2010年8月30日月曜日

民主党二つの大罪

 急激な円高と株安で日本経済が翻弄されている。メディアとの重複を避けて殆んど指摘されていない視点から考えてみたい。

 第一は日銀総裁が白川方明氏であることの弊害である。彼は日銀の生え抜きで51年ぶり二人目の50歳代の総裁というエリートである。彼は最初副総裁として選任された。ところが総裁候補と目されていた人物が「国会同意人事」で民主党の強力な反対にあい紆余曲折をへて白川総裁が誕生してしまった。彼は金融政策を語り出すと止まらないほどの学識があり、日銀の仕事は面白いと語る根っからの日銀マンである。しかしというかそれ故に、彼に最も相応しい地位は総裁ではなく副総裁であると人事当局は考えたのであろう。
 デフレは貨幣的現象ではなく日本の低生産性が原因であるという白川総裁の基本認識は経済学的には正しいであろう。それ故に日銀は長期国債の買いオペなどの「非伝統的金融政策」に極めて消極的にならざるをえなかったのだが、その結果金融緩和への立ち遅れとなり円高・株安を招いてしまった。これに対して米国のバーナンキFRB議長はFOMCの反対を押し切って金融緩和の追加措置を決めドル安容認を市場に訴えた。白川氏にはこうした市場との対話力、発信力或いは腕力の無さが総裁として力不足とみられたのだろう。
 民主党は日銀総裁が日本経済にとってこれほど影響力のある重要な存在とは考えていなかった、だから白川氏が総裁であっても問題ないという認識であったのだろう。
 これが今となってはボディーブローのように日本経済の運営に悪い影響を及ぼしている。

 民主党の第二の大罪は国家戦略局構想を破棄したことにある。小泉内閣当時の経済財政諮問会議が経済運営に有効に機能したのにならい、それを超えるものとして内閣の重要政策に関する基本的な方針等の企画、立案するものとして構想されていた。ところがこの構想を破棄してしまったために、今の民主党には『頭脳』がなく政府として機能不全に陥っている。政権担当能力のない無能な政府と侮られても当然で、学者肌の日銀総裁とのコンビでは野獣の如き世界市場に翻弄されるのも無理はない。
 
政治は既に民主政治の実現と経済先進国へのキャッチアップというような単純な使命と情熱だけの前時代的政治家では機能しない複雑系の次元に至っている。経財諮問会議や国家戦略局の必要とされる所以である。

2010年8月23日月曜日

白鳥の妻

 俳人の森澄雄さんが亡くなった。余りにもポピュラーだが「除夜の妻/白鳥のごと/湯浴(ゆあ)みおり」が好きだった。ご冥福をお祈りする。

 その訃報を報じた同じ新聞の片隅にこんな記事があった。「手押し車を押していた85才の女性を無職の68歳の女性が突き飛ばし約2300円の入った手提げ袋を奪った」というものだが暗澹たる気持ちにさせられた。老いたものが更に老いた弱い者を虐げるという構図は最近問題視されている「高齢者の所在不明事件」と通じるものがある。一体この国はどうなってしまったのだろうか。

 最近「何もかも/無かった時代/情けあり」という川柳を読んだ。上の森さんの俳句にもこんな背景がある。昭和29年教師として厳しい生活にあった森さんは武蔵野の片隅の板敷き6畳一間に親子5人で暮らしていた。忙しく1年を過ごした大晦日の夜、子ども達の寝静まったあと土間に据えてある風呂で湯を浴びている妻を「白鳥のごと」と言いとめた妻恋いの思いが貧しさを全く感じさせないロマンティックな句に仕立てている。

 戦後の貧しさを知っている我々から見れば今は豊かな時代と言える。それなのに飢餓感や焦燥感に苛まれるのは何故だろう。物質的には豊かだが精神的に貧しい時代と皆がステロタイプ的に言うが、そのような類型的な精神論でなく本質的に考えてみる必要があるのではないか。

 人間、生まれて育まれて生きていくのに必要なものはそんなに多くない。戦後の貧しい時余り不満を感じなかったのは皆が同じように貧しく貧しいなりに生きていけたからだと思う。ところが今、多くの物質に囲まれているのに満足感がないのは欲しいものがまだあるからだ。もっと多く持っている人、もっといいものを持っている人がいるからに違いない。
 今周囲にある物を『必要』を満たすものと『欲望』を満たすものに分類すれば殆んどが欲望を満たすものではないだろうか。自分の内から求めているのでなく、テレビやインターネットのCMをみて『欲しいと思わされているもの』で満ち溢れている。CMなどで煽られる欲望には限りが無いから満足する時がない。

