2023年7月31日月曜日

時代おくれ

  もし平安時代の京の娘――そこそこの美形がいたとして好意を抱くだろうか?多分それはないだろうと思います。なんといっても着ているものが相当粗末だろうしお風呂も入っていないから臭いだろうし、今の時代の者は生理的に受け付けないのではないでしょうか。

 ここ数年古今集や山家集を評釈を手がかりに読みつづけていると時々こんなことを考えます。これまで散文――古事記や方丈記、平家物語などを読むことはあっても韻文、和歌はほとんど読んだことがなかったのですが最近になって精読してみると作者の感情が皮膚感覚で伝わって来て、生活感がありありと分かるようになるとむしろ和歌の方がおもしろくなってきました。古今集の時代は「通い婚」で顔も見たこともない同士が歌のやり取で相手を決める、当然男優位で女性はひたすら相手が通ってきてくれるのを待つだけの「心もとなさ」「切なさ」。交わりは板の間に互いの着物を敷いて媾(まぐあ)うのです。日が落ちてから来て夜の明ける前に人目を避けて帰っていく、後朝(きぬぎぬ)の別れです。

 こんな時代(10世紀ころ)の和歌を屏風絵に題詠したものが美術品として後世に伝わっているのですからわが国の文化度は中途半端なものではありません。後代になっても扇絵や掛け軸に歌は多く書かれて今に伝っていますし、印刷機は江戸後期まで一般化していませんからそれまでは「書写」が通常の「本」の制作方法でした。そんな本や屏風絵、扇絵を読みたいと『くずし字で「百人一首」を楽しむ(中野三敏著角川学芸出版)』を読みはじめて「書く」ことが「読める」ようになる近道と覚って毎日一首づつ書くようになって少しづつ「読む力」がついてくる、こんな「学び」のかたちは人生初めての経験ですが、パソコン、スマホの時代になんとも「時代おくれ」なことをやっているなぁと呆れています。が、これが楽しいのです。

 

 漢詩も先達の手引きで少しづつ読み続けていますが、十年十五年と読んでくると、漢詩にせよ和歌にしても評釈者には「則にしたがって読み解く」という制限があって、語句に捉われるまだるっこさがあるのです。もう少しピッタリとした訳になってほしい、という読者(私)とのあいだに隔絶がどうしても生まれるのです。そこで二ヶ月ほど前から漢詩と和歌の「私訳」をノートに書きはじめました。めったに「名訳」はありませんがそれでも原文が自分に「近づいてきた」ように感じます、大事なことは「音読」することです(和歌も同じです)。繰り返し声に出して耳で聞いているうちに「訳」が浮かんでくるのです。

 

 最近の気に入りの一首を。

 『漱石詩注』(吉川幸次郎著岩波文庫)「無題八月二十三日

寂寞たる光陰五十年(せきばくたるこういんごじゅうねん) 蕭条と老い去りて塵縁を遂う(しょうじょうとおいさりじんえんをおう) 他無し竹を愛す三更の韻(たなしたけをあいすさんこうのいん) 衆と与に松を栽う百丈の禅(しゅうとともにまつをううひゃくじょうのぜん) 淡月微雲魚は道を楽しみ(たんげつびうんうおはみちをたのしみ) 落花芳草鳥は天を思う(らっかほうそうとりはてんをおもう) 春城日日東風好ろし(しゅんじょうにちにちとうふうよろし) 帰来を賦せんと欲して未まだ田を買わず(きらいをふせんとほっしていまだたをかわず

 五十年という月日が経ってみれば波風もなくただ世の移ろいに流されて老い来った思いがする。唯一道楽と云えば竹をこよなく愛してきたがそれは夜更けた静寂の中で厳しく響く竹の韻(ひびき)が好きだからに他ならない。そんな私に比べて百丈禅師は民衆とともに防風林を作らんとして松を栽えられた、何という違いか!ところで「淡月微雲の中に道(哲学)を楽しむ魚と落花芳草の下鳥は天を思う」という教えがある、残り少ない人生を自然と調和して暮らそうではないか。春の日はのどかに東風が心地好い。陶淵明を真似て晩年は故郷の田舎に隠遁したいと願っていたが未だに肝腎の田も買っていないという始末だ、何とも太平楽なことだ。

