2014年9月29日月曜日

崩れゆく絆

 もし、日本列島が朝鮮半島と陸続きになっていて敗戦後日本国が分割され東京以北が北朝鮮や中国の一部と神奈川以南が韓国台湾と統合されて別々の国になり、戦勝国中国から100万人近い移民が送り込まれ中央政府は中国系の人民占められ公用語は中国語、国教がキリスト教に定めれられたとしたら、それから60年以上たった今、日本国民はどうしているだろうか。
 中東やアフリカで起こっている政治経済状況はひょっとしたらこんなことなのかも知れない、フトそう考えた。
 
 第次世界大戦終結から70年近く経過して、当時の戦勝国がその絶対的な権力で編成した「戦後世界体制」があらゆるところで綻びを露呈している。領土と国民国家、国連とIMFなど―西欧的価値観や文明観を基盤とした世界の管理体制が機能不全に陥っている。
 我国は明治維新にそれまでの『日本的なるもの』の殆んどを否定して近代化=西欧化に邁進してきた。しかし翻って今、科学技術の一部、たとえば軍事技術と生産技術(機械的工場生産システム)などを除いた多くの文化的社会的領域は決して欧米に劣っていなかったのではないか、そんな疑問が否定できない。
 
 アフリカについて考えるとき我々の抱いているアフリカのイメージは欧米の書物によるところが多い。それらによって植えつけられた代表的なイメージは「野蛮で未開の地」でありヨーロッパ文学はこうしたアフリカの否定的なイメージを増幅してきた。そしてその未開の地に「文明」をもたらし豊かな社会を与えた、というのが西欧社会の言い分であった。
 アフリカ文学の父―チアヌ・アチェベの「崩れゆく絆(1958)」は、19世紀後半にキリスト教と植民地主義勢力の到来がアフリカにもたらした暴力的な転覆と破壊をを描くと同時にヨーロッパ人の目に『未開』と映ったものが、実は人びとの生の営み(農耕サイクル)と信仰(先祖信仰と輪廻)に深く根ざしたものであることを理解させようと試みたアフリカ文学の画期となる名作である。
 「彼はまた評論『アフリカのイメージ――コンラッド《闇の奥》の人種主義』(1977)において、『闇の奥』がアフリカ人から人間性と言葉を奪い去り、アフリカを『ヨーロッパすなわち文明のアンチテーゼ』として描いていると弾劾した」。「植民地支配の線引きをもとに統合された事実以外に、国家としての成立条件も根拠も曖昧なまま、ナイジェリア(アチェベの生地)はどこへ向おうとしているのか。そんな不透明な将来に対する漠然とした不安が、大戦後勢いを増した反植民地闘争の勝利の希望と混ざりあうように漂っていたのである。(略)植民地支配以前のアフリカの高度に発達した共同体と文化を描き出し、ヨーロッパの到来以前のアフリカが野蛮で未開の地であったと断じる植民地主義の神話を打ち崩そうとすること。それはヨーロッパ文学のなかで増幅されてきたアフリカの否定的なイメージに対する挑戦であったと同時に、植民地支配下で文化や歴史性を剥ぎ取られてしまったアフリカ人自身の精神を再生させて、新しい時代へと導くことでもあった。(光文社古典新訳文庫『崩れゆく絆』栗飯原文子訳、解説から引用)」。
 
 「お前たちにもわしが言うことをしっかり聞いてもらいたい。わしは老いており、お前たちはみなほんの子どもだ。わしはお前たちのだれよりも、よく世の中のことがわかっておる。自分のほうがわかっている、と思うやつがいたら、名乗り出てもらおうじゃないか(同書p206)」。堂々たる長老の存在を許した豊かさ。
 「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。われわれはあのまぬけっぷりを見て面白がり、ここにいるのを許可してやった。しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった(同書p264)」。文明人の狡猾さと残酷さ。
 
 「アラブの春」から早4年、一向に新秩序は生まれない。それどころか「イスラム国」が混乱を増幅している。欧米先進国の「文明の論理」を力ずくで押しつけるだけでこの「混沌」から抜け出せるのだろうか。

