする高価格で販売されている現状を改善して日本農業を改革しようという小泉議員の挑戦は評価に値する。しかし、300種類以上あるといわれている日本の農薬は農産物の種類や耕作地の特性に適したものを希望する農家の要望に応えようとした農薬会社の苦労の結果でもあって、だからこそ外国製品よりも効き目がよく効果も長続きする商品になっているという側面もある。
 ことほど左様に、日本農業は世界でも有数の繊細で緻密な計算をもとに組み立てられた農法を誇っている。その年の雨量や土質の変化、気候などに合わせた品質の良い作物を育成する高い技術力は「安心安全」な上質の食品を生産する農法として注目を集めている。
 
 一体なぜ日本のコメ生産の基本技術たる「水田農法」が必要かといえば、「雑草と害虫駆除」を必須とする「湿潤多雨」地帯の「米生産」を最適に行うための窮極の生産方法だからだ。
 有名なミレーの『落穂ひろい』を想像すれば明らかなように、西洋の「ムギ生産」はバカ広い農地に直播きして、ただ成熟を待って収獲するだけの実に粗放な(?)生産方法でも通用する作物なのだ。なぜなら「乾燥少雨」地帯では「雑草」は生えにくく「害虫」も発生しにくい土地・気候だからで、それだけに農薬が発明されて「収量」が安定するまでは「ムギ」は天候に左右される栽培の非常に難しい作物だった。従って農業が中心産業だった中世・近世までのヨーロッパは貧富の差の激しい階級社会で貧困層は飢餓に苦しめられ短命な生き方を強いられていた。その結果中国を初めとしたアジア諸国におくれをとっていたヨーロッパだったが、ジャガイモの発明、避妊の普及、皮下着の綿製品への転換はヨーロッパを一挙に発展させることになる(勿論産業革命の効果は絶大だったが)。
 「皮下着」には違和感を覚えるだろうがギリシャ・ローマ時代からヨーロッパ諸国の発展を度々衰亡させてきた「ペスト(黒死病)」と「皮下着」とは大きな関係があった。14世紀には英国の人口の3分の1が死亡するほどの猛威をふるったこともあったペストは「死病」として17世紀、18世紀までヨーロッパを悩ませてきた。19世紀になって香港から中国インドに伝染し1200万人を死亡させるなど近代以前の世界を震撼させた一大伝染病ペストの撲滅は国の発展成長のカギを握る重要政策だった。その原因が「皮下着」で、通気性が悪く汗や体液まみれの不衛生な下着はペスト菌などの黴菌を繁殖させる最悪の下着だった。それが綿花栽培の発達によって綿製の下着が貧困層にまで普及して衛生面の飛躍的な改善につなりペスト撲滅が可能になった。
ジャガイモは小麦に比べて生育が簡単で収量も安定・多量だったから貧困層にも十分にゆきわたることになり栄養分豊かな食生活をもたらし、避妊意識の広まりと技術の普及は多産のもたらす食料の逼迫を改善した。ペストの撲滅、ジャガイモと避妊の普及は相乗してヨーロッパ諸国の人たちを「飢餓からの解放」に導いた。
 湿潤・多雨の我国で稲栽培を行うためには水田耕作が必須技術だったが、平家物語にある白河法皇「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話のように「治水・灌漑」がそのための最重要事業だった。狭い国土が300以上の藩に分割統治された江戸時代は各藩の努力によって治水事業がきめ細かに行われ農業生産の基礎が全国的に完備した。そのうえで各地の豪農を中心とした農法の革新と蓄積は豊かな農業生産を実現し農産物は高価格商品として取引されたから庄屋階級は大坂の大商人と並ぶ富裕層であり土地持ちの自作農は中産階級として江戸の庶民より豊かな生活を保障されていた。しかし農業は「労働集約産業」であったから人口の8割以上必要とされ江戸時代を通じて2600~2700万人を上下して変わらなかった。こうした事情は第二次世界大戦直後も変わらなかったが「化学肥料と農薬」の出現、「稲の品種改良」は農業を一変させた。
 コメ生産の生産性が飛躍的に向上し余剰労働力が生み出されるようになる。一方我国の産業構造は農漁業中心の一次産業型から製造業中心の第二次産業中心へ、そしてサービス業中心の第三次産業化へと高度化し先進国として成熟していく。この間農業人口は減少の一途を辿り高齢化もあって平成23年には260万人、農業を専業とする農業従事者は186万人まで減少した。それにもかかわらず毎年の米の作柄状況が平年並み以上を保っているのは米の生産性が飛躍的に向上していることを如実に物語っている。味をある程度犠牲にして収量増に標的を絞って品種改良すれば生産性はもっと高めることも可能である。
 一方農業生産は平成22(2010)年度11兆1千億円第2次産業(関連製造業)と第3次産業(流通業・飲食店)を含めた農業・食料関連産業の国内生産額は94兆3千億円となり、国内生産額全体(905兆6千億円)の1割を占めている。
 