 この本は語注があるだけで、難解な句や聯には訳も付けてありますが、それを頼りに自分なりに訳する読み方が求められます。初読のときはそれで読んだ気になっていたのですが今回再読してそれでは満足できなくなって好きな詩には自分で訳を付けてみようと思ったのです。結果は想像以上に理解が進み、面白みが倍加しました(それは和歌も同じです)。

 この詩に限っては、「そんな私に比べて」「何というちがいか!」という詩にはない文を入れることで頷聯(がんれん/第三句と四句のつながりが着き意味が通るようになりました。そして「残り少ない……」と「何とも太平楽なことだ」を置くことで頸聯(けいれん/五句六句)の「ことわざ」と尾聯(びれん/七句八句)の連結に納得がいき、「太平楽……」は漱石のこの詩を作った言外の「感懐」を私なりに想像したものですが漱石の心情はこんなものだったのではないでしょうか。

 

 くずし字を「書く」作業にしても和歌や漢詩を「訳し書く」ことにしても「コスパ」や「タイパ」という今どきの価値観からすればこんな「無駄」はないでしょう、こんな「あそび」になんの価値があるのかということになるでしょう。

 

 今「危機感」を抱いている人が非常に多いように感じています。特に「生成AI」が現れるようになってその危機感が猶予ならないものになって来たと感じています。最近になって「書く」ことに拘るようになったのは「書く」ことが人間の「知能の発達」に重要な影響があるように思うからです。古今集を読んで貫之たち選者がどんなに「仮名文字」に「執着」しているかをヒシヒシと感じます。漢字で「やまと言葉(日本語)」を書くことにどんなに不便を感じていたか知れません。「テニオハ」が無いと日本語は表せません。その致命的な「漢字表記の日本語」の欠点―不便を「仮名」を発明することで克服する可能性ができたのです。

 これで「やまと言葉」を「日本語」にできる!話し言葉と書き言葉が「統一」できる!

 この喜びを貫之たちは宇多・醍醐天皇の庇護の下「仮名文字を公式文字」にしようと喜び勇んで『古今和歌集』を選集・編集したのです。

 

 こうして生まれた日本語――10世紀から1100年かけて洗練を繰り返し完成してきた日本語が、今無惨な姿に変り果てようとしています。この危機を「国家的危機」と言わずしてなんとするのですか。

 チャットGPTなどと浮かれている時ではないのです。

 

 

2023年7月24日月曜日

貧しさについて

  六月下旬、何の前触れもなく京都市から「京都市くらし応援給付金のご案内」という郵便物が届きました。開けて見ると「食料品等の物価高騰が続く中、京都市では、住民税非課税世帯等に対する生活支援として、1世帯当たり3万円を支給します。」とあり「手続きは、必要ありません。令和5年7月下旬を目途に、京都市からオモテ面の銀行口座に、振り込みを行います。」という説明がありました。(口座は年金振り込みと同じ口座です

 住民税非課税世帯とはおおざっぱにいって前年の合計所得金額が135万円以下(給与所得に換算すると年収204万4千円未満、年金のみの場合は若干年収が変わります)の人になりますから普通のサラリーマンで年金生活者になった人は大体非課税世帯に相当するでしょう。