2014年9月22日月曜日

政府の成長戦略を考える

 ドル高が急である。9月19日の終値が109円を超えた。安倍政権が発足して極端な円高80円前後が是正され102円内外という心地よい円安で経過してきたが今年8月20日頃を境に103円104円と下げ調子が加速し9月に入って3週間で一気に5円以上下げてしまった。アメリカ金融政策の超緩和策からの脱却が具体的になったことが原因だろうがこの傾向がこのまま続くと日本経済への悪影響が懸念される。
 
 安倍政権が発足して1年半以上が経過したが経済政策の「3本の矢」のうち「成長戦略」が不発のうちに『外国資本の国外逃避―円からドルへのシフト』というドラスティックな形で安倍批判が噴出したと見るのが妥当であろう。事実として成長戦略は具体的に何も実現されていない。日銀による超金融緩和政策が市場に好感を持たれ円高是正と株高が演出されていかにも経済が好転したかのようにメディアは報じているが経済の仕組み―規制緩和も財政改革もなされないまま『無駄な時間』が過ごされている。そればかりか来年度予算の概算要求が101兆円を超える巨大なものになっており「財政規律」に緩みがでている。日本政府の債務残高がGDPの200%を超える世界最悪の状況にあり、こを打するために膨張する社会保障費対策として消費税増税が打ち出され4月に8%に今年中にも来年10月の10%増税が決定されようとしているにもかかわらず、一向に財政の効率化を図ろうする気運が起こってこない。
 見えない成長戦略と財政規律の緩み―外国資本は厳しくわが国を見つめている、そう感じさせる「急激な円安」である。しかしテレビのニュースショウでは円安のメリット、デメリットなどという的外れな話題に終始しているのは何とも心もとない。
 
 さてその成長戦略だが「日本再興戦略2014」では「日本の『稼ぐ力』を取り戻す」として①コーポレートガバナンスの強化②公的・準公的資金運用の在り方の見直し③産業の新陳代謝とベンチャー加速、成長資金の供給促進、を打ち出している。またこれを補足する形で「企業と投資家の望ましい関係構築ロジェクト(伊藤リポート)」が経産省から公表された。このふたつの政府戦略の目指すところは、持続的成長のためには企業と投資家の協調的関係の構築が重要でありややもすれば内向きで現状維持的な現在の企業家マインドを投資家の厳しい視線で成長に振り向けさせようとするものであろう。そして成長の指標として世界の投資家に評価される株主資本利益率(ROE)の最低ラインとして8%の数字を掲げた。
 しかしこうした市場重視・投資家重視という戦略は極めて危うい志向である。何となれば市場―投資家は「短期的利益志向」が非常に強く今我が国の企業に必要な「持続的長期成長戦略」を彼らの経営監督機能に求めることは矛盾がある。またROE(自己資本利益率)は現在のアメリカの株高が多くの企業のフリーキャッシュフロー(純現金収支)を上回る自社株買いによるバランスシートのバブル化によるところが多いことを考えると、企業成長力を測る指標として相応しくない。むしろROA(総資本利益率)を用いるべきである。
 いずれにしても政府の成長戦略は本質をすり替えた『市場迎合的』な傾向が強く再考を促したい。
 
 成長のために企業に(長期を見通して)投資や賃金増に資金を振り向けさせようとするなら、将来に利益が見込める環境を醸成する以外に方途はなく、規制緩和や税制・財政の改革を積極的に進めることが「本道」である。そして人口減が成長のマイナス要因として確実化する現状においてより重要なことは働く人たちが安定した雇用を確保し仕事を通じて職務能力を向上させ生産性を高めることである。
 
 雇用こそ企業の最も重要なレゾンデートル(存在理由)であり景気の調節弁として安易に解雇して企業財務強化で不景気を乗り切ろうとする『アメリカ型労働政策』はわが国には馴染まないことを銘記すべきである。

2014年9月16日火曜日

もうマスコミには踊らされまい

 今年はマスコミに翻弄されているなぁ、とフト思った。錦織のテニス全米オープンがそうだし、サッカーのW杯もそうだった。ちょっと前の小保方晴子氏と理研のスタップ細胞は結局ヌカ喜びだったし佐村河内氏のゴーストライター事件は後味の悪い幕切れに終った。すべてマスコミの過剰な演出で『熱狂』に浮かされ、直後に『失意』に突き落とされるというパターンだった。新聞やテレビのマスコミを「社会の木鐸」と信じてきたが彼らにはもうその矜持のかけらもないのだろうか。
 
