2018年5月28日月曜日

卑怯者の時代

 子どもの頃(といっても随分後になって、高校大学になっても)『卑怯者』と呼ばれることを最も『恥』としていた。この心はおとなになってからも「人生訓」として作動して、判断するときやその後で「卑怯でなかったか」と思案したものだった。
 「卑怯」という言葉を辞書で引いてみると、「①心が弱くて物事をおそれること。勇気のないこと。臆病。②心だてのいやしいこと。卑劣。」となっている。私が一番親から卑怯呼ばわりされたのは弟をいじめたときだった、「弱いものいじめをするな。卑怯者のすることやぞ」と。今とちがって年上の子どもと一緒に遊ぶことも多かったから喧嘩になることもあってそんなとき、どうせ負けるのが分かっていたから逃げて帰ったが逃げながら「卑怯なことをしてしまった」と恥ずかしい思いにだれも見ていないのに、顔の赤らむのを感じていた。
 最近フト、「卑怯ということばを随分聞かないなぁ」と思った。
 
 彦根市の交番で部下の巡査が先輩を『うしろ』からピストルで撃った事件の報道に接したとき、「なんという卑怯な!」とまず思った。撃った巡査にはそれなりの事情も背景もあったであろう、彼の中では「必然」の行動であったかも知れない。しかし、それでも、ピストルで「背後」からひとを撃つことは卑怯な振舞いだ。人間として「やってはいけない」卑劣極まる行為である。捜査が進めば隠れた状況が明かにされるだろうが、「背後から撃ったという卑怯さ」だけは消されることはない。
 類似の事件はこれまでも数々報じられてきた。しかし、「背後から」というのだけは無かった。少なくともヤクザの抗争でない一般人の場合「背後から」は絶無であった。これは根本的な『ちがい』と思う。
 
 ここ数週間連日報じられている「日大アメフト部員の危険反則行為」も同様だ。ボールを持っていないQB(クォーターバック)を背後からタックルした反則は『卑怯』そのものだ。動画を見れば分かるように、彼、QBはパスに失敗して「しまった!」と天を仰いで脱力してうしろに体を倒し気味にしている。これがもし、うつむき加減に前屈みになっていたら重篤な「脊髄損傷」を来たしていたにちがいない。天恵の一瞬であったればこそ「全治三週間」の「軽傷?」で済んだのだ。
 この反則が監督(ヘッドコーチ)の指示であることはアメリカン・フットボールを知っている人には『自明』らしい。選手が単独であのようなプレーをすることは「絶対」に有り得ない、という。にもかかわらず当の監督はそれを認めようとしない、それならと被害者の保護者が「被害届」を提出して受理された。今後警察の捜査で真実が明かされるだろう。
 これに関して報道の伝えるところでは、当該の反則をした選手に対する同情論や救済を求める世論が優勢なようだが、それはどうだろうか?かの監督は日大で絶大な権力を有していてコーチはおろか大学の関係者ですら注意できない状況で一選手が彼の命令に反旗を翻すなど到底不可能事らしい。ということで、彼の反則を「いたしかたない行為」として「寛恕(あやまちなどをとがめずに、広い心で許すこと)」しようという考え方が世間で広がっているがたとえ世間が恕(ゆる)したとしても彼、反則を犯した選手は一生後悔しつづけることはまちがいない。何故なら彼は「決して行ってはいけない、アメフト選手なら決しておかしてはならない」『反則』を行ったのであり、そのことは彼が一番わかっていることなのだ。とても監督に逆らえないチーム事情があったことはチームメイトも世間も理解してくれるにちがいない。それでも「なぜ監督に従ってしまったのか?」という自責の念は一生彼を苦しめるにちがいない。「どうして俺はこんな卑怯なことをしてしまったのだろうか」という「磔刑(たっけい)の重み」に一生彼は苦しめられるだろう。
 近畿財務局の職員が「文書改竄」を命じれられて、改竄して、自殺してしまったことがあった。彼も抗い難い状況の中で「命令」に背いて、命令を拒絶できなくて改竄せざるをえず、しかしその行為の誤りの「重さ」に耐え切れずに自殺してしまった。
 戦後これまで何度同様の事件があったことか。その都度、今回と同じように「命令権者」は非難されたが「実行者」は「寛恕」されて同情されて、許されたり減刑が認められてきた。そして組織の改変が叫ばれたが組織はほとんど元型のまま今日に至っている。
 自殺するくらいなら、組織を「離反」する道もあったはずだ。命令を「拒絶」して役所(会社)を辞める覚悟で臨むこともできたはずだ。
 たとえば近畿財務局の職員なら役所を辞職してメディアに情報を持ち込んで「不正」を明らかにする、そしてメディアやNPOで「公益通報者」を保護する運動を推進するような道を開拓する、そんな生き方もあったはずだ。そうでなくとも、彼の勇気ある行動が報じられれば救いの手を差しのべる人がいないとも限らない。今回の日大アメフト部員でも、監督の不法な命令を拒んでホサれて、退部して、それが報道で問題提起につながって「日大アメフト部」の浄化が実現できたかもしれない。そうでなくとも、アメフト部のOBは多数存在している。彼の窮状を見かねて救済してくれるOBは必ず有るにちがいない。
 
