2023年12月25日月曜日

理念なき政治の末路

  昨今の安倍派の裏金疑惑を見ていると「盛者必衰、驕る者久しからず」という言葉の余りの符号に愕然としてしまいます。この事件の行く末を見通し沈没する船を早々と見限り派閥への忠誠心を放擲して保身に走る「小賢しい輩」がしたり顔にメディアに顔を曝していますが、その言い訳を国民が見抜けないとでも思っているのでしょうか。安倍派の議員、いや自民党議員は「政治資金規正法」を読んだことがあるのでしょうか。

 この法律は(略)政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように(略)政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。(略)政治資金の収受に当たつては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行わなければならない。

 こうした基本理念を肝に銘じるのが「政治家一年生」の心得であり覚悟の第一歩のはずですが、「安倍一強」を頼みに派閥に従属した多くの議員は「派閥の論理」を最高位の倫理として、国民に向かうのではなく派閥の親分の顔色を窺うのを議員活動の要諦としたのでありましょう。

 事件の顛末がどうなるか予想もつきませんが「国民感情」に沿った改革を施さなければ「政治不信」は一層拡大するにちがいありません。

 

 岸田さん肝いりの「異次元の少子化対策」として「児童手当の拡充」が目玉政策となっていますがその陰で「わが国税制の根幹」が蔑ろにされようとしています。高校生など(16才~18才)の扶養控除額を現行の38万円から25万円に引き下げようというのです。

 わが国所得税制度の最大の特徴のひとつが「源泉徴収制度」です。われわれは給料から税金や社会保険料が天引きされているのを当然のように受け入れていますが、実はこの制度は世界の少数派なのです。主流は「申告納税制度」で源泉徴収を採用している国はわが国以外ではインド、ドイツ、韓国などごくわずかです。源泉徴収制度は徴収側には都合のいい制度で、取りっぱぐれがありませんし税務署の役人の数を申告制度に比べて著しく少なくすることができます。手間はかかりますが、毎年家庭を維持するために必要な経費を収入から差し引いた残額を「課税所得」として税金が計算されるのが最も納税者の事情を反映した「公平」な制度のはずですが納税者はみな事情が異なりますから千差万別で事務作業が煩雑を極めます。納税者の納税手続きに要する手間と時間を考えると申告制度が必ずしも納税者のすべてが歓迎する制度とも言い切れません。そこで納税者の「標準型」を想定し各人をそれに当てはめて税を計算し給料の支払時に徴収する「源泉徴収制度」が取り入れられたのです。収入額別にクラス分けしクラス別の想定必要経費を差し引いて概算の「課税所得」を算定、そこから更に扶養家族や障害者、ひとり親、医療費、生命保険代など各人の事情を反映した経費を控除して最終的な「課税所得」を算定しそれに所得別の税率を掛けて「税額」を算定する制度です。国民一人ひとりの事情を可能な限り反映できる「経費」を標準化して所得から差し引き「課税所得」を算定する制度ですからこの「所得控除」は「源泉徴収制度」の『肝』になります。

 ところが今回の「児童手当」の高校生までの拡充(月額1万円)するにともなって扶養控除を現行の38万円から25万円に引き下げようとしているのです。扶養控除は義務教育を終えて高校、大学に進学する子どもがほとんど100%近くになって学費などの負担が全家庭共通になったのに応じて高校生は38万円大学生は63万円を必要経費として認めようとしたものです。38万円といえば月3万円ちょっと、微妙な金額で国民の納得できるかどうかのギリギリの設定ですが決まったものは仕方ないからシブシブ納得しているのが現状です。

 税制の根幹である「所得税」の「源泉徴収制度」が国民の納得を得るために設定された「所得控除」を変更するためには、所得(給料)を得るため、生計を維持するための事情に根本的な変更があった場合にのみ認められるのが本道で、たとえば「ひとり親控除」は2020年(令和2年)に創設されたもので世間の事情が無視できない状況に至ったのを反映したものです。高校生にかかる費用にまったく変更がないのですから必要経費を減額する事情はどこにも存在していません。児童手当の支給は別次元の問題です。政治家や厚労省の役人は収入全体で見れば増額になるのだから扶養控除を13万円ばかり削ってもいいじゃないか、という大ざっぱな考えでいるのでしょうがそれは「原理原則」を無視したもので『理念』を重んじる気配は微塵もありません。

 

 同様なことは「第3子以降の大学無償化」制度にも言えます。「異次元の少子化対策」の一環として創設されようとしていますが「的外れ」もはなはだしい施策です。この制度があるから結婚しようと思う男女は絶無でしょうし、第3子を考えようという夫婦も稀なケースでしょう。それよりも晩婚化が進んで結婚年齢が30才前後になった今、せいぜい子どもふたりが限界の夫婦がほとんどですから彼らにとってはまったく無用の制度です。

 

 とにかく今の政治には「理念」がなく目先の「選挙」に有利に働くかどうかが判断基準になっていますから、根本的な改革よりは「やっている感」が演出できればそれでいいのです。上の二策もしかりで選挙対策のために打ち出した「増税めがね」の「減税」「子育て」対策以外の何ものでもありません。一方目を転じれば戦争がウクライナとガザで戦われており地球温暖化は待ったなしですし、わが国の少子高齢化は厳しい状況に至っています。「理念」なしでは解決の道筋を見つけることはできない状況です。

 「指導者」の出現が待たれます。

 

 今年もこれで最後のコラムになります。82才は体力の衰えを痛感させられた一年でした。もし初孫がいなかったらここまで頑張れたかどうか。晩年に至ってこんな嬉しいプレゼントを与えていただいた神仏に感謝せずにはいられません。

 どうか皆さま、良いお年をお迎えください。

   

 

 

 

 

 

2023年12月18日月曜日

時事雑感

   パー券のノルマ、売上高、キックバック。これ、キャバクラの話ではありません、政治の話なのです。こうした言葉が政治の世界で平気に使われることが今の政治状況を赤裸々に表しているのではないでしょうか。政治が風俗業と同レベルに堕しているということです(キャバクラで懸命に働いているみなさん、ごめんなさい)。政治家がこうした言葉を使っているとしたら彼らは自分をそう見られても何ら恥じることがないのだろうし、彼らにそうした表現を当てはめているメディアは政治家をその程度のものと見下しているからに他なりません。

 驚いたことは安倍派の権力構造――重要ポストを構成している力関係が見事に「パーティー券売上高」に『比例』していることです。1千万円以上のキックバックを受けている連中が重要閣僚と政務三役についているのですからそれ以外には考えられません。いつからそうなったのかは分かりませんが、少なくとも安倍さんは彼ら(と近い人たち)を重用していました。憲政史上最長を誇った「安倍一強」の実態が「パーティー券売上高競争政権」だったとしたら何とも情けない話です。

 

 この騒動をいかに収拾するかについて「安倍派一掃」案が浮上して岸田さんにその覚悟があるかが問われていますが、一方でそれじゃ見せしめじゃないかという反論が安倍派からも他派からも、そして識者の一部からも出ていますが、みせしめて当然なのではありませんか。安倍派が「パーティー券売上力権力構造」になっていることは派内の誰もが承知していて誰ひとり反旗を翻すこともなくその組織に自ら望んで所属していたのですから売上高の多少にかかわらず同罪だと思うのですがおかしいでしょうか。

