2013年7月29日月曜日

猟奇殺人事件

  猟奇殺人事件という言葉があった。「一般的に通常の殺人に比較して、常軌を逸している異常な殺人」として三面記事を賑わしていたが最近は死語扱いでほとんど使われない。しかし「呉・16歳女性集団リンチ殺人事件、八尾市61歳女性丸刈り全身打撲殺人事件、大阪元資産家姉妹衰弱孤独死事件」など最近の殺人事件や変死事件は皆「常軌を逸した異常な事件」ばかりであり「猟奇事件」でない殺人の方が珍しくなっている。『猟奇』が当たり前になった異常な時代が『今』なのだろうか。
 
 呉の事件はインターネットで繋がった「緩い友人」たちの事件らしく当事者の16歳女性同士以外は緊密な交際はなかったと報じられている。私はインターネット上での「付き合い」は原則として人間的なコミュニケーションとは捉えていない。写真や動画も用いられるが通常は短文―文字による意思の遣り取りで構成されているものであるからコミュニケーションとして成立するためには文字(書きことば)がコミュニケーションツールとして機能していることが前提となっている。しかし現在の日本語の書き言葉は非常に不完全なものである。日本語は感情生活を日本語[ヤマトコトバ]で書いて、知的生活をシナ語あるいは漢文で表現する体系になっている。つまり思考を論理的展開したり人間性の洞察について明晰・簡明に表現するためには漢語を使い漢文、漢文訓読体の文体で論理的な学問や政治の公的文章を書いてきたのだが、戦後漢字を著しく制限し漢文、漢文訓読体を国語から排除してしまったために自分の意思や感情を正確に相手に伝えるのが非常に困難な、不完全な書きことばのまま今日に至っている。書き言葉自体が不完全なものである上に「短文(50字~100字以下)」で相手に伝えようとするのだから土台無理な相談である。こうした致命的な欠陥があるにもかかわらずその遣り取りでコミュニケーションが成立すると勘違いしてツイッターやフェイスブック、LINEで友人として繋がっている積りでいる。限界を理解してその範囲内で「娯楽か軽い遊び」として利用すればまだ救われるが、政治家までもが有効なツールとして認識し政治的信条を訴える手段として活用するに至っては正気の沙汰とは思えない。
  メディアも真剣に警鐘を鳴らすべきではないか。

 八尾の事件は高齢者の孤独のもたらす病理的色彩が濃い。核家族化と地域コミュニケーションの劣化が進展した結果、低所得の高齢者は孤立する傾向が強い。年老いて他人から見離されるほど寂しいことはない。そんな心細い状態にいる老人に優しく声をかけてくれる同年輩の友人ができれば頼る気持ちはどうしても強くなる。頼った相手から金銭的な相談を持ちかけられたら何とかしようとつい無理をして借金をする。しかしいつまでも続くわけがないからタチの悪い金に手を出してしまうと暴力沙汰になることもあろう。
 この事件は決して特殊なケースでなくこのような事件はこれからいくらでもでてくることが予想される。もし持ち家の独居高齢者ならスキに乗じて押し掛け同居から金銭トラブルに発展することも可能性として十分考えられる。関係当局は今から真剣に対策を講じる必要がある。

 古来人間は孤独に真剣に向き合って友情をきづき、隣人愛、肉親愛を育て男女の愛に生きてきた。裏切られ傷ついてもそれを乗り越えて善い関係を求めてきた。50字や100字の遣り取りでそんな深い関係が構築できるはずもないことに気づくべきだ。そして高齢者を取り巻く「可能性の高い危険性」にはいち早く対策を講じて欲しい。

 孤独に向き合って、傷ついて、それでも人間が好きだ!といえる生き方をして欲しい。

2013年7月22日月曜日

母親の眼

 いじめによる生徒の自殺が頻発しているが気掛かりなのは「親の存在」が極めて希薄なことだ。報道後子供の名誉回復を願って懸命に努力する姿に心打たれるのは勿論だがそこに至るまでの親や周りの人たちと彼や彼女との交わりや接点がほとんど見えない。
 子供は親の眼、兄弟姉妹の眼から近所の眼、友人の眼に包まれて育ちやがて学校に入って先生の眼、学校の眼に評価されて成人していく。我々の子供の頃は親や近所の存在が学校と同等あるいはそれ以上に大きかったように記憶しているが現在の子供を見つめる眼は以前より少なく、しかも同じような眼になってきているように思うのは私だけだろうか。