 見方を変えて現在の主食用米の必要量はどれほどかを見ると市場規模が縮小したとはいえ700万トンは下らない。この米の生産量を基礎として現在のその他の農業生産物を積算した「必要農業生産物量」を推計、それに基づいて『必要農業人口』を求めると、家族を含めて100万人、家族3人とすると農家は30万戸ほどあればいいことになる。先進国では大体人口の1%程度が農業に従事すれば十分という傾向を示しているから我国が100万人で十分という見方はあながち無謀とはいえない。そこで単純に平成22年の農業生産額11兆1千億円を100万人で割れば1人当りの農業収入は1千1百万円、30万戸の1戸当たり収入は3千7百万円になる。農地集約、企業の参入を認めるなどの「農業改革」を行えば農業は間違いなく成長産業に生まれ変わる。
 
 地方創生が叫ばれて久しいがいまだに実効を挙げていないのは農業にこだわり農産物生産の拡大による「発展・成長」を考えていたからではないか。そうではなくて、特色があり多くの人が憧れる文化を持つ「小都市」を地方に多く作ることが地方創生なのではないか、ドイツ・ロマンチック街道のような。
 
 明治維新は数々の『暴挙』をしでかしたが、「乾燥少雨」地帯の農学者を「御用学者」として、それも「酪農」を専門とする学者を採用したことは「暴挙」の最たるものであろう。そして四百年以上の蓄積の精華であった『日本農法』を捨て去った維新政府の行いは『愚挙』と言っても言い足りない我国農業にとっての『災禍』であった。
この稿は川島博之東大准教授「日経・やさしい経済学「農業の効率化と地方創生」を参考にしています
 

2016年10月10日月曜日

老いの達人

 わたしは食べたい時に食べ、眠りたい時に眠るのである。読みたい時に、勝手に読みたいものを読むのである。何の強制もなければ何の束縛もない。そして、時間が空白で退屈というよりか、むしろ豊かさを増して、潤いある密度の高いものに変わったような気さえする。せかせかした、乾からびた時間はなくなった。わたしは生きかえったような気持だ。
 これはドイツ文学者大山定一、七十才の述懐である。なんとも羨ましい境地ではないか。更に彼は学者としてある到達点に至ったことをこう表現する。
 陶淵明の「甚だしく解することを好まず」といった言葉が、すこしずつ、わかりかけたようだ。/無理にわかろうとしないのである。いつかわかるまで、気永に待つこと――わたしには幾らでも長い時間がある。だから、二三週間かかって、ようやく一篇の詩の意味がまとまって理解できたり、一見平凡としかみえなかったものが深い含蓄のある佳作に思えてきたりするのは、なかなか楽しいものだ。
 私より少し若い七十才という時点でこの感懐を抱けるとはさすが超一流の学者はちがうものだ、と羨望せずにいられない。
 
