2019年4月29日月曜日

年金生活者の友人関係2019

 女性受刑者の獄中結婚が話題になっていた。先日馴染みの喫茶店にいったとき女性連中が「木嶋佳苗死刑囚が3度目となる獄中結婚」という週刊誌の記事をああでもない、こうでもないとヤリ合っているのを聞くともなく聞いていて、勿論結論は出なかったのだが心に残って帰ってから自分なりに考えてみた。そして、戦地の兵隊さんを思い遣った。
 戦争末期、家系を絶やさないために本人たちをそっちのけにまわりの大人たちがお膳立てして、そそくさと祝言を挙げて一夜二夜の夫婦生活だけで戦地に赴いた、そんな話を何度も聞かされた記憶がある。絶望的な劣勢の中で明日は死ぬかも知れないという窮極の状況で、残してきた妻のために生きて帰りたい、決して「お国のため」「天皇陛下のため」「おかあさんのため」でなく故郷にいる「妻」のために、生きている、戦っている、死にたくない、帰りたいと彼は希っていたのではないだろうか。戦う意味、生きる意味、生きる目的がそうであったのではなかろうか。
 女死刑囚を同列に論じるのは憚られるが、明日死刑が執行されるかも知れないという状況の中で生きるということは、意味も目的もなく、ただ「あの人のために」「あの人がいてくれるから」生きよう、そんな気持ちなのではないか。
 そしてそれはわれわれ高齢者でも同じことで、誰かのために生きているという実感がもてれば生甲斐がある、もしそれが無くなったとき、そこからが「生きるということ」の問いかけが意味をもってくるように思う。「毎日何してる」が挨拶代わりになりつつある今日この頃、せめて伴侶のために健康に長生きすることに努めるくらいの意味は自覚したいものだ。
 
 〈おかしなタイトルだが「老後の友人」というのもシックリこないのでこのまま書くことにする。
 実はこんなことがあった。
 近くの喫茶店で昵懇に願っていたNさんがとんと来なくなってしまった。正月も明けて二週間になるのにまだ一度も顔を見せないとY子(喫茶店Bのママ)さんは心配顔だ。元々は偉丈夫だったらしいがここ年ほどの間に開腹手術を回もやったせいで今では白皙痩躯の仙人然としている。そんなNさんと私が親しくなったのは彼の奥さんの伯父さんが以前私が勤めていた広告会社の社長だったことが知れたからで、加えて彼の博識と年齢を感じさせない新鮮で大胆な感覚に私が敬服していることも関係しているかもしれない。事情があって奥さんは両親の看病で東京へ行ったきりで独り暮らしをしている。
 Nさんは相当な大物だ。K大の農学部出身で行政で相当なところまでいったにもかかわらず浪人し、外国生活をへて農業関係の研究所を主宰、各地の行政と連携活動をしていたようだ。今でも時々講演で東京へ行ったりしているがいかにも「悠々自適」がふさわしい立ち居振る舞いで喫茶店でも異彩を放っている。
 数日してNさんが顔を出したとY子さんが嬉しそうに報告してくれた。食事を受け付けないので何も食わずに寝ていたのだという。何故病院へ行かなかったのかとY子さんが訊ねると、点滴して延命するしか能のないような医者なんぞと強がっていたという。 
 
 この喫茶店以外にも新しくできた友人が何人もいる。名前以外に互いに立ち入った詮索をしないから友人と呼べるかどうかも怪しい繋がりだが私は大事にしている。しかし今度のNさんのようなことがあると心が痛む。考えてみれば70歳を超えた人が多いし、中には85歳という人もいるから当然私は彼らとの別れを迎えることが多くなるだろう。別れは辛い。それが煩わしければ出会いをつくらなければいいのだが私にはそれはできそうにない。これまでの友人―幼友達や学校時代の友人、職場での交友関係まででもういいと、人と
打ち解けることを拒否する生き方もあろうが、それでは寂しい。
 
