2013年6月24日月曜日

丸谷才一編・花柳小説傑作選(講談社文芸文庫)

花柳小説とは「花柳界を舞台とする小説だけではなく、バーのマダム、女給が一働きも二働きもする小説も、私娼が暗い陰から現れる小説も含める」と丸谷は簡単に定義づけている。しかし丸谷は彼らしくこうも付け加えている。「日本の近代社会には西洋の社交界に相当するものは成り立たないまま来ている。しかし、芸妓が加わっている宴会には、にせにもせよ、一種の市民社会が一時的に成り立っていて、機知のある議論の応酬、男と女また男同士の出会い、交渉が生まれていた」と。ラインナップは「吉行淳之介、瀬戸内晴美、島村洋子、大岡昇平、永井龍男、丹羽文雄、里見弴、志賀直哉、永井荷風、織田秋声、佐藤春夫」といずれも名人上手であるから、短編であることも与って名文が揃っている。こうしたアンソロジーは名文を味わうと同時に「名文中の名句」を蒐集するのも大きな楽しみである。

 「しかし、その話は甚だしく退屈だった。彼女が物語を引き寄せて掬い上げるとき、たくさんのものが指の間からこぼれ落ちているにちがいなかった。異常である筈の物語に、私の予想できる範囲からはみ出すところが少しもなかった。(吉行「寝台の舟」より)」。男娼の過去語りを聞いた主人公の気持ちだが、我々も経験する『退屈さ』を見事に表現している。
 井上ひさしの「極刑」の次の一節はどうだろう。「人間を肯定してどこが悪い?なぜ、『よい』と『悪い』は、good とungoodで表現されるのか、どうしてunbadやbadでないか解るか。もっと抽象度を上げて言えば、人間は、goodを基準にということは肯定を基準に、『よい』『悪い』を表現するわけだよ。だからungoodはあるがunbadはないんだな。幸と不幸にしてもそうだ。幸という肯定的な状態を基準にして、幸ならざる否定的な状態を不幸と称する。つまり人間の基準はあくまでも肯定にあるんだよ。言語の成り立ちそのものの中に、人間は人生の明るい面を見るようにしながら生きていくのだという向日性のメッセージが含まれているわけだ。な、植田、人間否定の芝居からお互いそろそろ卒業しようや」。
 里見弴の「妻を買う経験」は本書中の白眉であるが―彼の小説はほとんど読んでいなかったが間違いなく名文家中の名文家であることを知った―そのうちから選んでみよう。「興奮の脱殻/彼の心を粗笨(そほん)にし、彼の貞操を猥(みだら)らにして(或る鉱山を手に入れた)/初めて手足が自分のものであったことに気づいたように感じた/総ての過去を「いい学問をした」という概念に一と括りにして、その上に今の己を矜持している人の話し方が常にそうであるように、一時の貧窮を語る彼の言葉さえ、内容に似ず、あまりに景気がよくなり過ぎたりした」。言葉の選び方作り方、文章に緊張感が漲る。
 最後に荷風の「妾宅」から。「『ふぜい』とは何ぞ。芸術的洗練を経たる空想家の心にのみ味わわるべき、言語に言い表し得ぬ複雑豊富なる美感の満足ではないか。しかもそれは軽く淡く快き半音下ったマイナーの調子のものである」「(コノワタは)苦味いとも辛いとも酸っぱいとも、到底一言では言ひ現し方のないこの奇妙な食物の味わいを(略)文明の極地に沈湎した人間は、是非にもこういう食物を愛好するようになってしまわなければならぬ。芸術はついに国家と相容れざるに至って初めて尊く、食物は衛生と背戻(はいれい)するに及んで真の味わいを生ずるのだ」。

 荷風という作家は死後急速に表舞台から姿を消し去ったような印象だが、荷風伝であるとか荷風研究といった書物は未だに多い、という不思議な存在である。それは多分彼が物書きだけでなくジャーナリストや出版に携わる人たちをも魅了してやまない巧緻極まる魅力的な文章を書いているからであろう。こんなIT時代だからこそ「書きことば」の訓練を根底から考え直さなければならないのではないか、このアンソロジーはそんな感懐を抱かせる一冊であった。

2013年6月17日月曜日

科学報道のあり方について(再考)

和歌山県の串本に釣り船と泊まりの仮小屋を持って釣り三昧を楽しんでいた友人がいる。ところが東北大震災以後、南海トラフの被害想定データが次々と公表になり危険が喧伝されたためすべてを手放してしまった。最近久し振りに串本へ行ってみると駅前の賑わいがすっかり影を潜めていてショックを受けたと語っていた。公表に関わっている政府や省庁、マスコミはこうした事態が全国各地で起こっているかも知れない、ということを検証しているのだろうか。
 一方で地震の「安全宣言」をした地震学者が宣言後に大地震が起こり被害を被った地元民から訴えられ有罪になったイタリアの例もある。
 
