2014年12月29日月曜日

医者の妻

 いつも行く小さな市立図書館は入ってすぐの左に推薦図書のコーナーがありその前に「本をかえすところ」と「本をかりるところ」がある。先日荷風全集第13巻を返しに行ったとき予約してあった第7巻がまだ届いていなかったので手ぶらで帰るのもなんだからと思って推薦コーナーにあった『医者の妻(松籟社刊)』というタイトルの翻訳本を借りて帰った。ブライアン・ムーアという20世紀半ばから後半にかけて活躍した北アイルランドの作家ははじめてで、もし推薦コーナーに展示されていなかったら多分一生読むことはなかったに違いない。読んでみて、伊藤範子の訳の良かったせいもあって、一気に読ませる魅力に富んだ小説であった。読みはじめてストーリーに没入する前にアイルランド問題が日常の市民感覚として当たり前のように突きつけられて少々戸惑った。というのもほんの少し前「スコットランド独立の国民投票」があったばかりでありイギリスという国が同じ小さな島国でありながら我国とは異なって相当複雑な歴史的背景のある國だということを思い知らされたからである。
 
 アイルランドからパリへバカンスにきた30代後半の人妻が11歳年下のヤンキー青年と恋に落ちアメリカに逃避行を試みようとするが直前に思いを断ち「自由なひとり」として歩みだす、というストーリーである。医者の夫は「遠出」嫌いで不承不承パリ行きを同意させられるが何かと都合を持ち出して一緒に出発するのを避けた後もパリへ行くのを躊躇う。そうしたうちに快活で裏のないアメリカの若者と出逢った彼女はたちまち性の快楽に溺れ込んでしまう。気がつけば、夫との間に埋めることのできない間隙のあることを知った彼女は若者との軋轢のない新天地―アメリカでの再出発に心を揺らせる。贖罪を求めて神に告解しようとするが神父を前にして一歩進むことができず、結局神の赦しも得られぬままに、夫からも子どもからも解放されてひとり自由に生きていくことを選択する。
 告解できなかったのは神を信じていなかったからであり、すべてを無くして新しい世界へ向うのは神のない現代での愛のあり方を捜そうとする姿を表しているのだろうか。圧巻は一瞬を境に愛欲に溺れていく女の脆さと性の高揚の表現で迫力に満ちている。
 訳者の伊藤範子はあとがきにこう記している。「神を見失った人間はどのように生きたらいいのか。できることならば、もう一度神を手に入れたい。だがそれは不可能である。主人公たちははっきりと言う、『神を信じない』と」。「現代は、神なきこの世界に浮遊する存在、人間をつなぎとめるものとして、科学など神に代わるものをこしらえた。恋愛は純粋性において信仰の情熱に勝るとも劣らないが、心理学によると、恋愛は、偏屈な心が作り出した妄想の域を出ないようだ。愛すら心の偏向ということになるのか」。
 
 神を失った現代人の愛については伊藤整の「近代日本における『愛』の虚偽」というすぐれた評論がある。伊藤はここで「宗教心の働きのないところに愛を輸入して、実質的な言葉であった惚れるや恋うるに対置し、それによって男女の関係を虚偽のものとしたのである」と日本における愛の不在と虚偽を解明し「(このことが)近代日本文学における停滞と薄弱さとを生んでいるにちがいない」と結論づけている。加えて「信仰の衰退とともに、キリスト教徒の間でも、夫婦が愛で結びつくことがいかに不可能であるかという物語りが、特に二十世紀に入ってから、次々と書かれている。夫婦の結びつきは現実には主我的人間の攻守同盟的結びつきに外ならないのであり、貞潔の約束は強制と隷属に変化しており、そこで最も無視されるのは愛である」と欧米キリスト教国での愛の変貌を究明している。そして最後に「人間は未来の怖れという強制のないところにおいて良心的であり得ないのだ」と宗教の形骸化した現代へ警鐘を鳴らす。
 
 フラリと図書館で手に取った一冊の本との出会いがこんな豊かな経験を与えてくれる。自分が今必要としているものだけをピンポイントで所有する方向にばかり世の中が進んでいるが余分なものやB面の楽しさを受け容れる余裕があったらいいのに、とフト思った。
 
