2021年8月30日月曜日

やくざと東電

  特定危険指定暴力団工藤会の野村悟総裁に死刑判決が出されました。記事を読み進むにつれて、もしこの論理でいくなら福島原発事故を起こした東電の経営陣にもなんらかの刑事責任が問われて当然なのではないかという疑問を抱きました。

  罪状を問われた事件は(1)1998年漁業権に関する利害関係のあった元漁協組合長殺人事件(2)2021年工藤会担当だった元福岡県警警部銃撃事件(3)2013年美容整形クリニックの対応が悪かったと襲撃された看護師傷害事件(4)2014年元漁協組合長親族の歯科医師襲撃事件です。

 判決で問題とされるのは1人殺害で死刑判決は異例であること(最高裁の「永山基準」にてらして)、実行犯と同じ現場にいなかったトップが共謀と認められたこと(過去に暴力団のトップと実行犯の共謀が認められた例はトップが現場にいた場合のみ)の2点でこれまでの判例からみて極めて異例です。したがって弁護側は終始全面無罪を主張していました。

 

 判決は4事件すべてで間接証拠から関与が認定できると判断して市民社会を震撼させた組織トップに極刑を宣告したのです。工藤会の上意下達の組織性は実行役との共謀を認めるに充分な根拠となると判断した論拠は、野村被告が工藤会の組織力や指揮命令系統を利用して重要な役割を果たし(A)、自らの意に添わぬ存在へ襲撃を繰り返した工藤会の暴力性を鑑み、これまでの死刑事件と比較して刑事責任は同等以上と結論付けたのです。直接証拠はなくても間接証拠のつみ重ねでトップの関与が認定できる(B)という判示は、野村被告の意思決定の推認(C)が重要な判決理由になっていますが、現場にいなかった別の幹部の意思決定参与の可能性はないのかという疑問を残しています。

 ただ個々の事件を細分化せず、なぜ事件が起きたのかを暴力団の実態に照らして判断した点は評価できます。組員が犯罪に至る組織構造を作ったのは野村被告を含めた幹部たちです(D)。そうでありながらこれまでは、実行役の供述などの直接的な証拠がない場合は上位者は刑事責任を問われないできました。今回の判決はそういった意味で一般市民の肌感覚に合うものになっています。しかし弁護側は控訴するようですから裁判の行方がどうなるかは今後の進展を待たねばなりません。

 

 福島原発事故で東電の経営幹部が刑事責任を問われなかった理由の一つは、津波正確な予知や予測に限界がある原発の運転を止めるべきと考えるような巨大な津波が予測できたとは言えないというものです。ところが国の地震調査研究推進本部阪神淡路大震災を教訓に「最大15.7メートル」という長期予測を出していたのです。これを受けた茨城県に東海第二原発を持つ原電・日本原子力発電では津波被害の想定を見直し対策を進めていた結果、福島のような重大事故は免れることができたです。一方の東電側は、現場が提案した津波対策の改革案を経営陣が認めなかったのです。明らかに経営陣の判断ミスですが、裁判所は、専門家が出した「15.7メートル」の長期予測に信頼性や具体性に疑問があるとして巨大津波を予測できなかった経営陣の判断の限界に理解を示したのです。専門家の予測を専門家でない裁判所が――異なる専門家の意見を聴取したにしろ――信用できないとして東電側に有利な判決を下したことに一般市民が疑問を抱くのは当然と言えるのではないでしょうか。

 

 東電の経営陣が刑事責任を問われなかったもう一つの理由は、法人はそもそも犯罪行為の主体になりうるのか、法人に刑事責任を問う余地があるのかという法律論にもとづく批判的通説が影響しています。「意思」も「肉体」もない法人は刑罰を受ける主体、すなわち受刑主体にはならない、贈賄罪、談合罪、競争入札妨害罪などのように企業犯罪、組織犯罪として行われることが多い犯罪もあるがそれらも法人処罰の対象にならない、という法律論的通説があって、そうした側面から東電幹部の刑事責任は問われなかったのです。

 もしそうした論理が正当化されるのであるなら工藤会のトップにそれが適用されないことに疑問を抱きます。東電の幹部は明らかに組織力や指揮命令系統を利用して重要な役割を果たし(A)ていたはずです。そしてその組織構造を作ったのは幹部たちです(D)直接証拠はなくても間接証拠のつみ重ねでトップの関与が認定できる(B)意思決定の推認(C)が可能であるとするなら東電幹部の福島原発事故の経営責任は立証可能なはずです。

 やくざにはそれができて東電という巨大公益企業にはそれができないというのは余りに市民感情に背を向けたわが国の法体制といえるのではないでしょうか。

 

 世界最悪レベルの事故によって福島ではいまだ4万人が避難を強いられ生業を失った人も多く、そうした福島の被災者が当事者の誰も責任を取らなくてもよいという判断にやり場のない怒りを感じるの無理もありません。