 私の小学4年からの担任は女の先生で学校でたばかりの音楽が専攻の方だった。この先生がえらく私の音楽の才能を買ってくださりある時父親に「清英君にヴァイオリンを習わせてあげてくれませんか」と申し出ていただいたことがあった。これに対して父は「鍛冶屋の跡取りですからその必要はありません」とニベもなく断ってしまった。今にして思えばこの短い指ではとてもヴァイオリンの名手にはなれなかったろうから父親の判断は適切だったのだが、当時は残念でならなかった。
 母親も劇的な判断を下したことがあった。幼少の頃から病弱だったが学齢期近くになって小児結核を患った。たまたまペニシリンの日本解禁と重なって事なきを得たがそれで収まらず再発。今度はストレプトマイシンが開発されそれに助けられた。そんなことがあったから小学校に上がってからも体育は見学、運動会もお遊戯くらいしか参加できなかった。そんな虚弱体質の私に母は3年の夏からの水泳の授業に参加を命じたのだ。当然父や周りは反対したがとりわけ溺愛してくれていた祖母は猛反対だった。それまで祖母に口答えすらしたことのなかった母だがこの時ばかりは敢然と自説を通した。今の私の健康はこの水泳の授業から始まったと言っても過言ではないから母の決断は私にとって偉業であった。

 私の幼年期を例にとったが昔はどの家庭も似たようなものだったのではないか。父親はまだその頃残骸のあった「家」の論理を色濃く帯びた「父の威厳」を示し、母親はめったに我を見せなかったがここという時には「母性」を貫いたように思う。
 戦後これまでの歴史は「家の崩壊と核家族化の加速」であったから私の幼年期をそのまま当てはめることはできないが、父親の影響力は極度に衰えた。同時に母親の父親化も進行して結局子供にとって「母親の眼」が弱まったように感じる。そしてすべての眼が「学校の眼」に収斂しているのではないか。子供の可能性は多様であるにもかかわらず「価値基準の幅」が極めて狭いために進路が「単線化」してしまい、そのことが『子供の逃げ場』を奪い取り『究極の選択』に走らせるのではないか。

 「いい学校へ行っていい会社に入る」というモデルはもう通用しない。ダイバーシティー(多様性)が企業成長の要である、などとお題目としては叫ばれながら一向に「男性中心の社会システム」に変化の兆しが見られないし女性の能力は「活用」のレベルで停滞したままでとても協働までは進んでいない。今最も必要なのは「母親の眼」だと思う。『母親がシンボル化して示すのは、無条件の愛であり、私は愛されているのだという経験、しかも、私が素直で行儀がよく、役に立つからというのではなく、母親の子どもであり、母親の愛と庇護を必要としているからこそ愛されているのだという経験である。(フロム著「愛と性と母権制」より)』という功利や効率性とは別次元の眼差し=価値観が求められているのであり、そのことが取りも直さず社会の活性化につながるのだということに気づくべきである。

 学歴が母性を弱めたとすれば、皮肉なことである。

2013年7月15日月曜日

同時代性の共有

 ここしばらく「雇用」について考えている。労働市場の流動化、だとか自由な働き方の追求だとか言って「日本型雇用慣行」の見直しが進められ、また一方で大学の職業能力育成の向上や失業者や若年層の職業訓練の充実を公的機関で、という要請も強くなっている。
「いい学校へ行って、いい会社に就職して、豊かな老後を」というモデルが危うくなっている。いい会社に入って、年功序列で段々に給料が上がっていって、終身雇用の安定した中でローンを組んで持ち家を手に入れて、退職金でローンを清算して手元に残った僅かな蓄えと年金で老後を夫婦で楽しみたい、そんなモデルが否定される時代だ。
欧米先進国は景気対策として「解雇」で労働力を調整するが日本は残業代などを削減して給料を調整することでコスト削減を図り「雇用」は守る。こうした日本型雇用慣行がグローバル時代の世界的競争力を弱める結果につながっているといわれる。
雇用に関連する種々の論議が繰り返される中で、正規雇用が抑えられ非正規雇用が加速度的に増加して格差が拡大し「雇用者所得=サラリーマンの給料」は相当減少した。
終身雇用が否定され年功序列が崩れて成果主義に移行したという今、若者はどんな生涯設計を描いているのだろうか。企業の人材育成力が劣化したなかで個人のキャリア形成はどのように行なっていけばいいのだろうか。

日本型雇用慣行から欧米型の移動を前提とする流動化した労働市場への移行を当然のように社会の仕組みが変えられようとしているが、本当にそれでいいのだろうか。流動化雇用システムで最も成功している米国でも失業率は常時6%以上ある上に世界で最大の格差国である。企業の競争力は高まるかもしれないが個人にとって幸せと言えるだろうか。そんな疑問を皆が抱いているに違いない。『日本型雇用の真実・石水喜夫著(ちくま新書)』はそんな疑問に正面から取り組んだ労作であり私の疑問に見事に応えてくれた石水氏には『同時代性』を共有している同志のような親近感を感じた。この書を読めば、一方的に日本型雇用慣行を否定するのではなく、又競争力の劣化やデフレの長期化を雇用問題のみに求めるのではなく多面的に再検討する必要性があることが分かる。