 今年のコラムはこれが最終回です。一年のご愛読感謝いたします。
よいお年をお迎え下さい。

2014年12月22日月曜日

選挙の見方

 選挙が終って「自民圧勝!」という文字が躍っている。しかしこれは余りに皮相な見方である。「自民マイナス4、公明プラス4」「共産プラス13大幅増」「沖縄自民全敗」の意味するところは大きい。
 
 
 自公でプラス・マイナス4、の意味は「自民の暴走に歯止めをかけられるのは野党ではなく、連立を組む公明しかない」というところにある。集団的自衛権や特定秘密保護法など自民の偏向は多くの国民の危惧するところである。本来なら今回の選挙で自民に強く反省を促さねばならないところだが、現状の野党でそれを託するに足る存在は認められない。その苦肉の策が「公明プラス4」である。安倍首相は今回の選挙で自民単独で絶対的安定多数が取れれば公明との連立を解消したいという下心がミエミエであった。しかしこの結果では選挙前よりよけい公明に頼らざるを得ない状況に追い込まれた。実に『賢明な選択』であった。
 共産プラス13、は国民の『苦渋の選択』である。「反自民」の受け皿がない今回の選挙。アベノミクスの負の面が相当明らかになってきたうえ集団的自衛権などの憲法改革志向が強い自民党内右傾集団がこれ以上勢力を持つことは戦後民主主義の否定に繋がるという危機感を持っている国民は決して少数派ではない。しかしこれだけ「重いテーマ」を党として取り組むだけの成熟した野党は残念ながら今は無い。そこで政権与党になる可能性は極めて低い、されど最も戦後民主主義を擁護する共産党に今回は『一時』託そう、そう考えた人が相当多かったのである。だから野党が今後4年間で集約を進め政権党としての体裁を整えることができれば次回の選挙で共産党が勢力維持する可能性は極めて低いだろう。しかし「共産党の躍進」は不勉強な野党にはある種の「恐怖」をを覚えさせたに相違ない。
 沖縄で自民全敗、の結果は自民党だけでなく又政党だけの問題としてではなく国民全員が「安全保障と基地の問題」を根本的に考え直す契機にしなければならないことを示唆している。東アジアと東・南シナ海の緊張にどのように取り組んでいくか、中韓ロだけでなく東アジア、東南アジア諸国連合を含めた広いアジア諸国と現状打破に関して「賢明な選択」をしなければならない今、従来の日米安全保障体制のみに拠りかかった固定的な安全保障の考え方ではとても乗り切ることはできない。もし選択を誤れば基地・沖縄は攻撃目標になる可能性も否定できないのだから、この選挙結果は「積極的な現状変更」を求めるものとして重く受け取める必要がある。沖縄の選択に日本国民としてどう向き合っていくか。沖縄市民の突きつけた意思表示は深刻である。
 
 こう考えてくると「自民圧勝!」などと簡単に論評できる結果でないことは明らかで、未成熟な政治状況の中で国民は『極めて賢明な選択』を行ったことに気づくべきである。
 
 さて「投票率」についてである。戦後最低の52.6%で「民主主義の危機」とマスコミは国民の覚醒を促している。しかし最も反省すべきは「政党」と「マスコミ」ではないのか。政権交替で政治の転換を容易に行える「小選挙区制」を実現したにもかかわらずそれに対応する政党(自民党を含めて)が『成熟』していない現状は国民から『選択肢』を剥奪し結果として『白紙委任』させてしまった。その責任が国民にあることは言うまでもないが、それ以上に国民と政党を媒介して「政治の成熟」を導く機能を担う『マスコミの怠慢』こそ最も糾弾されるべきであり、首相不在の中で「官邸主導」の選挙モードを誘導したのはマスコミであったし、『大義なし』と喧伝して政党―とりわけ政権与党から「説明責任と明確な選択肢の提示」を引き出せなかったのもマスコミである。これからの4年間、漂流する野党に「再編と成熟」を促す重要な責任をマスコミが負担することを自覚して欲しい。
 一方で現在検察が捜査中の「小渕優子」氏が圧倒的多数で当選するような「古いムラ社会」の形骸を一日も早く一掃する「選挙の近代化」も進められなければならない。都市では「地盤、看板、カバン」から解放された「無党派層」が選挙結果を左右する勢力になっている。地方でも選挙年齢の若年化に伴って「無党化」が進展するに違いない。そしてそれは一時的に「投票率の低下」に繋がるかもしれないがしかしそれは「望ましい選挙」へ進展するための過程として捉えるべきで悲観する必要はない。
 