 1人を殺したやくざに極刑が課せられた今回の判決を聞いて福島の人たちは、改めて東電(幹部)の無責任体制に怒りを感じたのではないでしょうか。

 

 

2021年8月23日月曜日

認知症は生活習慣病

  最近「精神栄養学」という分野が注目されています。これによるとうつ病や心の病気、そして認知症も食事や栄養と密接に関係していると考えられるのです。

 例えば欧米では魚介類や野菜、オリーブ油などが中心の地中海式食事に比べて、ハムやベーコン、ハンバーガーなどの肉食を中心とした西洋式食事をしている人にうつ病が多いというデータが既に出ています。さらに朝食をきちんと取る人がうつ病のリスクが低いことは世界の多くの地域で確認されています。またうつ病患者は善玉菌(腸内細菌の)が少なく、善玉菌が一定以下だとうつ病の発症確率が高くなるというデータも確認されています。

 こうした例が教えているのは、うつ病や認知症で食習慣が発症のリスク因子として重要であることが疑いようのない事実になっているということです。

 「精神栄養学は心の病気や精神疾患の発症について、栄養の不足や過剰などの関与を明らかにし、食習慣や栄養補充による治療法を開発する新しい学問領域。2000年ころから欧米で研究発表や医療現場での実践が続いている。ここ十数年で急速に研究が進んだ」と帝京大学医学部の功刀浩(くぬぎひろし)教授が語っています。食の西洋化・製品化が進むにつれ、魚や野菜中心の伝統的な食事では自然に取れていた食物繊維やオメガ3系多価不飽和脂肪酸、ポリフェノールなどの栄養素が不足がちになっていることが軽視されているのです。

 こうした栄養素の不足を補うものとして次のようなものが重要です。ビタミン(B、C、D、葉酸)、ミネラル(鉄、亜鉛、マグネシウム)、多価不飽和脂肪酸(EPA、DHA)、食物繊維(善玉菌――乳酸菌やビフィズス菌)、嗜好品(緑茶やコーヒー)、サプリメントなど。

 

 西洋医学偏重の医療がすすめられ部位別の「単科治療」を中心に医療が提供されてきました。しかし近年の研究では、人間の肉体は相互に密接な関係性をもっているのでこれまでとは異なった複数の医科の連携によって治療効果が高まることが明らかになってきました。「精神栄養学」もこれまでは薬物療法と精神療法(心理療法)だけが治療法と考えれてきた心の病気や精神疾患の分野に栄養学的側面からのアプローチを持ち込むことによって新展開を実現した好例です。

 

 いわゆる「老人病」もそうした意味で「単科治療」に適さない病気(?)の一種ではないでしょうか。日本老年医学会は1959年に発足していますが正式に――それまでの任意団体から文部省(現文部科学省)認可の社団法人となったのは1995年ですからまだ30年にも満たない歴史の浅い医学領域です。そもそも「老い」は国際標準では病気として認められていませんでしたが、2018年にWHOの『ICD―11(国際疾病分類)2022年から適用』の「拡張コード」の一つに「aging ―related(加齢・老齢に関する)」が加わりました。これは加齢・老化自体を病気と認定したものではありませんが近いうちに老齢が病気として取り扱われる可能性が実現性を帯びてきたことを示しています。ようやく「老い」のいろいろな治療法が発見・発明される希望がでてきたのです。

 

 高齢で健康な人は大勢います。共通しているのは「適度の運動と規則正しい生活、栄養に偏りのない食生活、ストレスを溜めない」ことです。それ以外に各人各様それぞれ独自の健康増進策をもって長寿を楽しんでいます。以下にわたしが何をやっているかを記してみます。

 私の基本的な考え方は「自分で手当てできることはなんでもやってみる」です。内臓や脳はどうすることもできませんが歯(咽喉、舌も)、眼、皮膚、筋肉・関節(整形外科関係)は努力次第で能力の低下を抑えられる、こうした周辺器官を良くすれば内臓や脳にもいい影響が与えられるのではないかと考えたのです。これは少し考えてみれば納得できることで、歯が痛い、目がかすんでイライラする、こんなことが重なればストレスが高まって胃や神経に悪影響が及ぶ。それが嵩じて病気になるのは自然な流れではありませんか。

 歯は虫歯一つありませんし32本(28本の永久歯と4本の親知らず)健康な状態にあります。それでも65才を過ぎて歯茎に衰えを感じて歯医者さんに相談しました。歯垢の除去と歯磨きの指導を受け、2本の歯ブラシ(普通タイプと隙間用)を使って歯と歯茎の清拭とマッサージを入念にしています。3、4ヶ月に1回受診して要歯磨き部位を指導してもらうことで歯周病予防に心がけています。毎朝インターバル速歩(ひょっとしたらこれが私の健康の礎となっているかのしれません)をしながら喉と舌の運動を行うことも健康にいい結果をもたらしているのではないでしょうか。