 近畿財務局員も日大アメフトの選手も、追い込まれて客観的に事態を見る余裕をなくして卑劣な行為に及んだ。今ある自分、それ以外に自らの生きる道が見出せない状況に陥っていた。でも、彼らの日頃の生き様は必ず見てくれている人が居て、そんな人たちは彼らを放っておくはずがない。必ず「もうひとつの道」は開けるものだ。勇気をもって、『正々堂々』と自分の信じる道を選択すべきなのだ。『卑怯者』にならない、『恥』を知る生き方、それができる日本であってほしいではないか。
 
 忖度して、国民のためでなく時の権力者に阿る役人達。少数意見を平気で無視して一部の人の利益に奉仕する政治家。こんな人たちが大手を振っている時代。
 今はまさに『卑怯者の時代』だ。でも、そんなことが罷り通る時代はすぐに終わる。その一歩はまず、わたしが、あなたが踏み出さなければはじまらない、「勇気ある一歩」を。今回の事件が正しいかたちで終息して『正々堂々』の時代になって欲しい。
 
 中途半端な同情だけでは世の中を「もとから変える」ことはできない。
 
 

2018年5月21日月曜日

諍いの底に

 すぐれた文学作品は一瞬にして人生に光を当ててくれることがある。フランスの女流作家ボーヴォワールが1967年に著した『モスクワの誤解』(井上たか子訳2018年3月人文書院刊)はそんな名作のひとつで、七十七歳という年齢に到ってもいまだに分からない「老い」ということ、「老いた夫婦」というものを鮮明に自覚させてくれた。
 
 もはや女性の気を引こうとは思っていなかった。だが、少なくとも、彼を見て、以前は女性に好かれていただろうなと思ってもらえる程度のことは願っていた。完全に性的なものを失った存在にはならないこと。
 この文は今の自分の生活律を見事に言い当ててくれて好きな一節である。反対に女性の老いを表現したことばは意外に切ないものになっている。 
 その青年は、若くて魅力的な一人の男だった。だが、彼にとって彼女は無性の存在であり、八十歳の老女と同じだった。彼女が彼のあの視線から立ち直ることはけっしてなかった。彼女はもはや自分の身体と同体ではなくなったのだ。それは見知らぬ抜け殻、悲しい偽装にすぎなかった。(略)ビロードの様な二つの瞳が無関心に彼女から逸れたときのイメージ。それ以来、ニコルはベッドの中でも氷のように冷たいままだった。少しは自分自身を愛せなければ、抱かれたいとは思えない。
 「少しは自分自身を愛せなければ…」、このことばは女性に限らず男性にも必要な心で、加えてお互いが相手を認め合うところがないと毎日が死んだような繰り返しになってしまう。それをボーヴォワールはこう描く。「夫婦になったからそれを続けるような夫婦…」「ある年齢を過ぎて、実際に分かれることもできなくて、仕方なく、一緒に暮らしているような人たちのあの悲しい老い…」「彼らの会話は、どこかうまく動かなくなっていた。お互いに、相手の言うことを多かれ少なかれ歪めて受け取った。こうした状態から抜け出すことはできないのだろうか。」
 