 今回の選挙は国民の『絶妙で賢明』な選択であったと思う。
 
 

2014年12月15日月曜日

「読書ばなれ」を糺す

 青空文庫で「夏の花・原民喜著」を読んだ。最近良く利用する。青空文庫あおぞらぶんこ)は日本国内著作権が消滅した文学作品著作権は消滅していない著作権者が当該サイトにおいて閲覧を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館である。文学作品11230件社会科学関係660件哲学歴史関係783件他が公開されており夏目漱石は「坊ちゃん」「吾輩は猫である」などの名作は殆んど網羅されているし森鴎外、宮沢賢治は勿論のこと人気作家の新刊本を望まない限りそこそこ充実したラインナップで重宝している。
 「読書ばなれ」「活字ばなれ」がいわれて久しい。しかし電車や喫茶店で読書する若者は多いし、図書館へ行けば利用者で溢れている。「朝の読書運動」も盛んで小学生の読書量は相当伸びているようだ。漫画喫茶(ネットカフェ)も少なくないし町の喫茶店で漫画を売り物にしている店も結構多い。
 読書は決して廃っていないのではないか。こんな私の疑問に答えてくれる記事が日経「本の小径(26.12.7)」にあった。
 
 永江朗氏の『「本が売れない」というけれど』(ポプラ新書)を引用して次のようにまとめている。
 電子メディアの普及で雑誌が売れなくなり出版不況になって「読書ばなれ」が進んだという出版界の定説は、新聞社の世論調査や全国学校図書館協議会の調査で否定されている。新古本のブックオフの売上高は約800億円に達しインターネット書店アマゾンも成長著しい、公共図書館は昨年までの13年間に約600館も増えた。不況は出版社―取次―書店という旧来の新刊販売システムでのことで市民の読書ニーズは決して衰えていない、そうしたニーズに応える努力が必要で「目先のおカネほしさに新刊をジャブジャブ書店にばらまく」本の「多産多死」を見直し、読者を置き去りにしてきた近年の出版界の覚醒が望まれる。
 青空文庫に象徴されているように、本を「所有」することから「体験」するもの「(書かれている情報を)消費」することへ読書の形態が変わったとみるのが正しいのではないか。20年前には普通にあった「百科事典」や「文学全集」を仰々しく揃えた家庭を今や殆んど見なくなったことがその間の事情を如実に物語っているように思う。
 
 むしろ問題は読書傾向が他の商品と同じように「ピンポイント」になっていることではなかろうか。話題のベストセラーや「必読書」と呼ばれるもの、学校や有名人の推薦図書を無批判に乱読して満足いるように思う。若いうちはそれでも良いが、それから脱皮して「自分の視点=価値観」で選択した読書をしてほしい。そうでないと知識や情報が体系化できず単なる「もの知り」で終ってしまうから。
 
 本の楽しさのひとつは「書店(図書館)での偶然の出会い」にある。目当ての本を探しているうちたまたま目についた本をツイ買ってしまってそれが思いがけず面白かったり、図書館で目的の本の隣にあった本に興味を引かれ読んでみると同じテーマがまったく別の視点で書かれていて新発見をした、という経験が後になってしみじみその僥倖を有り難く思うことが多くあった。
 最近は時間の余裕ができて引用文献や参考図書にある書籍を読むことが多くなり、これまでとは比較にならないくらい興味が深まるのを感じる。知識の体系化が出来て物の見方に幅が出、本の知識に縛られない自分の切り口で考えを展開するようになった。
 コラムを書くようになって、書くために読むこともありそれが読書の楽しみを広げてくれた。また読んで書くことを促されたこともある。その繰り返しが「奔放」な読書と「自由」な視点を形づくってくれた。
 