 気の合う人と気楽に楽しく交わりながら健康で長生きがしたい。〉
 
 2010年1月26日に「年金生活者の友人関係」というタイトルで上記のコラムを書いている。偶然検索していた何かのアイテムの並びに見つけて、なつかしくなってその後を書いてみたくなった。
 あれからもう10年近く経ってNさんも85歳だったFさんも亡くなってしまった。それ以外の常連さんは皆健在で、でも齢だけは10歳老けて最高齢は89歳になって、それでもまわりの同年輩よりは相当元気でいるのはこの店の女主人のせいか、客がいいのか、とにかく不思議だ。女性の場合は好き放題愚痴りまくるのが精神衛生上好循環をもたらしているのは確かなようだが。
 
 私の周囲の消息は、親戚親族の年長者がほとんど鬼籍に入って男では私が最長老になってしまった。幼友達も幾人かは亡くなったし、学生時代の友人も職場の同輩先輩もここ数年でバタバタ逝ってしまった。80歳前後というのは危うい時期なのだろうか。
 たまに会う友人の姿は無言の圧力というか激励というか、鏡のように自分が映しだされる。この二年ばかり月一回定期的に講演会を共にしている中学時代からの友人は、健康に万全の備えをしているばかりでなく、夫婦二人暮らしの中でフロ掃除などの家事分担を積極的にこなし、読書量も豊富で、一緒にいると意欲がもらえる。学生時代はやんちゃで強面だった先輩が近年温厚で熟慮の人に変身するのを見ていると、人間の値打ちというものは「はだか」になったときに浮かび上がってくるということを思い知らされる。
 
 代替わりの今週、「令和」の時代に晩年を迎える「生きざま」に思いをめぐらしてみた。そして「女性死刑囚、3度目の獄中結婚」に食らい付く『女の直観』――男連中がまったく関心を示さなかった――に恐れをなすと同時に、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と5才のチコちゃんの叱声を浴びた思いをした。
 
 
 
 
 
  
 
 。
 
 
 
 

2019年4月22日月曜日

 宗教と習慣

 アホ仕立ての賢がよく、賢仕立てのアホが最悪とする。これは水商売の業界で使われている「客の見立て」の俚諺らしい。司馬遼太郎の『叡山の諸道―街道を行く』のなかにでてくる。男はそういう場所にゆくと、ええ格好したくなるのとそういう場所に侍る女性をちょっと見下していることもあって「賢しこ」ぶってしまいがちになる。しかしそんなことは業界の人たちには完全に見透かされていて「あいつ、賢仕立てのアホやなぁ」と陰口されているということがこの俚諺から窺える。そんなことはおくびにもださずに「Iさんて何でもよう知ったはるわ」とおだてられて悦に入っているのだから男というものは馬鹿な生き物ということになる。
 
 この一ヶ月ほど司馬遼太郎を集中して読んだ。「街道を行く」シリーズの『叡山の諸道』『越前の諸道』、それから『空海の風景』の上下二巻という少々偏った選択で、司馬遼ファンならお見通しだろうが「仏教」関係のものばかりである。これらを読んで気づいたのは、司馬さんという人は小説家ではなくて「ジャーナリスト」だったということだ。三十年ほど前知人にガチガチの司馬遼ファンがいて彼の薦めで随分司馬さんの著作を読んだが、知人ほどにはのめり込まなかった。それは司馬さんの著作は小説ではないと感じたからで、徹底した資料収集と透徹した分析に基づいた洞察は歴史学者をもしのぐものがあって、ファンはその博識と通説に捉われない論理の展開に驚きかつ興味津々なのだが、にもかかわらずすぐれた小説がもたらす『文学的感動』とは無縁な作品であることが私の様な読者には期待はずれだったのだと思う。今度久し振りに司馬さんの作品に接して、ひょっとして司馬さんは「文学者」と呼ばれるのがテレ臭かったのではないか、わざと小説家っぽい表現を避けて、事実を事実として素っ気なく伝える、事実に到達するためには徹底した資料の穿鑿――追跡はするけれでも(森鴎外の晩年の「史伝」に通じる執拗さを感じる)、表現方法は虚飾を捨てて、少し的外れかもしれないが、科学論文ででもあるかのような書き振りを貫いたのではないか。そんな感じを強く受けた。新聞記者出身の司馬さんらしいこだわりがそこにあったのではないか、そんな感じをもった「司馬月間」であった。
 