 政治家の皆さんは10年前(平成25年)「いじめ防止対策推進法」を制定しました。そのなかにこんな条文があります。

 「いじめの防止等のための対策は、全ての児童等がいじめを行わず、及び他の児童等に対して行われるいじめを認識しながらこれを放置することがないようにするため(基本理念)」(略)いじめの防止等のための対策は(略)行われなければならない。

 この条文はいじめをする子どもも見ていながら、知っていながら見逃す子どもも同じように「いじめをしている」とみなして対策を講じるとしているのです。この伝でいけば安倍派で多額の売上げを達成して1千万以上のキックバックを受けていた政治家も、集金力がなくてノルマ負けした政治家も同罪だということにならないでしょうか。

 子どもには「罪を見逃す罪」を説いておきながらおとなは、それも国家公務員特別職の政治家さんは知らんぷりするというのはいかがなものでしょうか。

 

 部員が大麻を使用したということで日大アメリカンフットボール部が廃部になろうとしていますが、これに抗議や廃部取り止めを歎願しているひとがいますがどうなのでしょうか。

 日大アメフト部廃部というと2009年の近大ボクシン部の廃部を思い出します。元ボクシング部員が通行人を相次いで襲い現金を奪うなどした事件で、元部員人が逮捕。現金やキャッシュカードを奪うなど16、17件の強盗致傷や恐喝などの事件に関与していたとして2人は退学処分となりボクシング部が廃部になった事件です。同部はその後OBの赤井英和さんらの尽力によって3年後復活していますが近大ボクシング部は大学日本一に11度も輝いた名門でした。

 大麻使用は大麻取締法違反の罪に問われることになりますが強盗致傷、恐喝とどちらが重罪かは判断しかねます。近大は2人だったのに比べて日大は今のところ3名が逮捕されていますが今後10人以上に逮捕者が増える可能性も高いと言われています。問題はアメフト部の寮が犯罪の現場であったことと逮捕されている現役部員だけでなく卒業生にも大麻法違反者がいたことでひょっとしたら何年も前から、アメフト部ぐるみであったかもしれません(部員全員ではなく上級生の一部が長年にわたって組織的に行なっていたことも含めて)。

 ボクシングとアメフトという競技のイメージがあるのは否めませんが、近大のボクシング部が廃部当然と見るなら日大アメフト部も廃部になって当然ではないでしょうか。時代の趨勢として現在の麻薬に対する罪罰感は厳罰化しています。その違反者が同一の部から10人以上も出る(可能性)としたらこれは相当反社会性は強いのではないでしょうか。加えて責任者の副理事長が証拠隠滅めいた行動もとっていますし数年前には「悪質タックル事件」もありました。廃部当然ではないでしょうか。

 歴史ある日大アメフト部ですからアメフト界にとっては痛手でしょうし、OBのみなさんにとっては悔やんでも悔やみきれないでしょうから赤井さんのように身を切って再建を目ざす人も出てくるにちがいありません。たとえ廃部になっても日大を上げて、現役、OB、保護者及び関係者の熱意で早期に復活することでありましょう。

 

 この問題でメディアも全く触れていない問題があります。「田中元理事長」の存在です。元理事長の影響力は日大大学競技スポーツ部全般にわたって強力だったはずです。理事長は退任しましたが彼の影響力は完全に排除されたのでしょうか。スポーツ界は上下関係(現役、OB、競技界)が厳しく、コーチ・監督の指導力と政治力(スポーツ界のヒエラルキー)の影響が強いといわれています。そうした状況を考えると田中さんは形の上で理事長職は辞したとしてもその影響下にあるコーチや監督が多く残っているのではないでしょうか。今回の騒動でアメフト部の監督・コーチがまったく表に出てこないのは異常です。メディアがなぜ切り込まないのか不思議です。

 

 ところで林真理子さんにわれわれは何を期待したのでしょうか。そして日大の関係者は何を期待してどんなバックアップで迎えたのでしょうか。今の彼女は哀れで醜悪です。残念至極です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年12月11日月曜日

もし今が幕末だったら

  今年は幕末ものを何冊か読みました。たとえば川路聖謨(かわじとしあきら)を描いた吉村昭の『落日の宴』(講談社文庫)や最近なら阿部正弘の『群青のとき』(今井絵美子著角川文庫)など。なぜ幕末に興味が湧くかを考えてみると歴史の大変革期だからではではないでしょうか。幕末は「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)」と庶民が落首したように、250年の鎖国の間に産業革命を経て圧倒的な経済力を蓄えた欧米列強の軍事力に開国を迫られた「外圧による政治制度の大変革期」。今はやっと欧米先進国に追いつけ追い越せたと思ったら国際情勢が溶解して国際新秩序を求める混沌の時代となった世界の大変革期のなかでわが国をどのような国家に改造すべきか「模索の大変革期」です。どちらも既存の社会制度の大変革期であることは共通ですが、幕末には明らかなモデルが存在していたのに対して現在は新しい価値体系を創造しなければならないだけ乗り越える困難さは断然現在の方がハードルは高いでしょう。それにしては現在の政治家、財界人のレベルに疑問符が付かないでしょうか。

 

 幕末の幕閣にとって「アヘン戦争」は強烈な脅迫意識であったにちがいありません。千年以上に亘って国の進むべきお手本としてきた「大中国帝国」がいとも易々と新興イギリスに征服されたのですから驚天動地と感じたにちがいありません。加えて国内は「尊王攘夷」の嵐が吹き荒れていましたから執政者はかじ取りに悩んだことでしょう。国力=軍事力の差は歴然でしたから戦火を交える選択肢はありません。しかし攘夷論者たちは「竹槍戦法」でも「玉砕覚悟」で主戦論を唱えるばかりです。いかに戦端を開かずに不利な条件を可能な限り少なく「和親条約」を締結できるか、それが彼ら幕閣の生命線でした。

 反して現在は無極化した国際情勢のなか米中ロの覇権闘争の狭間で確たる進路を見出せずに竦み脅えるばかりの自民党=岸田政権。断然たる列強が存在した幕末と覇権に陰りが見えるアメリカに盲従するばかりの現在。

 

 攘夷論の「夷」は欧米列強ですが現在の「夷」は中国でありロシア、そして北朝鮮になるでしょう。国是は幕末は祖法――国交断絶、鎖国政策だとしたら現在は憲法――九条と非核三原則が相当するのでしょうか。

戦争の脅威のなかで開国を迫られた幕末の執政者は「祖法とは国を護るための法、今、祖法を破るのが国の安全を護ることになる(『群青のとき』より)」と開国を選択しました。攘夷論者も開国派の執政者も「国を憂う心はひとつ。だが、憂うだけで、現実に目を向けないのであれば、真にわが国の未来を考えているとは思えない(『群青のとき』より)」と阿部正弘をはじめとした幕閣は開国を選択したのです。しかし国力の圧倒的差は如何ともし難く「日米和親条約」にせよ「日露和親条約」にせよ片務的不平等条約ならざるを得なかったのです。この国辱を晴らすために明治新政府は臥薪嘗胆、苦節50年――明治44年(1911)遂に条約改正を勝ち取ったのです。陸奥宗光、小村寿太郎たちの不屈の執念が明治政府の最重要外交課題を解決に導いたのです。

