2023年4月24日月曜日

殉死者に賞恤金は酷い!

  自衛隊のヘリが墜落して10人が殉死するという事故がありました。詳細はまだ不明ですから「殉死」と呼んでいいのかも不確かなのですがここでは殉死と表現することにします。

 事故は2023年4月6日沖縄県宮古島市沖で発生した陸上自衛隊の多用途ヘリコプターによる航空事故で、海岸地形の航空偵察中に発生しました。第8師団第8飛行隊所属のUH-60JA多用途ヘリコプターが宮古空港から北西約18kmの洋上空域でレーダーから消失して事故と判断されました。現在捜索中で6人が確認されていますが事故の全貌はほとんど未解明です。早期の全員確認と機体回収、事故の原因究明が待たれます。

 この報道の過程で殉死者への弔意金が「賞恤金(しょうじゅつきん)」というかたちで支払われることを知りました。初めて知った語句(文字)で「公務員が生命の危険を顧みずに職務を遂行し、殉職したり傷害を負った場合で特に功労が認められた時に、その勇敢な行為をたたえ、弔意または見舞いの意を表するために本人または遺族に支給される金銭のこと」を言います。職員が平素から国のために安んじて職務の遂行に専念し得るようにとの観点から授与され、正式には「殉職者特別賞恤金」と呼ばれています。最高額は6000万円(2015年までは9000万円でした)になっています。

 

 ここで問題にしたいのは「賞恤金(しょうじゅつきん)」という呼称です。そもそもこの言葉を知ったのは夕方のニュース番組で老練の解説者が教えてくれたのですが、『恤(じゅつ)』という文字に違和感を覚えたのです。「立心偏『忄』」に「血」という漢字の構成にただならぬ不気味さを感じました。漢和字典「冨山房 増修補訂詳解漢和大字典」で引いてみました。「あはれむ。情をかける。めぐむ。貧者・老者などを救い、賑はす」とあり「上、孤を恤すれば民背かず」という例が置いてあります。「賞恤」という熟語はなく念のため「広辞苑」で調べましたが「しょうじゅつ(金)」という語は載っていませんでした。推察すると「賞恤金」という語は明治の役人の造語(漢学者の教えによる)か康煕字典でもひっくり返して隅っこに辛うじてあった難解熟語を転用したかのどちらかでしょう。以上から「賞恤(しょうじゅつ)」の意味するとところを類推すると「褒めあわれむ、めぐむ」がもっとも近いのではないでしょうか。明治ですから絶対君主天皇の臣下、臣民である兵や警官の殉死を陛下が「ほめあわれみ」の心を表された下賜金と理解するのがこの語をつくった「役人の表したかった意味」なのではないでしょうか。

 そんな言葉を主権在民の今の時代に平然と使っているのです。国民の生命と財産を守るために生命の危険を顧みず職務を遂行し殉職した自衛隊員を「ほめ、あわれむ」お金を弔慰金とすることの「無神経さ」「非礼さ」になぜ気づかないで80年近く使用されてきたのでしょうか。

 現行の法律で淵源が明治にあるものが多く残っています。天皇主権から主権在民に移行したにもかかわらず語句のいちいちまで詳細に変更を加えられずに今日まで来たものも少なくありません。また表現方法も漢語調が少なからず残っていて現今の大部分の国民の理解を妨げています。以前から言われているように「口語体」に改めるべき時期になっているのではないでしょうか。75才以上(1948年以前の生まれ)人口は今や15%以下(1798万人)です。

 

 この何年か、和歌や漢詩に親しむようになり「ことば」や「漢字」に敏感になって、その分感性が豊かになったようにも感じています。字典を引くことも多くなり、なによりスマホの便利さがありがたい毎日です。分からないことを面倒がらずに検索しますし、興味を牽かれた本に出あうとスグにスマホで図書館の蔵書を検索・予約することができ読書量も増えました。夜中にアイデアを思いついてスグ「メモ帳」に控えることができるお陰でこのコラムが継続できている側面もあります。

 