 非課税世帯を「貧困世帯」とするのは心苦しい面もありますが支給の趣旨から考えると行政はそう認識しているのでしょう。もしそうなら年金生活者を一括りに「貧困」と見なすのはいかがなものでしょうか。私はさておいて周囲の年金生活者の多くは決して「貧困」ではありません。それなりの学歴のある人ならソコソコの会社に勤めて十分な所得と退職金を得て安定した老後を送っています。家庭の事情で義務教育で社会人となった人たちも当時は就職した会社に技能習得のための学校があって1年から2年そこで学んで基礎学習・技能とその会社で伝承すべき特殊技能を修得して、主に現場の専門職としてほとんど高学歴者と変わらない待遇で定年を迎えています。従って多くの人は持ち家でローンの返済も終わっていて贅沢しなければ食うに困らない年金を得て「悠々自適」の生活をしていると推察して間違いないでしょう。

 こう考えてくるとわれわれ世代は恵まれていたといえますし、また会社も働く人に対して厚い待遇で処する余裕があった時代でもあったのです。

 

 最近『羊飼いの想い』(ジェイムズ・リーバンクス著濱野大道訳早川書房)という本を読みましたがそのなかにこんな一節がありました。

 彼ら(主人公の祖父、親の世代の人たち―筆者注)のアイデンティティは、店では買えないもので成り立っていた。みな古い服を着、必需品を手に入れるためにごくたまに買い物に出かけたが、「市販品」に大きな軽蔑を示した。クレジットカードよりも現金を好み、壊れたものはなんでも直し、古くなったものを捨てるのではなく、いつかまた使うために保管した。お金のいっさいかからない趣味や興味があり、ネズミやキツネを捕らまえるという生活に不可欠な作業を娯楽に変えた。彼らの友情は、仕事にくわえ、自分たちが飼う牛や羊の群れによって築かれた。めったに旅行には行かず、新しい車を買うこともなかった。かといって、仕事がすべてというわけでもなかった。多くの時間が農場にまつわる活動に費やされ、それは共同体のなかでのんびりと行われた。あるいは、たんに野生の自然を愉しむことに時間が費やされた。私の祖父は、そのような生き方を「静かに生きること」と呼んだ。

 

 今「貧困」とされている生活レベルは「消費能力(=所得)が劣っていること」を言っているのです。『羊飼いの想い』の祖父・父世代はほとんど「消費」しないで生活しています。かと言って彼らが「貧困生活者」かといえば、少なくとも当事者は決してそう思っていないしむしろ「消費しない生活」に誇りをもっていて、「市販品=消費される商品」を軽蔑してさえいます。

 

 コロナ前と後で随分生活態度が変わった人が多いのではないでしょうか。「前」はとにかく消費が生活の中心でした。ショッピングにグルメに旅行にと「買う」ことで生活を満たしていましたし、商品が溢れていました。ところがコロナはそうした生活を「強制終了」したのです。特に高齢者にとってコロナは生活圏を自宅の半径500メートルに制限しましたから、「歩き」かせいぜい自転車で移動できる範囲で、可能なかぎり人的接触をしない生活を余儀なくさせたのです。多くの高齢者はどこかに「身体的不具合」を抱えていましたから「診療・治療」という「消費」が生活に必須でしたがこれさえも高齢者は「控え」ざるを得ない状況に追い込まれたのです。

 不思議なことにあれだけ頼りにしていた「医者通い」が、用心と衛生習慣(手洗いうがい、マスク)で不用になったのです。消費生活を奪われた結果、楽しみと充実を求めて「工夫」せざるを得なくなった人たちは「お金を使わない楽しみ」を自分たちなりにつくったのです。わざわざ出かけなくても身近なところに桜も紅葉もあることに気づきました。高価な料亭で会食する代わりに自宅に友を呼んで奥さんの手料理を楽しみながらする談笑の楽しさを発見しました。新しいファッションは買わなくても手持ちの衣装をやりくりすればオシャレもできるのです(その分いいものを大事に使うことが求められますが)。

 

 「流通」する商品を消費する経済から「ストック(貯蔵)」を活用する生活へ大きく日常が変わったのです。消費のためには「所得」が必要ですが「ストック=あるもの」を活用する生活は所得が要らないのです。「お金」に代わって「知恵」が大事になったのです。少なくとも高齢者はストックがありますからこんな生活も可能なのです。

