2020年11月30日月曜日

コロナ、ここが分からない

  コロナの第3波が予想以上の拡大をみせて国も地方行政も市民も困惑気味で落ち着きがありません。総理が3密を避けて「静かなマスク会食」を要請するなど見当ちがいの発言をして批判を浴びていますが、そんなことは官房長官か専門委員に任せておけばいいことで、重症者の急増に備えて病床と医療体制の確保――エクモやICU(集中治療室)の拡充、医療用マスクと防護服やPCR検査体制の充足などを実行するとともに医療施設への経済的支援、医療従事者への給付金の増大などマクロな施策について国民に安心を与えることが総理の仕事であって、いまだにPCR検査が円滑に実施できないとか医療用マスクと防護服が不足しているとか不安が払拭されていないのにGoToキャンペーンだけが独り歩きするなどチグハグな政権運営は、「国民の生命の安全」が最優先といっていた就任時の演説が空疎に聞こえてきます。

 

 最近気がついたのですが政府や専門家とわれわれ国民、というか素人の間がシックリいっていないのは、専門家なら当たり前すぎて説明するまでもないとされていることと、素人は今さらこんなことを聞くのが恥ずかしいと知らないままにしている、「コロナウィルスの基礎知識」が共有されていないことが原因となって、政府や行政の打ち出す施策が国民の心底からの納得を得られないままに「上滑り」しているのではないでしょうか。そこで恥をしのんで「コロナ、ここが分からない」という疑問を整理することにしました。

 

 まずここまでで分かっている「コロナの性質」を整理してみましょう。

 (1)感染は「飛沫」と「接触」が原因とされている。飛沫はしゃべっても食事をしても飛ぶ。

 (2)ウィルスの生存時間は大体2~3時間。ただし鏡面仕上げのステンレスやツルツルした合板などは7時間近く生きていることもある(最大3日間生存するというデータもある)。

 (3)同じ状況がつづけばウィルスの飛沫量は増加する(→付着したウィルス量が多いほど感染率が上がる

 (4)PCR検査の陽性率は5~7%とされている。

 (5)コロナの実効再生産数は2.0近くになっている

 残念なことに今分かっていることはこの程度です(一般市民に伝えられている範囲では)。そして何が分からないかというとコロナウィルスの「感染メカニズム」と「発症メカニズム」です。

 

  陽性率がここまで高まればちょっとした人の集まりがあれば(少なくとも10人を超えれば)その中にウィルスを持っている人(感染者だろうと発症者だろうと)が必ずいると考えるべきでしょう。それを前提とすれば公共交通機関を利用して人混みのなかを歩いてきた人のほとんどにはウィルスが付着していると考えるべきです。

 そのうえでまず「感染のメカニズム」について。飛沫が口や目、鼻の粘膜に付着します(接触した手で口や鼻を触った場合にも粘膜に付着する)。この状態ですでに「感染」しているのでしょうか。それとも粘膜を浸透して体内に取り込まれたら感染なのでしょうか。粘膜を浸透すればすぐにウィルスは再生産を開始するのでしょうか。再生産をしてはじめて「感染」というのでしょうか。粘膜に浸透したウィルスはすべて再生産するのでしょうか。このへんのことすら素人はまったく理解していません。さらに床に落ちたウィルスも靴に付着して生存するのか、土足で家に上がればそのウィルスが屋内で生存するのか、ぺットにも付着して人に移ることも考えられるのか。あれやこれや疑問があるのですが誰も教えてくれません。ですから「発症」になるとそのメカニズムは「無知」というレベルです。無症状や軽症と中高等症はどうして異なってくるかなどチンプンカンプンです。

 

 マスクの有効性は飛沫の口や鼻の粘膜への直接の付着を防護するから当然のことと思うのですがどうして海外の人たちはそれを理解できないのか不思議です。もちろん飛沫の飛散も防ぎますから二方向で有効になります。人数が増えるのに比例して飛沫量は増えますから多人数の「密集」が悪影響なのも理解できます。距離の近い「密着」も避けるべきです。換気の悪い環境ではウィルスが堆積しますから「密封」は付着、吸引を増大させる結果に繋がりますから「3密」は絶対に避けるべきだということに納得がいきます。