 第二次世界大戦に敗戦したわが国はその教訓を憲法九条に昇華させて「戦争放棄」と「非核武装」を国是としました。米ソ冷戦の緊張状態の高まりは日本政府に「日米安全保障条約」の締結という選択肢を取らざるを得ない状況に追い込みました。しかしこの条約も彼我の国力の差と軍事力を持たないという非対称性によって「日米地位協定」という不平等条約とならざるを得ませんでした。しかし1960年から早や60年以上経ちますが未だに改定の兆しもありません。最近もオスプレイの墜落事故がありましたがわが国の飛行停止要求は無視され事故調査権もわが国には無いのです。明治政府は不平等の解消を国辱を晴らすための最重要課題として取組みましたが戦後保守政権が不平等解消に真剣に取り組んだ形跡を認めることはできません。

 

 幕末政府で老中首座として執政した阿部伊勢守正弘は備後福山藩第七代藩主で25才で老中になり12年間首座として混沌期の幕末を戦争を回避しながら開国に導きました。彼の下で日ロ和親条約締結に尽力したのが川路聖謨です。アメリカが高圧的な脅迫外交を展開したのに比べてロシアのプチャーチンが終始紳士的な交渉姿勢を崩さなかったのは相手国でさえも魅了した川路の外交手腕に負うところが大きかったのです。この条約にある国境策定条文を精査すれば現在紛糾している日ロ国境問題に新たな展開があるのではないでしょうか。

 

 阿部正弘の出た備後福山藩は現在の広島県福山市周辺を領していましたから奇しくも岸田総理と同じ広島出身の日本国最高政治権力者になります。阿部正弘は混沌の幕末を破綻なく列強支配の国際情勢の中へ軟着陸することに成功しました。川路聖謨という優秀な外交官も存在しました。同じ広島出身である岸田総理は「新しい資本主義」という現在の混迷する国際世界を新秩序に導く可能性を感じさせるキャッチフレーズで登場しながら何ひとつ改変することなく、ただ既存政治勢力の「大棚ざらえ」政策で調整――ご機嫌を取りながら総理の座に執着するだけの「鵺(ぬえ)的存在」として日本政治史に汚点を残すことになりそうです、自民党政権最低の政権支持率で総裁交代したという。

 

 幕末の若い幕閣と現在の政治家を比較したとき、理念と矜持のあまりの差に愕然とするばかりです。勿論政治には権力闘争の側面は否定できません。しかし国と国民をあるべき方向に導く「理念」のない政治は単なる「政治ゴッコ」です。そして矜持のない政治家は権力の亡者に堕するばかりです。

 阿部正弘と川路聖謨。彼らに比肩しうる人材の出現が待たれます。

 

2023年12月4日月曜日

出版社よ、ガンバレ!

  今年ももう12月、早かったですね。齢のせいもありますがコロナの影響が大きかったのではないでしょうか。毎日単調な暮しの繰り返しであっという間に3年経って、その間に80才を超えて体力が衰えて、「自粛明け」といってももう以前に復することはできずにコロナ禍中と同じような毎日になってしまって1年が過ぎてしまったのです。

 私の今年のひとつのエポックは「くずし字」で百人一首を書きはじめたことです。『くずし字で「百人一首」を楽しむ』(中野三敏・角川学芸出版)をお手本に筆ペンで半紙(半切)に一日一首か二首手習いしています。この本は10年ほど前「書」――美術展に行ったときまったく読めなかった――が読めるようになりたいと思って買ったのですが二度読んでも覚えられなかったので本箱のホコリにまみれていました。今年改めて挑戦してみようと思い立ち、しかしただ読むだけでは同じことになるから書いて覚えてみようと計画しました。最初はメモに太字のボールペンで書いていたのですがスグどうせやるなら筆でやってみようと思いなおしやってみると、これがなかなかいいのです。感じが出るというか、字の運びがボールペンでは硬かったのが筆に変えてみると下手なりにお手本の流れを真似ることが出来たのです。

 一ヶ月も経たないうちにそこそこ恰好がつくようになり二周目に入った夏ころになると八割程度は読めるようになって字も、ただなぞるだけでなく自分なりに計画を立てて書くようになりました。三周目の今は「元字」――くずしの元となっている漢字を思いながら書くようにしています。元字は万葉集の頃には約四千字ありましたが平安中期の11世紀には約350字に集約され新古今集が編まれたころに120字にまとめられて江戸時代末まで、そして今でもその字がくずし字として残されています。仮名文字は46音ですからその3倍ある勘定になります。変化の経過を見るのも面白く、毎朝はじめに行なうこの修行は続けられるだけ長く、習慣にしていきたいと思っています。今は筆ペンですが来年は本物の筆にも挑戦して、半紙も一枚丸々使って気分よく、書を楽しむくらいになれば嬉しいのですが……。

 不思議なもので下手くそが恥ずかしくて金封の表書きは筆耕屋さんに頼むか――一昔前までは町の文具屋さんならどこでも書いてくれたのですが今やわが町には一軒になってしまいました(探せばもっとあるはずですが)――習字を習っていた娘に書いてもらっていたのですが今は下手なりに自分で書くようになりました。たまに気に入った漢詩があると書いてみることもあります。書くことが楽しくなってきたのです。

 

 改めて思うのですが「書く」という行為は人間の営みの奥底にある記憶や学びに深く影響していると思います。何回も覚えようとして果たせなかったくずし字が書くことによって短時日に覚えられるようになったのは「書く」ことの霊妙なる力によるのだと思います。よく作家が修行時代尊敬する作家の本を懸命に書き写して創作の基本を学んだと告白しています。他人の文章をただ写すことが何故小説家の基本的な訓練になるのか、書く行為が作家の思索の後追いとなって思いを文字化し思考の連続過程を再現するからではないでしょうか。口承であった呪文や歴史を文字で書くことで多くの人に伝える力を具えるようになった、文字のもつ不思議な力。これなくして人間の文化の継承と発展はなかったのです。文字を書くという行為に込められた人類の貴重な「知力」を捨て去ろうとしている今の「IT情報時代」に非常な危惧を感じています。百年といわず十年後にも人間の文化に重大な破綻が生じるのではないか。そんな危機感を抑えることが出来ません。

 

 ところで「古筆切(こひつぎれ)」というものをご存じでしょうか。昔裕福なおうちへ行くと立派な屏風があって金箔の生地のうえにくずし字で和歌の書かれた扇子の扇画が何枚か貼ってあるのを見たことがあると思いますがあれが古筆切です。扇形以外に半紙のものも多くありますが、平安時代から鎌倉時代にかけて主に和歌を書いた冊子や扇の断簡、断片を古筆切といいます。印刷機ができるまでは原本を「書写」して自分用の本にして読書したりお手本にしていましたから、たとえば「伊勢物語」は在原業平(?)の書いたものを何人もが書写していますから何百冊も伊勢物語の本が流通したはずで、そのうちで「名筆」と評価された何冊かが「――本」「××本」という形で後世に伝えられたのです。お茶が流行すると茶席に墨跡を掛ける様式ができて、最も貴重とされたのが有名古筆切を貼った掛け軸とされました。掛け軸以外に屏風もありますし立派なお屋敷の襖などにも古筆切は使われています。

 問題は元は書物ですから一冊の本が切れ切れに和歌一首ごとに切り離されることです。百人一首なら百首が最大百人に分有されることもありますからこれを復元するのは大変困難な作業になります。この複雑で面倒な作業が学問となったのが「古筆学」です。旧い筆跡の筆者、書写年代、内容などを明かにしてそれらを系統的に分類整理する学問が古筆学です。小松茂美は古筆学の泰斗ですが小松さんが大変な偉業を成し遂げたのです。

 