 物語はこんな内容になっている。
 アンドレとニコルはパリに住む元高校教師。定年退職して、二人の息子であるフィリップが自立して、時間がタップリできたふたりはモスクワへ一ヶ月のバカンスに出かける。モスクワにはアンドレの先妻との間に生まれたマーシャがロシア人と結婚して暮らしている。出版社に勤めるマーシャの案内でモスクワを巡る二人の心の動きを交互に二人の視点を入れ替えながら、ボーヴォアールは巧みに描く。
 モスクワに飽きたニコルは早く次の火曜日(予定通りモスクワを経つ日)がくることを願っていた。ところが突然その先の日曜日に30キロほど先にある別荘に行くことを告げられる。アンドレはニコルに相談して決めたという。いつだったかの豪華な晩餐でふたりが心地よく酔って帰ったホテルで相談してニコルも同意したという。ニコルはそれを覚えていない。
 こうして諍いを始めた二人の心理はどんどん抜き差しならない深みに落ち込んでいく。
 
 ひとつの言葉がアンドレとの絆を断ち切るのに一分とかからなかった。わたしたちはお互いにしっかりと結びついているなどとどうして思うことができたのかしら。一緒に過した過去から考えて、彼女は自分が彼に執着しているのと同じくらい彼も彼女に執着していると信じていた。しかし、人は変わる。彼は変わったのだ。彼が嘘をついたこと、最悪なことはそのことではなかった。彼は、叱られるのが怖い子どものように、ふがいなく嘘をついたのだ。最悪なのは、彼が彼女の気持ちを考慮しないで、マーシャと二人で決めたことだ。彼女のことはまったく忘れていたのだ。彼女の考えを聞くことはおろか、知らせもしなかった。事態を正面から見る勇気をもたなければ。この三週間、彼がわたしたちが差し向かいで過せるような心配りを一切しようとしなかった。彼の微笑み、彼の優しさはすべてマーシャに向けられていた。(略)彼はここにいることが気に入っていて、わたしも同じように気に入っていると信じているのだ。それはもう愛情なんかじゃない、わたしはひとつの習慣にすぎないのだわ。(略)彼はいつもそうだった。自分が幸せなとき、彼女も幸せなはずだと思っている。実際には、二人の生活にはほんとうの意味での均衡はなかった。アンドレは、まさに、彼が望むものを手にしていた。(略)それに対してニコルは、若い頃のあらゆる願望を、彼のために諦めた。彼はそのことをわかろうとしたことはなかった。(略)彼は彼女を仕事から引き離した。彼女の手中には何もなく、この世で彼以外には何もなく、突然、その彼も失ったのだ。怒りのもつ恐ろしい矛盾、それは愛ゆえに生まれ、愛を殺してしまう。
 彼は歳をとることの唯一の代償として、フィリップが結婚し、ニコルも退職して、彼女のすべては彼のものになるだろうと期待していた。しかし、彼女が彼を愛していないとすれば、彼だけでは満たされていないとすれば、頑固に恨み続けているとすれば、二人だけで暮らすという夢も危ういものになる。ある年齢を過ぎて、実際に分かれることもできなくて、仕方なく、一緒に暮らしているような人たちのあの悲しい老いを、彼らもまた生きることになるのだろうか。
 
