2016年11月28日月曜日

逃げるは恥だが役に立つ

 TBS火曜ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』が人気を博している。海野つなみ原作の同名の少女マンガを人気脚本家・野木亜紀子がドラマ化した社会派ラブコメディである。
 職ナシ彼氏ナシの主人公・森山みくりが、恋愛経験の無い独身サラリーマン・津崎平匡と「仕事としての結婚」 をする。あることがきっかけで 恋愛禁止条件に夫=雇用主、妻=従業員の雇用関係を結び契約結婚を偽装せざるを得なくなるのだが、同じ屋根の下で暮らすうち徐々にお互いを意識し出す妄想女子とウブ男はたして…、というストーリー展開になっている。主人公のみくりに新垣結衣、津崎に今が旬の星野源を配し脇を個性的な芸達者をあてて笑って泣いてキュンとするドラマ仕立てが視聴者に受けているようだ。エンディングに出演者が踊る「恋ダンス」も人気を増幅している。
 
 「契約結婚」という形はいかにも「草食男子」全盛の『今風』である。「草食男子」という言葉はコラムニストの深澤真紀が「現代男子」に命名したもので、恋愛に「縁がない」わけではないのに「積極的」ではない、「肉」欲に淡々とした今時「男子」であったり、「心が優しく、男性らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」と定義されている。「未婚・晩婚化」の傾向が年々増している底流に男子の草食化があるのは事実だろう。「傷ついたり傷つけたりする」ことを極端に避けたがるのは「プライド」のせいだろうか。プライドというような上昇志向的なものでなく単に「フラれる」ことが厭なだけかもしれない。フラれることが自分を『否定』されたと受け取って傷ついて、萎縮してしまうから。
 「俺の若いころは…」というフレーズは使いたくないが、われわれ世代の青春時代は「フラれて何ぼ」の時代だった。勿論女性から「コクる、コクられる」ことなど論外で、フラれることを『覚悟』して『正々堂々』と「愛を告白する」のが『おとこ・漢』だと粋がっていた。こうした心情の底には「女性は美しいもの」という『憧れ』があった。女性はか弱いものだから「美しい」彼女を護り、傅(かしず)くことは「おとこの誇り」でさえあった。『選択権』は彼女にあるのであって、選ばれなければ潔く身を退いて、新たな『恋』を求めて「荒野を彷徨えばいい」などとさえ思っていた、かも知れない。
 
 「男女同権」だから、女性への憧れがない(稀薄だ)から、女性は勁(つよ)いから。強いと「暴力」が同義語になっている。美しさへの欲求が女性だけのものでなくなっている傾向もある。
 こんな状況で、互いが傷つきたくない男女が合意した恋愛形態が『契約結婚』。結婚というもの、妻というものを「機能」としてとらえて「ハウスキーピング」の担当者として雇用関係を結ぶ、実に合理的だ。恋愛感情が芽ばえて契約にひびが入るのおそれて「恋愛感情」を抑制する、これも合理的だ。傷つくことをここまで避けようとする『脆弱さ』が『哀れ』だ。
 大体結婚、夫婦というものをどう考えているのだろうか。75年生きてきて、50年近い結婚生活を経て、結論は『戦友』と思うようになった。「兵役忌避」も「敵前逃亡」も考えないこともなかったが、何とか力を合わせて戦ってきた、復員した今は、「よく生きて帰れたなぁ」となぐさめ合い、折角生き残った命だ、長生きしような、と肩を抱き合う。
 相手が傷つかぬように、ということは相手を気遣うことになり、契約があるから怒りや不満を抑制して、こんな『模範的』な人間関係が継続すれば同じ屋根の下で暮らす若い男女に恋心が芽生えるのは当然の成り行きで、ドラマはハッピーエンドになるだろうが、実際の結婚生活はそこからスタートする。気づかいや抑制が効かなくなったとき、どう対処するか。紆余曲折を経て「戦友」になる道を選ぶか、早々に別々の方向に進路を取るか。大事な『分岐点』である。
 
