2024年2月26日月曜日

京都安全神話

  「京都は安全やからエエわぁ」今年になって何人からこの言葉を聞いたことでしょうか。「千年の都が続いたのも大きな天災がなかったからやからな」。そのたびに「そんなことないんやでぇ」と言いつづけています。「大地震もあったし応仁の乱もあったやないか」というとはじめて『京都安全神話』に不安を感じるというのが私の周りの京都人の定番です。

 

² 827年(天長4年)… M6・8

² 938年(天慶元年)… M7  天慶の大地震 余震が翌年6月まであった

² 1185年(元暦2年)…M7・4元暦の大地震 法勝寺の幻の塔倒壊 死者多数

² 1317年(文保元年)…M6・7群発地震 清水寺出火

² 1361年(正平16年)… M8級 南海トラフ沿いの巨大地震と思われる

² 1498年(明応7年)… M8級 南海トラフ沿いの巨大地震と思われる 紀伊から房総に津波

² 1596年(慶長元年)… M7・5 慶長の大地震 伏見城倒壊 死者多数

² 1662年(寛文2年)… M7・5 比良断層系又は花折断層系から発生か 京都滋賀で被害大

² 1830年(文政13年)…M6・5 京都大地震 直下型余震多し 二条城本丸大破

² 1854年(安政元年)…M7・3 木津川断層系から発生か  

 以上が京都で発生した大地震の記録のあらましです。百年単位で見ると毎世紀マグニチュード7前後の大地震が発生していることになります。20世紀を振返ると1995年の阪神淡路大震災(M7・2)があり京都でも震度5を記録しています。原因は上にもある花折断層など京都には震源断層が幾つもあるからです。2011年の東日本大震災以来全国で大地震が頻発しています。安政の大地震以来200年近く京都の断層は休眠していますがいつこれらが活性化しないとも限りません。「京都安全神話」など妄想です。大地震がいつきてもおかしくない状況にあることを肝に銘じるべきです。  

 

 もうひとつ「千年の都」の代償を庶民が払いつづけてきた歴史もあります。「千年の都」の美称の陰で庶民は政争の被害を被りつづけてきました。われわれ世代はアラカン(嵐寛寿郎)の「鞍馬天狗」で育ちましたから京都を荒らしまくる新撰組を颯爽と退治する鞍馬天狗に憧れたものでしたが、その真実は幕末の京都で徳川幕府と討幕派が騒乱し理不尽な略奪に庶民が脅かされていたのです。その結果が「蛤御門の変(1864年)」となって中京と下京のほとんど――北は丸太町通、南は七条通、東は寺町通、西は堀川通の約3万軒が消失したのです。勿論応仁の乱(1467~1477年)は10年に及ぶ内乱でしたから京都全域が戦乱の巷と化し庶民の苦難は筆舌に尽くしがたいものであったにちがいありません。

² 保元・平治の乱(1156、1159年)

² 源平の合戦(1180~1185年)

² 承久の乱(1221年)

 9世紀から1000年の間京都の庶民は天災と戦乱の被害にさらされつづけてきました。それを「千年の都」という美称でおおい隠す一方でそれを誇ることで強がってみせたのが「京都人の意地」です。今生きているわれわれはその事実にあまりに『無知』です。千年の歴史の『遺産』に囲まれて「日本人の心の故郷(ふるさと)」に安住しています。

 