 多人数の会食、とりわけ飲酒を伴う夜の接待が感染に重大な影響があるだろうということも想像できます。話すだけでもウィルスは飛散しますがそれに食事が重なれば飛散量はその分増大します。飲酒して酔いが回れば声も大きくなりますし笑ったり肩を抱くことにもなります。アクリル防御板の有効性が明らかになると同時に「マスクと静かな会食」も感染だけを考えれば役立つことは分かりますが面白みがありません。換気が十分でないと長時間の飲酒を伴う会食はウィルスの堆積量が増加する意味で吸引、付着につながりますから避ける方が賢明でしょう。

 3密を避けマスクを常用し、少人数で静かな会食を2時間程度で楽しむくらいがコロナ禍の会食の原則になるのは止むを得ないと納得できます。しかし個室で換気が良好で座席の配置に工夫を凝らした、そんな投資を行っている事業者まで「時短」や「営業自粛」を求めるのは過酷過ぎるのではないでしょうか。コロナ禍の生き残りを懸命に考えて工夫し投資している努力を個別に「選別」する、そんなキメの細かい行政の対応が望まれます。

 一方で二人暮らしの老夫婦に「換気」は必要でしょうか。夫は毎早朝散歩などのトレーニングで家の外に出ますが他人との接触はほとんどなく、たまにすれ違うことがあっても黙礼するだけで言葉を交わすこともありません。妻は二日に一回近くのスーパーに買い物に出かけますが短時間で済ませてうがい、手洗いを励行しています。こんな夫婦が三時間も経過した後に換気する必要はあるのでしょうか、勿論空気の汚れを浄化するための通常の換気は必要ですが。これから寒くなってくるのにうるさく「換気」を奨励されていますが疑問に感じます。

 

 外出して人混みから帰ってくれば一応ウィルスが付着していると考えるのが正しい判断でしょう。ですからマスクを常用して手洗いとうがいを励行するのは当然の「習慣」になります。そのウィルスが粘膜を浸透して体内にどのようにして浸潤するのでしょうか。そうした人たちがどのようにして感染して発症するのか、そのメカニズムが分かりません。家庭内感染が増加しているのはそのへんが分かっていないからだと思います。そうしたメカニズムをぜひ分かり易く教えてほしいのです。そうすれば市民が納得して感染防止に積極的に取り組むでしょうし感染を押さえられると思うのです。

 

 それにしても僅か500人足らずの重症患者で医療崩壊の恐れがあるというわが国の感染症体制、これで先進国といえるのでしょうか?何とも頼りない、情けない国に成り下がったものです。

 

 

2020年11月23日月曜日

日本とドイツ

  アメリカ大統領選にようやく決着がついたようで次期大統領に決まったバイデン氏と菅総理大臣は早速電話会談をしました。日米同盟の強化で一致し、尖閣諸島が日米安全保障条約第5条の適用範囲であることを確認したと誇らし気に、若干安堵の表情を浮かべながら記者団に語っています。アメリカが尖閣への他国の侵犯、侵略、攻撃に対して防衛義務を負うことをバイデン氏が認識していることが分かったということであり、北朝鮮による拉致問題に関しても解決に向けて協力を要請したとも伝えられています。

 

 この報道に接してまず感じた違和感は「日米同盟」ということばでした。日米同盟というのは「日米軍事同盟」を表わしているのでしょう。しかしわが国は憲法で軍隊の不保持を宣言しているわけで、それにもかかわらず堂々と「軍事同盟の強化」と公言する神経は完全に『護憲』という観念が今の政治家には意識にないということを図らずも明らかにしています。戦後の政治家はこの点に関して実に用心深く少なくとも昭和の政治家は「日米安保条約」が「軍事同盟」であることをあからさまに表現することはなかった(と記憶しています)。1950年に朝鮮戦争が勃発して、それまで戦前の軍事体制の復活に極端に防護的であったアメリカが方向転換して東西冷戦の東アジアの橋頭堡として日本を設えるべく再軍備を強制したき、吉田首相をはじめ日本の政治家たちは戦後復興を最優先して軍事負担を最小限に抑えるべく抵抗しました。その後の保守政権も憲法との兼ね合いとアジア諸国への戦争責任の贖罪の意味も込めて「日米軍事同盟」という言葉の採用に関しては最大の神経を使って対応してきました。それがいつの間にか平気で、日常用語として「日米同盟」をちゅうちょなく使用するように政治家はなっているのです。