 我々の時代と根本的に異なっているところは「SNS」の存在だろう。本来「秘すべき」ものがあからさまになってしまう状況に若い人はいる。恋愛も、ふたりの間だけで完結するのなら失恋にも耐えられるだろうが、周囲にあまねく曝されるようなことになれば誰でも「ツブレて」しまうに違いない。拡散が度を越して「誹謗中傷」が酷ければ「自殺」へ突っ走ってしまう気弱な人もいるかもしれない。便利なようで、寄り添っていてくれるようで、意外と「SNS」も面倒なものだ。
 
 「未婚・晩婚化」の原因として「貧困」や「経済格差」がいわれるが、どうだろう。我々の時代は「ひとり口は食えなくても二人口は食える」と言ったものだが、今は通用しないのだろうか。
 「経済格差」は確かに辛い。隣がなに不自由なく暮らしているのにこっちは子どもに不自由させているのでは、やってられない気持ちになるのも無理はない、別に楽をして横着しているわけでもないのだから。でも目を凝らしてみると裕福そうに見えるお隣さんもそんなに豊かでもない。なんでも持っているようでひとつひとつは「安もの」であったり「まやかし」で我慢している場合が多いのではないか。「本物」は格別に高価だからとりあえず手が届くもので間に合わしている、それより「将来が不安」だから「貯金」して備えている。そんな家庭が多いのではないか。
 政府やお役人は「消費不振」で「デフレ脱却」がなかなかできないとアレコレ小手先の弥縫策を弄しているが、根本的な問題は「将来不安」だ、高齢者だけでなく若い人も。頑張れば将来が見える、そんな社会にならなければ「少子高齢化」は解決できない、強くそう思う。
 
 『逃げ恥』派の現状に尻込みしている若い人たちにこんな言葉を贈ろう。
「幸せなの?」「いいや、幸せじゃないよ。だけど最近ずっと幸せについて考えてて、こう思うようになってきたんだ。幸せじゃないのは恥でも何でもないって。いつも幸せでいるって、別に肝心なことじゃないんだ――生きてく上ではね」(『人生の真実』グレアム・ジョイス著(市田泉訳)より)。

2016年11月21日月曜日

想 滴々(28.11)

 福岡の大陥没事故の顛末は久しぶりに「日本の底力」を見た思いで爽快だった。事故が起こったのが今月8日、福岡市博多区のJR博多駅前の道路が縦横およそ30メートルにわたって大規模に陥没したのだが15日早朝には復旧した。当初は最低でも一ヶ月はかかるだろうと思われていただけに「快挙」と言っていい。福岡市の高島宗一郎市長は「官民一体のオール福岡。この心意気なしに復旧はなし得なかった。日本の底力だと思う」と胸を張った。決め手は『流動化処理土』で、これによって「水を抜く」工程を取らずに作業が進められたことが工期短縮に結びついた。今回の素早い対応は海外も驚きの目で見ているようで誇らしい。震災時の被災者の振る舞いといい日本人の「美徳」は「国民性」を貫く力強いバックボーンを形成している。賢明で情熱的なリーダーが出現すればこの国はきっといい国になれる。
 「流動化処理土」というものの存在を知って、中国の南シナ海環礁の埋め立てが何故可能だったかが分かった気がした。あの広大な埋め立てがどうして短期にできたのか不思議で仕方なかったが、多分こうした技術をフル活用して実現したのに違いない。中国恐るべし!だが、力の出し方が残念至極なのがあの国らしい。
 
 アメリカ大統領選挙で民主党のヒラリー・クリントンが敗れたことについて個人的な感想を述べてみたい。
 アメリカは「現状変更」を求めて『黒人大統領』を選出するという大転換を図ったが結果は予想に反したものであった。残された新しい道は『女性大統領』しかなかったはずだがそうはならなかった。クリントンも「ガラスの天井は固かった」とこんな敗北宣言を述べている。「今私にはわかった、わかったんです、われわれはまだ、高くて固いガラスの天井(女性には超えられない壁とされている)を、壊していないということです、けれどいつか誰かが、できれば近いうちに、われわれが期待しているよりも早く、壊してくれることを期待します」と。
 しかし彼女のこの言葉に疑問を感じる。粗野で野卑で暴力的なトランプに彼女はどう対抗しただろうか。テレビで見た彼女、美しくも上品でもない、知性すら感じられない女性を演じさせられている、絶えずそう感じていた。力のトランプに力づくで対抗しようとする彼女の姿に違和感を覚えた。そうじゃないだろう、知性と品位に装われたたおやかで強靭な『女性』に国運を託そうとしていたアメリカ国民の期待を彼女は裏切っている。そう思えてならなかった。女性票が逃げたのがその証拠ではないか。
 ヒラリー・クリントンがアメリカ国民の求める女性像に適った女性であったなら「ガラスの天井」は打ち破れたに違いない、なにしろあのトランプが相手だったのだから。偏見とも女性蔑視とも取られかねないがそう思う。
 
