2020年4月27日月曜日

コロナ禍後の世界

 日本はいつの間にこんな見下げ果てた国に成り下がったのか。マスクも、洗浄用のアルコールも、医療用防護服も手袋も、ICU(集中治療室)も病室も、ない。緊急事態宣言を発令されても自家用車で鎌倉へ、江ノ島へ――移動してウィルスをまき散らしても平気なみすぼらしい人間ばかりになってしまったのか。少し前まで、ヘイトの対象でしかなかった見下げ降ろして蔑んだ韓国の、なんと優れたPCR検査と潤沢な物資と治療体制か。「自粛」という卑怯な「権力」をふるいながら「手を挙げたひと」への10万円支給ですよと、ひとを値踏みするかのような下品な副総理と、非常時に右往左往して、裸の王様に侍る侏儒の世迷いごとに誑(たぶら)かされて「国民の生命と財産を守る」ことのまるでできない日本の最高為政者の体たらく。
 核兵器禁止条約に反対し、気候変動枠組条約に消極的な姿勢を取り続ける日本。二十年前までは地球温暖化防止の技術開発で世界の先頭をきってリードしていた日本、先の大戦の反省を肝に銘じて核兵器に反対し軍事力を放棄して世界平和を主導していた日本。世界2位2000年の豊かさを誇ってから20年、いまや26位にまで後退してしまった日本(1人当GDPで)。「現実主義」の名のもとに埋没してしまった世界最高の高齢国、日本。
 いつのまに日本はこんな貧しい国に成り果ててしまったのか。
 
 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)による経済的損害が増大する中、アメリカの失業保険給付の申請件数が、先月中旬からの週間で合わせて2600万件を超えたとの報道がある2020.4.23。4月20日現在感染者数75万9千人、死者数4万人はいずれも世界最悪の数字だ。なぜアメリカがこんな状態に至ったのか。豊かな国のはずのアメリカの貧富の格差は絶大で貧困率が17.8%にも達し世界の6位にあるという現実が感染に影響しているのは間違いない(貧困率最悪は南アフリカの26.6%、韓国7位17.4%、日本15位15.7%)。アメリカ経済の中心地ニューヨーク州は以外にも失業率8.5%でワースト13位、貧困率(個人1万1千ドル以下、4人家族2人子ども2万2千ドル以下、2012年)は15.9%で50州中ワースト22位という貧富の格差の激しい州なのだ。アメリカ全体の3割近い感染者数がニューヨーク州から出ている背景にはこんな事情があるのかもしれない。貧富の格差が激しく健康保険もなく不況になれば失業者があふれるアメリカ。1%が国の富を独占している現状に反乱した99%の人たちの「ウォール街を占拠せよ!」の運動は2011年9月のことだったが、トランプ大統領の出現によって格差の拡大は悪化の一途をたどっている。
 
 わが国はこんなアメリカをお手本に、アメリカの言うがままに13都道府県にアメリカの軍事基地・78施設き、トランプ大統領の商売上手に引っかかってアメリカから日本への武器輸出額(「対外有償軍事援助―FMS」)は第二次安倍政権発足当時2013年589億円から2018年度4102億円の約7倍にまで膨張している。
 終戦直後の「ブロンディ(チャック・ヤング作)」という漫画は刺激的だった。食うものさえない貧しい日本人は芝生つきの広い家と電気冷蔵庫、電気掃除機、テレビに囲まれて自動車で郊外を疾走するアメリカの物質文明に圧倒され憧れた。自由と民主主義という輝かしい思想と豊かさは敗戦国日本の「目標」となって当然であった。しかし日本の政治と官僚機構はアメリカの「猿真似」はしなかった。「資本主義の顔をした社会主義」と揶揄されながらも「日本型社会主義」と呼ばれる「福祉国家」建設を国是として「高度経済成長」を実現し「奇跡の復興」を成し遂げた。資本の集約と計画的配分で最適の資源配分を行い、賃金格差は社長の給料を社員平均給料の10倍程度に抑え込んでいた。「ゆりかごから墓場まで」を実現しようと健康保険、老齢年金、介護保険などの社会保障を充実し、失業保険と生活保護を手厚くしてセーフティネットを確立した。終身雇用と年功序列型賃金体系で生活は安定し頑張れば「あしたは良くなる」という『希望』をもって国民は生活できた。
 市場に任す領域(私的)と政府が分担する領域(公的)のバランスが絶妙に保たれて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界の称賛を浴びた。そして多くの発展途上国がわが国を「目標」とした、経済と平和のふたつの日本を。
 