 そんなものの合計が『GDP(国の豊かさを図るメジャー)』だとしたら『豊かさ』を追い求めることに距離を置いてみる時期を迎えているのかもしれない。

2010年8月17日火曜日

自動織機を打ち壊した日本

 先日中国の過剰設備廃棄の記事を見た。セメントなど18業種2087社に対して老朽化した生産設備を9月末までに廃棄するよう命じたもので、罰則が新規融資の差し止めや電力の供給停止等相当厳しい内容になっている。
 この記事を見て1960年代に行われた我国の繊維機械(紡績機械や自動織機など)の廃棄処分を思い出した。構造不況業種に指定された繊維産業が「繊維工業設備臨時措置法」に基づいて廃棄を命じられたもので、1台幾らかの処分費用が支給され強制的に実施させられた。当時生家が西陣で自動織機のメーカーを営んでいたのでハンマーで機械を打ち壊すテレビの映像を家族と共に口惜しい思いで眺めていた。強制的な生産設備の廃棄処分は1980年頃まで繰り返し実施され、成長期を過ぎた産業や過大な設備投資を行った産業の需給調整を国が産業政策として組織的に行い、対象産業は造船、鉄鋼(平電炉)、化学肥料、セメントなど多岐に亘った。

 我国は長期間デフレに陥って未だにその出口が見えない。3月に発表された法人企業統計によれば日本経済の「需給ギャップ」は昨年10~12月期にマイナス6・1%となり年約30兆円の需要不足の状態にあるという。デフレが語られる場合このように需要不足の側面が指摘されることが多いが供給面に問題はないのだろうか。
 
 米国勢調査局の研究によると、米国製造業の生産性の成長の半分以上が「事業所(工場や店舗)間における生産資源の再配分(参入・退出を含む)」によるものであると推計されている。日米を比較すると事業所レベルの参入・退出が日本で極端に少なく凡そ米国の半分より少し多い程度と考えられる。何故日本で生産資源の移動が少ないかについては金融市場の不完全性や労働市場での慣習・規制が非効率性の原因となっており『ゾンビ企業』が生き残る結果になっている。

 デフレの需要不足の側面が強調される余り供給面の検証が不十分なまま、規制緩和や構造改革を中途半端に中断し、郵政改革見直しに象徴されるような改革後退に繋がる動きさえ見られる昨今、かつて我国で行われた「設備廃棄」のようなドラスティックな産業政策への躊躇が非効率な資源配分を放置して需給ギャップを拡大していないか。

 このままでは自動織機を廃棄した先輩たちの涙が無駄になってしまう!

2010年8月11日水曜日

介護がかすがい

 先日の毎日新聞にこんな投稿があった。
 「(結婚と同時に同居して3世代で暮らしてきた主婦)(前略)義母は、地蔵盆がくれば百歳になる。20年前に脳梗塞を患い、介護が必要となった。3年前、夫が退職し、それ以来2人で介護をしている。夫と少々気まずい雰囲気になっても、介護を2人でするおかげで、和らぐ。昔、子どもがかすがい、今、義母がかすがいの日々である。百歳 万歳!」(奈良市/中村絹子/主婦・58歳(7月28日毎日新聞「女の気持ち」から)

 この主婦と同じような介護をしている知人がいる。西陣の古い町家に3世代同居で仲良くしっかりと生きてきた彼女は、数年前それまでカクシャクとしていた夫の両親が殆んど時期を同じにして寝たきり状態になった。当然介護は彼女の役割となったがとても一人でできるものではない。ちょうど定年を迎えた夫は再就職せず彼女と共に両親の介護をする道を選んだ。先日久し振りに電話すると「一人ではとても無理ですが夫と一緒に介護しています。だれでも通る道ですから」と元気であったのが嬉しかった。

 菅首相が「強い経済、強い財政、強い社会保障」を標榜している。高齢化が急速に進展する我国にとって社会保障をどうするかは極めて重要な問題である。しかし今ある社会保障は余りにも画一的過ぎるのではないか、偏り過ぎるのではないか、そんな気がしてならない。

 65歳以上の親と同居している世帯は決して少なくない。特に京都のように古い町や村にその傾向があり、施設の少ないこともあって同居の親族が親の介護をしている。ところがこうしたケースへの介護保険の恩恵は意外と少ない。例えば妻が介護のために訪問看護の資格(2級ホームヘルパー等)をとっても給付対象にならない。定年になった夫が介護のために再就職を断念しなければならない場合も援助はない。こうした例が介護疲れで悲しい結果に繋がる事件が多くあったが援助の体制が整備されたという話は聞かない。

 今ある制度の多くは東京の官僚が立案した。地方の特性や想定外の状況に対応できていないケースも少なくない。社会保障に係わる制度はそれでは困るので、一定期間経過後に必ず見直しを加えるべきだと思う。

 介護がかすがいになるような社会保障であって欲しい。