 福島の被災児のいじめは「陰惨」過ぎる。どうしてこんなことが起ったのだろう。
 テレビなどで報じられている内容を簡単にまとめると、福島の原発事故で横浜へ移住してきた当時小学二年生の男の子が、放射能を持ち込んだ「菌」などといじめられ、五年になると賠償金が出ているだろうとゲーム代金などを強要されて百万円以上の被害を被ったという。今中学二年のこの子の負った『心の傷』は深く、永く彼を苦しめるに違いない。横浜市の第三者委員会は「教育の放棄」と厳しく学校と教育委員会を弾劾しているが、余りにも空しい。
 福島の復興も、広島も熊本も、遅々として被災者の救済と復興が果せていないのに、五輪だ、万博だと浮かれている『おとな達』。博多陥没事故の復旧を、地域が心を一つにして達成した日本人と同じ日本人が何故!
 
 電通社員の過労死問題はこの国の「長時間労働」の根の深さを浮き彫りにしている。
 電通には「鬼十則」というものがあって電通社員の行動規範として長く存在してきた。これは中興の祖と呼ばれた第四代社長吉田秀雄氏が1951年(昭和26年)に定めた彼、吉田の「広告の鬼」としての経験則をまとめたもので、競争の激しい広告業界で揺るぎない地歩を固め断然の業界首位を築いたバックボーンとして社員を規制、遵法されてきた。内容の詳細は省くが設定されてから半世紀以上を経て、古色蒼然、余りにも時代錯誤の感の否めないものだ。「時代の最先端」を行く広告業界の雄が、もし未だに信奉しているとしたら、「五輪エンブレム問題」にみられる前時代的な営業手法も宣(うべ)なるかなと納得できるし今回の長時間労働の実態も否定し難い企業体質そのものに根ざしたものといえる。
 長時間労働による過労死が頻発する改善策として「月80時間以上の残業をさせている企業に対し、労働基準監督署が立ち入り調査し現状を確認する」と3月に指導強化された。これに対応して東京、大阪など主たる5監督署が指導してきたが電通は無視、過重な超過勤務の実態は改善されなかった。そんななかで若い女性社員の自殺が明るみになって表面化した。
 巨大広告会社「電通」の威勢はマスコミ各社に絶大な影響力を誇っている。少々のことなら新聞であれテレビであれ力づくで抑え込める、そんな自信過剰があったのではないか。もし吉田社長存命なら今回の醜態をどう思うだろうか。実態を「80時間規制」にねじ曲げるようなことは彼の潔しとするところではないことは疑う余地はない。100時間なら100時間を、180時間ならそれを堂々と明らかにするのが彼の流儀だと思う。もしそれが法に触れるのなら事態を改善して新たな展開をするのが「吉田流の本質」なのではないか。かって広告業界に身をおいたことのある者として電通の大変革を願う。
 それにしても電通のみならず運輸大手ヤマトの残業代未払いの是正勧告、大企業の下請けいじめ、大手スーパーの納入業者との取引に於ける優越的地位の濫用―売れ残り品の不当引取りなど、東電系電力小売業者による電力取引所への不当に高い価格の売り注文提示による「市場価格の吊り上げ操作」など、大企業の「不正」が多すぎる。
 近年株式市場の活性化を図った「スチュワードシップ・コード」や「コーポレートガバナンス・コード」の策定などによって株式取引の透明性と公開性を狙った改善が相次いでるが、それ以前に企業活動の実態である「生産活動・業務活動」そのものの『公正』さの追求がまずもって要求されることを知るべきであろう。
 