 しかし今京都は大きな歴史的転換点にいます。このまま何もせずに手を拱いていたなら「千年の都」は必ず潰えてしまいます。

 6世紀中頃の伝来以来仏教は圧倒的な信仰を獲得してきました。権力者と庶民の莫大な「寄進」に支えられた『寺領』の収入によって広大な寺院伽藍を建造・維持してきました。信長も秀吉も家康もこれを目の仇にして「剥奪」しつづけましたがそれでも30年50年の式年遷宮に耐えられる財政基盤を維持できてきました。今の感覚では神と佛は別物のように思っていますが明治維新までは伊勢神宮や出雲大社などを別にすれば神仏習合が一般でしたから「寺領」の資金は神社の補修・維持にも費えられました(勿論有名神社は神社領をもっていました)。それが明治政府の「廃仏毀釈」によって伽藍も仏像も略奪・破壊され寺領の多くを没収されてしまいました。それでも今日まで規模維持が可能だったのは天皇家や政府(中央・地方)の保護や富豪市民の寄付があったからです。それが政経分離によって特定宗教法人への保護が禁止され農地解放などによって「大富豪」が消滅したことによって市民層からの寄付が望めなくなって「財政基盤」が極端に脆弱化してしまって「規模の維持」が困難になっているのです。梨木神社や下鴨神社が域内にマンションを建築するのや明治神宮が再開発をしようとしているのも「財政基盤の強化」のためなのです。

 京都観光の中心は歴史的建造物――神社仏閣にあります。今までは前世紀の遺産(前の世代の努力)でなんとか持ちこたえてきましたがそれももう底を突いています。拝観料や各寺社の自己努力にもたれたままなら京都の宝である神社仏閣の多くは寂(さび)れ果ててしまうことでしょう。気づかなければならないのは有名神社仏閣だけでなく街の普通のお寺やお宮さんが「町のたたずまい」の重要な構成要素となっていることです。大きな有名寺社とそこへつづく町中のお寺や神社の横を通っていく道すがらのたたずまいがあってはじめて「ランドマーク」としての主役が映えるのです。そして問題なのは町家です。

 

 何もない――田圃や畑の真ん中にポツンとある神社仏閣ではなく生活圏と結びついた都城の中にある「歴史的建造物」で構成されているからこそ『京都』なのです。町家は重要なのです。町家があるから建仁寺も大徳寺も『存在』しているのです。

 ところが町家のほとんどは耐震構造にはなっていません。消火活動の妨げとなる狭い路地も多く残っています。「千年の都」をこれからも保ちつづけ「日本の心の故郷」でありつづけるためには根本的な「都市計画」を樹てなければならないのです。そのためには京都市民の『合意形成』が不可欠です。

 

 行政には「災害意識」も「景観維持政策」もほとんどありません。非常に危険な状態にあります。市民の「意識改革」が不可欠です。『京都安全神話』は「妄想」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024年2月19日月曜日

蕪村の眼差し

  小澤征爾さんが亡くなりました。毎年正月のウィーンフィル・ニューイヤーコンサートを楽しみにしていますが2002年の小澤さんの演奏は特別でした。指揮はどの年も世界有数の名指揮者がタクトを振りますから素晴らしい演奏は当然なのですがこの年のウィーンフィルの音は私の心底を震わせました。同じシュトラウスなのにいつもの年と違う音だったのです。ぞれがテンポなのかピッチなのか素人の私には説明不能ですが敢えていうなら「日本的なもの」をその音楽が色濃く帯びていたのです。クラシック音楽はヨーロッパのものですから小澤さんはそれを理解するのに随分苦労したはずです。単なるコピーであれば上手なひとはいくらでもいるでしょう。しかしそれではウィーンフィルや世界の有数のオーケストラを心腹させることはできません。彼らが「小澤」をマエストロとして受け入れ尊敬したのはコピーでなかったからでしょう。ひょっとしたらそれが私のいう「日本的なもの」だったのかもしれません。

 いつだったか京都で小澤さんが若い人たちに教える練習風景を見学する催しがありました。途中舞台から降りた小澤さんが私たち夫婦の三列ほど前に座って教えだしたのです。予期しなかったことであれよあれよのあいだの出来事でしたから呆然と眼のまえを見るばかりでしたが、生まれて初めて「オーラ」というものを見ました。感じるというよりも「見た」のです。決して怒鳴るわけではないのに指示する声がおだやかに会場全体に沁みわたっていました。あのままの風貌が目の前にやってきて座って、その空気感がいまでも胸に伝わってきます。夢のようなハプニングでした。ご冥福を心からお祈りします。

 