2011年の3.11東北大震災以降地震報道がすっかり様変わりした。地震学の権威が根底から失墜した反動かそれ以前の比較的安全に傾斜した報道と打って変わって、想定される最大被害を前面に出して防災減災の緊要性を訴える。メディアの報道姿勢は関係機関の公表データを垂れ流すばかりで、検証や批判がほとんどない。従って科学の知識のない一般市民は拠り所のない不安に追い込まれるばかりで串本のような結果を招いている。政治はこれに乗じて「国土強靭化計画」などとまたぞろ「土建国家」の再来を目論んで選挙利用しようとする。

我々はまだ『科学万能』という幻想を捨てきれないでいるのか。東北大震災で証明されたように『津波の予想』も『原発の安全性』も今の科学では保証できないではないか。「ビルの屋上からティッシュペーパーを落とした場合、どこに着地するかの予想は今の科学では不可能だ」と中谷宇吉郎は科学の限界を諭している。それでは科学とはどんなものなのだろうか。『科学の方法(岩波文庫)』で彼は凡そ次のように述べている。
自然科学は、自然の本態と、その中にある法則を探求する学問である。しかし科学というものには、本来限界があって、広い意味での再現可能の現象を、自然界から抜き出して、それを統計的に究明していく、そういう性質の学問なのである。加えて自然現象は非常に複雑なもので、われわれはその実態を決して知ることができない。複雑だということは、単に要素が多いということだけではない。分析と綜合の方法がきく範囲が狭く、その奥に、従来の科学の方法では扱えない領域が、広く残されているということである。従ってその中から、われわれが自分の生活に利用し得るような知識を抜き出していくのである。科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役だつように見た自然の姿が、すなわち科学の眼で見た自然の実態なのである。幸いにして自然界には、再現可能の原則が、近似的に成立する現象が多いので、そういう現象が、科学の對象として、取り上げられている。その再現可能の原則が近似的にあてはまる現象の一つの特質は、「安定」な性質である。ところが破壊現象では、極微の弱点が重要な要素として、現象を支配する。前の定義でいえば、不安定な現象である。こういう不安定な現象は、現在の科学では、その本質上、取り扱いかねる現象である。
科学を考える急所は問題の出し方にある。問題の出し方といえば、もちろん人間が出すのである。それで自然科学といっても、けっきょくは自然だけの科学ではないので、人間との連なりの上において存在する学問なのである。自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである。自然科学は、人間が自然の中から、現在の科学の方法によって、抜き出した自然像である。自然そのものは、もっと複雑でかつ深いものである。従って自然科学の将来は、まだまだ永久に発展していくべき性質のものであろう。
 
 地震は不安定な現象であり本来科学に馴染みにくい領域にある。いくつもの『限定と仮定』の付く学問である。メディアはその限定と仮定を読み解いて市民を啓蒙する責務を負っているのである。

2013年6月10日月曜日

今年の阪神は何故強いのか

 私の友人で生粋の東京人(実は逗子人)でありながら筋金入りの虎キチがいる。今年開幕前、彼にこんなメールを送った。「今年の阪神は要注意です。チームに本物のシン(芯)ができたからです。大躍進を恐れています。健闘を祈る!」。彼からの返信はこうあった。「イエイエ、おたくの巨人にはかないませんよ、今年も巨人の優勝でしょう」。
 首位を巨人と併走しセリーグ・ペナントレースを突っ走る阪神の好調を彼はどう見ているのだろう。巷間言われているように、西岡、福留などの補強の成功と超高校生ルーキー藤波投手の加入をその主因と考えているのだろうか。確かにそれも好調の一因だろうがもっと別のところにも原因があるというのが私の見方だが、その前に為末大の「勝利へのセオリー」を聞いてみよう。

 NHK・BS1で放映されている「為末大の勝利へのセオリー」。為末大がスポーツを戦略面から読み解く新感覚ドキュメントだが5月26日の「つなぐ力 大阪ガス陸上部コーチ 朝原宣治」でこんなことを言っていた。「日本陸上・短距離界は長い低迷に喘いでいた。五輪や世界陸上の決勝へ進出できれば上出来、と考えられていたから結果が最下位の8位であっても当然視されていた世代。それが末續(200M)為末(400Mハードル)の時代になって、頑張ればなんとかメダルに手が届くぞ、というレベルに達した。その集大成が北京五輪での『男子4×100Mリレー』の銅メダルである。バトンタッチを修練すればリレーのメダルは可能性があるとの信念でバトンタッチの技術を研鑽し、アンダーハンドパスという究極の選択で銅メダルが獲得できたのだ。そして現在の「桐生世代」になった。彼らは初めから世界レベルを視野に捉えて競技する世代である。このようにして、日本陸上・短距離界は三世代にわたってひとつづつ「意識の壁」を乗り越えてきて今日がある。ジャマイカが五輪の決勝に5人、6人ものファイナリストを送り込むのは彼らに『9秒の意識の壁』がないからだ。スポーツは肉体面、技術面も大事だがある程度のレベルに達すると『意識の壁』をどう切り崩していくかも大事な要素になってくる」。