 

 問題は「成長」のためには「消費」が不可欠なことです。絶えず消費を続けないと成長できないのが「資本主義」という経済システムです。成長できないと「福祉」もできないのが現在の経済システムなのです。そのために無理して「消費の範囲=商品」を広げざるを得ませんでした。「教育=学校」「医療=病院」までも規制改革して「商品化」したのです。「公共交通」も「インフラ=電気、ガス、水道」も「商品化」したのです。また「見せかけ」の成長を大きくするために「医療」の価格を途方もなく高いものにする国も現れました、そうアメリカです。アメリカの医療費が高いのは軍事以外に主要な産業のないアメリカが医療を中心産業にするために「底上げ」する手法が「高額医療」というテクニックなのです。(同じ医療を日米で比較してみればその差は歴然としています)

 

 貧しくても「豊かな生活」が送れる――こんな社会は資本主義では「不可能」だし「悪」なのです。岸田さんの「新しい資本主義」ということばを聞いた時、この難問に答えてくれると期待したのですが期待外れだったことはスグに分かりました。残念です。

 

 

 

 

 

 

2023年7月17日月曜日

危機管理の落とし穴

  北朝鮮・中国の脅威、ロシアのウクライナ侵攻、コロナ禍、温暖化による自然大災害の頻発、福島原発事故、デフレ、少子・高齢化と矢継ぎ早に生起する「大転換」を思わす事故・事件・変容に安倍、菅、岸田の保守政権は第二次大戦後の「国際秩序と日本の戦後体制」を超越した「危機管理対応施策」を「行政の暴走」的に打ち出すことで対応しようとしました。しかし「起こるかもしれない戦争」に「軍備増強と軍事同盟の強化と多角化」で対応しても、「不成長」を「非伝統的経済政策」で解決しようとしても、本質を見失った方策では決してことを解決することにはならないのです。

 

 「常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍備を増強し、多国よりも優位に立とうとするために、かぎりのない競争が生まれる。こうした軍拡競争のために、短期の戦争よりも平和の方が大きな負担を強いられるほどである」。これは1795年に発表されたカントの「永遠平和のために」にある言葉です。そして彼は「常備軍が存在する限り『平和』は戦間期の停戦状態にすぎない」と結論するのです。

 200年以上も前に述べた哲学者の「至言」通りに21世紀の世界情勢が進行していることに驚きを感じると同時に人間のあまりの進歩のなさに呆れかえってしまいます。アメリカ一極から中国、ロシアの反米勢力の勃興による「多極化」の時代にアメリカ一辺倒の「同盟強化」に前のめりな現政権に限りない「危うさ」を感じる「年寄り」が多いのは当然の「賢明さ」です。

 

 世界の軍事大国が忘れている重大な問題点があります。「使われない軍備」は『劣化』するということです。使わない兵器にも「保管・格納」費用が必要だということです。その最たるものが『核兵器』です。2021年現在「配備核弾頭」はアメリカ1800、ロシア1625、「核兵器数」アメリカ5800,ロシア6375となっています。英国、フランスも数百発保有していますし中国は不明です。これらはすべてほとんど1980年以前に製造されたもので40年以上保管・格納されたままになっています。通常兵器でも保管には厳重な管理体制と費用が必要ですが核兵器はその比ではありません。劣化する核兵器を「使える兵器」として保持しようとすれば、年々老化する核弾頭をフレッシュに保つ「更新」が必要になります。核軍縮に熱心だったオバマ政権の終了を待っていたかのように2018年頃から「更新」の検討が具体化するようになっています。