 私は、楊枝についての詳細を、道元の『正法眼蔵』を読むまでは知らなかった。朝起きれば顔を洗うことも楊枝を使うことも、インドでおこり、中国に伝わり、日本にきた、と道元はいう。インドでは佛や如来が用いていた。であるから、「もしもちゐ(用い)ざらんは、その法失墜せり」つまりは、仏法ではない、と道元は激しくいう。彼の形而上性が、日常規範によって裏打ちされることによって成立していたという機微が、このことにもうかがえる。逆にいえば日常規範とつながらなければ、形而上性など屁理屈にすぎなくなるのである(『越前の諸道―街道を行く』より)。 
 この言葉は今の我国における「宗教の不在」を如実に言い表しているように思う。自宅に仏壇や神棚のある家は多いと思うのだが、特に我が京都では相当の割合で仏壇があるはずで、でも毎日の習慣として仏壇守りや読経と先祖祀りをしている人は余り多くない。特に若い人は少ないように思う。ところがその若い人が神社に詣いると「鈴、礼二拍一礼」という作法をキチンと守っている。先日も天神さんに参ったとき、いつの間にか三個に増えた(数年前までは真中に一個しかなかったはずなのに)鈴の前に行儀良く三列に並んで順番待ちをして、番が来ると作法通り恭しく頭を下げていた。しかしそれは「学業成就」であり「入学祈願」という「ご利益」を頂く為のものであって「純粋な宗教行為」ではない。家に仏壇があり神棚があるのに毎朝手を合わすこともなく、辞儀すらもしない、「宗教習慣」もなくて、天神さんへ詣ったときには深々と恭順の態を装う、そこに何の違和感も感じない。道元のいう「日常規範に裏打ちされていない仏法はない」に照らせば、仏法を神道に置き換えれば、にわか仕込みの「鈴、二礼二拍一礼」などしても神のご加護は望むべくもないから「ご利益」は決して期待できないことになる。そこのところの理解は彼らのうちでどうなっているのだろうか。勿論そんなことは学校では教えないから彼らは想像すらしたこともないだろうが。
 
 一方齢をとるとほとんどが「習慣」になってしまう。というか「習慣で時間を埋め合わせる」と言った方が良いかも知れない。毎朝顔を洗って、仏壇の水をかえてお花も水代えをする、ローソクとお線香を上げて般若経を唱える。こんな習慣をもっている年寄りは結構多いはずだ。私の場合は、過去帖を開いてご先祖と会話する、困っていること悩んでいることを自分なりの解決策をご先祖に話しかけると何となく肯定されたり否定されたりされているように感じる。良いことがあったら感謝し、悪いことがあったら自分が至らなかったのではないかと反省する。そんなくり返しが習慣になって仕まい際に眼を閉じて仏に祈りをささげるとき、何秒間か意識が消えるときがある。全身から力が抜けてほーっと浮遊するような感じに囲われる。そして眼を開けるとすーっと意識がもどってくる。
 この習慣のお蔭かどうか、ここ数年精神と身体が平安を保っている。結果的にこれがわたしの「ご利益」となって生活全体が良いサイクルで回っている。
 