我が国のデフレは20年の長きに亘って経済を蝕んできた。原因は複雑に錯綜しているがそのうちの一つに「イノベーション力の劣化」があるのではないか。ロボット型掃除機や羽なし扇風機など目新しい電化製品は日本製でないしそもそも情報化時代の基幹製品であるPCもスマホも外国発祥の製品である。
我が国の女性活用は世界の最低レベルにあることは繰り返し警告されてきたが一向に政治も企業も改革を実現しようとしない。労働力の減少が経済停滞の最大の原因と指摘されながら、世の中の半分を占めている「性」がほとんど生かされていない。男性中心のシステムが機能しなくなっているから我が国のイノベーション力が劣化しているのではないか。男性と女性が協働できる社会にならなければ日本は活性化しないのではないか。
そんな問題意識を持った私に「快楽としての読書[海外篇]・丸谷才一著(ちくま文庫)」は『愛と性と母権制・フロム著』を教えてくれた。フロムの「男女協働」の提案は今最も『同時代性』がある。

コラムを書いて今日で400回になる。2006年4月がスタートだから7年と少しになるがこの間多くの本を読んだ。書く事がこんなに読むことにつながっているとは思わなかった。読んで、書いて、見て、そしてまた書いて読んで。そんな繰り返しの中で『同時代性』を共有する多くの人に出会った。沈潜し熟考している優れた先人や同時代人に畏敬の念を抱く。
書く事が楽しくなっている。

2013年7月8日月曜日

成長戦略と女性

 アベノミクスの第三の矢―成長戦略の中心戦略として「女性の活用」を掲げている。しかしそれは少子高齢化による労働力不足を解決するための便法という色合いが濃い。そうではなくて現在の混沌とした状況を解決するためにはこれまでのような男性中心のシステムでは対応が不可能なのだという文明史的必然として受け止める必要がある。グローバル化した世界経済は先進国のデフレ傾向と新興国の成長鈍化に加えて地球温暖化の危機的状況という未知の領域に陥っているうえに日本経済のデフレ脱却も含めてイノベーション力の劣化は世界経済の活力再生は過去の延長線上にはないという発想の転換を迫られている。更に経済のグローバル化は国益の錯綜を招き世界の平和的均衡をさえ危うくしている。
 
 スイスの文化人類学者バハオーフェンは古代の最低次の段階と人間のこれまでの発達の最高段階たる父権制段階との中間に母権制社会があったと説いている。彼によれば歴史は前合理的な母性的世界から合理的な父権制的世界へと発展を遂げるが、しかし同時にそれは自由と平等からヒエラルキーと不平等へと至る歴史でもある、と述べている。父権制では、父親が法、理性、両親およびヒエラルキー的社会組織の原理の代表者として統治する。父権制的社会構造は支配機構の外的強制を最も効果的に補完し階級社会の安定のために有効に働く、幸福よりも義務に重きを置き権威に対する従順さを生み出すことによって社会を支える最も重要な支柱として機能してきた。義務の履行および成功が生活上の中心的な動因となり、幸福や生活の享受は副次的な役割しか果たしていない。このような態度は、最も強力な生産力の一つとなって巨大な経済的文化的成果を生み出した。
 しかし今、このような父権制社会が大きな曲折点を迎えている。

 では母性的なものの本質とは何か。胎児を育むうちに、女性は男性より早くみずからの自我の限界を超えて愛の配慮を他の存在に及ぼし、己の精神に備わる一切の創造力を異なる存在の養育や美化に発揮できるようになる。他者に対する愛、養育、責任意識、これが母親の創造するものである。母性的愛こそ、あらゆる愛とあらゆる利他主義が生まれるもととなる種子である。しかし、それだけではない。母性的愛を基礎として、普遍的人間主義が発達する。母親は子どもを愛する。だが、それは、子どもが子どもなるが故であって、子どもがあれこれの条件を満たしたり期待に応えたりするがゆえにではない。母親は子どもたちを分け隔てなく愛する。こうして子どもたちはお互いが同等であることを知るようになる。それは、子どもたちの中心的な絆が母親との絆だからである。子を産む母性だからこそ、あらゆる人間を兄弟姉妹とみなす普遍的な友愛意識が生まれる。母系中心的文化の根底にある原理は自由と平等、幸福と生の無条件的肯定にある。(以上はフロム著「愛と性と母権制」による)。