 永い間生活を共にして子を生(な)しやっと二人だけの時間を手に入れた老いた夫婦にはいつ爆発してもおかしくない「諍いの種の蓄積」がある。それはほんのささいな言葉、しぐさで噴き出してしまう。この小説のふたりは互いに相手の愛を『独占』したい、できると思っていて、それを裏切られて諍ってしまった。そしてこうした『諍い』はわれわれの間でいつ起っても不思議はないのだ。
 
 破綻寸前までいった二人だったがやがて和解する。
 「あなたに言わなかったこと、そして大切なことがひとつあるわ。モスクワに来たときから、わたし、急に老いを感じたの。わたしには生きる時間がほんのわずかしか残っていないことを実感したのよ。そのために、少しでもうまくいかないことがあると我慢できなかった。あなたはご自分の年齢を感じていないけれど、わたしは感じるの」「えっ!感じているよ」と彼は言った。「しょっちゅう、そのことを考えているよ」「ほんとう?そんなこと聞いたことがないわ」「きみを悲しませないためだよ。きみだって、言ったことはないじゃないか」(略)「話し合うことができて、とても幸運だわ」と彼女は言った。言葉を用いることのできないカップルの場合、誤解は雪だるま式に大きくなって、彼らの間のすべてを駄目にしてしまうのだ。
 
 老いと老いた夫婦の「危うい均衡」を描いたこの小説だが、しかし『老い』は決して絶望的なものではない。ボーヴォワールはこう力づけてくれている。
 老いるとは自分が豊かになることだという!多くの人がそう思っている。歳月はワインにブーケを、家具に古色を与え、人に経験と英知を与える。一瞬一瞬は次に続く一瞬によって包み込まれ、裏付けられ、より完成した未来を準備する。失敗さえもが、最後には修復されるだろう。「沈黙の粒子の一つ一つが成熟した実となる機会である(ポール・ヴァレリーの詩「棕櫚」の一節)」。
 
 
 
 
 
 
 
 

2018年5月14日月曜日

メルカトル法と東大

 最近興味を引かれたものに「The True Size Of…」というパソコンソフトがある。メルカトル法で描かれた地図の縮尺誤差を修正して特定の国や州のサイズをほかの国と比較できるソフトで、メルカトル法がもっている「緯度による誤差」が解消されて両者の実際の大きさ見ることができて驚きだった。メルカトル法は球体の地球を二次平面に展開するため「緯度による誤差」がどうしても生じてしまう――赤道がゼロになって北(南)に移るに従って小さく表される。インドシナやケニアは実物大に表示されるがデンマーク、エストニアなどは相当小さくなる。南北に細長い我国は北緯30度から45度に位置しているから実際以上に「狭い国土」に映っている。試みにソフトで比較した我国を見てみるとポーランドからハンガリー、イタリアへ伸びていて、これまで意識していた広さより実際は相当大きな国土なのが分かる。
 そこで「世界の国の面積」で我国の広さを調べてみると62位で377962k㎡(世界の0.25%)、ドイツ63位357121k㎡(世界の0.24%)よりも僅かに大きくイタリア、イギリス、ギリシャ、北朝鮮、韓国とは相当開きがあることが分かる(朝鮮半島全体よりも大きい)。最大国はロシアで世界の11.5%を占めていて別格で、つづいてカナダ、中国、アメリカとなっている。メキシコやインドネシアは我国の5倍、フランスは1.5倍ほどもある。極東の細長い島国で、ヨーロッパの多くの先進国よりも小さな国土しかないという我国のイメージだったが250ケ国・地域もある世界のうちではまあまあの広さなのだということが分かった。
 1931年満州事変が勃発、15年戦争に突入して第二次世界大戦へと戦火が拡大していったとき、当初劣勢を強いられた中国の戦略家が「二三年は日本が優勢だろうが長期戦になれば我国が勝利をおさめることは明らかだ」と自信を持って部下を諭したという。実際戦局が長引くに従って、攻めても攻めても前線を後退させて敗走していく中国軍を追い詰めていく我軍は、国土の広さに眩惑されてどこまでいけば敵軍が降伏するか見極めがつかず、投入物資の欠乏と中国軍兵力の無尽蔵さに圧倒されて敗戦の憂目をみるに至った。航空機の戦力に占める割合が低かった時代においては「国土の広さ」は絶大な戦力であった、それはナポレオンがロシア遠征で敗れたことでも証明されている。
 しかし戦力が多様化し国土の広さが『国力』につながる時代ではなくなり、「国民の福利・安寧」を国家経営の主眼と考えるならば、むしろ、国土の広さと国民の多さは国家経営の障害になる可能性さえある今、なぜ中国やロシアは「拡張主義」をとるのだろうか。不気味である。
 
