2020年7月27日月曜日

「便利」と「安さ」以外のもの

 最近のいい話といえば弱冠十七歳十一ヶ月で棋聖を奪取した藤井聡太君くらいしか思い浮かびませんねぇ。世に天才といわれる人は少なからずいますが将棋の八大タイトルという明らかな称号を手にしたのですから誰も異存をさしはさむ余地のない天才が生まれたわけでまことに喜ばしい限りです。専門家の話のなかにAIを凌駕する差し手が彼の棋譜にみられるという解説がありましたが、今後我々人間はAIの後塵を拝することが多くなるに違いない中で、AIを超える展望が示されたことはご同慶の至りです。過去の厖大な棋譜の累積に関してはAIには到底かないませんが、その先の「創造性」という領域こそが人間に残された可能性ですから、それを彼のような若い人が開拓してくれたことに希望があります。今後の躍進をワクワクしながら期待しています。

 新聞を目を皿のようにして探しているとこんな記事に出会いました。「6歳の少年が犬に襲われた妹を救出して顔に大けがをした。(略)なぜ危険を恐れず妹を助けたのかの問いに『もし誰かが死ななければならないのなら、僕が死ぬべきだと思った』と答えた」と記事は結んでいます。彼は米西部ワイオミング州に住むブリッジャー・ウォーカー君で4歳の妹がジャーマンシェパードの雑種に襲われているのをみて間に飛び込んで助けたのですが90針もの手術を受けなければならない大けがを負いました。
 もちろんとっさのことで考える余裕などなかった反射的な行動だったのでしょうが、日ごろから妹を可愛がっていて、守ってやらねばならないという責任感とおとこ気を持っていたに違いなく、父親が彼にそう教えていたのでしょう。幼い彼の行為に尊敬とほほ笑ましさを感じると同時に、彼らを養育した両親を称賛せずにはいられません。

 ところが同じ新聞にこんな記事もあったのです。
 タイ産ココナツ 欧州不買/サル使い収穫 虐待?伝統?
 米動物保護団体「PETA」がタイの名産ココナツをサルを使って収穫するのは虐待だと告発したのが発端です。1匹当り1000個の実を収穫させられたり、人を襲わないように歯を抜かれたりしていると指摘。収穫時以外は鎖につながれた「奴隷」で、多くのサルが精神を病んでいるとPETAは主張しています。これに対してココナツ農家は「サルを使うのは長年の伝統。1匹の収穫量は多くて1日200個。疲れておれば休ませる。虐待は一部の悪徳業者の仕業だ」と反論、猛反発しています。
 タイは昨年123億バーツ(約420億円)のココナツミルクを輸出しており政府は対応に苦慮しています。
 ココナツミルクは今ブームの「タピオカスイーツ」の主原料で、ここ数年需要が拡大しておりわが国へも少なからぬ影響があることが予想されます。

 構図的には太地町の「イルカ追い込み漁」と酷似しています。動物愛護団体が他国の「伝統」を「非難」し、動物愛護という「同意」を得られやすい「価値」を掲げて世界的な潮流に持ち込み「伝統」を強権的に屈服させようとする。ところが、ココナツ農家は「サルは家族と一緒。虐待なんて言い掛かりだ」と言っているように、かって作業員が収穫している時期があったが転落事故が多発、足場が悪く昇降機の導入が困難な作業環境からサルを活用する伝統的な農法を見直し以前のような酷使を避けて家族同様の関係性を築いて今日に至っているのです。こうした事情を無視して「動物愛護」という観点からだけですべてを「統御」しようとしている今の世界の流れには違和感を覚えずにはいられません。

 ただ考えなければならないのは「便利さ」と「安さ」だけを追求して、その裏に存在するいろいろな問題を見ようとしてこなかったここ一世紀ばかりのわれわれの行動様式です。京都の北山は「銘木」の産地ですが50年ほど前から「輸入木材」の「安さ攻勢」におされて売り上げ減少に追い込まれ、廃業になる業者さんも少なくありません。ところが輸入木材の多くを占める「熱帯材合板」は厖大な熱帯雨林の伐採をひき起こしています。そして違法かつ破壊的な伐採に関わっていることが裏づけられている大手伐採業者からわが国建設業界は木材を調達しているのです。隈研吾設計の新国立競技場「杜のスタジアム」にも多分こうした熱帯材合板が大量に使われているはずです。我々一般市民が新しいスタジアムがそんな事情のある木材で造られているなどと「想像」することはほとんど不可能ですが、かといって責任はないと言い張っていいものかどうかは思案のしどころです。まして熱帯雨林の乱獲が異常気象と深く結びついているということになれば、令和2年7月豪雨も平成28年熊本豪雨災害も平成26年広島土砂災害もみな、異常気象のもたらしたものになるわけで、「知らない」「関係ない」と強弁することは許されないのではないでしょうか。