 潮目が変わったのは1980年代だった。イギリスのサッチャリズムとアメリカのレーガノミックスがそれだ。
 イギリスは日本がお手本とした「ゆりかごから墓場まで」の本家の国であり社会福祉の充実した国民にとっては住みやすい国であったが、その結果「英国病」という有り難くない名で呼ばれる「低成長国」になり、国際競争力が低下した。一方アメリカはインフレと高失業率に悩まされ「低成長国」におちいっていた。サッチャーとレーガンはともに「低成長」からの脱却が共通の使命だったわけである。そこで二人のとった道は、規制の緩和と撤廃による民間活力の採用と「小さな政府」という政策だった。彼らの政策は財政赤字の拡大を招いたが、失業率とインフレ率の低下いう大きな成果を上げて「成長率」をアップさせた。ところが1987年の「ブラックマンデー」の株価大暴落でそれまでの成果が帳消しになって、やがてレーガンは1989年に、サッチャーは1990年に引退を迎える。
 
 2001年に発足した小泉政権は折悪しくバブルの崩壊(1991年3月~1993年10月)の後始末という極めて難しい政権運営を委ねられることになりアメリカの援助を仰ぐ必要に迫られた。当時のブッシュ政権は「アメリカ第一主義」のもと自らの信念や価値観の共有を求めるとともに「年次改革要望書」の形で強力な圧力を加え、周回遅れの「新自由主義」経済政策の導入を強制した。小泉政権は「郵政民営化」に象徴される急激な「民営化」と「市場第一主義」に突き進まざるを得なかった。
 
 アメリカも日本も二十一世紀の一年一年に「経済格差の拡大」と「国家分断」が進行した。新型コロナウィルス禍は日本もアメリカもそして世界も、一番「弱い人たち」を直撃するにちがいない。コロナ禍が終息して経済を立て直すそのとき、市場第一主義の「新自由主義」は大きな修正を迫られるにちがいない、「格差」を放置したままでは「国家再建」は不可能だから。
 
 中国の「国家資本主義」でもない、アメリカの「新自由主義」でもない、グローバル化がもたらした「ひとつの世界」を運営するのに最も適した「社会体制」の模索という極めて困難な問題と世界は取り組んでいかなければならない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2020年4月20日月曜日

古井由吉と桜

 今年ほどしみじみと桜を見たことはない、昨日の雨と風で散らされた桜の樹を見上げながらそう思った。おまけに今年の桜は咲き振りが豪華で花もちも長かった、三月の中ごろから咲き始めて入学式にも花を保っていたから厄災に見舞われた幼い新入生たちに束の間の喜びを与えてくれた。今年はコロナ禍の外出自粛で円山の枝垂れでも御所の近衛の桜でもない近所の名もない桜だったが、早朝の散歩の澄み渡った青空をバックに見る桜はピンクにしろ白にしろ、桜ってこんなに艶やかだったのかと改めて感じさせてくれた。桜ばかりでなくレンギョウも雪柳も鮮やかで、コロナに沈むわれわれに自然がプレゼントしてくれた安らぎだったのかもしれない。
 
 そう言えば古井由吉の小説にこんな一節があった。「この春ほどに花をつくづくと眺めたことはない。/昔、故人がふっと洩らした、その声が耳に返った。秋の末に亡くなっている。しかしそんなことを今生の感慨のようにつぶやいたのは、あれこれ思い合わせるに、亡くなった年のことではなくて、それより三年も前の晩春のことだった。今年ほど草木が目に染みたこともないというようなことを日記に書き置いた文士もある。いかにも終末の予感、これが見納めになるかというような心にも読めるが、その文士の住まうあたりをふくめて広範な区域が空襲により、草も木も焼き尽くされたのは、それからたしか十年あまりも先のことになる(『ゆらぐ玉の緒(以下玉の緒と略す)』「孤帆一片」より)。」
 今年二月の中ごろに亡くなった作家は老いと死と病を深く表現した。今のわが国の小説家で彼ほど「言葉」に執着したひとはなかった。ひとつの表現にとことん言葉探しするとともにそのことばをどう重ね合わせればもっとも効果的で、伝えたい実体にあっているかを突き詰めに突き詰めた作家だった。まだ八十二歳だったから惜しい限りであるが大病を何度も患っていたからボロボロだったのかもしれない。それにしては亡くなる直前まで健筆をふるっていたから、死ぬまで文学を追及していたのだ。畏敬の念をもって死を悼む。
 