 SNS全盛で「定型短文」が流通していますが、意味や感情を相手に間違いなく伝えるためには語句と表現の推敲が必要です。それがなおざりにされている現状に不安を感じます。折りしも「チャットGPT」が出現しました。このままでは「文をつくる」という作業がますます他人まかせになって「ことば」や「文字」に対する感性が劣化してしまいそうです。

 まちがいなく今は「大転換期」です。

 

〈(続)チャットGPTについて〉

 先週のコラムで生成型AIについて書きましたがマスコミはますます混乱しているようなのでもう一度角度を変えて述べてみようと思います。

 藤井聡太君が大活躍していますが彼が「将棋AIソフト」で学習していることは周知の事実です。囲碁もチェスも「AIソフト」があります。ということは専門化したAIソフトの「アルゴリズム」は完成しておりディープラーニングと画像認識ソフト、パターン認識ソフトもありますからデータの種類とそのビッグデータの整備されている「専門AIソフト」は順次できる可能性があるわけで、生成型AIは専門AIソフトの「オープン集積体系」と考えればいいのではないでしょうか。法規と判例をインプットすれば「弁護士AIソフト」が、各種統計と有価証券報告書などの会計データを網羅すれば「計理士AIソフト」が、特許情報の全てをインプットすれば「弁理士AIソフト」ができることになります。行政の仕事に関係する内規や手続き、アウトプットの形式などを入力すれば「お役所仕事AIソフト」は簡単にできるはずです。

 

 インパクトが弱いと商売にならないから開発者が今のようなかたちでの発表を展開しましたが今後はAI化しやすい分野から完成型を順次蓄積していくにちがいありません。そうなった場合の社会的インパクトは先週述べた通りで「生産性の向上」が実現できて人口減少を克服できる可能性を秘めています。

 2、3年後が楽しみです。

 

 

 

2023年4月17日月曜日

AIがサムライを斬る

  対話型AI(チャットGPT)が話題になっていますがどうも的外れなところで騒いでいるように感じます。このニュースに接してまず浮かんだのは数年前の「今ある仕事の半分が無くなる!」というセンセーショナルな研究でした。そしてもうひとつはつい最近の「将来1000万人の労働力不足が起る」という発表です。

 

 平成30年(2018)版情報通信白書の「特集 人口減少時代のICTによる持続的成長」で、英国オックスフォード大学の研究(マイケル・A・オズボーン准教授とカール・B・フレイ教授)によると、米国において10~20年以内に労働人口の47%が機械に代替可能との試算を得ている。日本については㈱野村総研が、同研究により日本の労働人口の約49%が就いている職業において、機械に代替可能との試算結果を得ている」という報道は衝撃的でした。実際わが国のメガバンクは単純計算で3.2万人分に上る業務量を削減するという構造改革を実行しています。

 もうひとつはことしの3月末に「リクルート」の研究機関が発表した、いわゆる団塊ジュニア世代が65才以上になる2040年に、企業などで働く担い手の不足が全国で1100万人余に上るという予測です。都道府県別に見ると東京以外のすべての道府県で不足し、不足率が20%を超える地域は18道府県と全体の3分の1を占める結果になっています。

 

 この二つは一見矛盾しているようで、もしオックスフォードや野村総研の予測が正しいとするならば2040年に1100万人の労働力不足が起こる可能性は極めて低いはずです。その辺の事情が明らかになっていませんから一概にこれらの研究を信じることはできないのですがわが国で現在進行中の「少子高齢化」は厳正な事実で極めて深刻な状況です。厚労省の見通しでは2020年の6404万人の労働人口が2065年には3946万人に、約4割減少すると予測しています。人口統計の今現在の年齢別人口は事実として存在しているものですしそれに基づいて40年後までの結婚可能人口とそれに基づく出産人数も相当な確実性で予測できますからこの人口予測は真実らしい数字と見ることができます。そして2065年の総人口は9000万人を割り込み、高齢化率は38%台の水準になると推計されているのです。

 

 チャットGPTを考える場合最も重要なことは、減少する人口を補完する「成長力の向上」を実現して、崩壊の危機に瀕している社会保障制度を持続可能にするとともに、国民の豊かさを保証できるかという視点です。