 さらに日中間の「尖閣問題」も日朝の「拉致問題」も、それぞれがわが国の外交問題であるにもかかわらず今の政治家たちは問題解決を我が手で行うという気概を忘れて、アメリカの助力、というかアメリカの後ろ盾を頼りにして解決することを当然と考えているように受け取れる言動に終始しています。確かに難問です。中国も北朝鮮も軍事力を有しないわが国を「交渉相手」として見なしていないような対応を示します。しかし少なくとも小泉首相が電撃訪朝で示した「当事者意識」は金正日に緊張感をもって認識させる効果をもたらしたはずです。それがいつの間にか六カ国協議の一員という立場に後退し、トランプ大統領時代に至って、わが国は北朝鮮からも中国からも「当事者」として認識されることさえもなくなってアメリカの「核の傘」に身をひそませた『傀儡』であるかのように「見下ろされる」存在になり果ててしまったのです。

 

 そりゃぁそうでしょう。今の日米関係をよその国から見れば『属国』と見られても仕方がない関係になり下がったまま75年が経っているのですから。

 首都の上空をわが国の飛行機が自由に飛べない屈辱に、それに疑問さえも感じずにいるのが正常な「独立国」の国民意識といえるでしょうか。首都の上空は別名「横田ラプコン」と呼ばれる「横田侵入管制区」になっており1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な空域の航空管制は横田基地で行われているのです。ということはアメリカ軍が制空権を有していることになります。従ってわが国の航空機は最短距離で成田なり羽田なりの空港に発着することはできず1都8県を避けるような航路を取らざるを得ないという屈辱、非合理を強いられていることになっているのです。

 さらに基地に駐留しているアメリカ兵らの犯罪を裁く「第一次裁判権」は米軍が有するという日米安全保障条約に関する地位協定を1960年以来わが国は唯々諾々と受容しつづけてきているのです。沖縄で繰り返される少女強姦や市民への暴行事件に関して到底受け入れ難い屈辱的な判決を強制されてきています。

 これは明らかに『不平等条約』です。戦後75年経って未だにこのような「不平等」に対して何らその『改正』に向けた実効的な政治的交渉が行われずに来ていることに、弱腰な政治家たちの姿勢に憤りを感じます。また国民も沖縄で度々起こった暴行に対する『反米闘争』を、沖縄だけの問題として当事者意識をもって対応してこなかったことに憤らずにおれません。

 

 明治の人たちは維新時、圧倒的な武力差の下、締結を強制されたアメリカなど5ケ国との不平等な通商修好条約の改正を一日も早く勝ち取ろうと臥薪嘗胆の労を重ね、苦節半世紀の明治44年(1911)改正を果たしました。彼らの不屈の改正への情熱と雪辱の心意気を慮(おもんばか)る時、頭がさがると同時に、今の我々の不甲斐なさに断腸の口惜しさを感じます。敗戦という絶望的な状況からの逸早い復興を達成しなければならないという政治情勢は維新の元勲たちの置かれた立場とまったく同じだったと言えるでしょう。ですから屈辱的な講和条約や安全保障条約をのまざるを得なかったことは十分理解できます。問題はその先です。経済復興は予想以上に早く軌道に乗り昭和31年(1956)の経済白書に「もはや『戦後』ではない」と誇らしく宣言するに至ります。そして昭和60年代から70年代の高度経済成長期を経て世界第2位の経済大国にまで昇り詰めることになるのです。明治の日本が不平等条約改正を勝ち遂げた、それと同じ敗戦の五十年後にわが国は、日清日露の戦争に勝って列強に「一流国家」として認めさせたと同じ、経済先進国として「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と称せられるまでに世界に認められたのです。「不平等条約改正」の基盤は調(ととの)っていたのです。

 しかし戦後の日本は動きませんでした。

 

 一方の敗戦国・ドイツは「東西分裂」という過酷な「冷戦の桎梏」を乗り越え今や「ヨーロッパ融和の旗手」として世界的なリーダーシップを発揮しています。

 この差は一体どこから生まれたのでしょうか。

 

 まちがいなく言えることは、人類史上類をみない「ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺」という十字架を負った戦後ドイツは『痛哭(つうこく)』の「戦争責任」を経験しなければならなかったということです。ふたつの世界戦争の敗戦と仏独を中心とした歴史的相克を『昇華(しょうか)』した「持続可能な平和体制」を構築しなければならないという「歴史的贖罪感」がドイツ国民にはあったのに反して、わが日本は「戦争責任」と「贖罪」がまったく『不徹底』だったのです。いまだに先の戦争は、アジア諸国の欧米先進国からの「解放戦争」であったと『強弁』する「歴史修正主義」がまかり通っているのですから彼我の「戦争責任」に対する姿勢の差は歴然としています。