 『古筆学大成』全30巻がそれです。価格はなんと180万円、1巻6万円です。古今和歌集から新古今集、万葉集などの和歌集と和漢朗詠集、歌合せ、漢籍、仏書そして論文も含む30巻です。膨大な古筆切を収集して一巻に仕立てるだけでも目のくらむような作業量ですからもし古今和歌集を完成させるとなれば大変な苦労になります。それを30巻ですから想像を絶する作業です。勿論何人いや何十人というスタッフのもと各地に協力者があってできたことですが、どのように情報網を築いたのか、一枚あったという連絡があれば飛んでいって写真を撮る、四国だろうが東北の山深い里の元村長さんの宅に定家の和歌が一首あったとなればそこへ行かなければならないのですから並大抵の苦労ではありません。膨大なな時間と人員が要ったはずですがそれを組織して統率して、継続しつづけた小松さんは「凄い!」人です。

 しかしその小松さんを、夢物語のような起案の段階から完成まで30年近く抱えて湯水のごとく費用を賄いつづけた「講談社」という出版社の懐の深さには驚きを禁じ得ません。そしてそれ以上に日本文化への深い造詣と出版という形で後世に伝えなければならないという「使命感」は、出版業という「文化的事業・企業」の究極のあり方を示してくれているではありませんか。

 

 ネット時代になってスマホ隆盛となりSNS全盛の時代になって、「紙媒体」――「本」という形は絶滅危惧種のように見なされていますが、『古筆学大成』のような「情報態」は紙媒体でないと実現できません。そして講談社のような歴史と財政的基盤を具えた企業が必要です。

 

 スマホは便利です。しかし文化の創造と伝承のためには「出版業」は不可欠です。苦難の時代ですが、講談社ガンバレ!出版業のみなさん、ガンバッて下さい。

 

 

 

2023年11月27日月曜日

持て余す長寿

  今年は四年ぶりという再会が幾つかありました。「コロナ自粛明け」をキッカケに待ちかねた飲み会を解禁したのです。コロナを挟んで80才を超えた連中が多かったのですが思った以上に顔色が良かったので安心しました。しかし考えてみれば無理やり規則正しい生活を強いられそれなりに栄養のある食事をしていたのですからそうあっても不思議はないのです。話すうちに肝臓やら腎臓やら咽喉だったりを悪くしたり手術したりしていて、なかでもペースメーカーを3つ入れたのがいたのには驚かされました。80才を境に身体が変わるといいますから、それにコロナが加わったのですから仕方ないのかもしれません。 

 呑んで会話がすすむうちに一様に長寿を持て余しているように感じました。無理もないのです、我々世代は終戦直後「人生僅か五十年、うまくいってもあと十年」で育ったのですから。それがあれよあれよという間に平均寿命が60才から70才、そしてついに2010年ころに80才を超え(男性)今や「人生百年時代」を迎えているのです。だから「多病息災」ながらもまあまあの健康状態で飯を食ったり酒を吞む会に出てこられるのに途惑いを覚えているのです。

 30代で平均寿命が70才になり50代で75才になって、60才の定年になったあとの老後が15年もあるのだと思ってもあまり現実感はなく、それが60才の一応定年を迎えるころになると75才が平均寿命になり、リタイアしなければならなくなった70才代になると80才を超えてしまったのです。そんなわけで私たち世代は生きているうちに老後が10年になったり15年になったり20年に増えたり、そしてとうとう40年(70才からなら30年)――「人生百年時代」になってしまったのです。

 丁度高度成長時代の真中を生きてきましたからとにかく「24時間、戦えますか?」で青壮時代を走り抜け、60才手前でようやく老後のことを考えて、まあ65才くらいまで嘱託で働いてそれからの老後の10年はのんびり「晴耕雨読」でたまに女房と旅行でもして暮らそうか。退職金もあるから家のローンは終わってるだろうし10年くらいの生活費は年金もあるから大丈夫だろう。そんな心づもりできて、気がつけば80才を超えてあと10年?15年?視力の衰えと根気がつづかなくなって本を読むのがつらくなってきて、ゴルフもコロナで止めてしまって、旅行は長距離はムリでせいぜい日帰り。テレビも見たいものが少なくなってたまの外食かショッピングが今の気晴らし。これが平均的なわれわれ世代の日常で折角手に入れた「長寿」も現実となってみればなかなか手強いものであった、というのが実感ではないでしょうか。

 

 今となっては人生をやり直すこともできませんが人生の見方を改める必要があります。

 「育ちと学び―被扶養」期(~20才)、「働く―稼ぐ」期(20才~65才、70才)、「遊び―使う」期(65才、70才~)。人生の区切りを3期にわけて、晩年をはっきりと「遊び」の時期と位置づけて20年なり30年を投入して実現できる「遊び」を準備しなければならなくなるでしょう。(「遊び」というのは「生活(人生)資金を稼ぐ労働」以外のすべてをいいます。)

 そしてまず「健康寿命の長期化」のために「健康診断」の幅を広げます。現在は内科的な検診が主体ですがQOL(クオリティライフ)を考えれば食事を自分の歯で一生楽しむための「歯科」、難聴はは認知症の原因になりますから「耳鼻咽喉科」、読書を生涯の楽しみにするために「眼科」、痒みと乾燥肌は高齢者の不快感の原因ですから「皮膚科」も。40代からはじめるべきでしょう。

 

 遊びについて最近気づいたことがあります。友人たちを見ているとそれなりの学歴と職歴を持っているのですが、彼らのもっともすぐれた「才能」が「勉強」だということを完全に忘れているのです。いや「勉強しか能のない」といってもいいのです。それが勉強以外に遊び(趣味)を求めて結局何もないことに愕然として晩年の過ごし方に途惑い持て余しているのです。「いい年をして今さら勉強なんて」というテレが邪魔しているのでしょうが、立花隆さんは堂々と「結局私は勉強が好きなんですね」と死ぬまで勉強しつづけたではありませんか。何を恥ずかしがっているのですか、それこそ「生涯学習」です。

 

 トーマス・モアが『ユートピア』(1516年)で余暇の過ごし方について傾聴すべき考えを述べています。

 余暇を知的に過ごす暮らしぶりを「幸福」の極致とみなし、精神の自由な活動と教養を培うことこそが余暇の有意義な活用法であり、人生の「幸福」は余暇の知的活用によりもたらされる、というのです。彼らの余暇はどのようにしてもたらされるかというと、奴隷を用いたのです。

 私たちはロボットとAIの活用によって今ある仕事の半分近くを自動化する可能性をもっています。そして「究極の技術革新」と呼ぶにふさわしい生成AIは、16世紀初頭にモアが創作した、生産労働から解放された人々が余暇の活用に「生き甲斐」を求めた「ユートピア」に私たちを導いてくれるかも知れません。(京都新聞「天眼――AIで『ユートピア』到来?」佐和隆光/より

 

 大学進学率は50%を超え(2020年)短大を加えると60%(58.1%)に迫っています。高学歴化は知的レベルを高めますからモアの理想郷を実現する土壌をつくります。芸術、文学、歴史、哲学、数学、自然科学などリベラルアーツへの関心を高める啓蒙を社会全体でつづければ人びとの晩年――余暇の過ごし方の変化を実現できるにちがいありません。

 

 われわれ世代が長寿がもたらしてくれた余暇を持て余しているのは「人生の見取り図」の描き方が寿命の延びに追いついていなかったことが大きく影響しています。趣味や遊びの考え方も狭くて固定観念に捉われていました。なにより健康への向き合い方が「短期的」すぎました。