 

 チャットGPTは、厖大なデータをインプットして、人間の言葉や文章を理解し、問いかけ(質問)に適格に応答するシステムと理解して間違っていないでしょう。今現在入手可能で確実なデータは、各種統計と法律・判例(発表されている通達なども含む)と公的な仕事手順(公的資格等の)などです。今後必要なデータが累積的に増加してシステムは進化していくでしょうから信頼性は飛躍的に向上していくはずで利用範囲はどんどん広がっていって代替可能な職業も予想を超えて拡大していくかもしれません。

 

 今最も脅威を感じているのは「お役人さん」でしょう。お役所仕事というのはほとんど「規則と手順」が決まっていてそれをいかに確実に、早く、幅広く実行するかで役人の能力が判定されます。「規則と手順」はAIの得意分野です。「早さと確実性」もAIに及ぶ人は極めて稀でしょう。「幅広さ」は人間の能力をはるかに凌駕しています。こう考えてくるとお役所仕事の「AI代替可能性」は想像以上です。本気で役所がAI導入に取り組めば公務員の数は驚くべき削減数になることでしょう。「窓口業務」など今ワンフロアーを埋め尽くしている人員が5、6人で処理できるようになるのも夢物語ではありません。お役人さんたち、戦々恐々しているのではないでしょうか。

 

 弁護士さんもAIに取って替わられる可能性の高い職業です。弁護士に限らず「士(さむらい)仕事」と呼ばれている職業のほとんどはAIの得意分野です。パラリーガルという弁護士の下働きとして当該案件の相当法規や判例の収集作業を行なっている職種はAIに今すぐにでも取って代わられる可能性があります。交渉とディベートが弁護士の仕事として重要になってくるでしょうが競争が激しくなって生き残りは峻烈になるにちがいありません。

 計理士、会計士も事情に変わりありませんし弁理士はもっとも存在の危うい職種でしょう。社会保険労務士などはそもそもが関連法規や通達、手続き類が「継ぎ足し継足し」で普通の職業人では全貌を把握・理解するのが困難になって業務の進捗に支障をきたす事態を招きかねないという危機感から止もう得ず設定された専門職ですから(法体系がきちんと整備されていて誰にでも分かり易い制度であったら必要のない資格ですから)これもまた存在が危うくなるにちがいありません。

 「AIがサムライを斬る!」というタイトルはこうした事情を勘案してちょっと「向こう受け」を狙ったのです。

 

 政治家の答弁のために官僚が徹夜で資料作りにコキ使われている「公務員の長時間労働」の悪弊などAIを活用すれば今すぐにも解決できるにちがいありません。ただしそうなると与野党とも同じ資料で論戦することになりますから紛糾する機会は限られてきて法案成立がスムースになって政治家の存在価値は限られてきますから「政治家の削減」がドラスティックに行なわれれば現在の3分の1、4分の1になることもそう遠いことではありません。政治家の抵抗は激しいでしょうし、そもそもそんな削減案を政治家が提案するとも思えませんが。

 

 学生の利用やお笑い、創作の分野での活用を面白おかしく盛り上げていますが枝葉末節の論です。何のために学ぶのか、試験のためならAIがすぐにも取って代わるでしょうしそんな試験は意味を持たなくなって「塾・予備校」の類は存在価値を失い「学校教育」の必要性が再認識されることでしょう。

 お笑いも創作もAIに取って代わられたらこんなつまらないものはないのであって論議自体が無意味なのです。

 

 日本語のデータが不足していますから本格利用までには時間が必要ですが5年以内にはここまで述べてきたことの多くは実現されてもおかしくありません。

 お役人に政治家、そして「士(さむらい)仕事」の皆さん、今から覚悟しておいた方がいいかもしれません。そして「エッセンシャル・ワーカー」が改めて見直されるでしょうし、「今日注文して今日お届けします」などという「使い捨て雇用」で成立していた過剰サービズは消滅の運命にあります。

 うまく利用すれば「人口減を克服して持続的成長」を可能にするすばらし技術になると期待しています。

 