 

 来年には「核兵器禁止条約」が発効します。「唯一の戦争被爆国」の日本が世界に向かってどのような「非核化戦略」を提示するか、世界が注目しています。

 

 

 

2020年11月9日月曜日

二大政党制はもう古い

 年齢を取るとあれこれ考えるのが面倒になって、えいっ、やっ!とカンでやってしまうことが多くなってしまいます。随分乱暴な思考態度(?)ですがこれが案外うまくいって時にはものの本質をついていることもあるのですからおもしろいのです。

 

 最近のえいっ、やっ!で結論を得たのは「政治は権力闘争である」というアカの染みついた俗論です。若いころは「人を豊かにする」ことが政治の本質であるとか世界平和の実現が国連の使命であるとか考えていましたが、八十年近く生きてきた結論は政治の本質は「権力闘争」だということになってしまいました。とくに「東西冷戦」が終結して以降はこの傾向が露(あらわ)になってきたように思います。冷戦時代には「自由陣営の牙城を守る」という大きなタガが権力闘争を制限していましたから、権力や資本の野放図な暴走を許しませんでした。しかし米国一強になって、自由主義的資本主義が唯一の価値基準になってしまうとトランプ氏のようなだれはばかることのない「自己の権力拡大」だけを追求する人がでてくるようになったのです。もし今彼がしているようなことを冷戦時代にしていたら同盟国から「そんなことをしていたら東側につけ込む隙を与えてしまう」と警告されて自国の団結を強めるような政策に転換せざるを得なかったにちがいありません。わが国でもそうで、安倍一強(菅一強も?)のもと「森・加計・さくら」のように白を切る一辺倒でなんら説明責任を果たさない無責任極まりない政権運営をすれば野党のみならず自民党内部からも「国を分断するな」と抑制がかかって「国内融和」と「団結」が最優先されたはずです。少なくとも「東(西)陣営の圧力」にたいしてだけは国内(同盟国)団結してこれに当たらなければならないという「自制」が働いたのですが今はそれがないから「権力の暴走」が世界中のあらゆる国で横行しているのです。ロシアの「プーチン永久政権」も中国の「習体制終身化」も同じことです。

 

 では権力闘争とはどういうものでしょうか。既得権擁護派(保守派)と反擁護派(リベラル派)の勢力争いが最も一般的な権力闘争のかたちでしょう。既得権は富や権力の蓄積となって表れますから反擁護派は富の再分配や権力の分散を要求します。企業から個人へ、豊かな人から貧しい人への再分配が権力闘争の主戦場でした。ところがここにきて既得権の範囲が多様化してきたのです。そのひとつは「環境」でありさらに「エネルギー」も既得権の対象として浮揚してきましたし「性―LGBT]も対象とされています。

 これによってどのような変化が起こったのでしょうか。「経済=富}だけが権力の淵源であったときは「持つもの」と「持たざるもの」の対立軸だけで政党は存立可能でした。それが二大政党制です。ところが価値の多様化が進展するにしたがって既得権の対象も幅広くなってきてそのどれもこれもを二大政党に収斂することが難しくなってきたのです。経済的に豊かな層でも「環境」に関しては今すぐ「環境保護」しなければならないと考える人と環境よりもやっぱり経済を優先しようという考えの人に分かれるでしょう。エネルギーについても、石油燃料や原子力を主電源と考える層と自然エネルギーを最大化しようという自然エネルギー推進派の人とに分かれます。性に関しても堕胎容認派と断じてそれは許されないと考える立場に分裂しています。LGBTに寛容な人たちと古い道徳観に捉われてどうしても許容できない人も多く存在しています。

 二大政党制ではこの価値の多様化した時代に即応できなくなっているのです。はっきり言って二大政党制は時代遅れなのです。そのことを明確に認識してリーダーシップをとる人が現われてこないからアメリカの大統領選挙は「国民の総意」を捉えられない『不安定』な状況に陥っているのです。

 