 目を転じるとコロナ禍でウーバーイーツなどの宅配・出前サービスを利用したりスマホを使ったキャッシュレス決済を利用していることを自慢気に吹聴する若手コメンテーターが少なくありませんが、そのウーバーが使用者責任をまったく果たしていないブラック企業であることには気づいていません。事故のときの医療費補償も労働基準法に適した雇用契約も結ばれていませんから、大企業の「優越的地位を乱用」した非近代的な雇用形態を強要しているウーバーに対して社会正義を要求しようなどという「視点」は彼らにはありません。そんな彼らがいっぱしの顔をして政治や社会問題にコメントするのですから視聴者も舐められたものです。

 便利さと安さは消費者にとって有利なものです。スーパーやコンビニや100円ショップがあったから、安い給料でも生活できたし給料が上がらなくても何とか子どもを育ててこれたのかもしれません。しかしそのことで「失ったもの」にそろそろ目を向ける時期に来ているのではないでしょうか。「強いものが勝つ」ことが正義だという考え方に疑問をもつ若者が少しですが出はじめていることにわれわれおとなは気づくべきではないでしょうか。

 コロナはいろんなことを気づかせてくれるキッカケになる可能性を秘めています。



 

 

2020年7月20日月曜日

ニューヨーク大停電とコロナ

 むかし、といってもそんな遠い話ではありません。五十年ほど前、1965年に「ニューヨークの大停電」がありました。11月9日にアメリカとカナダで起こった停電ですが、ニューヨークを中心に被害が大きかったことから「ニューヨーク大停電」などと呼ばれているのですが、2500万人と207,000㎢の地域で12時間電気が供給されない状態になったのです。このことによって大都市が麻痺に陥って大変な被害が発生したのですが、今ここで問題にしようとしているのは「この停電でニューヨークの出生率が大幅に上がった」ということなのです。これはある医師が気づいて新聞などに取り上げられ話題にななりましがその後の調査では出生率の上昇に有意な差はなかったと報告されています。しかし大規模停電と出生率の上昇に関しては他にもいくつかの例があり、1977年のニューヨークの停電、2001年のアメリカ同時多発テロ発生時、2005年のハリケーン、カトリーナがニューオリンズに襲来したときなどに出生率が上がりベビーブームになったことが知られています。ある社会学者は「災害のために人々が結びつきを求め出生率が上がるのだろう」と言っていますが、一方でただの偶然にすぎないと言い捨てる学者もいます。
 コロナ禍のもと「ステイホーム」が叫ばれ、アメリカをはじめとした海外の大規模感染と多数の死亡者の発生はわれわれの心に不安をもたらし「結びつき」を求める気持ちを高めても不思議はありません。それがひょっとして「出生率の上昇」に結びつかないか。テレワークが一般化すれば夫婦と家族の同居時間の拡大につながり、それが出生率の上昇にならないか。コロナが日本の少子化問題の解決に結びつかないか。そんな希望を抱いたとしたら「馬鹿者」呼ばわりされ、不謹慎とそしられるのだろうか、フトそんなことを考えたのです。

 今回のコロナ禍ではマイナスイメージばかりがいわれています、いわく「コロナ離婚」「コロナDV]などなど。しかし、夫の子育て参加が日常化して奥さんが助かった、とか、夫のささやかな思いやりに気づいた、とか、妻の家事振りの思いかけないセンスの良さを知った、とかホームステイが気づかせてくれた家族の良い側面も多くあったのではないでしょうか。
 これまで企業は個人の自由を収奪してきました。会社の拘束時間は一応9時間(執務時間8時間と1時間の休憩)が一般的ですが通勤時間が往復2時間、週1~3回の接待や職場仲間の付き合い、休日の接待や付き合いなどを考慮すれば個人の自由になる時間は1日3時間もないのが実態です。(総務省の「社会生活基本調査」によれば余暇などの3次活動の時間は大体6時間になっていますが、フルタイムで働く一般的な社員の平日の場合はその半分もないでしょう)。正規雇用でフルタイムで働く人にとってそれが当たり前と考えられてきました。しかしテレワークが採用されて通勤時間がなくなって会社に行くのが月に数回になれば、都心の一等地に会社がある必要もなく、など、コロナがもたらす社会の変化は始まったばかりですが、我々の想像をはるかに超える大変革がこれから起こるかもしれません。
 