 アメリカ議会予算局の試算では、核戦力にかかる総コストは、2024年までに3480億ドル(約35兆1340億円)になっていますが、この金額には2020年代後半に予定されている更新費用が含まれていません。外部による試算では。核戦力の維持・近代化のコストを30年間で約1兆ドルとみています。今の円ドル相場(1ドル135円)を適用すると135兆円になります。アメリカの国家予算は約1兆7千億ドルですから核戦力にかかわる費用の膨大さが分かります。

 アメリカはこれをやり遂げる意思と経済力があります。ロシアはどうでしょうか。その他の核保有国にそうした危機意識があるでしょうか。

 わが国はアメリカの核の傘に守られています、であるからには何分の負担は当然の義務と考えるべきでしょう。わが国は2023年から5年間の防衛費の総額を43兆円程度にすることを決定していますがアメリカとの軍事同盟を今後も維持していくためにはとてもこの程度の予算では済まなくなる時期が必ず来ます。政府にそれだけの覚悟はあるのでしょうか。また軍備増強を声高に主張している保守系右派の人たちはこうした状況を正確に把握しているのでしょうか。

 軍事大国化することで今の危機的状況を乗り越えようとする考え方の人たちは、年間100兆円の国家予算の一体何割を軍事費に充当しなければならないかをはっきりと覚悟する必要があります。

 

 外務省の海外在留邦人数調査によると2022年10月1日時点で海外永住者の数が過去最高の約55万7千人になっています。生活の拠点を日本から海外に移した「永住者」の数です。この傾向は03年から22年まで20年連続で前年比増加していて、特徴は女性の永住者が増えていることで22年の男女別構成比は女性が約62%になっています。賃金や労働環境、社会の多様性などの面で、日本よりも北米や西欧諸国に相対的な魅力を感じる人が多くなっているのではないか。閉塞感が解消されなければ、永住者の増加傾向は今後も続くだろう、と専門家は分析しています。

 厚労省は2022年の出生数が79万9728人、前年比5.1%減であったと発表しました。

 年間80万人の新生児が生まれる一方で毎年2万人近い人が日本から海外に移住しているのが今の日本なのです。

 少子高齢化を抑制しようと岸田さんは「異次元、いや次元の異なる少子化対策」を行なう、少子化予算を倍増すると大号令をかけました。しかし海外永住者の増加という現象をみると、お金の問題ではないような気がします。女性が多いということはジェンダーギャップが大きくて日本より海外の方がチャンスがあると考える人――特に若い人が多いからではないでしょうか。高齢者の立場に立てば物価の高い日本より海外の方が暮らしやすいと考える人がいてもおかしくありませ。年々大きくなる格差、一向に上がらない給料。大学進学率が高まっても学校(学力)格差は無くならない。一方で株ばかりが高くなって潤っている人もいます。

 誰もが努力すれば人並みの生活が送れて将来に希望が持てる。そんな社会を皆が望んでいるのではないでしょうか。少子化対策などないのです。日本人が皆、希望の持てる社会にすることこそ少子化対策なのです。少子高齢化というはっきりと表に数字が出る危機ばかりに目を取られて年々増加する海外永住者の増加に気が回らない。ここにも危機管理の落とし穴があるようです。

 

(資料) 水爆はナガサキ型プルトニウム原爆を発火剤にしてその数千倍の爆発力を核融合で得るものであり、この発火用原爆はピットと呼ばれ、グレープフルーツほどの大きさで重さ3キロぐらいの中空のボールである。プルトニウムの半減期は2万4千年と十分長いが、崩壊の過程で放出されるアルファ粒子が結晶の間にとどまってピットの変形を引き起こすという。発火剤はピットの爆縮で連鎖反応の臨界点に達する仕組みなので、厳密な形状が要求され、微小な「変形」でも許されない。ピットはいわば生もので賞味期限があるのである。/ここに、核弾頭を“使う兵器”として保持しようとすれば、年々老化する核弾頭をフレッシュに保つ更新が必要になる。/2080年までに4千個の核弾頭のピットを入れ替えるために年間80個のピットを製造する方針が出され、その費用や新施設の検討が始まっている。(2023.6.25京都新聞〈天眼「老化する核弾頭」京大名誉教授・佐藤文隆〉より)