 『空海の風景』で真言密教が経典による筆授だけでなく宇宙の真理との交信法として山野に無数に存在する魔術、呪文、マジナイの有用性を発見しそれを精妙に磨き上げ体系化して宇宙の真理と一体化する密教を完成させた、と司馬さんは解していた。お経を百万回唱える修法を繰り返すうちに何万巻という経典を暗誦する暗記術を身につけることができるとも書いてあった。そうした『不思議』も、蓄積され磨き上げられ体系化された『習慣』となって宗教に昇華されている。道元のいう、日常規範に裏づけされなければ仏法ではない、という教えにも通ずる『習慣』の重要性を認識しなおす必要が科学万能の今、あるのではなかろうか。
 
 やるべきことはみんなやりました。毎日十五時間、習慣づけて勉強に打ち込みました。何も思い残すことはありません。今日こうして健康で天神さんにお詣いりすることができました。ありがとうございます。
 こんなかたちで天神さんに「鈴、礼二拍一礼」できれば自ずと希望校受験は叶うにちがいない。神仏詣りというものはそんなものなのだろう。
 
 

2019年4月15日月曜日

悪い政治と立派な天皇

 改元を間近に控えて「天皇制」について考えて見たい。
 
 日本の近代とは、明確な意図と計画をもって行われた前例の無い歴史形成の結果であり、英国でつくられた後進国の将来像――ヨーロッパ先進国をモデルとした歴史形成だったのです。言い換えればヨーロッパ化の実験と捉えることもできるでしょう。日本のヨーロッパ化の先導者たちは、歴史的実体としてのヨーロッパを導入可能な諸機能の体系(システム)とみなし、その制度や技術や機械その他の商品を通して、個々の機能を導入し、それを日本において作動させることによって日本のヨーロッパ化を図ろうとしたのです。
 こうした日本近代化の推進力としての機能主義的思考様式は、最も機能化することの困難なヨーロッパ文明の基盤をなす宗教をも社会機能ないし国家機能としてとらえ、キリスト教がヨーロッパにおいて果たしているこのような機能を日本に導入しようとしました。即ち諸機能を統合する機能を担うべきものを宗教=キリスト教に見出だしたのです。憲法制定の任に当たった伊藤博文は憲法制定の大前提をヨーロッパにおいてキリスト教が果たしている「国家の機軸」としての機能――「我国の機軸」を日本において果たしうるものは何かを模索しました。
 伊藤によれば、我国にあっては宗教なるものの力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがないと考え「我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ」との断案を下します。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」とみなされたのです。
 しかしヨーロッパの君主制――たとえばドイツ帝政が中世以来の「聖」と「俗」との価値の二元論を前提としていたのに対し、日本の天皇制においては「帝的なもの」と「地上のもの」とは必ずしも明確には区別されず、「聖職者」と「王」とは一体化したものとして構想されました。その結果天皇制はヨーロッパにおける君主制(特に教会から分離された立憲君主制)以上の過重な負担を負わされることになります。
 