 大山の専門―ゲーテは老年について次のように語った。
 「人間には、年齢に応じたそれぞれの哲学がある。子供は、実在論者である。子供は、自己の存在より梨やりんごの存在を信じている。青年は、内部のはげしい情熱にゆすぶられて、初めて自己の存在を予感し、自分のたましいを意識する。青年は、観念論者である。しかし、壮年は、懐疑論者になる当然な理由をもつ。ある目的のためにえらんだ手段が正しいかどうか、彼はつねに疑わざるをえない。行為するまえに、行為するとともに、彼は当然あらゆる理性をはたらかせて思考しなければならない。最後に老年は、神秘論者である。彼は、多くのことがほとんど偶然によって支配されているのを知る。非合理的なものが成功し、合理的なものがしばしば失敗する。幸福と不幸とが思いがけなく和解する。すべてがそうであったし、すべてがそうである。老年は、現在あるもの、過去にあったもの、未来にあるべきもののなかから、つねに平静と安堵をもとめようとする。」
 実際、若いころはあらゆることが合理的で、真理のもとに行われるべきであり、そう努めるべきだと考えていた。にもかかわらず、不合理で理不尽なことがまかり通っている現実に怒り、悲憤を感じることが多かった。その経験が選択肢の多様性を学習させ、懐疑論者として「あらゆる理性をはたらかせて思考」する行動様式を取り入れざるを得なくさせた。
 最近友人のひとりがこんなことを言った。病気がちな彼ら夫婦に比して健康を誇る私に「幼年期に生死をさまよう大病を二度も経験しているから、そのときに『病ぬけ』したんやな」と。彼は、人生プラス、マイナス、ゼロだという信念を抱いているに違いない。ゲーテ流にいえば「幸福と不幸とが思いがけなく和解する」のであり「つねに平静と安堵をもとめようとする」のが老年に通例な達観なのだろう。
 ゲーテの晩年は「ちょうど夕日の時刻のように、夕ぐれの雲がしずかにたなびいて、山の上の空は青く澄みわたっている。そういう透明で清澄な、しかも人生を肯定する最後の光がうまれようとしている」ようなものであったらしい。そして「ありとあらゆるものを達観し肯定する老熟した精神のゆとり/何が何であれ、人生はいいものだ!」という境地に至ったのであろう。
 
 人生僅か五十年、の時代は学びの時期を過ぎて労働と家庭の建設・運営を経て子どもの巣立ちをみるころには寿命も尽き果てた。老年は数年で死を迎えた。しかし今や八十才の長命は普通になってきて青年期壮年期とほとんど変わらない時間を老年期として過ごす時代になっている。学びと労働の技術と知識は学習体制が整っているが「老い」のそれは各人各様に『創造』しなければならない。
 壮年期の懸命さと運不運が老年期を規定する傾向が強くそれを従容として受け容れざるを得ないとしている人が多いがそんなことはない。テレビで紹介される九十才をすぎ百歳近い「老いた超人たち」をみてそう思う。彼らのほとんどが六十才、いや七十才で「リスタート」している『老いの達人』だ。
 
 「何が何であれ、人生はいいものだ!」。そう思ってKもYも逝ったにちがいない、八月と九月、たてつづけに他界した友人の鎮魂を祈る。
この稿は筑摩叢書『洛中書問』の「ゲーテ晩年の詩―大山定一」に依拠しています

2016年10月3日月曜日

人生の真実

 マーサは金の入った封筒をテーブルに置いた。「これでちょっとは助けになるだろ?あんたが今まで面倒をみてやった人たちと話をしたのさ。みんな喜んで協力してくれたよ。大した額じゃないけど、とっておくといい」「施しなんかほしくない。要らないよ」「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。あんたの仕事ぶりに感心してた人はみんな、政府のやり方は間違ってるって言ってた。」
 マーサは七人の娘を生したヴァイン家のゴッド母ちゃん、ラギー・アニーは地域の1200人以上の子どもを取り上げた神の手を持った助産婦。ところが政府は産婆を許認可業務にしたためにアニーは仕事ができなくなる。ボランティアで行っていた教会の清掃も新任の牧師に毛嫌いされて解職され僅かな礼金も貰えなくなって極貧の生活を強いられている。グレアム・ジョイスの『人生の真実』の一コマだが、「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。」という言葉に惹かれた。
 