 阪神はここ10年以上、金本、新井や下柳、矢野といった移籍組を中心戦力としてペナントを戦ってきた。チームのシンも彼ら移籍組が務めたが彼らの活躍が直接チームの底上げにつながることはなかった。今年、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)で鳥谷、能見の両選手が大活躍した。とりわけ鳥谷選手は輝いていた。これをみて、「生えぬきのチームのシン」ができたと感じた。「本物のチームのシン」ができたことで選手の力が収斂しチーム力がアップする。迷いの無くなった若手は練習に方向性が出てレベルアップが加速するかもしれない。
 新人で入団しプロ生活を阪神で始め育った選手にとって不安なのは「今の練習で一流にのし上がれるだろうか」という疑念である。例え金本選手が大活躍しても彼はよそのチームで育った人だから自分の喜びに直結しない。むしろ生えぬき選手に抜きん出て移籍組が活躍すればするほど、自分の今が正しいかどうか、不安の方が大きいかも知れない。しかし生えぬきの鳥谷や能見がWBCメンバーの中で遜色のない、いや目立って活躍したとなれば「阪神方式」の正当性が証明されたことになる。
 阪神の選手の心の中に長い間、シコリとなってわだかまっていた阪神方式への不安という『意識の壁』が払拭されたのだ。プロになるような選手はある意味で天才といえるのだから、為末さんのいう『意識の壁』を如何に切り崩していくかが選手として大成する重要な要素になる。それは陸上競技も野球も同じだと思う。
 
 今年はもう巨人と阪神のマッチレースだ。このままデッドヒートを演じれば巨人ファン阪神ファンにとってはたまらない一年になる。

2013年6月3日月曜日

傍目八目(25.6)

 シャープが「4K」テレビを65万円(60型)で売り出し起死回生を図るらしい。「4K」テレビというのは解像度が現在の薄型テレビ(フルハイビジョンHD)の約4倍あり画像が格段にキレイなテレビで次期主力機種であるという。しかしもしシャープ(日本の家電業界も含めて)が「4K」テレビで業績回復を願っているとしたら可能性は極めて低いと思う。薄型テレビは地デジ移行という国の電波行政の一大転換が「外圧」になったから仕方なしに、別に必要もないのに無理やり買い替えさせられた側面が強い。機器は良くなったが内容(番組)は旧態依然、というよりもむしろ面白くなくなっているから視聴時間は以前より減少している。テレビがそこにあるだけで「娯楽」になった時代はとっくに終わっている、今や情報メディアのひとつに過ぎない。見るべき番組もないのに馬鹿でかい、インテリアまがいのテレビを65万円も出して購買する「もの好き」がどれほどいるであろうか。
現在の放送体制のもとでテレビが爆発的に売れるということはほとんど考えられない。テレビを情報メディアとして根本的に見直す以外にテレビが家電の主力商品になることはないと断言する。

史上最高齢の80歳で世界最高峰のエベレスト登頂に成功した三浦雄一郎さんの偉業を讃えて「三浦賞」を創設しようという動きが政府筋にあるらしい。高齢者の挑戦や活躍を表彰するものだというが、如何なものか。正直言ってマスコミ、特にテレビが大騒ぎするほど一般市民は熱狂していない、極めて冷静である。
この度の登頂行の報道に初めて接したとき、何と傍迷惑な!と思った。三浦氏が特別な体力と能力を持っていることは間違いない。しかし今回の登頂に関しては何十人という若い人たちの援助があってはじめて可能な事業であった。実現に向けた裏方さんを含めれば数百人の協力があったことは間違いない。三浦氏でなくても同程度の力を有した人であれば「偉業」は成し遂げられた、と感じた人は少なくないのではないか。「一将功成って万骨枯る」という古い俚諺が思い浮かぶ。
大体「年寄り」は『挑戦』などしない。人類の経験したことのない「高齢人生」にあるのだから既存の価値基準を超越したところで生き方を模索せねばならず、これまでの延長線上で高齢者を見ることがかえって「失礼になる」こともある。ましてや選挙目当ての人気取りなど以ての外である。

密教の聖典に「理趣経」という経文があり、男女の性的オルガスムによる魂の救済を説いているという。知識人はこの経典の思想を研究していたし、一般人も信仰によってこの趣旨を説かれて、その肉体的快楽を通しての真理への到達という思想に慣れ親しんでいた。
これは中村真一郎の評論集「私の古典(王朝の文学・『色好み』の変遷)」にある挿話だが、更にこんな記述もある。
「医心方」という当時の宮中で用いられていた医学概説書の「房内篇」にセックスについてこう書かれている。「中国の陰陽思想によってセックスを男が女から生命的エネルギーを吸収する行為であるとし、男は一日に十一回、それも異なる女と交わるのが、健康上、理想的とされる。(略)こうした考え方はセックスが健康管理であって、今日のスポーツに相当するのだろう」。
源氏物語などの王朝文学に表れる貴族階級の貴人の「乱交」とも思える放縦な性交渉の裏に、こんな宗教的医学的常識があったということは、新鮮な驚きである。

五月雨や 大河を前に 家二軒 (蕪村)
立て縣て 蛍這いけり 草箒  (漱石)