 しかし、憲法は伊藤博文らが予定していた天皇の超立憲君主的性格を明確になしえませんでした。つまり、統治の主体としての天皇と「天皇の神聖不可侵性」とは、法論理的には両立しなかったのです。「信教の自由」を規定する大日本帝国憲法の下では政治的統治者であるとともに、精神的支配者であるということは決して自明ではなかったのです。
 そこで憲法ではなく、憲法外で「神聖不可侵性」を体現する天皇の超立憲君主的性格を積極的に明示するものとして「教育勅語」が必要になったのです。
 教育勅語を構想するに際して示された教育の目的は、第一「仁義忠孝」を明らかにすることにあり、「智識才芸」を究めることは、それを前提として初めて行われるという道徳主義的教育思想を強調します。そのような道徳主義的教育思想の源泉は、天皇の祖先の教訓である「祖訓」と、我が国の古典である「国典」に求められます。これこそが「教育勅語」の公理と論理です。すなわち「教育勅語」のいう天皇の祖先が忠孝の徳を立て、庶民が心を一にして世々その美を済(な)してきたと立論したのです。
 明治維新において天皇が公に意思を表示する文書――詔勅(詔書と勅書と勅語)は国務大臣の輔弼を経て発表されるため結果的にすべてが政治的色彩を帯びるものにならざるを得ませんでした。しかし政治的判断の混入は、勅語を世俗化し、その神聖性を剥奪する恐れがあると考えられるので、この勅語は一般の勅令や勅書と異なり、あくまでも天皇自身の意思の表明という形をとらなければならないと考えられました。勅語の宗教性と哲学性の徹底した希薄化と政治的判断の混入を排除(内閣総理大臣以下の国務大臣の輔弼を経ないで)するためには教育勅語を天皇の政治上の命令と区別し、社会に対する天皇の著作の公表とみなしたのです。この観点から、勅語にはつとめて「……すべし」という積極的表現を用い、「……すべからず」という消極的表現は避けられたのです。
 しかしこうしたアクロバティックな論理で作成された教育勅語には、憲法に拘束される立憲君主としての天皇は、「教育勅語」に体現される道徳の立法者としての天皇と両立しうるのか、という問題を内包していました。、
 そうした不安定性が危惧されたにもかかわら相互矛盾の関係にある両者のうちで、一般国民に対して圧倒的影響力をもって教育勅語は受け入れられ、立憲君主として天皇のではなく、道徳の立法者として天皇は君臨したのでした。「国体」観念は憲法ではなく、勅語によって(あるいはそれを通して)培養されました。教育勅語は日本の近代における一般国民の公共的価値体系を表現している「市民宗教」の要約であったといってよいでしょう。
 しかし憲法と教育勅語との矛盾、すなわち立憲君主としての天皇と道徳の立法者としての天皇との立場の矛盾は消えることはありませんでした。そしてその矛盾と不可分の「政体」と「国体」との相克は日本の近代の恒常的な不安定要因でした。昭和戦前から戦中にかけての日本の政治は、こうした両者の原理的あるいは機能的矛盾によって引き起こされた亀裂が、国外の環境の変動と連動しながら、その不安定化を促進していったのです。
 
 戦後、道徳の立法者としての天皇は消え去り、「国体」観念は支柱を失ったのです。そして国民主権の下での「日本国の象徴」として、また「国民統合の象徴」として天皇は新しい役割を担うこととなりました。それは現天皇の直面する問題であるとともに、主権者である国民全体の問題でもあるのです。
(以上は三谷太一郎著『日本の近代とは何であったか(岩波新書)』第四章「日本の近代にとって天皇制とは何であったか」の要約です)
 
 平成という時代を振り返ってみれば「政治」の限りない『劣化』の時期であったと言わざるを得ない。当然国民の不満は高まるはずにもかかわらず天皇の限りなく誠実で真率な『象徴天皇』の模索が「悪い政治」の浄化作用としてガス抜き効果をもたらしてきた。アジア諸国への贖罪の行脚であり、沖縄への謝意と慈愛であり、阪神淡路大震災、東日本大震災や熊本大震災への慰問で示された天皇と皇后の真摯で温和なお姿はその時々の政治の誤りに対する国民の不満を浄化してきた。
 
 今もまだ日本国民にとっての精神的支柱――ヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」は『天皇制』が果たしていると言わざるを得ない。しかし政治が何時までもそれに甘えていることが許されないのは言うまでもない。
 
 
 