 最近「生活保護費」や「政務活動費」の不正受給が多い。福島県会津若松市、佐藤勉市議のフィリピン妻の不正受給は二重にも三重にも不正が重なっていて目を覆いたくなる。公僕たる市会議員の妻であるということ、妻は日本語に不案内で夫たる市議が代筆して申請書を書いていたという事実、飲食店に勤務していて収入があったことを隠していたということ、市の職員はひょっとしたら彼女が佐藤市議の妻だという事を知っていて不正を見逃したのではないか、など幾重にも不正が複合しているこの事件は、現在の我国の「病巣」が凝結された事件といえる。
 市議といえば富山市議の政務活動費不正受給も酷い。あれよあれよという間にとうとう11人も不正議員が明るみに出て、40人の議員定員の4分の1が辞職に追い込まれ補欠選挙を行わねばならない事態にまで発展してしまった。
 市会議員はいうまでもなく「公僕」である。「僕」という言葉には「しもべ」という意味があるように「しもべとなって公衆(市民)につくす」のが市会議員―公務員であって、もともとエライ存在ではない。そんなことをいっても、仕事の性質上権力を手にするから自戒も込めて「しもべ」意識を公務員に植え付ける意味合いもあって「公僕」ということばができたに違いない。ところが我国では公務員なり官僚なり議員という存在は、明治以来「権力者」でありつづけ、市民は「お上にやってもらう」気持ちが強く自主独立の精神が欠乏していたから、公務員は「イバリ」つづけてきた。その弊がいまでも根強く残っているから本当の『市民社会』が出来ないでいる。
 
 本来公務員は「公僕」であらねばならず、新渡戸稲造のいう「金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事」でなければならない職務である。何度も引用したがもう一度彼の『武士道』の一節を引いてみよう。
 あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。(略)価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。(略)蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。(略)量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。(略)自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである。
 価値を金銭で量定できない職務、ということは、給料以上の仕事をやり権力も持っている、ともいえる。給料の何倍もの予算を執行できるのだから、法律から逸脱しない「公正」と「正義」が求められる仕事でもある。その公務員の不正が蔓延している、一般公務員も、市議県議も、国会議員さえも不正を重ねている。
 
 生活保護費はそもそもはマーサのいう「施しじゃないさ、アニー。あんたを認めているって証拠だよ。あんたの仕事ぶりに感心してた人」に支給されるものだった。怪我や病気で仕事が出来なくなった人に再起するまでの生活資料を手当てするために、一生懸命働いても世間並みの生活ができない人にその不足分を補うために、生活保護費はあったのだと思う。現在では高齢で仕事が出来なくなって年金が少なくてその不足を補充する「高齢者生活保護費」も多くなってきている。以前は「施しなんかほしくない。要らないよ」という気概をもった人が少なくなかったが今はどうなのだろうか。
 
 「幸せなの?」「いいや、幸せじゃないよ。だけど最近ずっと幸せについて考えてて、こう思うようになってきたんだ。幸せじゃないのは恥でも何でもないって。いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」
 これも『人生の真実』のことばだが、どうも我々は「いつも幸せでありたい」と思いすぎているのではないだろうか。そしてそれがややもすれば「物質的なもの」に偏った「幸せ」であるように思える。幸いわが京都市には僅かな負担で「敬老乗車券」がいただけるようになっている。朝、手作りの弁当と水筒を持って出かけ、半日バスを乗り継いで植物園と美術館へ行って帰ってきても一円も要らない。十分に歩いたから夕食も美味しくいただけて適当な疲労でグッスリと眠れる。年老いた夫婦ふたりの「優雅な一日」ではないか。帰りに図書館で好きな本を借りておけば数日は読書を楽しめる。近くの公園の植栽で季節の移ろいを楽しむのも好し、桂川の土手に座ってぼんやりと雲の流れに目を遊ばせるのもまた好し。こんな時間に急かれない楽しみは年を食わねば味わえない。
 
 「いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」。このことばがお気に入りの最近である。