 「人生百年時代」にふさわしい「幸福」な「晩年」をすごしたいと願うばかりです。

 

2023年11月20日月曜日

 鵺(ぬえ)

  岸田さんの支持率低迷に歯止めがかかりません。このままでは総裁退陣になる可能性も出てきました。

 岸田さんで忘れられないのは自衛隊の戦車に乗ったときの嬉しそうな顔です。ちょっと控え目な笑いですが、子どもが欲しかったものを買って貰った時に見せる抑えても抑えきれないあふれ出る笑み、そんな笑いでした。この人はこの日のために総理になったんだろうな、そんな気がしました。そしてそれは内閣が記念撮影する階段で身内を並べ立てて撮った写真で見せていたご子息の子供じみた得意顔と一脈通じるところがありました。世俗の頂点を極めた親の威光を我がことと錯覚して浮かれているやんちゃ坊主といった未熟な、幼い傲慢な顔と。

 

 岸田さんが「新しい資本主義」というキャッチフレーズで登場したときには大いに期待しました。なんといっても政策集団の宏池会――自民党のなかではどちらかといえばリベラル寄りの派閥ですから行き詰まった「グローバル新自由主義」を世界に先駆けて改革に導いてくれるのではないかという期待を抱いたのです。「分配重視」を打ち出したスタート時には期待は更に高まりました。それが半年も経たないうちに「資産倍増」に変わり「防衛三原則の改悪」「集団的自衛権にもとづく敵基地攻撃力の保持」さらに3.11の教訓から導き出された自然エネルギー重視の方向から「原子力発電の主源電力化」に至っては唖然とするばかりでした。

 結局岸田さんは「聞く力」を国民から「党内力学」に方向転換して「派閥別主力政策の大棚ざらえ」することで「総裁任期の長期化」を狙ったのです。とにかく総理の座にとどまりたい、そうした欲望をあからさまにしたのです。

 総理には二種類ある。「何かをやりたくてなる」総理と「何でもいいからなりたい」総理、と。政界のこの常識にしたがえば岸田さんは紛れもなくゴリゴリの後者です。ということは彼の頭にあるのは「選挙に勝つ」しかないのです。党内派閥の均衡の上にのって総理にありつづける、それしかないのです。

 

 保坂正康さんが首相のタイプ(戦争にどう向き合ったか)を4つに分けて昭和10年代の広田弘毅から鈴木貫太郎の9人の総理を分類しています(2023年11月14日京都新聞「現論」より)。

(1)状況に流されて眼前の強硬論しか考えない東条英機型

(2)哲学、思想はあるが、優柔不断に対応する近衛文麿型

(3)迂回しながらも政治的目標の完遂を目指す鈴木貫太郎型

(4)信念欠如、思想欠落の無気力型

 この中で1と4は最も歴史感覚のない総理で東条英機をはじめ広田、林銃十郎、平沼騏一郎、阿部信行、米内光正、小磯国昭をあげています。そして岸田さんを東条英機型に分類してその理由をこう述べています。

(1)自分と周囲の利害得失でしか物事を判断しない

(2)人事で有能の士を遠ざける

(3)大局より小事にこだわり、その実践を誇りとする

 要は状況をつくるのではなく、状況の流れの中でしか判断しないのである。(略)唐突な所得税減税論を見ていると、本質から遠いところで大衆人気を考えている構図にがくぜんとする。(略)今この首相に望むのは、果たせずとも対米開戦回避を目指した近衛型と、継続論を抑えポツダム宣言受諾に導いた鈴木型の長所を取り入れた首相像の確立である。

 

 保坂さんには申し訳ないですがもう岸田さんに期待をかける時期は過ぎてしまっているのではないでしょうか。世上云われるところの「青木法則」――内閣支持率と政党支持率の合計が50を下回ると首相退陣が近づくという見方によれば内閣21.3%政党19.1%を足した40.4%(時事通信11月調査による)は50より遥かに下ですからほとんどご臨終状態です。政務三役の相次ぐ不祥事にも打つ手なしですから浮上の可能性はゼロで、うがった見方をすれば岸田さんを見限った派閥がわざと脛に傷もつ連中を知って三役に送り込んだのではないかという可能性も否めません。

 

 鵺という架空の怪鳥がいます。顔がサル、胴体がタヌキ、四肢がトラ、尾はヘビなどとされる怪獣ですが、平安時代源頼政が退治した鵺を葬った塚が左京の岡崎公園にあったと伝えられています。その鵺にたとえて「鵺のような存在」という表現があります。ウィキペディアによれば、政治家などの人物であり「得体が知れない」「奇妙な」「底が知れない」「食わせ者だ」「薄気味の悪い」といった意味合いを含む表現と記されています。わざわざ「政治家などの人物」という注が付くように政治家によくいるノラリクラリと自分の意見を表わさずに時の権力者に阿って自分の地位をいかに保つかだけを願って政治家であり続ける人を指しているのです。まさに岸田さんにピッタリではないでしょうか。

 

 岸田さんが自慢する「聞く力」をもし「国民の声」に耳をかしておればこんなことにはならなかったでしょうが、結局彼は誰の声も聞いていなかったのではないでしょうか。

 

 

2023年11月13日月曜日

優勝パレード楽しませて!

  CF(クラウドファンディング)しようとHP(ホームページ)を開いて驚きました。主催者が――兵庫・大阪連携「阪神タイガース、オリックス・バッファローズ優勝記念パレード」~2025年大阪・関西万博500日前!~実行委員会――となっているのです。これは引きますね。「万博てなんやね!」って誰でも思いますよね。国立博物館のCF、目標1億円が僅か1日で目標達成、結局9億円近くまで膨れ上がったのを聞いていましたから優勝パレードなら5億円なんて1週間もかからないだろうと思っていたのが案に相違してまだ8千万円にも達していないのです。マスコミは「関西人はケチやからタダやったらなんぼでも行くやろうけどお金出してまで……」などと冷やかしていますが、断固反論します。

 吉村さん、責任者はあんたや。何で万博をからますんや!維新支持層でさえ万博反対が65%もいるんやで。何が「空飛ぶタクシーや」、誰が乗るねんそんなもん、どうせ金持ちが偉そうにエエかっこするだけやんか、誰も乗りたい思てへん。何が「いのち輝く未来社会のデザイン」やね。未来なんかどうでもええねん、あしたが食ていけへんのに。こっちは38年ぶりの日本一やさかい気ィ良う僅かでも寄付さしてもらおう思てるのに一ぺんに冷めてもうたは。言わせてもろたら「兵庫・大阪」て行政の名前かて出さんでええのちがうの。そら行政の手助けなかったら実行できひんの分かってる。そやけでそれは裏にしといて阪神とオリックスだけでええのんちがうの。それやったら関西2千万人大阪兵庫で1千4百万人が黙ってるはずがないがな。

 吉村はん、あんたに責任あるんや。もし5億円集まらなんだらどうしてくれんねん、又関西人恥かくやんか。どうしてくれんねん。

 

 今週は他にも言いたいことがいっぱいあるのです。竹中はん、嘘ついたらあかんがな!