2019年4月8日月曜日

新元号 もうひとつの見方

 新元号が決定され『令和』と発表された。わが国元号史上はじめて「国書」に依る選定で『万葉集』に出自を求めたと首相は大見得を切った。言外に漢籍――中国文化の影響から解放されたという意味をにおわしているがこれは「勇み足」、というか日本の古典の浅薄な理解というべきであろう。
 万葉集巻五の「梅花の歌三十二首并(あわ)せて序」が出典で「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」(現代語訳:新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとくに白く咲き、蘭は身を飾った香のごときかおりをただよわせている…中西進著「万葉集」からの引用)の令月の「令」と風和らぎの「和」の合成語ということになる。この序文は漢文で書かれており、天平二(730)年に大宰府の長官(帥)であった大伴旅人の邸宅に集った三十二人の歌会の梅を御題にした作品群の詞書――序文である。全文の大意はつぎのようになっている。「天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸宅に集まって宴を開いた。(そしてこの後に引用文につづく当日の景色が美文調で書かれる)。そこで天をきぬがさにし、地を座席にし、膝つき合わせて盃をにぎやかにかわす。一室に座してはうっとりと言葉も忘れ、煙霞の彼方に思いをはせて互いに胸襟をひらく。きっぱりとしておのずから各人気ままにふるまい、心楽しく満ち足りた思いでいる。もし文章によるのでなければ、どうしてこのような情緒を述べることができよう。漢詩にも梅花の散るのを詠じた詩篇がある。昔も今も、いったい何の違いがあろうか。さあ、われらもよろしくこの園の梅を詠じて、いささか短い歌を作ることにしよう。(大岡信著『万葉集を読む』より)」
 
 万葉集が編まれたのは大体八世紀中頃から後期にかけてで、天平宝字三(759年までの約130年間の歌4500首――天皇、貴族から下級役人、防人などに農民、庶民を合わせたさまざまな身分の人たちの歌が全20巻に分類収録されている。当時は(学校で習ったように)ひらがな、カタカナはなく、文章はすべて漢字で書かれていたから「やまとことば」で詠じられた和歌は、漢字の当て字――万葉仮名で書かれている。公用文書は勿論のことすべての文章が漢字で書かれた「漢文」であったから漢文の常として、とくに文学的な文章は漢籍の有名な文、詩句からの引用は文飾の技巧として慣用されていた。上の「令月風和」も中国の古典『文選』あたりに似たようなものがあっても不思議はない。
 というよりも万葉集の書かれた大和時代後期から奈良時代は先進国中国の文化の移入が急務であったから、字を書く人たち――皇族、貴族、役人や一部の上層庶民は中国古典の学習、暗記が必須の教養でありそこに作文のお手本を求めていたから、そしてそれは日本の伝統となってその後の平安時代から江戸時代まで中国文化の影響は広く、深くあった。たとえば芭蕉の俳句であっても古川柳であっても、歌舞伎・浄瑠璃でさえ中国文学・文化は引用、援用されている。
 
 したがって、万葉集の旅人の有名な「梅花の」の序文――当時最高峰の文化人の漢文の序文に中国古典からの引用、援用があることは当然至極であって、それをもし、「国書」に依拠して元号を考案したから、漢籍の影響を排除したなどということは日本文学の歴史の理解があまりに浅薄といわねばなるまい。
 考えてみればこれまでのように年号の考案に漢籍ばかりが用いられるのはむしろ偏向というべきで、日本文学(文化関係書物も含めて)が採用されるのは至って自然のことであるが、だからといってその歴史を考えればそこに中国文学(文化)の影響を一切見ないということはあり得ない考えである。
 首相は談話の中で、万葉集に選採されている歌人の範囲を「防人、農民まで」という表現をしたが他にもいわずもがなの発言が目立ったのは残念であった。
 