 そんな彼の作品から老病死にまつわる幾つかを読んでみよう。
 七十のなかばまではその間の逝去者がひとりふたりはいたものだが、八十の坂にかかる頃から、訃音も絶えている。ひとまずは休息か(玉の緒「ゆらぐ玉の緒」)。
 明日の天気はどうあれ、朝ごとに、一夜のとにかく明けたのを何にしてもありがたがるようにはいづれなるな、と風の過ぎる音を耳で追って眠った(玉の緒「時の刻み」)。
 不思議なことに七十半ばを超すと友人知人の訃音が途絶え、親戚関係では親の年代がすっかり片づいて自分が最年長世代になってくる。そのころになると、何事もなく健やかに朝を迎えたことを仏壇に手を合わせながら感謝するようになる。
 
 年を取るに従って運動不足が禍して睡眠が思うようにとれなくなる。
 床に就けば、その夜はたちまち眠りに落ちて、夢も見ず寝覚めもせず、よほどの昏睡だったようで、気がつくと正午をまわっていた。あらたまった気分もしなかったが、ひさしぶりに若い眠りだった。/よくも老体がついでに往ってしまわなかったものだ、と呆れもした(玉の緒「ゆらぐ玉の緒」)。
 この住まいも表の騒音からすっかりは遮断されてはいない。それなのに寝入り際に内外の静まりがなにやら質感を帯びて、水のように耳から流れこんで、そのまま眠りにつながる。早く床に就くので夜半に寝覚めることもあるが、ひきつづき熟睡感につつまれて、耳を澄ませばいっそう深い静まりが耳に染みてくる(玉の緒「孤帆一片」)。
 夜中に目覚めて一切の騒音がなく、無音の中に自分が溶け込んでいくような感覚に襲われる時がある。一種の浮遊感が伴うこともあり夢と現の境目があやふやになって、よくも老体がついでに往ってしまわなかったものだ、という表現にはリアリティがある。
 
 まるで(まど)(わし)にひきまわされたようだったが、しかし焦りも乱れもなく、心身は白く静まっていた。何にしてもこの春に半月も天井ばかり眺めて暮らしたのだから、空間の狂いがぶりかえすことはあるだろう、そう言えばひとしなみにくっきりと目に映るので見当がつかないようだ、しかしなまじあわてないのでずるずる迷っているのかもしれない、とそんなことを他人事に考えながら、病中から予後の習いで背をまっすぐに伸ばして、足をゆったりと運んでいた。道に迷った姿とは、端から見えなかったにちがいない(玉の緒「ゆらぐ玉の緒」)。 
 半月もすると杖は携えているが片手に浮かせて振っているばかりのことが多くなり、両手が振れたほうが歩きやすいものだと感心させられた。並木路を片道歩いてはベンチに腰をおろす。息を入れながら樹々の繁りに目をあずけていると、呆然とするほどに心地よい。時間のうながしからようやく免れているようで、これこそ衰弱の恍惚か。/紛れもない病人である。あの年寄り、ああしていつまでいられることか、と眺めて通り過ぎる人もあるだろう(玉の緒「その日暮らし」)。
 病院通いが生活の一部になって入退院を繰り返すひとも多く、そうでなくても体力の衰えは「健常者」とは異次元の領域に追い込まれる。
 
 当然のことながら早い遅いはあっても夫婦のどちらかが先に往ってしまう。次の一文は理想的な「別れ」のかたちだが、その底にひそむ哀切の感がつらい。
 故人はその時まで平生と、どんなに様子が変わらなかったか、夫人はそのことばかりを縷々と、楽しそうに、ときおりは訴えるように話した。不安な兆しは何ひとつ、さっぱりなかった、と強調した。それだもので、主人が物を言わなくなってしまった時には呆気にとられたけれど、おかげで普段の気持ちのまま別れることができました、とおかしそうに言った。いえ、別れそこねたみたいで、今でも主人がその辺からぬっと入ってきて、わたし、そちらもみずに話しかけているのですよ、返事も聞こえているのです、もともと言葉数のすくない人ですから、とさらにおかしそうにして、こんな話をするとたいそう哀しんでいるように聞こえて嫌ですね、と笑った。でも、別れそこねて困るような年でもなし、と(『楽天記』より)。
 