 去年芭蕉を読んで今年は蕪村を勉強しています。三年前から古典を学ぶようになって、古今和歌集を窪田空穂の評釈で学ぶことで古典の学習方法と味わい方を覚えて、和歌や俳句の短詩形は導き手なしに上っ面だけを読んだのでは絶対に理解できないことを知りました。芭蕉は小澤實の『芭蕉の風景』という抜群の手引きで鑑賞することができて芭蕉をはじめて知ったように思いました。蕪村は中村稔という恰好の書き手の『与謝蕪村考』という名著を得て更なる高みに導かれたようとしています。まだ完読には至っていませんが今の時代、今の私に訴える句のいくつかを紹介しようと思います。

 

 芭蕉(1644~1944)と蕪村(1716~1784)を比較するのに格好の句があります。

 五月雨をあつめて早し最上川  松尾芭蕉

 さみだれや大河を前に家二軒  与謝蕪村

 芭蕉の句は雄渾そのもの、降りつづく五月雨が最上川を溢れ返すとともに矢のような急流となって眼前を流れ去っていく。その景を見事に詠んだ芭蕉の傑作にたいして、蕪村は大河の濁流の前にポツンと建っているいる二軒の小家の不安な様を詠んでいます。岸近くの湿地に建っている家は貧しい百姓家にちがいありまえん。増水しつづける大河が溢れれば粗末なあばら家はひとたまりもないことは住んでいる百姓がいちばん分かっているはずです。しかし逃げ出せば家を失うことは自明ですがかと言ってそうなればどこへ行けばいいのか手立てもありません。そんな不安を抱えて呆然としているにちがいない貧しい百姓に対する思いが伝わってきます。三軒でもなく四軒でない「二軒」にしたのは、「二」という数字は本来相互に扶助し励まし合う気持ちを含んでいます。貧しい百姓が村はずれに見出した土地にあばら家を組んで助け合ってなんとか生きてきた、そんな「二軒」なのです。

 

 蕪村は芭蕉と違って貧しく困窮のなかで生きた詩人でした。したがって彼の句には貧しい人、不遇な人に対する思いやりが冷徹なリアリストの眼とヒューマニストの心で描かれています。

 こがらしや何に世わたる家五軒 「木枯らしが吹き抜ける寒村に、数えてみると家は五軒のみ。いずれも古びたあばら家で、田地も僅か、山林も豊かではない。一体何を以って生計を立てているのだろうか」。「何に世わたる」により、荒寥たる寒村を強調した」。

 蕪村自身は貧しさに負けるのではなくそれを一歩離れてながめやりながらおかし味を感じる余裕もありました。

 売喰(うりぐひ)の調度のこりて冬ごもり  「必要最小限の調度だけを残し、それ以外の調度を売り払い、その代金で暮らして、冬籠りしている。貧窮の生活をむしろ愉しんでいる、悠々自適の心境を描いた作と解する」。

 かと思えばこんな「閨怨(けいえん)」な句もあります。

 身にしむやなき妻のくし()を閨(ねや)に踏(ふむ) この句について正岡子規はこう評しています。「こんなつまった句はめったにあるものではない。(略)亡妻の櫛といひ、閨に踏むというやうに言葉をつめていふ事は、蕪村でなければ出来ぬことだ。蕪村集中でも珍しい句だ。特によい句といふわけではないが、他に比類のない句として、且つ俗な趣向を俗ならしめざりし句として、一言しておく」。

 

 彼は「老い」をどのように見ていたのでしょうか。

 霜あれて韮(にら)を刈取(かりとる)翁(おきな)かな  「霜で土も荒れた畑に、わずかに韮だけが残っている。その韮をとるよりほかにすることもない、追い詰められた百姓の老人の落寞(らくばく)、荒寥たる情景を詠った痛切な句である。このような情景に「詩」を、「情」を見た作者の心境に敬慕の思いを禁じ得ない」。

 我(わが)骨のふとんにさわる霜夜哉  「老齢になると肉が落ちて骨がじかに蒲団に触る感を覚えるのは多くの人が確実に体験するところである。(略)痩せて肉が落ち骨がじかに蒲団に触ることから、老いを痛切に感じた述懐の句である」。

 