 元号に関する発言のなかにこの「序文」からうかがえる「日本文化の先進性」について一切語る人がないことに無念さを禁じえない。先にも書いたようにこの序文は西暦730年に書かれている。当時の世界を見渡してみれば、当然のことながらアメリカはまだ影も形もないしイギリスも先史時代にある。フランスは『ガリア戦記』の時代だし、ドイツもゲルマン民族大移動の時代である。ギリシャ・ローマの時代が終焉して十八世紀の「ヨーロッパ時代」の到来をみるまでは貴族でさえも「文盲」が多く、極言すればヨーロッパの文字文化は教会の『独占物』であったと言えるから下級役人や一般市民に詩文を詠じる文化的素養など望むべくもなかった。
 にもかかわらずわが日本においては「詠み人知らず」と言われる人たち――防人として辺境の防備に狩り出された平民層や、当時の日本経済を担っていた農民や、雑人(ぞうにん)と呼ばれた人たち(鍛冶屋などの手工業者、商業、金融業者、芸能民など)でさえも詩歌を詠ずる能力を有していた。勿論それは口承で行われていたから、それらを採集して編者――大伴家持や柿本人麻呂――が形を整え文字化して万葉集に編み上げたのであった。
 更に驚くべきは、大宰府という辺境の地にあって大伴旅人という大歌人を中心とした「文化サロン」が営なまれていたことである。当時日本は関東以北と九州南部は夷狄の地であり、朝鮮、中国、ロシアを含めて外敵であったから防衛軍で備える必要がありその南の備えが「大宰府」であった。旅人や山上憶良などは首都平城京からの出向者であったが多くの下級役人は現地採用されたにちがいない。文化の中心地から遠く離れた辺境にも文化はゆきわたり、現地採用の下級役人でも歌を詠じ文字化することができたということはヨーロッパのみならず当時世界文化の中心であった中国と比べても誇るべき文化水準にあったということができる。
 こうした文化水準の高さの伝統がやがて平安時代の女流文学の興隆に結実し、今でも世界最高水準にあるといわれる源氏物語(穿鑿好きの学者のなかにはこの作品でさえ二、三の中国文学の影響を見出すという)や、枕草子、和泉式部日記などを生み出すことになる。
 
 現在、「男女雇用均等法」の完全実施、「働き方改革」など経済的側面ばかりが日本社会の重要課題とされているが、少子高齢化も含めて社会の成熟度が高まっているわが国に今望まれるのは、もういちど「文化の豊かさ」を享受できるような社会を目指すことなのではなかろうか。
 
 元号改元の過熱する報道の中でそんなことを考えさせられた。
 
 
 
 

2019年4月1日月曜日

今のままの教育でいいのか

 2020年度から使われる小学校の教科書の検定結果が文部科学省(以下文科省)から公表された。「主体的・対話的で深い学び」を掲げ、知識を活用した課題解決や新しい価値を見いだす能力の育成を重視した教科書は、平均で約一割の分量が増加され、5,6年生で英語を、コンピューターのプログラミングが6年生の理科に盛りこまれている。
 先ず心配されるのは先生に英語やプログラミングを教える能力が十分に備わっているのか?ということだ。2018年から道徳が新たに教科化されたばかりで現在でさえ一杯一杯のところへ分量が一割増え、さらに英語とプログラミングが加わるというのは物理的に難しいのではないかという危惧は素人でさえ容易に想像できる。文科省は本当に今回の改訂を妥当と判断しているのか。
 更に知識を活用した「課題解決」を目指すのであれば課題の発掘とその解決の時間が必要になるが、単に知識を教えるのに比べてこの課程は相当の時間が見込まれる。もし、短時間で仕上げるような取り組みで終ってしまうのなら、中途半端な結果にしかつながらず最初からこうした課程は取り込まなければ良かったということになりかねない。
 文科省は今回の改訂を実現可能性があると本気で考えているのか。
 