 すぐれた文学者の透徹した「ことば」は老いを直視させる力を与えてくれる。
 
 
 
 
 
 

2020年4月13日月曜日

なぜ家賃を払わなければならないのか

 緊急事態宣言が出て「休業と補償」が本格化するかと期待したが一向に進展がない。8割接触を削減すれば感染は急激に終息するから是非ご協力をと安倍総理はお願いしたがサラリーマンの出勤風景は普段とあまり変わっていない。当然のことだと思う。自粛を要請されても補償が伴わないのでは休業しようにも手立てがない。経営者とすれば、まず社員の生活を守りたい、そのうえで事業継続を図りたいと願っているにちがいない。ところが政府の個人への支援は手続きが煩雑なうえに困っている人みなに行き渡るものでなく金額も不十分過ぎる。事業支援は国はまったくする気がないようだし地方も東京以外はお金がないからしたくてもできないのが実状だ。緊急事態宣言は7都府県が対象だがそれ以外の地方の中小企業でもこのままいけばどれほど倒産するか見当もつかないほど深刻な事態になっている。
 一体国は、いや安倍総理は国民を救う気があるのだろうか。「国民の生命と財産を守るのが私の使命です」と事あるごとに口にしているのに。
 
 庶民の気持ちはどうだろうか。街の小さな居酒屋のおやじさんが店をしばらく閉めようかと考えた。店員と言ったところで自分と女房だけだからなんとか食っていけるだろう、二ケ月や三ヶ月なら。仕入れ先には不義理するがお互い様だ。問題は家賃だ。こんな小さな店でも毎月10万近い賃料を払わねばならない。これが痛い。カラ家賃だけはなんとかならないか。なんとかしてくれたらいつでも自粛できるんだが。
 こんな考えの人は決してすくなくないだろう、日本人はいい人が多いから。
 
 でもちょっとおかしくないか。製造業もサ-ビス業も休業して収入が無くなるのに不動産業だけは普段通りの賃料収入があるというのは。そういう仕組みだから、といってしまえばそれまでだが、国民みなが国難に臨んで身を削って協力し合おうとしているなかで、それはないのではないか。
 家賃保証を国がするという方法も考えられるが、それでも不公平感はぬぐえない。ここはやっぱり家賃なしか、半額か、少なくとも支払い延期かくらいはしてくれなくては、納得がいかない。
 しかし家主さんにも事情がある。ローン支払いが毎月あるから家賃が切れて返済が滞ると銀行が承知してくれない。銀行が待ってくれるのなら考えてもいいよ。そんな家主がいるかもしれない。
 
 ということは結局銀行が大元になるということか。
 新型コロナウイルスの感染を防ぐために個人の所得補償や事業継続のための政策をあれこれ思案してきたが、政府も地方公共団体も解決策を種々検討してきたが、ここまで当事者の切羽つまったところまで考えを及ぼしたコメントは聞いていない。政府も製造業もサービス業も、もちろん国民も、国難に臨んで懸命に頭を絞っているが、銀行も巻き込んで対策に当たらねば万全の策は立てられないということを、ここで改めて認識する必要がある。銀行も黙っていたわけではなかろうが、バブルの時もリーマンショックのときもあれだけ国のお世話になったのだから――ということは一般国民の世話になったのだから、この期に及んで私は関係ありませんと言えた義理ではないのだから、この際思い切った協力をお願いしたいものである。
 
 しかし現場を知るということは本当に大事なことで、先日も理髪店で知ったのだが、店先にシャンプーのボトルに入った洗浄アルコールが置いてあったので、どうしてときくと、アルコールは売っているんだけれど(業務用の大きなものが)容器がないから一般には売り出せないのだという。容器を製造しているのが中国で貿易がストップしているから届かないのだという。また、なぜ美容がよくて理容が自粛を言われるのかと聞くと、顔剃りで密接するかららしい。ならマスクして絶対に話をしないようにすればいいのではないか。しかし、お役人はそこまで真剣に床屋のことなど考えないだろうからこんな工夫が浮かぶはずもないか。
 
 あれだけ、法律を好き勝手に解釈したり毎年赤字予算を組んでなんら虞を抱くそぶりも見せなかった安倍総理がここに至って、法律にないことに怯んだり、赤字国債発行に尻込みしたり。まったく肝の座っていないことに呆れ果てた。「国民の生命と財産を守るのが私の使命」という口癖はおためごかしだったのか。
 