 コロナについて我々はまだ一割も知っていないのではないでしょうか。それをすっかり知った気になって、「コロナとの共存」「withコロナ下の経済活動」とかいって「以前と同じような」経済社会生活にもどすことを考えていますが、あまりにも無謀なのではないでしょうか。もちろん経済を回していかなければ社会は成立しませんからいつまでも「自粛」をつづけていくわけにはいきませんが、かといって百パーセント「以前と同じ」レベルに復活させることも不可能です。三年か五年のスパンで経済社会活動を元にもどしていく、だから最初は六割くらいから初めて徐々に復活のペースを高める。二年か三年で八割程度復活すれば上々ではないでしょうか。百パーセント元に戻ることはひょっとしたら無理なのかもしれません。
 その程度を復活の上限と考えてコロナ禍を克服しようとするのが、現在われわれが知っているコロナに関する知識から導き出せる限界なのではないでしょうか。
 緊急事態宣言が解除されてから今日まで、誰も、政治家も科学者も、「復活の限度とスピード」について、はっきりと示してくれていません。心ある人は、ワクチンと特効薬が開発されて国民に行き渡るまでこの新型コロナ感染症は終息しないことを理解しています、そのためには早くて三年、これまでの知見に従えば最低でも五年はかかるということは覚悟しています。だから、「コロナ時代の新しい生活様式」を国民は受け入れて、企業は六割程度の企業活動の復活からスタートして徐々に七割、八割と復活の程度を高めていく、百パーセント復活ができるかどうかは分からないけれどもそこを目指して国を挙げて努力していこう。
 
 こうした『見通し』を国民に示すのが「政治家の危機対応」というものですが、現在の政治家はそれができません。そうした不甲斐ない政治家を叱咤するのが「マスコミ」の仕事なのですがマスコミも劣化していますから機能しません。情けないことですが原因は「マスコミの体質」にあります。
 新聞をはじめとしてマスコミの花形は「政治記者」と「社会部記者」です。ですから「できる記者」は政治部と社会部に投入されます。科学と文化担当は二流の男性記者か女性記者が振り当てられてきました。ところが近年に至って地球温暖化にしろ今回のコロナにしろ、科学文化抜きでは対応できない事件・事故がヒン出するようになってきました。この事態に対処するには「科学音痴」「文化音痴」の『花形』男性記者では対応できなくなってきているのです。むしろ女性記者の方に時宜を得た意見をみることが多いのはそうした背景があるのです。
 先日も「令和2年7月豪雨」の熊本・球磨川水系の豪雨災害に関して男性記者上がりのコメンテイターが「川辺川ダムを早急に建設すべきだ」と喚いていましたが、わが国の治水に関して知識のある人なら問題はそんな単純なことでないことは分かっているのです。わが国の河川は「滝のようだ」といったのは明治維新の御雇い技師でしたが、西欧流のダムによる治水は寺田寅彦をはじめ当初から疑問視されていました。滝のような急流が山を削り川底を浚うことによって砂の堆積が西欧の緩やかな川の数倍に及ぶため、設計時想定されていた治水能力がわずか数年で損壊してしまって、最近よくあるように急激な雨量の増大による「緊急放水」の止むなきに至ってしまうのです。何百億円もかけて造られたダムが数年でその機能を喪失してしまったのでは「費用対効果」が疑われるばかりでなく、ダム頼りであったために治水政策そのものが取り返しのつかないことになってしまうのです。
 「脱ダム」はこうした歴史があって、しかも温暖化による自然災害の苛烈化が重なって解決策の模索がつづいているなかで、どう対処していいか誰も確たる指針を提示できないでいる状態なのに、科学音痴の政治畑上がりのコメンテイターが「ダム促進」を叫ぶことによって何十年という科学的知見の検証が水泡に帰する愚がひき起こされようとしているのです。