 我国の国民性の素晴しさとは裏腹な企業の醜悪な振る舞いが成長を阻害しているのではないか。アベノミクスの「三本の矢」よりももっと根本的なところに成長回復の要諦がある。
 
 
 

2016年11月14日月曜日

普通の国になったアメリカ

 アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利を収めた。二年前には、いや一年前でさえ予想だにしなかったこの事態がなぜ出来(しゅったい)したかを考えてみたい。
 
 アメリカが今日の繁栄を築いた原因のうちの三つを重要と考える。先ず戦争の被害を直接被ることのなかった地政学的優位性。その二は資本主義と民主主義を原理的に最も純粋に、という事は結果的に最大の効果を達成できる形で実現できたこと。最後に「奴隷制度」が挙げられる。
 
 20世紀は「戦争の世紀」であった。世界大戦だけでも二度も経験したしそれ以外にも多くの戦争が繰り返された後ようやく「平和」が築けるようになった。アメリカがそれらの戦争に不関与であったわけではないが、少なくとも戦争の被害がアメリカ本土に及ぶことだけは避けることができた。この「アドバンテージ」の累積は大きい。フランスにせよドイツにせよヨーロッパの国々は蓄積した資産を戦争のたびに壊滅的に喪失し、復旧・復興を繰り返した。英国も、中国もロシアも、我国も事情は同じであった。発展の遅れた国――後進国は植民地として宗主国に徹底的に『収奪』された。この間アメリカは後進国から先進国の仲間入りを果し、第二次世界大戦の後「覇権国家」としての地位を確立し半世紀以上に亘ってその圧倒的な「恩恵」に浴し君臨した。
 これは旧大陸と遠く隔絶した「地理的」要因と「兵器」の未発達によるものであった。第二次世界大戦で空軍―航空機が戦力として最重要兵器となったがそれでも米国本土が主戦場となることはなかった。その安眠を破ったのが「3・11」であったが、このショックのアメリカ国民に与えた『恐怖』が想像以上であったことはその後の「痙攣的」「誇大妄想的」反応で明らかだ。
 戦後アメリカが「世界の警察」として軍事的に世界を制圧してきたのもある意味で「本土の安全神話」に根差すところがなかったとは言えない。更にアメリカが唯一調達を国内で完結できなかった「石油」を安定的に供給するために中近東の制圧が必要だったのだが原油などの資源確保が自国とその経済圏で賄えるようになった今、「世界の警察」への使命感が希薄化するのは当然で、そもそも中近東紛争が欧州列強の植民地支配時代にまいた種の後始末的側面が強いだけに、第二次世界大戦後の世界秩序維持からの撤退は国民的合意が容易に形成される時期に至っている。
 兵器の飛躍的進歩―軍用機の進化、大陸間弾道弾の出現、潜水艦の機能向上と潜水艦対空兵器の開発などアメリカの「本土安全神話」は崩壊した。「内向き」「保護主義」の深層に潜む『恐怖』の淵源がここにある。
 
 資本主義と民主主義は人類の長い発展段階の最終到達点として構築された経済的政治的システムである。先進諸国がこのシステムを導入するには巨大な「既得権益層」との調整が不可欠であった。ときには「内戦」という代償さえ必要であった。そうして採用したとしても国民諸階層間の妥協・調整が求められ「原理的純粋さ」をある程度犠牲にせざるを得なかったから、システムのもつ効果は減殺されざるを得なかった。例えば、成長分野への資源配分の非効率さであったり労働市場の流動化不足であったりという形でそれは現れた。
 ところがアメリカはそうした「しがらみ」とは断絶した『新大陸』で資本主義と民主主義を「純粋培養的」に、『実験』的に実施することが可能であった。既得権力層をもたない「アドバンテージ」は経済的政治的成果を潤沢にもたらした。「市場原理主義」が他の先進諸国とは比較にならない有効性を持って機能した。二大政党制は国民のカウンターパワー(平衡力)を見事に吸収して安定をもたらした。旺盛な「起業」と成長を終えた企業の「退出」は市場を通じて適正に行われた。冒険心に富む「ベンチャー・キャピタル」は金融市場を活性化し資金循環を円滑化した。資本主義と民主主義はアメリカで「繁栄の精華」を開花させた。
 