 まず直近の錦織選手の全米オープンについて。ジョコビッチを破った準決勝直後から繰り返し繰り返し、専門家素人を問わずまるで既定の事実のように優勝の予想を口にした。しかし、少しでも冷静に考えれば不安のほうが募るはずなのだ。全米オープン前、足親指の手術をしなければならない状況に追い込まれ術後1ヶ月ばかりで試合に挑んだ。前哨戦をこなしてその後の2試合を4時間超のハードなゲームに勝利してようやく準決勝に臨んだ。下馬評では不利を伝えられた中でNo1ジョコビッチを熱闘の末下したのだから疲労は頂点に達していたはずだ。決勝前のインタビューで「体を切り替えて決勝に臨みます」と答えた言葉に違和感を覚えた。普通はこうした場合「気持ちを切り替えて」というはずで「体…」と言わざるを得ないほど体力的に辛かったに違いない。勿論精神的にも限界を超えていただろう。ハードなゲームを技術と肉体の限りを尽くして勝ち上がり強敵ジョコビッチに挑戦してとにかく勝ち切った、ここが「頂点」であったというのが真実であろう。だからチリッチとの決勝は相手が誰とかという次元でなく錦織自身がとにかく心身をもう一度リセットして戦う状態に高められるかどうかが問題だったのだ。加えてテニスのプレーで「サーブ」が最も体力を反映する技術だからこの大会で目覚しい進境をとげたサーブが有効に機能しないおそれも考えられた。
 案の定錦織にそれまでのキレはなくサーブ威力は消えて0-3の完敗となってしまった。でもこれで4強につけいるスキがあることが分かった。しばらくは実力接近の6~7名の選手による混戦が続きそうだが錦織選手の成長に期待しよう。
 
 W杯サッカーについて。メンバーは欧州組も多く個人技ではほとんど遜色がないのではないか。ヨーロッパの試合では本田にしろ岡崎にしろ長友にしろきっちりと機能しているにもかかわらず日本チームになると実力が十分に発揮されないのは日本人のDNAにサッカーがまだ組み込まれていないからで頭では分かっていても1個のボールを相手陣営のゴールに『本能的に』蹴り込む『つながり』がないのだろう。そう考える以外にヨーロッパチームの長友や岡崎と日本チームの彼らの違いが説明できない。
 毎朝公園でサッカー少年の練習風景を10年近く見ていると、年々サッカーが体現化されていくように感じる。今小学校6年の子どもたちが日本チームの過半を占めるであろう8年後頃からわが国チームも世界の第一線で互角に戦えるようになりそうな感じがする。
 
 スタップ細胞騒動はマスコミの「科学担当記者」の劣化が原因であり新聞社(を中心としたマスコミ)が専門スタッフや記者を手厚く擁するだけの経済的余裕を維持できなくなったことが遠因となっている。しかし専門性をもたない「マスコミ」は報道機関なのだろうか。南海トラフによる地震・津波被害予測の記者発表資料『垂れ流し』にしても同様の事情であろうがこちらは「疲弊した地方」に『追い討ち』をかけるという甚大な影響をも与えているから事は重大である。
 
 佐村河内氏問題は30年、いや15年前にはあった報道機関の「通常の鑑識眼」が喪失の危機に瀕している証左であろう。数年前偶然目にしたNHKのドキュメント「うさん臭さ」を感じた。よくNHKがこんなものを総合テレビで放送するなぁとスグにチャンネルを切り替えたことを覚えている。常識人なら薄暗い部屋の壁にゴンゴンと後頭部を打ちつける髭モジャの盲目の天才作曲家に嫌悪感を覚えるはずだ。
 