 次に疑問を感じるのは現在の教科内容――特に今回追加された英語とプログラミング――が子どもたちが成人したときどれくらい役立つかについて、確たる見通しを持っているのだろうか。
 現在進行中のAI(人工知能)の実用化とロボット化は今ある仕事のおよそ半分ほどを人から機械に置き換える可能性を示唆している。高齢化と少子化の急激な進行は置換えを不可避なものにしているからこの予測は決してオーバーなものとは思えない。実際問題として「士(サムライ)仕事」と「行政の仕事」の多くはAIによって消滅すると「まことしやかに」喧伝されている。考えてみれば弁護士、計理士、税理士などの仕事は法律や行政の施行文書が煩雑・難解な故に生まれた仕事であり存在しているのであって、顕著な例が「社会保険労務士」で、社会保障関連の法律や行政の執行・施行文書が厚労省の役人でさえ十分に理解し手続きすることが困難なところから生まれた資格であって、良い例が「B型肝炎感染者給付金」の支給になぜ弁護士の手を介さなければならないのか?患者が厚労省の窓口へ申請して簡単に支給されるのであれば何の問題もないのだが、煩雑で難解な手続きのために弁護士や行政書士の世話にならなければならないのが現実なのだ。
 しかしAIはこうした「法律」のような「手続きの積み重ねの体系」の処理は最も得意とする分野であり、どんなに難解で煩雑な法律であっても、一度プログラム化してしまえば、プログラムが完全であれば、処理スピードは人間の何倍も早いから有能な弁護士や行政書士の何人分もの仕事をこなしてしまう。公務員の仕事もほとんどが同じような内容だからAIに置き換えるのはいたって容易である。
 プログラミングは「論理と手順」の積み重ねだからこれもAIに最適の仕事といえるから人よりAIに任せた方がいい。
 英語は「ウエアラブル(着装可能)」のコンピューターが進歩すれば――めがね型のコンピューターが進歩して自動翻訳の技術が今以上に進歩すれば簡単に「機械」が処理してくれて、どんな言語にでも対応できる
ようになる。5G(第5世代移動通信システム)が実用化すれば英語はコンピューターにまかせて外人と仕事をすることは普通にできるようになり、語学ではなく仕事に必要な知識や情報、対人関係の中で交わされる「会話の内容」が重要になる。
 
 AIやロボットの実用化――うえに述べたような仕事の置き換わりは、いつごろ可能になるのだろうか?2030年にどれほどが実現されているか?を推測するとほとんどが実現されていると考えてそう間違っていないとみるのが現在の技術の趨勢である。ウエアラブルのコンピューターと5Gの実用化は5年以内には相当な技術レベルのものが市場に出回ると考えておいた方がいい。
 
 もしそうなったら2020年の教科書改訂によって子どもたちが学んだ内容は彼らがおとなになったときには『陳腐化』してしまっているにちがいない。こした状況を文科省は予想していないのだろうか?
 
 大体全国一律の教科内容を子ども達全員が学習することが現在の状況で正しいのだろうか?
 後進国から先進国に追いつく国の状況においてはそうした教育は必要であった。西洋先進国という「お手本」があったから、彼らの学問を教科書にして教え込めばよかった。全国一律、全員同時も可能であったし国家の検定制度も効率的であった。偏差値によってランク付けして等級化する意味もあった。
 しかし現在はわが国も欧米諸国も同レベルにあり、しかもどの国も「解答のない――人類が始めて立ち向かう」問題に直面している。しかも一方で、学問の進展は『秒単位』で進行しており、発表される情報量は厖大なものになっているから教科書の内容は絶えず更新される必要があり内容量は増えつづける。
 こうした状況に対処できる「教科書」を、文科省という一行政機関が『検定』できるのだろうか。もし(現実性はないが)文科省が対応できるとして、そもそも全国一律の教科書で良いのだろうか?
 
 これからの10年20年は社会の大転換期である。「近代化」――欧米先進国化からの脱却、超克がわが国の課題になっている時代を迎えている。こうした状況に対処するには根本的にわが国の『教育』を更新する必要があり、「文部科学省」という行政機関は現状ではその任に当たるには『不適格』といわざるを得ない。
 
 教育は百年の大計、と言われてきたが今やそんな悠長なことではすまなくなっている。少なくとも30年後を見通すだけの『先見性』を我々はもたなければならない。それにしてはわが国の教育体制は『劣化』が激しすぎる。一日も早い体制見直しが求めれれている。