 

2023年4月10日月曜日

認知症は生活習慣病である

  最近「年寄り(の)半日仕事」ということわざを知りました。年寄りは朝から晩まで働くと、病気になったり疲れすぎたりするので、半日仕事をやってあとはゆっくり休むという意味です。。そんな無理をしない仕事の配分が年寄りらしい仕事のやり方で健康で長生きできるというのです。実際私も先日嵐山散策したとき1日で16000歩も歩いて翌日足腰に痛みが出て苦しい目にあいました、今の私の限界は1日12000歩までなのです。 

 もうひとつ「人生僅か五十年、うまくいってもまた十年」というのもありました。これは戦前のことわざでしょう。当時の男性の平均寿命は50才もなかったのです。戦後も1947年(昭和22年)はまだ50.06才でした(女性は53.96才)、60才を超したのは1951年で60.08才(女性64.90才)に、現在では男性81.47才女性87.57才(2022年現在)になり「人生百年時代」とさえ言われる時代になったのです。誠に喜ばしいのですが手放しで喜んでばかりはいられません。

 

 認知症です。「日本における認知症の高齢人口の将来推計に関する研究」によると、65才以上の認知症患者数は2020年に約602万人、2025年には675万人(有病率18.5%)と5.4人に1人程度が認知症になると予測されています。この研究の2060年の患者数は850万人(有病率が一定の場合)から最大1154万人(各年齢での有病率が上昇する場合)という予測になっています。

 認知症とは、脳の病気や障害など様々な原因により、認知機能が低下し日常生活全般に支障が出てくる状態です。当然のことながら認知症患者の増加は介護保険制度に重大な影響があり、放置すれば保険の財源と介護現場の労働力の不足を招きます。これは「2025年問題」「2035年問題」として問題視されていて、2025年には約32万人、2040年には約69万人の介護職を追加確保する必要があるとされていますが、現在でさえ7割近い介護施設が慢性的な職員不足を感じており、そのうち実に9割が「採用困難」と答えています(公共財団法人介護労働安定センター調査)。こうした現状を踏まえて各方面で対策が考えられているのですが認知症の位置づけがあいまいでこのままでは増加を抑制することはほとんど不可能に近い危機的状況にあります。

 

 認知症は高血圧症などと同じように「生活習慣病」と位置づけ高齢者の健康診断項目に追加して「早期発見、早期治療」を制度化する必要があります。

 現状の認知症の治療経路をみると、症状が現れてから検査・診断・治療が行なわれています。本人が自覚して自ら受診というケースはあまりなく、周囲の人――家族や友人などが気づいて本人に受診を促す場合がほとんどで、しかも本人に受診を説得することが非常に困難だといいます。それは受診が本人の任意にまかされているからでこれでは手遅れになる可能性が極めて高く結果的に症状がかなり進んでからの治療になって高度な介護が必要になってくるのです。

 

 高齢化すれば血管にゴミが溜まって高血圧になるように、脳にゴミが蓄積して認知症になる可能性は相当あるはずです。実際アミロイドベータやレビー小体というゴミが脳に蓄積して発症する割合は相当高いとされています。齢を取って運動不足になって血管にゴミが溜まるならリタイアして頭を使わなくなれば脳にゴミが蓄積する可能性は十分考えられます。仕事のこと、家庭(経済)のこと、子どもの養育と受験のこと、人間関係、健康など在職中には多くのことに頭を使っていました、それがリタイアすればほとんど考えなくなってせいぜい健康と夫婦関係、趣味と遊び程度になるのですから脳の運動量は激減して当然なのです。高血圧が健康診断で検査されるなら認知症も同じであってもいいのではないでしょうか。

 高齢になれば体重測定、検温、血圧測定などを定期的に行って自己管理する、ストレッチ、体操、ウォーキング、ジョギングなどで体力向上に努める、これは常識です。しかし認知症に関しては「バランスの良い食生活、ストレスを溜めない、よく運動をする、生き甲斐をもつ」などといった漠然とした対策や「病気や障害の予防や治療に努める、寝たきりにならないよう心掛ける」といった注意事項が提案されるだけに止まっているのが現在の予防方法や対策です。