 このソフトを見終わったとき、なぜか「東大」を思った。昨今の官僚や政治家の「不適当発言」や「文書改竄」「虚偽答弁」「強弁」などのてんやわんやの騒動のほとんどが「東大卒」、それもかなり上位の成績を修めた優秀な賢い人たちの所業であることを考えると、「東大」を我国最高レベルの「学府」とみている我々庶民の『眼』は『メルカトル法の眼』なのではないかと思ったのだ。
 彼らを評価して「アタマは切れたし、仕事は良くできたのに……」という言葉が使われるが、それと「倫理的」に「清廉」なこととどっちが大切な資質なのだろうか。
 仕事ができる、というが、彼らの代わりは幾らでもいる。財務省は官庁の中の官庁といわれて東大のトップスリー級の人材が採用されるが、同期入庁の競争の結果最終的には次官、長官、官房長の他は庁外に転出してしまう。しかし、彼らと転出組との差はほんの僅かであって運も働いて最終的な序列が決まったに過ぎない。次官の代わりは存在するし長官も官房長も同様である。とすれば、仕事ができる、ということはそれほど重要なことではないのではないか。
 「東大」のトップクラスの卒業者は現在の我国においては「最高の頭脳」の持ち主といって過言ではなかろう。しかしそれは「学校の勉強」ができたというだけで、いわば「東大型頭脳」の最高級という意味に過ぎない。別の見方をすれば、現在の我国の「学校制度」においての「最高級」が「東大卒業者」ということだ。では、現在の我国の学校制度とはどういうものなのだろうか?
 
 明治維新以来我国は「西欧先進国」に「追いつけ、追い越せ」を目標にして国づくりを行ってきた。産業革命によって齎された「生産力」を利用して「工業化」を達成することが「世界制覇」につながる『国のモデル』を追求してきた。それを「近代化」と呼んできた。当然「学校制度」もこの「近代化=工業化」を達成するために最も効率的なものにならざるを得なかった。「工業化」に適した「人材」とは大雑把に言えば、同じものをどうすれば最少のコストで最大量つくりだすか、に優れた能力をもった人―頭脳といえる。それは結局、既にある知識・技術を理解し習得して最速・最適活用する能力に収斂する。現在の「学校制度」はこの能力を養成するために最も適した「制度」になっている。その選抜システムが「大学共通一次試験」になって今があり、この「共通一次」で最も高得点を取った人たちが「東大」に入り、卒業して、官僚や政治家の多くを占めているわけである。
 
 我国は今や「工業化」を終え、次のステージに入っている。「サービス産業」であったり「創造・想像商品」であったりが国の総生産額の7割近くを占めるようになっている。生産力として「人工知能AI」や「ビッグデータ」の活用が有望なものとしてこれからの経済社会が運営されていくであろう。そうした社会では、これまで我国の上位層にあって国を牽引してきた、官僚(公務員)であったり弁護士や計理士など「士(さむらい)仕事=士業」がAIに「置き換わる」と予想されている。
 ということは、東大をトップとした「東大型頭脳」の必要性が著しく「不要」になるいうことであり、「学校制度」の改革が近い将来必ず行われることが予想できる。
 