 このままでは既存のマスコミがITメディアに駆逐される日もそう遠くないろう。

2014年9月8日月曜日

残軀

 最近『残軀』なる言葉に出会った。一読、何と残酷な言葉だろう、と感じた。既に齢70を超えている身にとって「老残」と思わせられることが決して少なくない昨今、「残されたからだ」という響きは酷いほど実感に近い。しかしこの語は広辞苑にも漢和辞典にも載っていない。そもそもこの語を知った「笹まくら(丸谷才一著)」を読み進むと、宇和島にある伊達家五代当主春山の造った「天赦園」の由来書きに初代政宗の五言絶句がありここに出自を見た。
 馬上少年過/世平白髪多/残躯天所赦/不楽是如何(馬上、少年として過ごす。世平らにして白髪多し。残軀 天にゆるさる。楽しまざれば、これいかに)。大凡の意味はこうなろうか。若い時代は戦に明け暮れいつも馬上にあった。しかし世は定まり老いた私の髪には白髪が目につくようになった。今ここに残された我が体躯は天の赦されたものであろうか。もしそうならしっかりと楽しまなければ勿体ないではないか。
 政宗の詩には日本人には珍しく人生謳歌が詠われているがしかしどこかに「身を律する」という倫理観が残っている様に感じる。
 
 そこへいくと中国人はあっけらかんと放縦に人生を楽しもうという姿勢が鮮明にある。たとえば陶淵明の次の一節などその典型だろう。
 盛年不重来/一日難再晨/及時当勉励/歳月不待人(盛年セイネン重ねては来たらず、一日再び晨アシタなり難し、時に及んで当マサに勉励すべし、歳月人を待たず)若い時は二度とは来ない。一日に朝が二度来ることはない。時をのがさず十分に歓楽を尽くさなくてはいけない。年月は人を待ってはくれないのだから。(陶淵明・雑誌十二首、其の一より、石川忠久訳)。
 
 今のわが国では70歳を超すとほとんどの人は企業社会からは引退せざるを得なくなる。年金と貯蓄で暮らすのが普通で利子所得を得て暮らす人も少しは居るだろう。いずれにしても年金や利子所得に対してはどこか気が咎めるところがあり若い人たちに申し訳ない気もある。恥ずかしながら少し前まで、年金は自分の貯めたもの(厚生年金として給料から天引きされていたもの)が分割して支払われるものと認識していた。それが年金問題が起こったことで「賦課方式」で現役の若い人たちの負担で年金が支払われていることを知らされた。その若い人たちが厳しい雇用情勢の中にあり、不安定で低賃金と過剰労働にサラサレテいることが報道されると、それに知らんプリしてヌクヌクと年金を頂戴しては申し訳ないという気持ちに襲われる。
 テレビで「いいこと」を言っている後期高齢者と思われる人たちが『年金辞退』を申し出れば少しは世間も変わろうと思うのだが一向にその気配がない。それどころか逆に「集団的自衛権容認」だとか「原子力発電再稼動」など若い人の負担をを言い立てている。晩節を汚す、という箴言は彼らには無用なのだろう。
 
 残軀に戻ろう。徴兵忌避者という反逆から終戦によって解放され、生還して日常に復帰する。二十年という歳月を経て些細な事件が綻びとなって、営々と築きあげてきた平凡な日常生活が破滅に転落していく。現在と過去、過去の前と後、それが段落もなく綯い交ぜになって展開していく文体は絶妙で読むものを飽かせない。砂絵屋という香具師に身を窶し放浪する過程での年上女との恋愛、身の秘匿が晒されることへの不安。解放後の日常が、堅固であったはずの砦がひとつひとつ崩れるていく不安。重層的で技巧を凝らした構成がじわじわと終末に向って展開していく巧みさ。まちがいなく「笹まくら」は丸谷文学の傑作である。
 徴兵忌避という体制批判を実行する勇気、これを今に置換すれば何を為さなければならないだろうか。
 
 「無限定な職務と過剰労働時間」がわが国の仕事のあり方だとすればそれを「限定した職務と定時間労働」に移し変えれば新規雇用が相当増加し残業が無くなるに違いない。そうすれば若年失業や女性労働の「M字カーブ」は解消されるだろう。日本型雇用の改変や少子化対策が改造内閣の重要課題だが、その前に「働き方の抜本的見直し」が成されなければ実効性は低い。
 現体制の根本的批判はここにあると思う。