 わが国マスコミが長年「科学・文化蔑視」できたツケがマスコミの劣化をもたらしていることを嘆かずにはいられません。











2020年7月13日月曜日

まずは六割社会から

 東京の感染者数が224人になったといって大騒ぎをしていますが当然のことだと思います、いまのままなら今後ますます増加する可能性も否定できないでしょう。7月10日からプロ野球が観客数上限5000人で有観客試合を開始しますがこれも非常に危険なカケだと思います。

 今現在はっきりしていることは、ワクチンと特効薬が開発されてゆきわたるまでは新型コロナ感染症は終息しない、ということと、抗体検査の結果が東京で0.10%、大阪0.17%宮城0.03%だったということです。ということは東京の人口は約1千3百万人ですから1万3千人しか感染していない計算になり、日本の人口を1億3千万人とすれば全国の感染者数は13万人くらいにしか達していないということです。感染率が6割ほどに達すれば自然終息するらしいですが日本の場合そこまで感染が拡大することはないでしょうし、又させてはいけませんから自然終息の可能性は極めて低く、やっぱりワクチンが開発されて全国民にゆきわたるのを待つほかないわけで、ということは5年ほどのスパンで新型コロナ感染症に対しなければならないことになります。それなのに、なにゆえをもって流行は小康状態になったから「経済活動を平常に戻します」と宣言できるのでしょうか。「ウィズ・コロナの新しい生活様式」を守ることを国民に要請する以外に何もしないで、どうして感染の拡大を抑えられると考えられるのでしょうか、感染の責任を「接待を伴う夜のまち」に押しつけて。

 今回のコロナは「接触感染」と「飛沫感染」が感染経路だということですから、緊急事態宣言が解除されてからの東京や大阪の出勤ラッシュを見れば、いくら三密(密閉、密集、密接)を避けソーシャルディスタンスを守りマスクを着用したとしても感染は百パーセント防ぐことは不可能です。手洗いとうがいを励行してもウィルスの家庭への持ち込みを完全にシャットアウトすることはできません。家庭や職場での感染が増加しているのはそうした背景があるからで、確かに夜のまちの人たちがクラスターになっているケースは多いようですがその人たちが感染したのは通勤ラッシュかも知れないしお客が持ち込んだかもしれないのです。
 
 感染拡大を抑えるために今すぐできることは「通勤ラッシュ」の解消です。出勤時間を分散させてることです。小池さんの公約じゃないですか、まず東京都庁の役人から出勤時間を今の時間(9時か)から前後(8時と10時)に分散するべきです、職員数は16万人(うち一般行政職は1万8千人)もいるのですから効果は絶大です。都庁だけでなく東京都にある行政機関はすべて東京都に準じて出勤時間を分散させればラッシュ解消にかなり効果があるはずです。さらに主要駅別に大企業と(たとえば従業員5百人以上の)中小企業の連絡会をつくって出勤時間の調整を行うようにすれば(たとえば8時半組、9時組、9時半組に分散させるなど)ラッシュ解消の効果はさらに向上するでしょう。こんなことはやる気さえあればスグできることです。

 そもそも個人には「ウィズコロナの新しい生活様式」を押しつけておきながら何故企業にはそれを要請しないのでしょうか。何故企業活動を百パーセント全開にしようとするのでしょうか。居酒屋さんにはお酒の提供を7時まで、10時まで、12時までなどと規制しておきながら一般企業にはそれを要請しないのはなぜでしょうか。一挙に百パーセント企業活動を行おうとするから無理があるのです。まず「六割の企業活動」からスタートしてはどうでしょうか(別に五割でも七割でもいいのですが)。リモートワークやテレワークも取り入れながら三年から五年のスパンで企業活動の生産性向上を考えるべきではないでしょうか。

 もうひとつ考えてほしいことがあります。先に「営業自粛」が要請されましたがテナント業と金融業はその適用外でした。しかし物を作ったりサービスを提供するのが企業活動であるように、テナント業はテナントを貸すのが仕事であり、金融業は資金を貸して利息を稼ぐのが仕事です、それを「自粛」してもらわなくては不公平です。国(地方)の要請で「営業自粛」を求められた会社の入っているテナントの賃料は「自粛」して発生しない、そのかわりテナント会社に融資した資金の利息も発生しない――銀行の企業活動も自粛してもらう、これでこそ『公平』というものではないでしょうか。自粛中のテナント料を国が補填するというのはどう考えても不自然で公平でないように思うのですが、どうでしょうか。