 子規以来写生が俳句の王道であるかのように順守されてきました。「芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて尠なく、名句の中には殆どない事実を、深く反省して見るべきである。詩における観照の対象は、単に構想への暗示を与える材料にしかすぎないのである」。

 最近の現代俳句や短歌の句、歌集を読んで強くその感を持ちました。

 

 

 

 

 

 

2024年2月12日月曜日

古書とネット

  私が古書と本格的につき合いだしたのは十五六年前大阪の天満橋で小林秀雄の『本居宣長 上・下』(新潮文庫)に出会ってからです。その頃府庁や中央官庁の出先機関への取材がルーティンになっていて毎日のように天満橋から谷町をブラつくことが多くそのつれづれに入った横町の古書店でたまたま見つけたのです。思いのほか程度がよく以前から読みたかった本だったので迷わず購入しました。それまであった古本に対する拒否感のようなものが一挙に払拭されて古書が身近なものになり、その気になると大阪には古書店が随分あるのです。それも梅田や天満橋などのターミナル近くにあって便利なのがよく阪急茶屋町のかっぱ横丁にはそれぞれ専門化した古書店が何軒もあって特に美術関係の古書店はその方面に興味のある人には垂涎の的にちがいない掘り出し物が揃っています。JR大阪駅下の地下街にも何軒かあって古典や漢文関係の本を何冊か購入したことがありました。

 

 先輩の関係していた業界紙を辞めて大阪へ通勤することがなくなり一時古書店から遠ざかっていました。閑になったのでじっくり読書するようになるにつれて専門書を読むことが多くなったのですが読みたい本が絶版になっていることが少なくないのです。とりわけ本文中の参考文献や引用文の出典の多くが絶版になっているのです。勿論図書館はほとんどをカバーしていますが中には蔵書にしたいものも出てきます。そんなときは古書店に頼るしかないのですがこれがなかなかの難物なのです。京都に古書店は数多くありますが散在していてしかもそれぞれが専門化していますから目当ての本に出合うのは至難の業なのです。古書店であれこれ目についた本を手に取って吟味するのも古書店巡りの楽しみですが、そして思わぬ掘り出し物を見つけることも少なくないのですが、とにかく時間と労力を費やさなくてはならなくてしかも徒労に終わることもあるから始末に負えないのです。

 そんなときフト「ネットはどうだろう」と思ったのです。今となってはどうして最初からそこに思いつかなかったのか不思議なのですが、どこかで古書店という職業が古いものだからネットと縁遠いものという勝手な思い込みがあったのかもしれません。「日本の古書店」で検索して、出会って、私の読書環境は一気にベターなものに変貌しました。

 

 突然ですが本の体裁にいろいろあることに気づいていますか。今問題にしているのはページ建(各ぺージのデザイン)ですが、天地(ページの上と下)が大きく空いている本がありますがそれは何のためか考えたことがありますか。最近になって「書き込み」するためではないかと気づいたのです。難解な字句があったときその訓みや意味を書き込んだり、気に入った文章を書き出したり、まとめを書いたりといろいろ利用法はあると思いますが、あの余白はそんな為にあるのではないでしょうか。難解な専門書であればあるほど書き込まなければならない箇所が多くなりますから図書館の本は不適切です。したがって古書が欲しくなるのです。

 

 気がつけばこの四五年で購入した古書は二十冊を超えていました。最近でいえば尾山篤二郎著『西行法師名歌評釋』(非凡閣・昭和十年一月十五日発行)と飯田秋光著『三体千字文』(高橋書店・昭和四十七年九月三十日発行)の二冊は重宝しています(いずれも二千円以下で購入)。前者は昨年から読み込んでいる西行の『山家集』の評釈本ですが考証が行き届いていて字句の解釈を押えながら訳が詩的で、数ある山家集評釈本の中でも最右翼ではないかと思っています。後者は今年になって始めた漢字の書の「お手本」ですが菊版(150×220mm)で一頁に6文字を三体(楷書、行書、草書)に配してありますから字の大きさが丁度よく書体が私好みなので気に入っています。ちなみに「千字文」とは「いろは」と同じように書のお手本として漢字千文字を重複なく選んで「詩(漢詩)」に編まれたもので漢字の字体・字形のすべてと必要文字数が網羅されています。中国南朝の武帝(502~549)が周興嗣に命じて部下の兵士に漢字を学ばせるためのお手本として作らせたものです。古くからわが国でも漢字の習字のお手本として採用されてきました。