 気分を変えて。近所にこんなに桜があったのかと驚いた。毎朝の散歩の道すがら見馴れている公園の桜と学校の校門の桜は今年も見事に咲き誇っていたが、その学校の一本裏道にあるお宅の桜が発見だった。ほどほどの広さのお庭の道沿いに屋根より高く、多分八九メートルはある、主の丹精で下梢のむだ枝を削がれたすがたのよい樹形は、桜の咲き様がすっきりと品よく映えて鄙びた感を漂わせている。この宅には少し離れたところに色映えのよさそうな紅葉木もあって春秋に風情を愉しんでいる主のこころがしのばれた。大通りを越えてバス停一駅ほど先にある小さなお宮さんの参道にトンネルをなして植えてある両側六七本の染井吉野も控えめだけれどそれなりに見るものを満足させてくれた。今どきめずらしく地道むきだし――砂利も敷いてない道脇はわずかに盛土してあって若草が疎らに萌えていて緑と桜の色映えがちょうどよい案配に感じられた。土曜日の昼前ということもあったのか幼い女の子二人と若い夫婦が小さなレジャーシートいっぱいに寄り添ってお弁当を広げていたが、毎年こんな住宅街の小さなお宮さんで花見してはいないだろう、外出自粛の今年だからこその風景だ。昨年農業用水にそって爛漫と咲き誇っていた名物の桜を用水路整備のために無残に伐採されてしまったが、そのあとに背の低い生垣と疎らに細い桜の若木が植えられたのが、一年たった今年、その生垣の新芽が真っ赤に色づいて桜がポツンポツンと花をつけた。若木だから花数も多くなくかすかなすがたの桜がべニカナメモチの真紅の新芽と好コントラストになって、これはこれなりに美しいものだと新発見になった。少し年を経れば大通りのナンジャモンジャとともにこの地区の見ものになるにちがいない。
 桜ばかりでなく古風な黄色のレンギョウや名前のように白々としたユキヤナギも盛りで、藤もすこし早いが芽ぶきはじめてまさに春たけなわの地元の美しさを味合わせてくれたのもコロナ禍の外出自粛のお陰であろうか。
 
 年寄りの運動不足が言われているが早朝――どうせ目覚めは早いのだから人通りの少ない早朝に、大股で速足の散歩を十五分もすれば汗ばんでちょうどいい運動になる。ラジオ体操も一緒にすれば十分すぎる運動量になる。陽の昇りきる前の青空は美しいですぞ!
 
 
 
 
 

2020年4月6日月曜日

借りたものは返さねばならないのです

 新型ウイルスの蔓延が収まらず、志村けんさんの急死も重なって深刻度がいよいよ高まっている。当然経済への影響も甚大で倒産の危機に瀕している企業も少なくない。そこで政府も緊急経済対策を打ち出したが、相変わらずの「無利子無担保」の融資制度など旧来型の対策の列挙に留まっている。これは日本経済の実情を「自分の眼」で見ず、机の上で本や前例からの引き写しで政策を立てているからだ。
 
 借りたお金は返すのが常識だ。それは会社でも一緒だから返す「アテ」のないお金はどんなに利息が低くても――たとえ無利子でも借りることができない、というのは誠実な対応というものだ。そんなことは分かっている、でもこれまではこの措置で多くの企業が救われてきたではないかという役人がいたら、それは町の小さな食堂や居酒屋を営んでいる一般市民の実情がまったく分かっていない。
 都会の片隅で長い間一杯飲み屋をやってきて、息子も娘もかたづいて、あとは女房とふたりでご贔屓さんへのお礼の積りでのんびりやっていこう、こんな余裕のある経営者はめったに居ない。ほとんどの経営者はその日その日の稼ぎでなんとか回しているのが実状だろう。とすれば、せいぜい1ケ月か2ケ月保てばいい方でそれ以上に体力のあるサービス業――個人経営のサービス業の店などめったにあるものではない。そんな店が回転資金の融資を受ければその返済にどんなに苦しむかお役人は分かっているだろうか。
 