 わが国は――先進国と呼ばれる欧米や日本などの多くの国は「成長至上主義」を信奉してがむしゃらに「市場競争」を展開してきました。しかし75年もの長い間「戦争」という『強制終了』がないと『格差』が極端に拡大して国民が『分断』されてしまいました。そこへ「新型コロナウィルス感染症」という『未曾有』の経験に遭遇したのです。国民の生命を守るためには「接触」を制限するのが最も効果のある対策です。「移動」も制限されます、物流も停滞するでしょう。どう考えてもこれまでと同じような経済活動を「再現」することは当分――三年~五年は不可能です。にもかかわらず成長の起爆剤としてオリンピックも万博も強行しようとしています。無理です、不可能です。移動と物流の制限を受け入れて、グローバル・サプライ・チェーンの再興は当分無理だという現実を受け入れて――そうした現実を基盤として――経済社会活動の『ダウンサイジング』を受け入れて、社会を見直すことが必要なのではないでしょうか。

 格差と分断を解消するには『公平』がキーワードです。皆が未曾有のコロナ禍を乗り越えるために少しづつ公平に我慢して『六割社会』からスタートする。そして「成長至上主義」「競争至上主義」の「新自由主義」から脱却する。それこそコロナ禍をプラスに転じる最良の方策ではないでしょうか。

 経済が危機的状況にあるのに、「株価」だけが高い、一部の富裕層だけが豊かになるような『不公平』な社会に『NO』を突きつけるべきなのです。

2020年7月6日月曜日

アメリカよ、よみがえれ!

 総務省が発表した5月の完全失業率は2.9%で前月より0.3ポイント上昇、完全失業者数も33万人増えて198万人に達したと伝えています。有効求人倍率は1.20で5ケ月連続低下しました。勿論統計に表れない非正規雇用の失業者も少なくないでしょうが有効求人倍率が1.20ということはひとりがハローワークに求職すれば1.2社の求人があるということですから選り好みさえしなければ職はあるわけで当座はしのげることになります。ほんの5、6年前までは1.0に満たなかったことを思えば大変な時代ですが日本の企業は雇用の維持に非常に努力してくれています。
 これをアメリカと比較してみるとその差は歴然としていて、4月の失業率は14.7%で1930年代の世界恐慌以来最悪の状態になっています。失業者数は約2050万人ですからけた違いです。アメリカという国は雇用の維持よりもとにかく企業収益の確保が第一で、働く人よりも株主の方が大事だという国です。このことはヨーロッパと比べてみても明らかで、イギリスの5月の失業率7.8%、失業者数(失業者向け手当の申請者数は85万6500人増)210万人、EUユーロ圏の4月の失業率は7.3%、失業者数21万1000人増の223万9000人、に止まっています(フランスは失業者数64.7万人、若者層失業率21.8%、イタリアは失業者数25.5万人若年層失業率20.3%)。
 
 アメリカの惨状は今回のコロナ禍の数字からもはっきりとうかがえます。わが国の6月末現在の累計感染者数は18,615人死亡者数972人。アメリカは268万人、死亡者数12.9万人。イギリスはそれぞれ31.3万人と4万3千人。いかにアメリカのコロナ被害が酷いかが分かります。アメリカのコロナ禍の惨状は99.9%の恵まれない人たちと0.1%の富裕層という極端な「格差」と健康保険などの社会保障の劣悪さが原因の脆弱な医療体制のもたらしたものであることは論を俟たないでしょう。
 いつのまにアメリカはこんな『夢のない国』に成り果てたのでしょうか。
 