 

 ネット時代になって学問の環境も大変化の時代になっていますが、出版(出版社、書店)、図書館、古書店とネットがうまく機能しあうことが最も良いのではないでしょうか。研究論文などはネットの流通が主体ですがその保存という意味では「(紙の本の)出版(出版社、書店)」は必須で、普及のための図書館も必要です。また昨今の出版事情としてサイクルが短く早いために「絶版」は止もう得ず、そうした事情を踏まえると「古書店」の必要性はますます高まってくると思います。最近驚いたのはD・リースマンの『孤独な群衆』が絶版になっていました。戦後すぐに出た「社会性格論」の嚆矢となった書物で社会学の基礎文献と思うのですがこれさえも絶版となる時代ですから古書店の価値が今ほど高まった時はないのではないでしょうか。一度ネット書店(新古本店だったかもしれません?)で古本を買ったことがあったのですが保存状態のあまりの粗雑さに唖然としました。本に対する「愛―扱い方の丁寧さ」がまったく違うのです。さっき取り上げた『西行法師名歌評釋』はほんの少し函が汚れているのですがパラフィン紙で装丁してあって本そのものの表紙もパラフィン紙で装丁してあります。古書店さんの百年近い歴史を帯びた本を大切に後世に伝えていかなければならないという慈しみと覚悟がしのばれます。

 

 古書店はネットとの親和性が極めて高い仕事だと思います。もしネットがなかったら消滅していたかも知れません。それは流通量が余りにも多く必然的に専門化せざるをえず購入者に過分な時間と労力を要求するうえに一冊の本であっても出版年次や保存状態に多様性があって購入者の選択肢は多ければ多いほど満足度が高くなるのです。リアル書店では選択肢はほとんどありませんがネットなら一冊の本に何冊何十冊と展示することができます。実際に統計を見たわけではありませんがネット時代になって古書店はそれ以前より繁盛しているのではないでしょうか。それは町の本屋さんの衰退傾向と真逆です。

 

 ネットは消滅の危機にあった多くの仕事を延命させました。たとえば「螺鈿屋」さんは本来の机や指物以外にアクセサリーやファッションなどにも販路を広げて活性化しました。世界を見渡せばそんな可能性を秘めた仕事や職業は無数にあるはずです。

 ネットは一大文明革命を実現するだけの可能性をもっています。特に学問・教育面での可能性は無限です。悪意をいかに慰撫するか、それが問題です。人類の叡知が試されています。

 

 

 

 

 

 

2024年2月5日月曜日

日本酒の新発見

  一月はあっという間に過ぎていきました。こんな時に使う表現ではないのでしょうが「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」がぴったりの一ヶ月でした。元旦の能登半島大地震、二日の羽田空港航空機事故、自民党裏金事件そして世にも不思議な異常な株高とゲスな松本人志騒動。1年分の出来事が1ヶ月で起こったのですからこの早さ感覚も当然でしょう。それにしても政治や不倫ネタの文春砲ならヤンヤヤンヤともてはやすニュースショーやSÑSがこと松本問題に関してはしたり顔で擁護論や自粛論が幅を利かせるのはどうしてでしょうか。人気者と権力者には靡いてしまう昨今の「正義漢」たちには辟易してしまいます。これではアメリカのトランプ現象を「対岸の火事」と笑ってばかりもいられません、なにやら首筋が薄ら寒くなりました。

 