 これからそう遠くない将来に我国の社会は「大変革」を起こさなければ国の経営が危うくなる。現在はその「端境期」にありこんな時期は、少々国の発展を犠牲にしてでもじっくりと新しい「国づくり」に励むほうが賢明である。「進歩」「発展」よりも「清廉」で「公平」「公正」な人材が『重用』されるべきなのだ。
 
 「東大型頭脳」は当分の間「清廉」に席を譲ってもらうおう。
 

2018年5月7日月曜日

あるアイドルの場合

 人気アイドルグループTのYメンバーが女子高生に犯した「淫行」の報道が連日マスコミをにぎわしている。結局起訴猶予になったが事の重大さから「無期限謹慎」の処罰を彼は科せられ。J事務所にはSというトップグループがありTは長年ナンバーツーの位置に甘んじてきたが昨年Sが事実上解散しやっとトップに登りつめ、又折りしも来年が結成25周年を迎えてその記念ツアーをスタートさせようとした時期だけに、他のメンバーにとっては悔やんでも悔やみきれない「無念」極まる事件であったに違いない。「何をやっているんだ」という思いだったろうし長年の「盟友」だっただけに一切知らされていなかった「仕打」は『裏切り』と感じたとしても無理はない。
 ニュースショウの伝えるところでは、サーフィンが好きで早朝5時半に起きて2時間先の湘南でサーフィンを楽しみそのあと仕事場に行って仕事をこなすという毎日を過していたというが、子育て真っ最中の奥さんにとってはたまったものではなかったろう。いわば「育児放棄」して自分の趣味に没頭していたのだから離婚されても致し方ない振舞いであり、このへんに彼の『幼さ』がうかがえる。
 離婚が影響してか酒におぼれ肝臓を悪くして入院していたその退院の日に焼酎一本を呑み泥酔して女性を呼び出した、しかも最も扱いやすい「女子高生」を選んだところにも『幼さ』と『弱さ』そして『ずるさ』を感じる。他のメンバーが『裏切り』と語らざるを得なかったのも彼のそんな一面を知ったからであり、四半世紀にわたる「盟友」関係の中で彼のそうした弱さを見出せなかったこと、そしてそれを「糾(ただ)して」やれなかった自分達の「無力さ」への『悔恨』も強くあったに違いない。
 最も気の毒なのは離婚した妻やこどもたちで、慰謝料なり養育費は彼がグループ活動することを前提にしているだろうから芸能活動ができなくなれば決められた金額は支払えなくなり、生活レベルを維持することは当然のことながら困難になるわけで、父親としての「無自覚さ」「無責任さ」は罪深い。
 
 ところで彼は「の法則」という教育情報バラエティー番組MCを務めていた。中高生や10代、特に女子高生が興味を持っている話題をリサーチしてテーマごとにランキングを作成そのランキングを基にスタジオに集まった主に中高生大学生がトークを繰り広げるという番組で、彼は年長者でもあったから指導的教育的立場から道徳(倫理)的言辞を弄していたにちがいない。ここに「道徳」の『教科』としての決定的な『不適格』さをみる。
 