 終戦直後、アメリカは輝いていました、私たちは憧れました。漫画『ブロンディ』に描かれたブロンディとダグウッドのアメリカの普通の人たちの生活は余りにも我々の生活とかけ離れていました。私の記憶に鮮明に残っているのは、電気掃除機と芝刈り機――なぜかローンモアと英語で覚えています――でなによりもブロンディの「かかあ天下」ぶりに驚かされました。昭和三十年ころといえばわが国はまだ家父長制が色濃く残っていて主婦たる妻は「三歩下がって…」というのが普通でしたから、家庭で主導権をふるうブロンディは輝いてみえました。ちょうど民主主義が盛んに吹聴されていましたから、にもかかわらず身近なところでは古い時代とほとんど変化していませんでした。そんな状況のなかで私が「アメリカの民主主義」を実感したのは『漫画ブロンディ』だったのです。
 今から思えば当時のアメリカは「製造業」の最盛期でGDP(国民総生産)が飛躍的に拡大して分配が国民に遍く行き渡っていましたから「中間層=中所得層」が人口構成の大部分を占めるようになっており、民主主義がもっとも機能していたにちがいありません。自動車とテレビや電気冷蔵庫などの耐久消費財の生産、高速道路をはじめとしたインフラ整備が年々成長し疲弊した世界のなかで「ひとり勝ち」を謳歌していた時代のアメリカを象徴していたのは「ハリウッド映画」でした。ジョン・ウェインの西部劇、エロール・フリンの剣戟ものにミュージカル、そしてなにより「天然色」の美しい華やかさに魅了されました。
 そのアメリカが変調を来したのはいつ頃からだったでしょうか。「ジャパンアズナンバーワン」と日本経済がもてはやされ、日米貿易交渉で繊維製品の貿易摩擦解消のために国内繊維製品の総量規制が厳しく行われ「織機の打ちこわし」が強行されました(この記憶が鮮明なのは実家が西陣で織機メーカーをしていて大打撃を受けたからです)。
 そんな強権的な国内製造業の保護政策にも関わらずアメリカの製造業の地盤沈下はおさまらず「ラストベルト(中西部地域と大西洋岸中部地域の一部)」として国の繁栄から取り残されることになります。製造業に代わってアメリカ経済を牽引したのは「金融業」と「軍需産業」と「情報産業」でした。製造業を支えた白人ブルーカラーに取って代わったのは「高学歴頭脳労働者」で、その結果「白人貧困層」が多く出て「中間層」がやせ細り、民主主義を正常に機能させる「穏健な保守層」と「リベルル層」が減少し、極右と極左に国が『分断』される可能性が高まります。そこにつけ込んだのが「トランプ大統領」だったのです。ラストベルトの白人貧困層や極右勢力を糾合し、分断を煽って自己の支持層拡大を図り大統領にまで上り詰めたのです。
 
 私たちのあこがれた「アメリカの民主主義と資本主義」は『幻想』だったのでしょうか。アメリカをお手本と仰いで追従してきた私たちは間違っていたのでしょうか。
 
 アメリカがイギリスに取って代わって「覇権国」となったのは第一次世界大戦と第二次世界大戦の間であり1929年から1939年の世界大不況が大きく影響したことは明らかです。しかし最も影響力が大きかったのはふたつの世界大戦で国土が「戦場」にならなかった『アドバンテージ』であることは疑いの余地がないでしょう。ヨーロッパもアジアも日本も壊滅的な被害をうけた中で唯一国土がまったく戦場にならなかったことの利益は絶大です。アメリカの資本主義がうまくいっているようにみえた多くの部分はひょっとしたら戦争で国土が破壊されなかったせいかもしれません。とすれば経済が好調で分配が国民に遍く行き渡ったおかげで中間層が育って「アメリカの民主主義」が機能していたのも戦争で国土が破壊されなかったアドバンテージのお陰といえないこともないのです。
 一方アメリカのノーベル賞受賞者は世界の国別受賞者数で群を抜いて多いのですがユダヤ人の比率も36%で世界の平均より15%近く多くなっています。これはナチスドイツの反ユダヤ主義からアメリカに逃れた多くのユダヤ人の力に頼るところが多いでしょう。
 戦後アメリカは覇権国として世界を牽引してきました。そんなアメリカをみて日本をはじめ世界の多くの国が「アメリカスタイル」に追随してきました。しかしそれはアメリカスタイルが原理的に優れていたからではなくいろんなアドバンテージが重なって表面的にうまくいっていたのかも知れません。それが証拠に戦争が75年なく、資本主義の暴走が戦争で「強制終了」されないと格差が拡大して国が分断される結果を招いているではありませんか。
 
 それでもトランプ大統領が黒人差別への抗議行動に軍隊を派遣しようとすると与党や政権内部からも反対意見が堂々と表明されるのをみるとやっぱりアメリカってスゴイなぁと思わされます。ここがアメリカの正念場です、民主主義と資本主義を時代に即したかたちに変革して再び世界を先導してほしい。中国やロシアのような独裁国家に世界が蹂躙されるのは絶対に避けねばなりません。やっぱりアメリカが頼りです。
 
 アメリカよ、よみがえれ!心からのエールです。