 分かりやすく話そう。カウンター席の定員が6人で4人掛けの椅子席が3つある居酒屋の場合、いっぱいいっぱい詰め込んでも20人が上限だろう。1日の回転数2.5回転で客単価が3千円とすれば15万円がつついっぱいの1日の売り上げになる。客席が一杯になることはないから客席稼働率を65%とすると1日の売上高は約10万円がいいところ、1ケ月20日営業日とすれば月間売上高は2百万円ということになる。居酒屋さんの原価率がどんなものか知らないが良心的なお店なら40%ということはないから45%とすると粗利益は110万円になる。家賃や人件費を考えると利益は20万円もあれば立派な方ではないか。
 素人の皮算用だからこれまでの計算にリアリティはない。言いたいことはサービス業の場合『増産』ができないということだ。月の売上高が二百万円のお店はどんなに頑張っても「二百万円」の売上しか上げられないのだ。
 一方製造業はそうではない。再開して残業残業で従業員を督励して労働時間を拡大すればその分増産できるわけで、大企業なら二交代三交代で二十四時間フル稼働も可能だし臨時工を雇えば増員も可能で、あらゆる手段を講じて経営者は『増産』を実現することだろう。融資を活用して工程や機械の改善や新規設備の導入を考える経営者もいるかもしれない。とにかく製造業は『増産』が可能だから返済計画も相当な実現可能性をもって作成できる。
 要するに企業支援対策としての融資制度が有効なのは主に製造業であって――それも大企業ほど使い勝手のいい制度で、その製造業はGDP(国内総生産)の二割に満たないということを役人は認識しているのだろうか。そしてサービス業は『増産』の利かない業種だと分かって政策を立案しているだろうか。こうしている間にも「カラ家賃」だけは払わなければならないと頭を悩ませている小さなお店の経営者がどれほどいるか分かっているだろうか。
 
 ではどうすればいいのか。国民の多くが恩恵を受けて不公平でない対策はどうあればいいのか。
 サラリーマン(勤労者)は賃金を得るために働く。会社が閉鎖されて働けなくなると収入が減るか無収入になるから生活が苦しくなる。その分を補償してほしいとサラリーマンは願っている。
 企業はどうだろうか。企業の存在理由はどこにあるのか。ひとの役に立つ商品(財)やサービスをつくりだしているから存在価値がある、というのは企業の一側面である。現在も中国からの商品や部品が滞って生産に支障の出ている企業がありマスクがないから困っている病院や個人がいることからもそれは理解できる。個人の生活という側面から考えると「雇用」主体としての企業の存在が重要になる。個人の生活を支える賃金を提供してくれる存在としての企業は我々にとっては根本的な存在価値と言っていい。しかし今の仕組み――「休業手当」「休業補償」「雇用調整助成金」など――を利用するとなると手続きが面倒で個人差が出ることもあり勤労者全てをカバーできない懸念もある。働くものとしてもっとも恐れるのは解雇や雇止めされて失業することだ。感染が拡大して出勤停止になったりロックダウン(都市封鎖)されても生活維持に足る賃金が支給されれば個人としては一応の安心は保障される。企業としては生産活動は阻害されるが社員の生活を支える賃金を企業負担ではなく国から保証されれば雇用の維持に努力するだろう。
 こうした考えにもとづいて一種の「ベーシックインカム」として一定金額を国民に支給することを考えてはどうか。これはあくまでも賃金の補償的な意味合いで支給するものだから労働力人口か生産年齢人口を対象として一律支給とする。7000万人~7500万人という厖大な対象者になるから1ケ月10万円としても7兆円から7.5兆円規模の対策費が必要になる。しかし今想定される緊急経済対策が30兆円とも60兆円とも巷間噂されていることを考えれば決して不可能な数字ではない。終息まで2ケ月かかるか3ケ月で足らないか予測不能だが3ケ月程度を目安に実施してはどうか。
 個人も企業も小規模事業者も分け隔てなく公平に恩恵が及んで最も効果があるのは、個人に直接支給してスグに自由に使えるかたちが最もいいのではないか。そして付帯条件として「雇用」を保証すること、解雇・雇止めを規制すること、これが重要な条件になる。(従って雇用に不安のない公務員――勿論特別公務員の政治家を含むのは言うまでもない――や公的年金の受給者は対象外にするのが妥当だろう)。
 
 予算をどこから持ってくるかが問題になってこうした計画はなかなか実現しないが、ひとつの資料として次期戦闘機F35A(B)105機を含む防衛省の「次期中期防衛力整備計画(2019~2023)」の規模は27兆円以上である。新型ウイルスとの戦いは「戦争」と位置づけている国も多いことを考えると防衛予算の流用は決してあり得ないことではない。
 
 これまでの企業寄りの対策だけではいま国民が抱いている『不安』を払拭することは不可能だ。国民のだれもが救われる「公平」で効果の高い対策が望まれる。