 わが国でも同様の状況に陥っています。反自民で細川政権や民主党政権が実現しましたがまたたくうちに崩壊してしまいました。今は自民党一党独裁状況になりはてていますが、これは立憲民主党が相変わらず二大政党制に固執して「政権奪回」などと『幻想』を喚きたてているから閉塞状況から脱却できないのです。立憲民主党の支持層はいくら伸びても「国民の三分の一」以上には拡大しません。一方今の自民党――昭和の自民党のように左も、リベラルの一部も包含していた自民党でなく右傾化した自民党――も国民の半分を囲い込むだけの支持は得ていないことに気づくべきなのです。ひょっとしたら今の自民党に満足している層も「国民の三分の一」くらいかもしれないのです。自民党にも立民党にも不満を抱いている層が三割以上あるという現実をまず直視することです。そして自民党と立民党のあいだに多様な価値観を奉じた幾つかの政党が分立してそれを左右から取り込んだ「不安定なバランス」を保った政権の時代。これが今のわが国を真正に反映した政治体制ではないか、それが「えいっ、やっ!」で私の導いた考えです。

 

 「戦争」についてもこれまでの戦争観と現状を踏まえた戦争観は次元を異にしたものになるはずです。今の世界の為政者たちの「戦争観」は時代遅れなのです。そもそも現代において戦争の「必然性」はどこにあるのでしょうか。領土の拡大と労働力の暴力的増強の必然性を抱えた先進国が存在するでしょうか。

 「戦争」の必然性は主産業が「農業」であった時代には存在しました。なぜなら農業の生産性は領土の広さ(肥沃さ)と投入労働量に比例していたからです。次の「工業化」の時代にも「領土」の重要性はありました。「資源」の確保が必要だったからです。アメリカが中近東に地政学的重要性を認めていたのは「石油資源」を確保するためでした。そのために大戦後「イスラエル」という「人工国」を無理やりでっちあげて中近東の要衝に設え「石油資源確保」の「橋頭堡」としたのです。ところがシェールガス革命が起こって石油と天然ガスの「純輸出国」になった途端、トランプのアメリカは中近東から撤退を始めたのです。「世界の警察」を標榜していたアメリカが世界各国の基地の「駐留経費」の負担増額を駐留国に求めだしたのも、今やアメリカは「領土」も「エネルギー」も必要無くなったからなのです。

 

 領土もエネルギーにも不安のなくなったアメリカが「戦争」を煽るのは今や残されたたった一つの製造業である「軍需産業」を保護するためであり、そのために「戦争」という「幻想」で世界中を被いつくすのです。しかしアメリカ自体は「金融」と「情報」が主産業ですから戦争と兵器の重要性はほとんどなくなっています。トランプ大統領が自国の軍需産業と関係のない軍事費を削減するのは当然のことなのです。

 そのアメリカの軍需産業から中古(最新鋭でない)の兵器を言い値で爆買させられているわが国をアメリカは絶対に手放さないでしょう。こんな「お得意さん」は世界中にいないのですから。

 

 領土拡張の必然性がなく、しかも現在の国際情勢では領土の拡張など許されるはずもないのに、どうして「軍備保持」する必要性があるのでしょうか。軍備が無くなれば戦争の起こる可能性はゼロです。

 

 核兵器禁止条約が来年1月に発効します。これを機会に戦争について根本的に考えてほしいものです。

 

 

2020年11月2日月曜日

死闘

 向こう正面がアップになるとコントレイルが行きたがっている。こんなことは今まで一度も見せたことがない。福永が懸命になだめている。といっても引っ張り切ってケンカしたのでは馬の闘争心を暴発させてしまう、少し矯(た)め気味に馬と会話している。分かっている、キミに三千は長すぎる。いつもならここらあたりからゴーサインを出すのだが今日はもうちょっと待ってくれ!あと三百米、坂を上り切るまで。

 福永の悲痛な制御をあざ笑うようにルメールはアリストテレスをコントレイルにけしかける。1コーナー手前からピッタリと斜め横に張り付いてプレッシャーをかけつづけている。コントレイルは敏感だから間近に聞こえるアリストテレスの鼻息をズッと聞きつけて苛立っている。

 もう少しだ、あと百米待ってくれ!いつもならどんなに遅くてももうゴー!とコントレイルを解放している。しかし今日は三千米、まだなんだ!もう少し。しかしコントレイルの我慢は限界だった、もう待てない!福永は手綱をゆるめた。坂の頂上までまだ百米はある。

 菊花賞は京都競馬場三千米の外回り、二度の坂越えの長丁場。3コーナの手前二百米から高低差3メートルの坂を上って三百米で下る。この坂をユックリ上ってユックリ下る。それが鉄則だ。