 それはさておき今年になって私生活に何か変化はなかったか、考えてみるといくつかありました。

 筆頭は日本酒です。衰えを痛感した昨年の反省から「睡眠の質向上」のために晩酌を週二三回に減らそう、そう目標をかかげましたが「抜け道」が見つかったのです。正月に伏見の親戚から月桂冠の一升瓶を貰ったので、ウィスキーと焼酎のお湯割りという冬の定番晩酌メニューに月桂冠のぬる燗を加えてみるとぬる燗のときだけ快適な睡眠が得られたのです。ウィスキーとぬる燗、焼酎とぬる燗の方がウィスキーと焼酎のときより睡眠の質が良いのに気づいたのです。二週間ほどしてアレッ、月桂冠を呑んだときぐっすり寝られるし寝覚めた後二時間ほどもう一度スーッと寝られるゾ。意識して組合せを試してみると効果がはっきりしたのです。

 今どきですからネットで「日本酒は睡眠に良い」と検索するとこんな記事に出会いました。「ライオンはこのほど、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構の裏出良博教授と行った共同研究で、日本酒や酒粕の製造に使われる「清酒酵母」に“睡眠の質”を高める効果があることを世界で初めて発見したと発表した」。詳しい医学的内容は省きますが、脳にある「アデノシンA2A受容体」が質の良い睡眠(深い睡眠)と関係しており清酒酵母の受容体活性効果が他の酵母より高いというのです。

 勿論節酒は行ないますが晩酌時に日本酒を組み合わすことで飲酒しても良い睡眠が得られるのであれば安心できます。偶然でしたが「良い睡眠」という問題意識をもっていたからの発見で幸先の良い新年になりました。

 

 嬉しいスタートは孫にもありました。「置くだけ通せん坊」から解放されたのです。ハイハイするようになってリビングから這い出すのを防ぐために出入り口に「とおせんぼ」を設置していましたが、つかまり立ち、ヨイヨイと順調に成長して保育園へ行くようになって歩行が上達し園で活発に遊ぶようになれば「なんで家では自由にさせてくれないんだ」という不満がめばえるのは当然で、最近はゲートをユサユサ揺すぶって隙間を作って強引に抜け出すようになっていました。これでは「とおせんぼ」は意味がなくなっていましたから撤去は当然の処置で、嬉しくなった孫は母親の「後追い」をしてどこへもついて行くようになり、二階でも平気で上り下りしますから母親は仕事が手につかず困り果てています。そんなこともあって、お母さんに甘えるくせがついて園へ預けるときに泣かれて後ろ髪ひかれる思いで出勤しているようです。まあ一時のことでしょうが、可愛いではないですか……。

 

 昨年「百人一首」をくずし字で毎日最低一首書く「八十路の手習い」をはじめて、一年経つとそこそこ形がつくようになって何より筆を持つことに慣れて臆することがなくなったのは嬉しいことです。冠婚葬祭や展覧会などで記帳する機会も結構あり、金封の表書き、お雑煮の祝箸の名前書きなど意外と毛筆で書くことは多いのです。これまで記帳はマジックでごまかし、金封などはデパートで筆耕屋さん頼りしてきましたが最近は下手をおそれず自分で書くようになりました。何事も「慣れ」は大事でお手本を見ながらの筆ペンでの臨書であっても毎日続けておれば筆が手に馴染むようになって、漢字の完成形――一番難しい「楷書」もなんとかお手本を見ながら書けば人様に見せても恥ずかしくない程度(自分が勝手にそう思っているだけですが)に書けるようになりました。字が上手くない、この劣等感に悩まされてきましたが、思いもかけない「くずし字を読めるようになりたい」という目標ではじめた「くずし字で百人一首を楽しむ」という挑戦が、書くことが一番「読める」近道だと気づいて、書くことが楽しくなって……。

 何事も挑戦することは大事で、それは齢に制限はないのであって「八十路の手習い」は大成功でした。

 

 そういえば去年の紅白歌合戦は見なかったし「相棒」もこのシーズンは一度も見ていないナァ……。

 

 今年は毎日何でもいいからひとつ新しい発見がしたいと思っています、それが美しいものであれば嬉しいですが……、そうそう近くの神社の梅がはやくに一輪ほころんでいつの間にか満開になっていました。そんな身近な発見や気づきで一年を過ごしたい、若いうちは気づかなかったうつろいを見つけることで老いを楽しみたい。そんなことを思った如月の初めでした。