 「パレスチナ西岸地区は正常なんです。問題はガザ地区なんです。ハマスはテロです、絶対に許してはいけません」。先週(11月5日)の10チャンネル「そこまで言って委員会NP」での発言です。イスラエルが西岸地区へ違法に入植していてそれが今や50万人を超えるまでになっているのです。パレスチナの人口が約550万人(パレスチナ難民総数約640万人)でうち西岸地区は約325万人と云われていますから15%を超えるまでに達しておりこれが大きな問題になっていて今回のハマス決起の原因ともいわれているのです。賢い竹中さんですからこうした事実を知らないはずがありません。何か意図をもっての発言だったのかも知れませんが許されることではありません。イスラエル・パレスチナ問題は非常に難解かつ繊細ですから単純に「ハマスはテロだから悪い」と云ってしまうことはできないのです。イスラエルの近年の莫大な軍備増強、これがパレスチナだけでなく近東、アラブの緊張を高めていてこれが引き金になっているという考え方もあるのです。イスラエルの独善ぶりは今回のアメリカの説得を一顧だにしない姿勢にも表れていますからこの紛争の終結は極めてナイーブなのです。

 

 この週の「――委員会」はいろいろ問題があって「神宮外苑再開発問題」も本質を離れて迷走していました。再開発に賛成か反対かという問いかけに「賛成」が大勢を占めたのですが、まともだったのは、この開発が神宮側の維持管理資金不足に端を発していてなおかつ現行法規では一宗教法人に公費の投入が禁じられているからというものでした。マスコミがこれほど騒ぎ立てても神宮の維持管理費が負担力を超えている問題点をきちんと説明している番組がほとんどなかったことは今のマスコミの劣化を表しています。

 しかしだからと云ってこの環境に超高層ビジネスビルや高級マンションを何棟も建てるという解決策はなんとも知恵のない官僚的発想――ありふれた従来型の新資本主義的発想すぎます。みなさんお好きなSDGs的に考えても問題ありでしょう。

 問題の本質は、先達が100年後を見すえて樹てた「理想」をやっと実現できた途端に『破壊』することが「政治倫理」として、「行政の継続性」として許されるのかということです。大隈重信や本多静六が百年後の国民に捧げようとした「神宮(東京)の森」――彼らの理想を後人のわれわれ世代が――そのほんの一握りの行政と利益至上主義の企業人たちに『破壊』する権利があるのかということなのです。そうした「哲学」を問題の中心に据えて欲しいのです。

 衆知を集めればもっと賢くて市民の納得を得る――お金を儲けたいだけの人たちが得をする方法でない施策が導けるはずです。

 

 もうひとつは「40人学級」についてです。竹中さんだけでなく橋下さんまで嘘をついて反対したのです。そういって悪ければ「偏った意見」をさもすべての面で正しいと主張したのです。天下の竹中さんと橋下さんが自信満々に統計まで持ち出して(経済)教育学の『常識』ですというのですから多くの一般市民は「そうなのか」と信じ込むに違いありません。おふたりは自分の影響力を考えて「まちがった、または、偏った意見」は慎重に発言してほしいものです。

 たしかに「知識の習得」効果という側面では少人数学級の有効性はそんなに大きくありません。橋下さんも云っていたように「能力別学級編成」の方が学力アップします(ただし下位にランクづけられた子どもたちへの悪影響は学力アップ以上に問題があるということで現在この説は有力でなくなっています)。おかしかったのはこの説を補強するために灘校が50人以上の学級編成であることを持ち出したことです。頭のいい2%か5%を問題にしているのではなくその他の、いやむしろ学力では下位に低迷している子どもたちをどうすれば「落ちこぼれの烙印」を捺されないで人生を送れるように学校を運営するかが「40人学級」の根本問題なのです。

 認知能力と非認知能力。知能検査で測れる認知能力に対して「自信、忍耐、自立、自制、協調、共感などの私たちの心の部分である能力」を非認知能力といいます。少人数学級はこの「非認知能力」を上げるためには不可欠なのです。不登校の子どもたちが3.5%を超えた今、ということは予備軍を入れればほとんど1割近い子どもたちが今の学校に『いや!否!』を突き付けているのですから現行の学校制度は根本的に見直すべき時期に至っています。学校改革で最も手を付けやすいのが「少人数学級」です。ほかにも「画一的なカリュキラム」「一斉授業」「国定教科書の採用義務」など改革しなければならない制度の綻びは枚挙にいとまありませんがその一歩が「少人数学級」の実現であることは論を俟ちません。

 

 などなどいろいろありましたがやっぱりいちばんは、気持ちよくパレードを見たい!ですね。

 

 

 

   

 

2023年11月6日月曜日

医者との付き合い方

  先週歯科の定期検診に行くと、悪いことですが虫歯ができてますね。神経に触りますから麻酔して治療しなければなりません。今日でもいいですが何日か後でもいいですよ。勿論1週間後にしてもらいました。でもどうして?という気持ちが強くありました。70才になってから歯と眼の定期検診をはじめました。別に強制されたわけでなく自主的に受診することにしたのです。

 さいわい歯は32本(永久歯28本と親知らず4本)とも自分の歯が健在で、国が推進している「8020(ハチマルニマル)運動」以上、一生自分の歯で食事をしたいと願ったからです。眼はいくつになっても読書を楽しみたいからで、60才を超えたあたりからあれだけ読書好きだった友人たちが眼と根気がつづくなったと云って読書離れしていくのを見ていて検診を受けることを決めました。歯科は定期的に歯垢を除去する習慣の人が多いので定期検診といっても不思議がられませんでしたが眼科の定期検診はめったにないようで爾来10年以上つづけてくると医師(せんせい)も大事にしてくれているようです。結果も良好で怪しかった濁点半濁点の見分けがつくようになったのは現状維持以上になった証しになるでしょう。

 という事情ですから、3ヶ月か4カ月に1回10年以上定期検診受けてきたのですから、それ以外にも痛みがあったり嚙合わせに異常があった場合は臨時に受診してきたのですから「虫歯」ができるのは納得がいかないのです。レントゲンも撮りましたから診断にまちがいはないのでしょうが私は不満でした。約1週間、歯磨きを入念に行いました。気づいたのですが虫歯になったところは歯ブラシの毛の届きにくいところで注意して入念に磨かないと磨き残しになる箇所なのです。試行錯誤して磨き方をみつけて手遅れかもしれないけれどもしつこいほど歯磨きして治療を受けました。

 

 痛みはありませんか。沁みませんか。ハイ。うーん、レントゲンは横から撮るからこの影は虫歯に映るけど、念のため削ってみましょうか。医師(せんせい)は「全部残っているから歯は残しておきたいですから」とガーガーと砥石をかけたりリムーバーで歯間をすいたり。「痛みませんか」ハイ。トントンと歯を叩いて「ひびきませんか」ハイ。じゃこれで詰め物をしておきましょう。今日はこれでいいでしょう。歯がV字にえぐれてカスが詰まっていたのかなあ。歯が残って良かったですね。

 良かった!麻酔も抜歯も免れた!