 しかしそこに至る以前、独立したばかりの後進国アメリカが成長するためには安価な労働力が不可欠だった。とりわけ産業革命で機械化した綿製品生産が隆盛であった英国へ綿花を供給する南部の「プランテーション」ではその傾向が強かった。ヨーロッパ先進国は植民地政策で資源と労働力の調達を果したが後進国アメリカはアフリカの黒人を暴力的に奴隷として調達するという道をとった。最盛期の黒人奴隷は400万人を数え南部人口の三分の一以上に達していた。工業化路線を進んでいた北部との南北戦争で南部は敗北するが独立当初のアメリカの繁栄が黒人奴隷制に支えられた綿花栽培であった事実を覆い隠すことはできない。
 奴隷制度の歴史はアメリカ(人)の『原罪意識』として永くこの国を規定し続けることだろう。
 
 繁栄を支えていた三つの要因が消滅したりその優位性が減退した今、アメリカは「普通の先進国」に成熟した。先進諸国が負わされている「しがらみ」をアメリカも無視できなくなった。即ち建国250年を経て『既得権益層』がはっきりとヒエラルキーを形成するようになった。今回のトランプ旋風は明らかに『反体制運動』であった。1%の超富裕層が支配する『現体制』へ「ノー」を突きつけた「トランプ大統領」の誕生であった。
 市場原理主義を信奉し市場の「見えざる手」にすべてを委ねる経済運営は修正を求められるに違いない。「再配分政策」を大幅に取り入れざるを得なくなるであろうし、既成の政治勢力に二大政党制の運営を任せるだけでは国民の総意を吸収することは不可能になっている。何らかの政治体制の変更を迫られるに違いない。「アメリカ型資本主義」を強制してきたアメリカの外交姿勢は劇的な変化を見せるかも知れない。
 トランプ氏がこうした時代の要請に応えられるかどうかは不明である、そもそも彼は「超富裕層」なのだから。しかしたとえ彼が裏切ったとしてもアメリカが元のアメリカに戻ることは不可能だから「次のトランプ」が又大統領になるに違いない。
 
 普通の国になったアメリカの正念場はこれからだ。トランプ氏のいう「アメリカン・ドリームの復活」はあり得るだろうか?

2016年11月7日月曜日

坂の途中の家

 角田光代の『坂の途中の家』は現代人の精神状況を「幼児虐待」と「裁判員制度」を題材に心理サスペンス風に描いた佳作である。
 
 里沙子が思い浮かべた順風満帆というのは、何もかもが思い通りになってきたという意味とは異なった。大きな挫折もなく、絶望もなく、重大な決意もなく、なんとなく日を送っているだけで充分たのしく生きてきたのではないか、そしてそういうことを順風満帆というのではなかろうかと思ったのだった。子どものころから友人に囲まれて、運動も勉強も平均程度にはできて、第一志望の大学に入れなかったとか、思うようなところに就職できなかったとか、そういうことはあったとしても、逃げ出したくなるようなこともなく生きてきたのではないか。
 こんな女性は幾らでもいるのではないか、いや女性ばかりでなく男性も。
 
 そんな女と男が結婚して、やがて赤ん坊が生まれて…。
 自分で想像していたより二百倍はうれしかったと、陽一郎はそんな表現をしていた。友だちの家の赤ん坊を見にいくと、どっちに似てるなんてぜんぜんなくて、ただの「赤ん坊」にしか見えなくて、目がぱっちりしているとか、口がおとうさんそっくりとか言い合っている友人たちを、お世辞がうまいやつらだとしか思わなかったんだけれど、うちの子を見たら、もう顔がまったく違うってそのときはじめてわかったんだ、こんなにかわいい子が生まれちゃったよ、どうしようって思ったのだと、いつか陽一郎は話したことがあった。
 赤ん坊が眠りこんで陽一郎がまだ帰ってこない時間、ふと部屋を眺めまわして、なんて汚い部屋なんだろうと、はじめて見た場所のように思う。しかしその汚さは目を覆いたくなるようなひどいものではなくて、深く重い安心感でこちらを包むような種類のものだった。なんだろう、この感じ、と里沙子は思い、煮込みすぎて野菜が形状を失いどろどろに溶けてしまったカレーがまず思い浮かんだ。/生活か、と里沙子はそのとき思った。これが生活丸出しの状態か、と。その言葉をあてはめてみると、とたんに散らかりきった汚い部屋が、そうあってしかるべきものに見えた。
 