この稿は上記の記事を参考にしています

 

 

2023年7月10日月曜日

河野さん、あなたは正しいのです

  でも発想の転換をしなければならないのはあなた方の方です。

 

 河野さんはこう言いました。「マイナンバー(制度)とマイナンバーカード(以後マイナカード)というのはそもそも違うものです」と。そうなんです、マイナンバー(以後マイナ)というのは国民のひとり一人に付与された「個人番号」に過ぎないのです。これまで個人が身分を証明するためには健康保険証や運転免許証を使用するのが一般でしたがこれに代わる「身分証明証(番号)」がマイナなのですが、行政手続きなどのときにカードがあれば便利だろうということで「マイナカード」が発行されたのです。ところが身分証明という範囲を逸脱して「マイナカード」に健康保険証や運転免許証など、いくつもの機能を「紐づけ」しようとしたことで混乱が起こっているのです。そもそもは政府(行政)の業務効率化を図ろうという「役人根性」からでたことで国民の不安や不信をおきざりにした「お上意識」が混乱を招いているのです。

 健康保険証も運転免許証もこれまで通り別々の「専用証」にして発行し、その番号に「マイナ」を使えばいいのです。行政の統合作業に手間はかかるでしょうがそれが「お役所の仕事」なのですからご自慢の「明晰な頭脳」を使って下さい。

 

 では何故国民は今回の「マイナカード」への健康保険や運転免許など「機能」の「一元化・統合」に反対するのでしょうか。それは「インターネット・システム(デジタルシステム)」の「脆弱性」に対する「不安感」と「政府への不信感」のためです。

 

 そもそも「マイナ」は「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律(2013年/平成25年)」に基づいて国民のひとり一人に付与された「個人番号」のことで、社会保障、税、災害対策の事務手続きにおいて使用されることになっており行政の業務効率化と国民の利便性の向上を図ったものです。行政とわれわれ国民の関りは多方面に及んでおりそれらの手続きは煩雑を極めているのが現状です。手続き書類には「番号」を記入することがほとんどですが、手続きごとに違った番号を使用することは不便であり「不合理」でもあります。それを一つに統合するメリットは非常に大きく行政業務の効率と利便性向上のメリットは計り知れないものがあると思います。

 「個人番号」が付与されることにそんなに抵抗はありませんでした。確定申告の際にマイナを使用しなければならなくなった最初は少々途惑いもありましたが何回か繰り返すうちにそれが普通になりました。申告に行く度に番号を控える手間を考えれば「カード」があれば便利なことはいうまでもありません。

 そこで留めておけばよかったのです。

 

 国民の「インターネット・システム(デジタルシステム)」に対するアレルギーは相当なものです。

 まず銀行のシステム障害は「みずほ」をはじめ各行で繰り返しあり不便を蒙りましたし、自分の預金の喪失危機を感じることさえありました。スマホや携帯の通信障害も決して少なくありません。銀行のシステムは最高の技術を持った企業が担当しているとわれわれは思い込んでいますしスマホはそれこそデジタルの専門会社ですから絶対の信頼をもっているのですがそれでさえトラブルが絶えないのですからインターネットに対して抱いている「不安」はかなり深刻です。

 ハッカーの攻撃も心配です。最近も「名古屋港湾システム」がランサムウェアに乗っ取られて1週間ほど作業不全になったばかりです。日本一の貨物取扱量ですから私たちの知らないところで深刻な影響があったにちがいありません。また昨年10月には大阪急性期・総合医療センターが同じランサムウェアに攻撃されて電子カルテ・システムが使用できなくなり休診になったり手術の延期など、初動から完全復旧まで2ヶ月かかった事件も記憶に残っています。さらに2016年のアメリカ大統領選挙ではロシアのサイバー攻撃で優勢を伝えられていた民主党のクリントン候補が共和党のトランプに敗れるというショッキングな事件もありました。