 私はこの医師を信頼してきました。一度抜歯寸前までいったことがあったのですがその時も歯を残すことにこだわってくれたのです。

 

 内科循環器の医師も信頼しています。今年5月の連休の間「肺炎」になったのですが点滴と抗生物質で10日間で完治してくれました。風邪の症状で自分としては高熱(37.9度)だったので心配を訴えるとスグに血液検査をしてくれて「肺炎」と診断して的確な治療をしてくれました。町の小医院に血液検査の器具(簡易型ですが)があるのは珍しいことだそうですが装備されていたのが幸運で、2日と6日がカレンダー通りの診療日だったこともあって点滴ができたことが功を奏して重篤化することなく10日で完治したのは本当に幸運でした。

 この医師とは初診のとき、60才から記録している「検圧検温体重表」を提出したことでたちまち信頼を得てそれ以外にも自分なりの症状の情報を伝えたことも好感を持ってくれたのかもしれません。

 

 皮膚科は年寄りの男性必須の診療科だと思っています。私が受診したのは60代半ばで「白斑症」に罹ったのがきっかけでしたがそれから継続して受診しているのは「QOL(クォリティ・オブ・ライフ)」のうえで皮膚科が重要だと気づいたからです。白斑症というのは一部の皮膚が白くなってしまう病気で、男性で高齢になると頭皮が白くなり毛髪が脱色して赤茶色になる人がよくいますが、病的でちょっと異常な感じを受けます。さっそく病院へ行ったのですが「治りにくい病気ですから根気よく治療していきましょう」と予防線を張られました。丁度初夏でしたので夏になるにしたがって日焼けして余計白さが目立って額との境目から上が異常に白くなり一気に病状が進行したように感じました。ところが秋になって日焼けが収まると境目がぼんやりとしてきて気のせいか白化がゆるくなったようにも見えました。それから約半年、根気よく薬を塗りつづけていると白化は止まって白さが減退したようにも見えます。医師(せんせい)に所感を求めると「そうやねぇちょっと治まったかな。白斑症でここまで症状が改善するのは珍しいですよ。お薬があなたに会ったのかなぁ。でも気長にいきましょう」。それから約15年、完治はしていませんが白化は徐々にですが良化しているようです。

 診断の過程で保湿力が極度に低下して皮膚の乾燥が異常に進行してかゆみ、カサカサ、ヒビ割れが全身を被うようになって保湿剤を全身に塗布、入浴剤を併用してかゆみに悩まされなくなり、カカトに重点的に保湿剤を塗ることで歩行時の痛みや異常さがなくなったのは良かったと思っています。

 耳鼻咽喉科は今のところ症状が出たときだけの受診で済ませています。

 

 毎日の体調チェック(検温、体重測定、週一の検圧)とルーティンのトレーニング。高血圧の定期的な検診。歯、眼、皮膚の定期検診と予防。少なからぬ治療費と薬剤費を利用していますがそのお陰で健康を維持して80才を超しても生活を楽しんでいます。大病を患えばいちどに50万円70万円という過大な医療費が必要となることを考えればその何分の一の医療費で収まっているのですから今の私の「身体ケア」は医療費の節約につながっているのではないでしょうか。何よりも良好な「QOL」は高齢化した今となっては貴重な成果です。

 

 医師との良好な関係を保つ。医師からの一方通行の治療と情報発信だけでなく、こちらからも情報を伝えて治療の効果を共有する。年寄りが長寿と健康年齢を享受するには「一病息災」――衰えを自覚して病と共存していく、面倒がらずに医師と良好な関係を保っていく。これが80年生きてきた「私の健康法」です。孫のためにもまだまだ寝込むわけにはいかないのです。

 

 

2023年10月30日月曜日

末法の世

  ロシアとウクライナのいつ果てるともない戦争、イスラエルとパレスチナのガザ地区での紛争、世界の至る場所で絶えることのない内紛や地域戦争、世界中で移住をつづける難民、北朝鮮の挑発的な核開発、アメリカと中国の軍拡競争。ベルリンの壁が崩れて冷戦が終結したとき(1991年12月)、世界に自由と民主主義の時代が来るであろうと『歴史の終わり』(フランシス・フクシマ)をよろこびました。しかしそれから30年、そんな楽観主義を嘲笑うかのように世界は混乱とカオスの様相を呈しています。

 

 昨年は『古今和歌集』を窪田空穂の手引きで読み込みました。今年は『古事記』を読む予定だったのですが、古今集を精読することで和歌というものが歴史書の歴史とは異なった位相から時代性を表現していることを知って西行の『山家集』を読んでみたくなったのです。『山家集』は勅撰集の『古今和歌集(905)』と『新古今和歌集(1205)』の間に位置する「私歌集」ですが古今集と新古今集の間にわが国に大変革が起こります。平安時代(794~1185)から鎌倉時代(1185~1333)の変化は公家社会から武士社会の変革という政治面の変化のみならず精神面では仏教の「末法の世」を迎えるのです(永承7年1052年)。加えてこの時期にわが国災害史上最大級の養和の大飢饉(1181)と寛喜の大飢饉(1230)が起こっていますから庶民の生活は「末法」そのものの悲惨な状態に陥いります。この間の惨状を描いた『国宝 餓鬼草紙』は庶民が飢餓に苦しむ姿がリアルに描かれています。政体の変更は支配者階級の交代ですから被支配階級に下落した層は悲惨を極めます、庶民は政権確立に必要な財政基盤確立のために徴税が強化されます、そのうえ大飢饉が襲うのですから精神の安寧を求める機運は当然高まりそこに「鎌倉仏教」が出現するのです。法然(1133~1212)日蓮(1222~1282)の出現は末法の世に待たれた存在だったのです。

 

 末法思想というのは釈迦の入滅後年代が経つにつれ釈迦の教えが廃れ悟りが開けず現世での救いが困難な時代が来るという思想で1000年後あるいは2000年後に来ると言われています。1000年後が永承7年(1052)にあたりその伝でいくと2000年後は2052年ということになります。今の混沌とした世界情勢はこのままいけばまちがいなく2050年ころ世界の大変換が起こるにちがいありません。まさに現在は「末法の世」へまっしぐらの時代になっているのです。

 

 佐藤義清(のりきよ、西行の俗名、1118~1190)は保延6年(1140)出家しますが、清盛(1118~1181)と同時期に北面武士として仕えていましたし待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)との悲恋も経験しました。清盛隆盛の対極に没落して人生の悲哀をなめる元支配層もあり彼らの多くは「出家遁世」の道をたどりました。しかしすべての人が都の花やかな生活から山里深い草庵生活に順応して平穏な精神生活に安住するとは限りませんから出家できずに逃げ出す人もあります。そんな事情を詠んだ歌が『山家集』には収められています。

 

 待賢門院は久安元年(1145)崩御しますがお仕えしていた多くの女房たちは先を争って「出家遁世」しました。これは当時の慣例で志あるものは出家することで救いの道に入れると信じていたのです。西行は出家したのちも宮廷の女官たちとの交流は途絶えなかったのですがなかでも待賢門院の女房との親しみは深く中納言局、堀川局、尾張局などが仏道に入りますがその間には西行の力添えはあったにちがいありません。堀川局の妹に兵衛局があり彼女も姉に従って仁和寺奥の山里に引籠ります。しかし俗世への未練が断ち切れずいくらも経たないうちに都に逃げ帰るのです(上西門院からのお誘いがあったのも影響しているかもしれません)。そんな事情を知らない西行が仁和寺の草庵へお見舞いにゆくと兵衛はすでに都へ帰った後でした。西行がそうした事情を兵衛局に書いて遣ると

 立ち寄りて柴の煙の哀れさをいかが思ひし冬の山里(兵衛)と歌が贈られてきます。 私の草庵へお立ち寄りいただいたそうですが、冬になっても柴を煙らすばかりの寂しい風情をどのようにご覧になりましたか。

 惜しからぬ身を捨てやらで経るほどに長き闇にやまた迷ひなん(兵衛) 捨て惜しむほどもない卑賤の身ですが、出家しないでそのまま在俗する内にまた欲が出て、迷妄の無明長夜の闇に入ってしまいそうです。

 これに応じて西行は

 山里に心は深く入りながら柴のけぶりの立ちかへりにし(西行)と返します。 出家されたと聞いてあなたの住まわれているであろう草庵を深い草を分け入りながら柴の煙の素晴らしさに私は心から深く共鳴いたしました。

