2023年4月3日月曜日

春、桜、そして西行

  今年もはや四月。史上最速の開花が3月24日に宣言された京の桜は1日には満開から散り初めにかかったところも多かったのではないでしょうか。わが家の半径二百メートルの桜の名木を一日早朝たずねてみるとどこもまだ満開を留めておりしかも今年の花はどれも豊満で花房が豊かで重いたたずまいを見せていました。マンションのしだれ、某家の庭木、そして小学校と中学校の校門の桜は今年も見事な咲き振りを誇っていました。4月1日は初孫の入園式、突き抜けるような青空の晴天に恵まれ祝福してくれているように感じました。しかし15日に満1才を迎える歩行もおしゃべりもままならない覚束ない幼児を保育園にあずける親はどんな心持なのでしょうか。新居のローンを考えれば産休の明ける4月から勤めを再開しなければならない現行の制度ですから仕方ないのですがなんとも切ない春のはじめです。

 

 桜といえば西行ですが「77 願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの望月の頃」という人口に膾炙した歌以外にもいい桜の歌が多くあります。吉野の桜を詠んだ「花ノ歌十五首よみけるに」もそんなうちのひとつです。(歌頭の数字は『山家集』の歌番を表しています

143 吉野山 人に心を つけ顔に 花よりさきに かかる白雲

144 山寒み 花咲くべくも なかりけり あまりかねても たづね来にける

145 かたばかり つぼむと花を 思ふより そそまた心 ものになるらん

146 おぼつかな 谷は桜の いかならん 峯にはいまだ かけぬ白雲

147 花ときくは 誰もさこそは うれしけれ 思ひしづめぬ わが心かな

148 初花の ひらけはじむる 梢より そばへて風の わたるなりめり

149 おぼつかな 花は心の 春にのみ いづれの年か うけれ初めけん

150 いざ今年 散れと桜を 語らはん なかなかさらば 風や惜しむと

151 風吹くと 枝を離れて 落つまじく 花とぢつけよ 青柳の糸

152 吹く風の なめて梢に あたるかな かばかり人の 惜しむ桜に

153 なにとかく あだなる春の 色をしも 心に深く 染めはじめけん

154 同じ身の 珍しからず 惜しめばや 花も変らず 咲けば散るらん

155 峯に散る 花は谷なる 木にぞ咲く いたくいとはじ 春の山風

156 山おろし 乱れて花の 散りけるを 岩離れたる 滝と見たれば 

157 花も散り 人も都へ 帰りなば 山さびしくや ならんとすらん

 

 この15首で開花前、初花から散る桜までの移ろいが収められているのですが、満開の花の美しさを讃えた歌がないのは不思議です。

 このなかで150の「いざ今年」と151「風吹くと」は滑稽味のある歌で厳とした求道者のイメージの強い西行とは少々趣を異とした歌になっています。「さあ今年はいつもとは逆に早く散るように桜と話し合ってみよう。そうすればかえっていつもは散らす風が惜しんで散らさないかもしれないと思うから」「風が吹くというので枝から離れて散ることのないように、青柳の糸よ、桜の花を枝にとじつけておくれ」。月に叢雲花に風、というのが和歌の常套ですから桜を詠んだ歌に落花の歌が多いのは当然なのですが、それを逆手に取って、桜に今年は風に散らされる前に散っておしまいよ、と相談すれば意地の悪い風はかえって散るを惜しんでくれるのではなかろうかと「なかなかさらば」の口語調で表したところが滑稽です。また、玉を貫くように紅葉を縫いつけたり花を糸で綴じるという和歌独特の表現法ですが、桜と同じ時季に鮮やかな若芽を吹きだす柳の枝を糸に見立てて花片を綴じつけてほしいとねがう心はいかにも中世の都人の感覚を思わせます。

 147「花ときくは」と157の「花も散り」の二首は遁世者という我が身でありながら桜に心躍らせる姿を、また花も散り桜を愛でに集まった都人も去ってしまった寂寥感を感じる我が身を、未完を愧じる西行の姿が浮かび上がってきます。「花と聞けば誰しもさぞ嬉しいことであろうが、自分は嬉しいどころではなく、とうてい花を待ちこがれる心を鎮めることができないよ」「山の桜も散り、花を見に来た人も都へ帰ったならば、山は再び寂しくなることだろう」。

 

 西行の歌振りの特徴として「さこそ」と「おぼつかな」「なにとなく」をよく使うのですがこの15首にもそれが表れています。「さぞ」「こころもとない、はっきりしない」「なんということなしに」とでも訳すべきことばですが口語調であるところに一般社会と隔絶した身だからこその自由さを感じます。他に解りにくい言葉として、「心をつく」は物思わせそうな様子で、「あまりかねても」余りに兼ねてより、早く、「そそまた心ものになる」それそれ今年もまた花に心を占められるものになる、「そばえて」戯れるように、「なめて」すべて、「あだなる」はまめ(真実の、まじめな)の反対語で153の場合は不変に対する移ろいやすい花に執着する人の心をあだとしています。

 

 高校の古文で古典を学習したころは余りに現実感の乏しいものであった「和歌」が、七十半ばに差し掛かった頃からしみじみと感じられるようになったのは我々の感覚や心理・感情の底に古今和歌集にはじまる中世人の自然感が息づいているからでしょう。評釈を手がかりに精読するにつれて八百年前、九百年前に京都で生活していた都人の生活様式や宗教心、感情、なにより愛情表現が身近に感じられるようになり、千年のたたずまいを残している都大路のそこかしこに彼らがいるかのように感じられて文化と歴史の有り難味を感じるようになりました。嬉しいことです。

 

 最後に「花王」とは桜だということを最近になって知りました。

この稿は「新潮古典文学集成『山家集』後藤重郎校注」に準拠しています

 

 

 

 

 

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