2014年9月1日月曜日

労働と社会

  近くのビール工場跡の再開発が軌道に乗って10月半ばには西日本最大といわれるSC(ショッピングセンター)が開場する。その新規雇用が2千人とも3千人とも言われそのせいで近隣のアルバイト状況が「売り手市場」になって時給が随分上がっているようだ。こうした情勢はこの地域に限ったことではなく全国的な傾向で特に建設、物流関係の人手不足は深刻になっており、僅か1年ばかり前とは大変な様変わりである。大企業の対応は迅速で派遣や長期アルバイトの正規雇用化に踏み出した企業も少なくない。

 

 こうなってくると少し前まで盛んに言われていた「雇用の多様化」や「雇用の流動化」は何だったのだろうと思ってしまう。

 「多様なニーズに対応した選択肢を提供することで働く人の希望に応える」という美辞麗句のもとに「正規雇用」を「派遣、アルバイトなど」の非正規雇用に転換する人事政策が強引に推進されてきた。その結果非正規雇用が3割を超える雇用状況になり企業のコストは大幅に改善、期間収益の史上最高を更新する企業が連日マスコミを賑わした。ブラック企業と呼ばれる過剰労働を強要する企業も「業績優先」で市場から追放されることはなかった。

 それが掌を返したように派遣社員やアルバイトを正社員や「限定正社員」に移行させる企業が続出するようになってきた。一部の外食企業ではアルバイトが確保できず何割かの店舗が閉店に追い込まれている。
 こうした状況が何故起こったかを考えてみると、上に述べた論理はみな「企業側の論理」であり人を「労働力」や「コスト」としてしかみていない結果であると言える。
 
 しかし働くものの立場から考えてみれば、仕事を通じて自分のキャリアを蓄積し職能の熟練度を高めながら収入を増やし、家庭を安定的に経営し人生を楽しみたい、というのが本音であろう。もしそうなら企業にいる3割以上の人は自分の希望と合わない仕事生活をしていることになり、それらの人は仕事に不満があり職能の熟練度も上がらないから「人生」という視点で見ると決して幸せな生き方とはいえない。企業の側から見ても効率は上がらないだろうし技術の継承やレベルアップに弊害が生じて当然である。
 どちらにとってもデメリットの多いこのような制度が何故「まかり通ってきた」のかは以上の論からも明らかなように「片方(企業)の論理」だけで制度が設計されてきたからだ。企業と働く者を「統合した考え方」に両者が合意できればこうした欠点は修正されるに違いない。
 
 1920年にマックス・ヴェーバーが書いた「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」にある「労働」についての考え方はこの問題に有効な示唆を与えてくれるに違いない。岩波文庫から引用してみよう。
 確定した職業でない場合は、労働は一定しない臨時労働にすぎず、人々は労働よりも怠惰に時間をついやすことが多い。(略)…だから『確実な職業』は万人にとって最善のものなのだ。
 人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者にすぎず、(略)その一部を、神の栄光のためでなく、自分の享楽のために支出するなどといったことは、少なくとも危険なことがらなのだ。(略)財貨が大きければ大きいほど―もし禁欲的な生活態度がこの試練に堪えるならば―神の栄光のためにそれをどこまでも維持し、不断の労働によって増加しなければならぬという責任感もますます重きを加える。
 禁欲は(略)富を目的として追及することを邪悪の極地としながらも、{天職である}職業労働の結果として富を獲得することは神の恩恵と考えた。そればかりではない。これはもっと重要な点なのだが、たゆみない不断の組織的な世俗的職業労働を、およそ最高の禁欲手段として(略)利得したものの消費的使用を阻止することは、まさしく、それの生産的利用を、つまり投下資本としての使用を促さずにはいなかった。
 
 マックス・ヴェーバーは『確実な職業』―いまでいう「正規雇用」―を資本主義成立の最重要事項と捉えその延長線上に利潤の生産的利用として企業家の投下資本を倫理的に容認しているのである。マックス・ヴェーバーの古典的理論を再評価して望ましい「資本―労働関係」を設計する気運に繋がればと願う。