 「読書の愉しみ」を継承していく環境を整えることが大人の責任であろう。
 

2014年12月8日月曜日

12月2日に思う

 1941(昭和16)年12月2日に生まれた。73歳になってこんなことを考えている。 
 
 経済学はアダム・スミスを父とし「国富論」を嚆矢として「見えざる手」によって市場が最適運用されると一般に考えられているがこれには重要な前提がある。産業革命後、キリスト教の倫理と「利潤」の相克を如何に調停するかが課題となったが、『利潤の私蔵を戒め追加投資(と分配)に利潤を転換』していくことを要諦として「利潤追求を資本主義経済の根本的動因」とすることが承認されるようになる。「見えざる手」が真実機能するのはこうした「了解事項の共有圏」においてであることが忘れられている。
 資本主義経済は「有限な資源の最適利用」を市場を通じて行う経済といえる。19世紀後半に有力なNation-state(国民国家)が成立し「資源獲得競争」が発生、20世紀初頭に競争が激化して第1次世界大戦を惹起した。戦争による国土の破壊は「不況」を齎し戦争と戦争の間は「軍備の備蓄」が国富を侵食して、「不況」を常態化するようになる。戦争も軍備備蓄も資源と資金の市場からの収奪であり不競争下の非効率の拡大が結果として「不況」を必然化する。ケインズの「不況の経済学」は「20世紀という戦争の世紀」の生んだ経済学であった。
 21世紀は「グローバル化」の時代でありNation-state(国民国家)『群』が「有限な資源」を必要とする結果これまでのように『限られた』有力国民国家の「無制限の資源利用」による「最適化=効率の追求」は不可能になる。市場機能を絶対とした資本主義自由経済は修正を迫られている。数年前の世界的金融危機に起因して世界的な「低成長時代」を迎えているが、先進国においては「格差の拡大」が「利潤の私蔵」を極大化すると共に「企業利潤の再投資と分配」が十分でないから成長力が低下するのであり、新興国は獲得資源と流入資金の不足が成長を制限している。
 宇沢弘文のいう「自然・インフラ・制度(教育・医療・金融)=社会的共通資本」の「市場メカニズムとの調整」を如何に実現するかがグローバル時代の資本主義の在り方に繋がるに違いない。
 
 我国の混迷は安倍首相の年末解散によってその極に達している。何故に斯くも無惨な世態を招来したのであろうか。思うにその淵源は明治維新にあり「近代化=西欧化」を無批判に受容れ追求してきたことにあるのではないか。そして先人は早くにそれを啓発している。
 「数え年八つの娘」の「わかる」とか「わからない」という発言が、聖書の意味が「わかる」ということにおいて、何の関係があるのだろうか。本来が、聖書は、聖書の意味は、「数え年八つの娘」には「わからない」ものである。「わからない」で当たり前である。(略)日本の「近代」とは、人間の基軸をいわば「数え年八つの娘」に置いた時代であったのではなかったろうか。(略)この決定的な誤りが、「近代」の誤りではなかったであろうか。(略)もはや現代においては人間そのものが、人間の中の「八つの娘」的部分と等しくなってしまいつつあるように思われるが、そしていったん、人間の基軸がこのようにずれてしまうと、とどまるところを知らず人間は限りなく幼稚化していき、それは風俗面において最もどぎつく現れてくることになるのである(新保祐司著「内村鑑三」より)。先進する西欧文明をその基底にある倫理や哲学を抜きにして摂取し拙速に追及してきたことを改悛すべきである。
 蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。然るに教育に於いて為される最善の仕事―則ち霊魂の啓発(僧侶の仕事を含む)は、具体的、把握的、量定的でない。量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった。従って通常厳正なる性行の人として清貧を誇り、手を以て労働するには余りに威厳を保ち、物乞ひするには余りに自尊心の強き師も、事実喜んで之を受けたのである。(新渡戸稲造著「武士道」より)。社会的共通資本の市場との調整、企業利潤の再投資の円滑化多様化と公正な分配を模索する必要がある。
 科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役だつように見た自然の姿が、すなわち科学の眼で見た自然の実態なのである(略)自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(中谷宇吉郎著「科学の方法」より)。使用済み核燃料の処理方法も廃炉技術も確立することなく原発を実用化したことや過剰な検査と投薬に依存する医療制度を齎したのは科学を盲信した酬いであろう。
 