 最近特に懸念されているのは北朝鮮やロシアによるわが国インフラへの電磁波(EMP)攻撃です。中国の気球事件も電磁波攻撃との関連がまことしやかに噂されています。もし攻撃が現実化したらわが国のデジタルシステムは一瞬のうちに機能不全に陥って国民生活に甚大な悪影響を及ぼすでしょう。これと同じことは頻発する自然大災害(地震、台風、集中豪雨など)でもすでに起こっていますし温暖化が進行すれば自然災害の頻度と大規模化は防ぎようもありません。

 

 政府は国民の心配する諸種の「デジタル障害」への供えは万全なのでしょうか。

 ほとんど防ぎようのない、予想される不安の今、何故、「機能の一元化・統合」を行なおうとするのでしょうか。逆に「危険の分散」こそが今の時代に求められているはずです。皮肉なことに健康保険証はデジタル障害とは無縁な「紙の保険証」の方が災害や障害には強いのです。運転免許証も今まで通り「単体」でいいのです。

 

 わが国政府の国民の信頼性は先進国中最低ランクです。幾つかの調査で25%から30%台前半という数字は致命的です。これだけ国民の信頼度が低下しているという事実を政府は真摯に受け止めて、今の独断専行、前のめりの「行政の暴走」にブレーキをかけるべきです。

 

 今回の騒動でもっとも危惧しているのは「マイナカード・システム」を受注しているのがわが国トップ5のデジタル企業のコンソーシアムであることです。もしこれらの企業の実力がこの程度であるとしたらわが国の将来は暗澹たるものです。(行政がシステム構築と運用を相当邪魔していると心配しているのですが。)

 

 河野さん、あなたは正しいのです。

  

 

 

 

 

2023年7月3日月曜日

祖母の呟き

  タイタニック号の観光・潜水艇―タイタンの事故で生存者救出が絶望になったという報道を聞いたとき「バチが当たったんや」という祖母の呟きが聞こえたような気がしました、聞こえるか聞こえないかの小さな声でしたが。

 

 5月の連休の2週間、肺炎で寝込んでいましたがその間もお仏壇のお世話は欠かすことはありませんでした、仏間と寝室が同じという事情はありましたが。クリニックの医師の適格な治療のお陰で重篤にならずわずか10日で快癒したのですが、心のどこかで「先祖のご加護があったのかも」という気持もかすかにありました。毎朝お仏壇を開けてお水を新しくしお花の水替えをして般若経を唱えるだけですが何十年も欠かしたことがありません。ルーティンで昨日のお水を庭に撒くのですが、これはお仏壇にお祀りできていないご先祖さんに差し上げるんだと子どもの頃祖母に教えられました。浄土宗ですから仏壇には3代か4代前からのご先祖の御位牌が祀ってありますがその方たち以外に何代ものご先祖さんがあって今日の我々がいるんだということを祖母は教えてくれたのです。墓参りに供える水塔婆にも「市村家先祖代々」と書かれるのもそのあたりの事情を含んでのことです。われわれ世代は親や祖父母、親戚の長老方に「先祖祀り」について幼い頃から吹きこまれて育ちましたから先祖に対する考えは大体共通していますが今の若い人たち、いや相当年輩の50、60代でも「先祖」というものへの信仰はうすくなっているように感じます。そしてそれはわが国だけでなく世界共通の、少なくとも先進国では明確に「宗教心の劣化」となって表れています。

 