 大体「予防・検査・診断・治療・予後」といった標準的な医療体制が認知症では確立できていないのです。

 

 最大のネックは「本格的な治療薬」がまだ発明されていないことです。徐々に脱落する神経細胞を再生したり神経細胞が死んでしまうのを防ぐ薬がないのです。現在アルツハイマー病で4種類、レビー小体型認知症で1種類認可されていますがどれも病状の進行を遅くする程度の効果しかありません。検査方法は〈身体検査〉〈神経心理検査〉〈脳画像検査〉の3種類があり、萎縮度や血流の低下を見る画像検査の進展が期待されます。いずれにしても発展途上で決め手に欠けるのが現状です。

 

 こんな状況では、医学的な効果が余り見込めない対策に取り組むのは難しいかも知れませんがメタボリックシンドローム特定健診に160億円の予算が付くのなら、認知症を高齢者健康診査に加えるなど造作もないことでしょう(現在の認知症関連予算としては〈認知症施策の総合的な取組〉として22億円が計上されています)。わが国のお役所仕事の特徴としてトップダウンで施策が決められたらそれなりの体裁を整えることは極めて上手なお役人がそろっていますからある程度の〈予防・検査・診断・治療〉体制はできるはずです。とにかく認知症を〈早期発見・早期治療〉の体制に制度として確立することが大事なのです。そのうえでコロナワクチン国産化に2500億円を投じたのですから(結果は出ませんでした)認知症治療薬の開発にそれなりの予算を付ければ開発が加速する可能性は決して少なくありません。

 

 高齢化と認知症患者の増加は明かになっているのですから、そしてそれに伴う予算の増大と介護労働力の不足もデータとして提示されているのですから手を拱いていることは許されません。長年世話になっていた理髪店が8月に店を閉めることになりました、店主(女性なのですが)が認知症のお母さんの介護をするためです。今のままの認知症対策ではこんな例が日本中で増えていくことでしょう。

 

 島津製作所の田中さん、「脳圧計」を発明してください。町のクリニックにいってヘルメット型(?)の検査キットをかぶれば即座に認知症の具合が検査できる。これは大発明です、世界中の高齢者が喜びます。是非お願いします。

 

 

 

2023年4月3日月曜日

春、桜、そして西行

  今年もはや四月。史上最速の開花が3月24日に宣言された京の桜は1日には満開から散り初めにかかったところも多かったのではないでしょうか。わが家の半径二百メートルの桜の名木を一日早朝たずねてみるとどこもまだ満開を留めておりしかも今年の花はどれも豊満で花房が豊かで重いたたずまいを見せていました。マンションのしだれ、某家の庭木、そして小学校と中学校の校門の桜は今年も見事な咲き振りを誇っていました。4月1日は初孫の入園式、突き抜けるような青空の晴天に恵まれ祝福してくれているように感じました。しかし15日に満1才を迎える歩行もおしゃべりもままならない覚束ない幼児を保育園にあずける親はどんな心持なのでしょうか。新居のローンを考えれば産休の明ける4月から勤めを再開しなければならない現行の制度ですから仕方ないのですがなんとも切ない春のはじめです。

 

 桜といえば西行ですが「77 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの望月の頃」という人口に膾炙した歌以外にもいい桜の歌が多くあります。吉野の桜を詠んだ「花ノ歌十五首よみけるに」もそんなうちのひとつです。(歌頭の数字は『山家集』の歌番を表しています