 コントレイルは百米手前でスピードをあげて坂の頂上を駆け抜けた。やっとアリストテレスが1馬身半ほどうしろに下がった。このまま差を広げて4コーナーを回りながらアリストテレスの外に出す。外へ出してプレッシャーを振り切ってノビノビとコントレイルを走らせてやる。長かった三千米の最後の四百米だけはコントレイルの自由な走りにまかせてやりたい。そのためにアリストテレスを振り切りたかった。

 4コーナーだ、しかしいつの間にかルメールはコントレイルの真横にアリストテレスを張り付かせていた。外に出せない!コーナーを回って直線。福永はコントレイルを力いっぱい押し出す。すこし前に出た。しかしスグにアリストテレスが追い付く、並ぶ。また福永はコントレイルを前に出す、ルメールはくらいつく。もう少し、もう少し。あと百米、あと五十米。並んで二頭がゴールに飛び込む。とうとうコントレイルはアリストテレスに抜かせなかった。

 

 福永は何度も覚悟した。直線で外からかぶせられたらたいがいの馬はひるんでしまう、闘志が萎えて脚色が鈍る。自分も何度もそうして直線勝負で勝ってきた。少しくらい実力が上の馬でも外からかぶせれば押さえつけることができた。それがどうだ、二千米以上プレッシャーをかけつづけられながら、直線で外からかぶせられながら到頭コントレイルはアリストテレスに抜かせなかった。なんという馬だ、なんと強い馬だ!勝たせてくれた、コントレイルが勝たせてくれた。三冠のかかった菊花賞で自分は最悪のレースをしてしまった、3コーナーの坂の途中から追い出すという鉄則破りを仕出かし、直線では外からかぶせられるという最悪のレース運びをしてしまった。それなのにコントレイルは勝たせてくれた。

 

 どうしても獲れなかったダービーを二年前に勝って「一皮むけた」と評価してもらって自分自身も一段ステージが上がったような手応えを感じていた。今年は好調ですでに100勝してリーディング3位で重賞も9勝している。自信はあった。クルーも万全の仕上げをしてくれた。3冠がかかって緊張もあったが馬を信じていた、負けることは無い。そう思っていた。

 ルメールは凄い奴だ、一枚も二枚も上手だ。まだまだ彼の域には届いていない。豊(武豊)さんのレベルはずっとずっと先のことだ。俺はまだ「発展途上」だ。

 

 父子二代、無敗の三冠馬が誕生した第81回菊花賞2020は名勝負だった。五十年以上競馬を見てきた中で最高のレースだった。コントレイルはすばらしいサラブレッドだ。競馬をしていて良かった、しみじみそう思う。2月末から無観客で開催されていた中央競馬がこの開催から観客を入れるようになった。千席足らず(約800席)だがコントレイルは異常を感じたかもしれない。ファンのなかには無観客がコントレイルを勝たせるという人もいる。そうかもしれない。もしそうだとすればコロナ禍の2020が生んだ「レジェンド」としてもコントレイルは競馬ファンの記憶に残るにちがいない。

 

 コロナ禍の2020、競馬界では無敗の三冠馬が牡牝に出現するという稀有な年になった。デアリングタクトとコントレイルはその意味でもファンの記憶に残る名馬になった。長い競馬の歴史の中でGⅠ8勝馬が現われるという記念の年にもなった。アーモンドアイもすばらしいサラブレッドとして称賛しつづけられるにちがいない。巨人の菅野投手が開幕戦以来13連勝という記録を打ち立てた。将棋の藤井聡太君が18歳1ケ月という史上最年少で二冠と八段昇格を達成した。全米オープンを制覇した大坂なおみ選手は初戦から決勝まで7枚のマスクに虐殺された7人の黒人の名前を浮かび上がらせて「無言の抗議」を示した。感動的だった。オリンピックが戦争以外ではじめて延期されたという異常な年に史上稀有な記録がつぎつぎと現れたのは偶然であろうか。

 

 福永洋一という天才騎手が不慮の事故でターフを去ってから41年(落馬事故は1979年3月だった)。あとを継いだ祐一が牡馬三冠をコントレイルで達成した。辛勝だった、難産の記録達成だった。これは父からの無言の戒めだったかもしれない。祐一よ、もっと高みを目指せ、と。