 世を捨てぬ心のうちに闇こめて迷はんことは君ひとりかは(西行) 世を捨てられず出家の道にすすめず煩悩の闇が立ち込めて迷うのは、あなた一人だけではありません。誰しもそうなのです。

 さらに西行は思い悩む女房連を見ていたのでしょう、落ち込む兵衛になぐさめの書を届けます。あなたの親しかった女房たちもみな同じように悩んでおられるとお思いなさいと。

 兵衛の返し。

 なべてみな晴れせぬ闇の悲しさを君しるべせよ光見ゆやと(兵衛) 誰もが皆、悲しいことに晴れることのない心の闇に迷っています。どうぞあなたが道案内してください。悟りの光明が私たちにも見えますかどうか。

 西行の返し

 思ふともいかにしてかはしるべせん教ふる道に入らばこそあらめ(西行) 道案内しようと思ってもいったいどうしたらあなたたちを悟りの光明に導くことができましょうか。あなたたち自身が出家して仏の教える道に入る以外に道はないのですよ。

 

 同じ末法の世ですが11世紀には仏門に入るという救いの道がありました。しかし21世紀の今宗教は無力化しています。カオスからの脱却は至難の業です。私たちにその力はあるのでしょうか。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月23日月曜日

不登校の責任は誰に

 最近ときどき思うのですが、今の学校に入って私のこれまでのキャリア――同じ学歴や職歴を再現できる可能性はどれほどあるだろうかと考えたときほとんど実現不可能ではないかと思うのです。教科書の厚さが2倍は超えていますし教科書の数も増えています。修得しなければならない知識量は倍くらいになっているのではないでしょうか(イヤもっと多いかも)。われわれ時代の高校大学の進学率と現在を比較すると断然今の方が高くなっていますからそれだけでもハードルは上がっています(10%から50%以上に進学率が上がっておれば入学可能性は単純に5分の1に減少すると考えることもできます)。私がしていたような受験参考書をコナシてラジオの受験講座を併用する程度の受験勉強ではとても希望校進学は無理でしょう。

 これほど学習量が増えたのですから1クラスの人数、1クラスの担当教員がそれぞれ少人数化、複数人化しておればそれなりの対応も取れるでしょうがまったく変更がないのですから(クラス人数が40人学級になっていますが)授業についていけない子供が増えるのは当然の結果です。それを補うものとして「学習塾」「家庭教師」「予備校」が存在しているのです。今や学校は塾(予備校、家庭教師)なしでは学習効果を十分に上げることができない状況に陥っているのです。

 

 10月発表された昨年の不登校状態にある小中学校生は29万9000人に上っています。これは920万人の総児童生徒数に対して3.25%に当たります。原因はいろいろ考えられますが学校の勉強についていけなくて「落ちこぼれ」になったことも大きな原因でしょう。ほかにも本人や保護者(両親など)の責任と呼ぶにはふさわしくない原因も少なくありません。それを東近江市の市長(小椋正清氏)さんは「不登校になる大半の責任は親にある」と言い放ったのです。「文部科学省がフリースクールの存在を認めたことにがくぜんとしている。国家の根幹を崩しかねない」とも発言しています。これは2017年に施行された「教育機会確保法(義務教育の段階における普通教育に相当する教育の機会確保等に関する法律)」にもとづいて文科省の策定した「学校や教育委員会とフリースクールなどとの連携強化等の対策プラン」を県独自のプランに落とし込んだ骨子を県下の各首長に示した会議での発言です。

 「教育機会確保法」は不登校の児童生徒の学習機会を確保・保証するために通常学校で行われている「一斉授業」だけでなくフリースクールなどの多様な学習活動の実状を踏まえて支援を行い、普通教育に相当する教育を受けていない児童生徒の意思を尊重して能力に応じた教育機会を確保して自主的に生きる基礎を培い、豊かな人生を送ることができるよう教育水準の維持向上を図ることを目的としています。

 

 わが国の教育は明治以来「画一的なカリキュラム」と「一斉授業」を原則として「国定教科書」を全国一律に採用して行なわれてきました。こうした教育システムは、西洋先進国をモデルとして追いつけ・追い越せの教育には絶大な効果を上げました。その結果ヨーロッパ・アメリカ以外で唯一の「工業先進国」として目ざましい成長を遂げることができたのです。この成功モデルは工業化が最盛期を迎える「バブル期」まで有効に機能しました。しかし情報化時代が始まりグローバル化が世界をひとつにする時代に至って有効性が著しく低下したのです。モデルを創造する、イノベーションを引き起こす、こんな社会に「日本式学校システム」は対応できなくなったのです。さらに「膨脹した知識」を児童生徒全員にまんべんなく修得させるにも適さなくなってしまったのです。

 「落ちこぼれ」た児童生徒に普通教育をどうすれば修得させることができるかは重要な課題ですが、「吹きこぼれ」た児童生徒(学校の授業にあきたらない、高い能力と才能を持った子供たち)の才能・能力を生かす教育も今求められているのです。どちらにも適さなくなった「日本式教育システム」。これをどう改革していくかが喫緊の課題なのです。

 

 さてここで現在の教育論議でほとんど問題にされていない日本教育システムの欠陥を指摘します。

 現在わが国では「公的認可を受けた教育(公的教育)――公立と私立の学校法人」と「認可を受けていない私的な教育(私的教育)――学習塾、家庭教師、予備校」が併存している問題です。戦後これまで繰り返し「教育改革」が行われてきました。しかし一度も成功していません。それは公的教育だけを改革して私的教育を手つかずで放置してきたからです。はじめのうちはひっそりと表の公的教育の補助機関として存在していた学習塾が、気がつけばいつのまにか公的教育の領域をどんどん侵犯して今やどっちが表か分からないほどの影響力を「教育」に与えるようになっているのです。

 はじめ私的教育は公的教育を補完する関係にありました。それがいつのまにか私的教育がないと公的教育が成立しない状況に至ったのです。「落ちこぼれ」問題はこうした教育環境が生みだした必然の結果といえます。

 

 不登校問題はわが国教制度を根本から改革しないと解決できない問題です。

 「画一的なカリキュラム」、「一斉授業」、「国定教科書」の採用義務付けの三制度を考え直す必要があります。小人数学級と複数教員による指導を公立学校の基本要件にしなければなりません。私的教育機関(塾、家庭教師、予備校など)を国(及び地方行政)の教育改革の力の及ぶ制度に改革する必要があります。

 

 東近江市の市長さんは大事なことを言っているのです。「国家の根幹を崩しかねない」状況にわが国の教育制度はなっているのです。表の数字は全児童生徒の3.25%に止まっていますが実際の数字は――今の制度では学校の勉強についていけない子どもたちはその何倍も――5%いやもっと存在していると考えるのが正しいでしょう。これを無視して現在の制度を続けていくことはもう限界です。東近江市の市長さんは現状を「是」としてこのままでは日本の教育制度は崩壊してしまうと「親に責任を押し付けた」のですが、責任を問われているのは「国」です。すでに崩壊している制度を改革せずにここまで放置してきた国――制度の設計者であり維持・管理の責任者――はその責任を自覚すべきです。そして可及的速やかに「改革」を断行すべきです。

 

 東近江市の市長さん。あなたは正しいことを言ったのです。「国家の根幹を揺るがしかねない」状況にわが国の教育制度は陥っているのです。