143 吉野山 人に心を つけ顔に 花よりさきに かかる白雲

144 山寒み 花咲くべくも なかりけり あまりかねても たづね来にける

145 かたばかり つぼむと花を 思ふより そそまた心 ものになるらん

146 おぼつかな 谷は桜の いかならん 峯にはいまだ かけぬ白雲

147 花ときくは 誰もさこそは うれしけれ 思ひしづめぬ わが心かな

148 初花の ひらけはじむる 梢より そばへて風の わたるなりめり

149 おぼつかな 花は心の 春にのみ いづれの年か うけれ初めけん

150 いざ今年 散れと桜を 語らはん なかなかさらば 風や惜しむと

151 風吹くと 枝を離れて 落つまじく 花とぢつけよ 青柳の糸

152 吹く風の なめて梢に あたるかな かばかり人の 惜しむ桜に

153 なにとかく あだなる春の 色をしも 心に深く 染めはじめけん

154 同じ身の 珍しからず 惜しめばや 花も変らず 咲けば散るらん

155 峯に散る 花は谷なる 木にぞ咲く いたくいとはじ 春の山風

156 山おろし 乱れて花の 散りけるを 岩離れたる 滝と見たれば 

157 花も散り 人も都へ 帰りなば 山さびしくや ならんとすらん

 

 この15首で開花前、初花から散る桜までの移ろいが収められているのですが、満開の花の美しさを讃えた歌がないのは不思議です。

 このなかで150の「いざ今年」と151「風吹くと」は滑稽味のある歌で厳とした求道者のイメージの強い西行とは少々趣を異とした歌になっています。「さあ今年はいつもとは逆に早く散るように桜と話し合ってみよう。そうすればかえっていつもは散らす風が惜しんで散らさないかもしれないと思うから」「風が吹くというので枝から離れて散ることのないように、青柳の糸よ、桜の花を枝にとじつけておくれ」。月に叢雲花に風、というのが和歌の常套ですから桜を詠んだ歌に落花の歌が多いのは当然なのですが、それを逆手に取って、桜に今年は風に散らされる前に散っておしまいよ、と相談すれば意地の悪い風はかえって散るを惜しんでくれるのではなかろうかと「なかなかさらば」の口語調で表したところが滑稽です。また、玉を貫くように紅葉を縫いつけたり花を糸で綴じるという和歌独特の表現法ですが、桜と同じ時季に鮮やかな若芽を吹きだす柳の枝を糸に見立てて花片を綴じつけてほしいとねがう心はいかにも中世の都人の感覚を思わせます。

 147「花ときくは」と157の「花も散り」の二首は遁世者という我が身でありながら桜に心躍らせる姿を、また花も散り桜を愛でに集まった都人も去ってしまった寂寥感を感じる我が身を、未完を愧じる西行の姿が浮かび上がってきます。「花と聞けば誰しもさぞ嬉しいことであろうが、自分は嬉しいどころではなく、とうてい花を待ちこがれる心を鎮めることができないよ」「山の桜も散り、花を見に来た人も都へ帰ったならば、山は再び寂しくなることだろう」。

 

 西行の歌振りの特徴として「さこそ」と「おぼつかな」「なにとなく」をよく使うのですがこの15首にもそれが表れています。「さぞ」「こころもとない、はっきりしない」「なんということなしに」とでも訳すべきことばですが口語調であるところに一般社会と隔絶した身だからこその自由さを感じます。他に解りにくい言葉として、「心をつく」は物思わせそうな様子で、「あまりかねても」余りに兼ねてより、早く、「そそまた心ものになる」それそれ今年もまた花に心を占められるものになる、「そばえて」戯れるように、「なめて」すべて、「あだなる」はまめ(真実の、まじめな)の反対語で153の場合は不変に対する移ろいやすい花に執着する人の心をあだとしています。

 

 高校の古文で古典を学習したころは余りに現実感の乏しいものであった「和歌」が、七十半ばに差し掛かった頃からしみじみと感じられるようになったのは我々の感覚や心理・感情の底に古今和歌集にはじまる中世人の自然感が息づいているからでしょう。評釈を手がかりに精読するにつれて八百年前、九百年前に京都で生活していた都人の生活様式や宗教心、感情、なにより愛情表現が身近に感じられるようになり、千年のたたずまいを残している都大路のそこかしこに彼らがいるかのように感じられて文化と歴史の有り難味を感じるようになりました。嬉しいことです。

 

 最後に「花王」とは桜だということを最近になって知りました。

この稿は「新潮古典文学集成『山家集』後藤重郎校注」に準拠しています