 馬齢を重ねた老書生、73歳の妄言である。

2014年12月1日月曜日

生活者の景気感

 今年7~9月のGDPが4~6月のマイナス7.6%(年率)に続いてマイナス1.6%(年率)と2期連続マイナスになったために、消費税10%増税を来年10月から17年4月実施に18ヶ月先延ばしする政治判断を首相が行いそれに伴って衆議院を解散することになった。経済の専門家や政治家の多くは7~9月はプラスに、それも2%近いプラスになると予想していただけにショックは大きいとマスコミは伝えている。しかしこの専門家筋の予想にはいささか違和感を覚える。
 
 素朴なことだが発表になるGDPの成長率は3ヶ月毎の前3ヶ月分に対する増減率でありこれまでは3ヶ月の増減率の形で発表されるのが通常であって年率が表立って発表されることはまれであった。それが今回マスコミが主に年率で発表したのは何か意図があったのだろうか。単純に年率は3ヶ月の数字の4倍からマイナスのショック大げさに伝わるそのあたりに発表側(政府筋)の狙いがあったのだろうか。
 今年になってからのGDP成長率を3ヶ月の数字で見てみると次のようになっている。《1~3月》プラス1.6%(年率6.4%)《4~6月》マイナス1.9%(7.6%)《7~9月》マイナス0.4%(1.6%)と年率よりも随分緩やかな変化に感じられる。これを実額表示すると同じくプラス8兆5千6百億円、マイナス10兆3百億円マイナス2兆1千7百億円である。3月期は駆け込み需要によるものは明らかだし6月期はその反動であろうことも納得できる。そこで7~9月期のマイナス2兆1千7百億円マイナス0.4%をどうみるかである。
 マイナス幅が10兆円からマイナス2兆円にまで減少したという数字は市民の日常の購買行動から類推できる実感と程遠い数字で、企業活動が随分活発化し回復しているのだろうと思わせる。主婦目線からいえば8%の外税は相当衝撃感の強いものであり、しかも増税前298円(5%の消費税込み)のものがそのまま298円の本体価格にしたといった例が多くの商品で見られたから8%の消費税が掛けられる質的には消費税13%ではないのかというのが実際の感覚だった増税に慣れて萎縮した消費者心理が徐々に緩み、年末ボーナスが少しでもあれば来年から消費も少しプラスになるのではないか、そんなところが正直な市民感情。円高がプラスに働いて企業活動に良い影響が出れば10~12月期はプラス成長に転ずるかも知れないし、円高が過剰に亢進すればマイナス成長のままかもしれない。
 ちなみに内閣府の実施している「街角景気」は9月―消費税率引上げに伴う駆込み需要の反動減の影響も薄れつつある。ただし、先行きについては、エネルギー価格等の上昇への懸念等がみられる10月―景気は、このところ弱さがみられるが、緩やかな回復基調が続いている。先行きについては、エネルギー価格の上昇等による物価上昇への懸念等がみられるとまとめられている。
 
 海外メディアは「日本は景気後退期に入った」という見方がある一方「企業の予想外の在庫調整がなければ、わずかにプラス成長だった可能性」を指摘するものや「機械受注など他の経済指標で改善が見られる」という見方もある(2014.11.23日経「海外メディア」より)。
 消費関連統計の分析を見ると「小売業売上高は8月以降顕著な回復が見られる。また実質家計消費は8月まで横ばいの後、9月に持ち直しの動きがある」が「消費増税後の物価上昇幅が大きいため、この影響は来年3月まで残る」と結論している(2014.11.24日経「日本総研・湯元健治副理事長/ここに注目」より)。
 
 いずれにせよ、今回の解散騒ぎもそうであった、マスコミが首相官邸や政府筋の情報操作にいいように操られてお膳立てする例が目立って多くなっている。今回の解散は「大義がない」と批判するがそういう流れに世論をもっていったのはマスコミ自身である。安倍政権の強権姿勢に屈したのか、マスコミの矜持が試されている。
 ともあれ、解散時のテレビで「失職した議員さん…」という表現が使用され、「政治家」が「職業」であることに何の疑問も抱かれなくなってしまったことに「政治の劣化」を哀しみをもって実感した。