 父権による統御と資本の論理による文明は成長の限界を迎えているのではないか。考えてみれば世のなかの半数を占めるもうひとつの「性」の力が等しく生かされていない世界は持てる能力の半分を「死蔵」していることになる。「男性と女性の関係を本質的に対等な人間と人間の関係として捉え、男性と女性が各々の特性を認め合い互いに相手を支配することなく関係し合える状況に到達することを目標とするべきであり、父権制の原理と母権制の原理の特徴を究明して、この両方の原理の『総合化』によって人類の未来の可能性を託したい」というフロムの提言は、今最も傾聴すべきものではなかろうか。

 アベノミクスが単なる労働力の補完という皮相な観点で女性活用を行うなら成長戦略は必ず失敗するに違いない。

2013年7月1日月曜日

政治家の失言はなぜ多いか

 吉田茂の「バカヤロー解散」池田勇人の「貧乏人は麦を食え」など昔の政治家は『放言』をしたが今の政治家は『失言、問題発言』を繰り返している。彼我の差はどこにあるのか。もしボキャブラリー不足が原因なら教養の問題で政治家に求めるのは筋違いだが日本語教育に問題があったとすれば底が深い。今や政治家の95%は戦後教育で育った人たちであるから戦後の日本語教育と戦前までの教育にどんな違いがあるのか検討する価値がありそうだ。

 日本語(書きことば、以下同じ)の語彙体系は和語、漢語、外来語、混種語で成り立っている。明治期の代表的辞書「言海」のキ部を例に取ると和語454語、漢語635語、和漢熟語140語、外来語15語、混種語12語となっている。和語と漢語の言葉の働きはどのような分担になっているのか。
 日本人は、その感情生活を日本語[ヤマトコトバ]で書いて、知的生活をシナ語、あるいは漢文で表現してきた。つまり思考を論理的展開したり人間性の洞察について明晰・簡明に表現する語彙を漢語に頼って来た。例えばヤマトコトバで「みとめる(認)」は一つしか言葉がないところを、認知、認可、認定、認識と漢語は多様に区別できる。日本人はこれらの精細な意味区別をヤマトコトバで行う工夫をせずに、輸入品である漢語(つまり漢文)に頼って語彙を拡大し、精密化し、それを消化して使いこなしてきた。つまり和語だけの体系は精確な意味区別を一語としては把握し確立することができない体系なのだ。
 同様に文章においても和文系の文体と漢文、漢文訓読体の文体を使い分け、和文系の文体(今我々が一般に使っている文章もこの系統に連なるのだが)で優しい心、自然を感受する心、情意を表現し「古今集」以下の和歌集や「源氏物語」を代表とする物語を生み出した。一方漢文、漢文訓読体の文体では明晰、簡明を要する論理的な学問や政治の公的文章を書いてきた。つまりこの二つの文体が日本人の心をはたらかせる車の両輪として機能してきたことになる。
 しかし中国語と日本語の間にはアクセントを含めて母音や子音の発音に大きな差があったので同音で意味のちがう単語(同音異義語)や異音同意語が発生したがその煩雑さを「振り仮名・ルビ」を発明することで解消した。
 その他、漢字の訓(よ)みも多様であった。例えば「弔」は「とむらう、いたむ・あわれむ、つる・つるす」とあったが今では「とむらう」に限定されつつある。字体も今一般に使っている新字とは別に旧字体・源字(康煕字典体)があったし、字形も楷書、行書、草書などを使い分けていたのが今では楷書以外は特殊な場合を除いて使わなくなっている。
 
 このように多様であった日本語の体系が明治中期からの100年、特に戦後の言語政策によって「日本語の書き言葉の『揺ぎ・揺動fluctuation―豊富な選択肢』」を無くし一つの書き方へ収斂させようとする傾向が推進されてきた。漢字を極めて少数(2000字前後)に制限し字体と訓(よ)みを可能な限り一つに収斂するように図り振り仮名の使用を原則禁止した。最も問題なのは日本語の両輪であった論理的機能を担う「漢文、漢文訓読体」を日本語教育の体系から排除してしまったことであろう。

 政治とは国という組織を運用する義務を背負う行為である。そのためには現実を「じっと見つめて、手にとって集め、選び出し、言葉を選び、言葉の筋を立て、論理へ、理性へ、」と展開する必要がある。こうした作業を「ロゴス」と呼ぶから「政治はロゴスである」と言っていい。今の政治家には日本語の両輪であった論理機能担当の「漢文、漢文訓読体」を使いこなせず「言葉の筋を立て、論理へ」展開できないからロゴスが欠け失言が頻発、政治が機能しないのだ。
 政治に留まらず経済の停滞も企業家のロゴス欠落が原因ではないかと危惧している。
(本稿は大野晋著「日本語の教室」、今野真二著「百年前の日本語」を参考にしています)。