 タイタンの事故の一報に接したときに覚えた違和感は旅行代金が3千5百万円という高額なことだけではありませんでした。タイタニック号の事故で亡くなられた約1600人は死者として葬られることなく3800メートルの海底に110年以上置き去りにされている、いわばその「聖地」を「物見遊山」するという「無神経さ」「見識のなさ」というか「不遜さ」、そして金さえあれば何でも許されるという「強欲さ」に対する怒りに似た感情が強くありました。死者は荼毘に付して埋葬する、それが長い人類の歴史を通じて守られてきた死者に対する生者の責務でした、土葬や水葬、鳥葬という形式をとることもありましたが。生者が責を果たさなければ死者の霊が正しく解放されないからです。現代社会にあって「霊」の存在を信じている人がどれほどいるか、先進国ではほとんどいないかもしれません、理性では存在は証明できない、だから信じていないけど、だからといって絶対に信じていないと言い切れる人も本当のところはそんなに多くはないのではないでしょうか。死者を粗末には扱えない、そんな「畏怖の念」をもっているのも「死」が肉体の死滅だけでなく肉体でないもの――「肉体」と「霊」が不可分なものとしてあるから死者を丁重に葬ることで「霊」も迷うことなく「肉体の死」に殉じてほしい、そんな祈りが人間の心の奥底にひそんでいるのではないでしょうか。

 タイタニックの死者は腐敗して分子分解して土に還ったか水中に浮遊したか、肉体は存在していませんが「霊」はまだ葬られないままにある。祖母ならそんな考えをもったにちがいありません。私の中に生きている「祖母的なもの」がそう考えて「バチが当たったんや」と呟いたにちがいありません。

 

 同じようなことは他にもあります。たとえば「硫黄島」です。激戦地硫黄島は日本兵と軍属が全滅したあとアメリカに占領され整備されて飛行場として供用されました。土中に死体が眠っているかもしれない地面をロードローラーが圧し固めアスファルトで塗り込められたのです。飛行場の下には死者が閉じ込められているのです。

 昨年出版された滝口悠生の『水平線』は戦況が激化して強制退去させられた硫黄島出自の元島民の孫が祖父母世代の死者とスマホで繋がって、それぞれの相手(らしいと思われる存在)と再会しようとする小説ですが――昨年の小説ではトップ3に入ると評価しています――なかで 国主催の慰霊巡拝事業に応募して島を訪問します。慰霊塔を参拝するのですがそこに祖父が祀られているかどうかも分からない、そんなぞんざいな死者の扱いを許した日本政府(アメリカは当然ですが)に対して関係者だけでなくわれわれも怒りを覚えずにはいられません。

 

 死者の霊の弔いという意味では「靖国神社」という存在も再検討されるべきです。靖国神社は明治維新に新たな国家創建に尽力され生命を捧げられた人々の御霊を鎮魂するために明治天皇が建立された「招魂社」に淵源があります。そして戊辰戦争以降第二次世界大戦に至るわが国の戦争に殉じられた死者の御霊がここに祀られているのです。問題なのは靖国神社が国家神道の中の一つの神社だということです。死者には国家神道に祀られることを望まない方々も多く存在します。同じ神道でも出雲系もあれば八幡さん、お稲荷さんもあります、仏教の信者も多いことでしょう。キリスト教の信仰者も少なくないでしょう。それが「靖国神社」に祀られるということは果たして「死者」の慰霊という願いに適っているといえるでしょうか。靖国に祀られている「霊」は安住できているでしょうか。

 

 昨今「お墓」にまつわる議論が盛んになっています。「墓じまい」して駅近のマンション型お墓やロッカー型の納骨堂に移霊する人も少なくないようです。しかし「先祖」というものを真摯に考えているかといえばどうもそんな深い考えをめぐらした結果ではないようです。「終活」も盛んですがこれも「自分」だけのことで「先祖」や「死」と真剣に向き合ってのことではないように思います。

 「どう生きるか」ばかりで「死」を考える余裕がないのでしょう。当然のことながら「霊」に考えが及ぶはずはありません。若いうちはとにかくいい齢になったら一度立ち止まって「死」と「霊」について考えるのも必要なのではないでしょうか。