 実家の親とは絶縁状態のようなかたちで東京へ出たから結婚式にも出席してもらえず、義父母ともうまくいっていなくて、夫の協力はあてにできず、子育てをひとりでしょいこんだ里沙子はどんどん追い詰められていく。そんな里沙子が裁判員制度の「補充裁判員」に選任される。しかも対象事件が「幼児の虐待死――生後数ヶ月の幼児を浴槽に落として殺害した」育児ストレスの絡んだ事件という里沙子の状況にあまりにも酷似したものであった。当然のように里沙子は被告人の水穂に自分を投影してしまう。暴力的な夫と習字教室の教え子と比較する義母に追い詰められる水穂の心理状況はそっくり里沙子とオーバーラップする。
 「水穂の言うことは、被害妄想でも思いこみでもない、夫や義母や同じ母親たちの、本人たちでさえ気づかないちいさな悪意を、防御もせずに実際に受けていたのだと里沙子は主張したかったし、必死になってしてきたつもりだった。」
 正常な精神状態の時には気にもならなかった他人の言葉のいちいちが心をざらつかせ、キリキリと突き刺さってくる痛みがいつの間にか逃げ場のない極限状態に追い込んでしまう。子育てもできない常識のない嫁―娘というレッテルを貼られるのをおそれてひるむ水穂(=里沙子)は、やっと自分のこれまでの生き方――人生のそれぞれで行ってきた選択の結果としての今に気づく。
 本来いるべき場所におらず、決めるべきことも放棄して、気楽さと不安を覚えながら動こうとしない、このなじみ深い感覚、これは、学生時代に授業をサボったときのものではない、もっともっと幼いころから自分がやってきたことだ。何が窮屈なのか考えることをせずに、ただ母のよろこびそうな話題だけ口にし続けていた。窮屈さの原因が何か考えず、ただひたすらに逃げた。考えることからもまた、逃げた。(略)きみはおかしいと言われ続け、そのことの意味については考えず、そこで感じた違和感をただ「面倒」なだけだと片づけて、ものごとにかかわることを放棄した。決めることも考えることも放棄した。おろかで常識のないちいさな人間だと、ただ一方的に決めつけられてきたわけではない、私もまた、進んでそんな人間になりきってきたのではないか。/そのような愛しかたしか知らない人に、愛されるために。(略)考えもせず決めもせず、だれかに従うことは楽だった。たしかに、楽だったのだ。
 その結果「里沙子は愕然とする。こんなに何も持っていないなんて。陽一郎が巧妙に奪い取ったと言うこともできる。どこにも逃げられないように。でもそれは、みずからおとなしく捨て去ったのと同義だ。自分の足で立たなくともすむように。」
 
 子を授かってはじめて分かった母親の「愛を装った支配」、夫のあいまいなやさしさに秘められた「強いられた従属関係」。
 そうだった。里沙子は続けざまに思い出す。母は、娘に追い抜かれることをおそれていた。あのときはわからなかった。そんなこと、思いつきもしなかった。だって母はいつも味方だった。
 まさに、おとしめるためだけに、母は言っていたのだ。その言葉に娘が本気で傷ついているあいだは、娘は自分よりちいさな存在であり続けるのだから。(略)憎しみではない、愛だ。相手をおとしめ、傷つけ、そうすることで、自分の腕から出ていかないようにする。愛しているから、あれがあの母親の、娘の愛しかただった。/それなら、陽一郎もそうなのかもしれない。意味もなく、目的もなく、いつのまにか抱いていた憎しみだけで妻をおとしめ、傷つけていたわけではない。陽一郎もまた、そういう愛しかたしか知らないのだ―。
 
 自分の価値観が絶対で相容れない他人を排除する風潮がはびこる今、愛のかたちが見えてこない。