 道徳教育の教科化ついては先日NHKで、先行して「教科としての道徳」を実践している学校を取材したドキュメントを放送していたが、「問題点」が鮮明に浮かび上がっていた。
 例示された道徳項目のひとつは「無償の愛」でこんな内容だった。ある日子どもがお母さんに請求書を提出する。お使い…30円、お掃除…20円などと列挙されたものだったがお母さんはだまって子どもの要求にこたえる。その数日後、今度はお母さんから子どもに請求書が渡される。そこには、お料理、洗濯、掃除などとお母さんの日頃の仕事が数多く書かれていたが料金はみな『ゼロ』。要するにお母さんの子どもや家族のための行為=仕事は「無償の愛」だということを分からせようとする教科書の内容であり、授業の進め方もその方向性に沿って進められる。ほとんどの子どもたちは先生の思惑通りに討論するのだが中にひとり「お母さんもいくらかはお金をもらってもいいと思う」という生徒がでてくる。そうでないとお母さんがかわいそうだから、というのが彼の言い分だが同調する子供は無く彼はさらし者になって涙ぐむ。先生は彼に手助けしてやることはできず、授業が終わってから彼をなぐさめるくらいしかできない。卒業したばかりの未熟な彼女には「道徳」という教科は「難度」が高いことを画面は訴えていた。
 もうひとつは「ルールを守ることの大切さ」を教える内容だった。少年野球の一場面。攻撃チームの監督がチャンスを広げるために打者の少年に「バント」を命じる。ところが彼はチャンスボールが来たのでヒッティングしてそれがヒットになってチームは勝利する。試合後監督は「監督の指令に従うのがルール。試合には勝ったけれでもルールを守らないのは悪いことだ」と少年を諭す。授業はこの少年のとった行為と「ルールを守る」という「取り決め」の大切さについて討論が交わされる。勿論結果は教科書通り「ルールを守ることの大切さ」を確認、納得して授業は終わる。野球のルールと社会の法律のようなルールとはちがうのではないか、という疑問を抱く子どもは出ることもなく。
 一見この授業は成功したようにうつる。しかし問題点が二つある。このルールが子どもたちの『同意』を得ているかどうかという点、もうひとつは「多数決の善悪」を検討していない点だ。
 子供たちは学校に入っていくつもの「ルール」を『押し付けられる』。最近の例で言えば「茶髪禁止」など。ところがこれらの「校則」と呼ばれるものは以前から定められているもので、新しく入ってきた生徒達には『選択』の余地は無く「守らなくてはならないもの」として与えられる。しかしルールというものはそれが適用される構成員の「同意」のもとに実行されるべきである、直接的であろうと議員を選挙で選ぶという間接的な形であっても。これが「民主主義の原則」であるはずだ。ところが「学校」ではこの原則が適用されない。校則を生徒会などで新入生の同意を取り付けて、そういう過程を経て生徒達に守らせている学校を私はしらない。いろいろ校則に関して問題や事件が起こっているのは「民主主義のルール」に則っていないからだという認識が社会的に浸透していないことが残念でならない。
 「多数決の善悪」については最近の政治家や官僚の引き起こす事件の報道で子どもたちの多くが疑問を持っていることだと思う。事件や虚偽答弁や強弁が結局「多数(決)」の論理で推し進めれれて、事実や真実がうやむやの内に葬り去られていることに賢明な子どもたちは気づいている。民主主義というものが「少数者の意見」をどのように取り込んでいくか、それを理解し踏まえた上で、多数の意見が修正され構成員の納得のいく形でルールや法律が定められていく。それが本当の「民主主義」だということを子どもたちに教えないと、民主主義を理解したことにならない。多分、社会科の授業ではそう教えているはずだが「道徳」の時間ではその過程が省かれている。これは大問題だ。
 
 授業を見ていて最も疑問に思ったことは「教科書が劣悪」だということだった。教科書ライターが書いた文章だろうが「悪文」すぎる、感動がどこにもない。価値観を得たり、教訓を受け止めたりすることを経験してきたこれまでを思い返してみると、必ず感動があった。他人の説教やハウツーものの本から得たものは結局頭に残らないし当然のことながらその「徳目」が自身の「価値観」に転換したことは無い。芥川の『蜘蛛の糸』や太宰の『走れメロス』は名作・名文であったからこそ「利己心の戒め」や「友情と信頼」という『倫理』がスーっと心に沁みこんで人生の幾つかの場面で感動と共に甦ったのであって、道徳の教科書のような「悪文」で「教えられて」も『人生の糧』として身に付くとは到底思えない。
 
 国語もそうだし英語でも社会でも、あらゆる教科で「道徳(項目)」に関連する部分を含んでいる。検定教科書というような形でなく、すべての教科をすべての教師が、総合的に精査して、学校独自の「道徳」を形づくる。その方がきっと子どもたちの『学び』につながるし道徳を身に付けることもできると思う。
 「教科道徳」は見直すべきだしそれは早いほうがいい。