 眼は70才ちかくなって夕方かすみ眼で読書がしづらくなり眼科を受診、目薬の処方と眼球の運動をすすめられました。加齢による水晶体の損傷などは防ぎようがありませんが調節機能を司る筋肉は運動で老化を止めることが可能かもしれません。それでも老眼は進行しますから眼鏡の点検、更新は大事です。

 加齢とともに皮膚の乾燥は諸種の異常を発生させます。たとえば踵(かかと)の乾燥と硬化は歩行に悪影響を及ぼしますから保湿剤の塗布で乾燥を防げば歩行、膝、腰にいい効果をもたらしてくれるのではないでしょうか。

 腰、膝、関節などは老化現象として機能低下は否めません。定期的なケア(マッサージなど)で重症化を止めることは運動と共に身体を良好に保つうえで有効だと思います。

 

 病院で治療を受けるだけでなく日常生活でケアできる部位を恒常的にケアする。西洋医学の得意器官の内臓や脳以外の周辺部位をケアして機能低下を防ぐことで身体全体で「老い」に対応する。医学的に認証されていないけれども自分なりに「老い」と意識的に向き合っていくことで身体機能全体を良好に保持し健康寿命を享受したいのです。

 

 高齢者自身の取り組みが「老人病」の治療に役立つかもしれません。工夫して身体と話をしながら毎日を過ごしています。

この稿は「京都新聞2021.8.17」の「心の病気が食生活と関連」を参照しました

 

 

 

 

2021年8月16日月曜日

天の配剤

  無能の誹りを免れ得ない菅総理の無策が招いた「デルタ株の感染爆発」。感染者数は全国で2万人を超え重症者数も2000人に迫ろうかという勢いです。専門家は「災害レベルの猛威」といい、政府も「これまでとは違う強い対応を」と言い募っていますがその政府の打ち出す対策は相変わらず「お願いレベル」の、マスク、3密、そして不要不急の外出自粛に終わる体たらく。勿論お盆のことでもありますから、県境をまたいだ交通を控えお盆の帰省も中止を、と訴えていますが個人の行動規制ばかりで政府の「行政的政策」に発生当時となんら進展が見られないのは無念と言わねばなりません。菅総理の唯一の政策らしい政策「ワクチン接種」もタネ切れで接種スピードが頓挫してしまった現在ではまったくの「打つ手無し」の情けない有り様です。PCR検査の飛躍的な拡大、ワクチンの確実な接種予定に基づく集団免疫の獲得時期明言、治療薬開発の予算大増額による「国家的開発目標」策定、感染専用病院(プレハブでよい)の早期建設、等「国民の健康と生命を守る」具体策を早期に作成し政府の本気姿勢を提示して国民の信頼を獲得して下さい。選挙日程が間近ですから浮足立っているのでしょうが、国会を開いて政府与党と野党が協力して「挙国一致体制」で国難に挑むことを切に願います。

 

 それにしてもコロナ禍における「東京人」の振る舞いは納得できません。緊急事態下にもかかわらず人流に変化は見られず、いやむしろ増加して今の感染爆発を招いてしまったのです。五輪開催の皮膚感覚はわれわれ他県のものとは隔たりがあるのでしょうがそれにしても「切迫感」ゼロです。その結果が感染拡大になり東京人同士で納まりがついているのなら「どうぞご勝手に」、なのですがそうはなっていません。彼らが沖縄、北海道、金沢、京都、など全国へ越境行動することで感染を振り撒いているのです。決めつけているようで反論もあるでしょうが、全国の多くの人たちはそう思っています。なぜなら全国の多くの都市の市民は東京人ほど所得が多くありませんからそんなに頻繁に旅行に出かける余裕がないのです。正月であったりゴールデンウィークであったりお盆であったりの新幹線、航空機の混雑状況が伝えられるたびに、東京駅や羽田空港の沖縄行き、北海道行きの混雑状況が、ああまたこれで沖縄が、北海道が、京都が感染拡大になるだろうと予想され、数週して必ず感染が拡大してきたのです。

 東京人には感染拡大を及ぼした責任がまったく感じられません。全国知事会がロックダウン(に近い措置)も選択肢に挙げたのははっきり言えば、「東京圏のロックダウン」を言っているのだということを銘記すべきです。

 

 そんな折、お盆休みに入ろうかという10日ころから季節はずれの疑似梅雨前線が全国を覆い「豪雨警報」に近い雨量が予想される気象状態が起こりました。一部地方で線状降水帯が発生し甚大な被害が発生しています。この状況は西日本から徐々に東に移動しお盆休みあけのころにかけて東日本へ移動する予報です。被害の出ている地方の方には心からお見舞い申しあげますが、これはまさにコロナ感染爆発にとっては『天の配剤』です。もしこの豪雨がなかったら、お盆の越境行動は全国規模で行なわれたはずでそれによる感染拡大は悲惨な結果を招いたにちがいありません。高齢者のワクチン接種が80%を超えたこともあってPCR検査をしての実家への帰郷が大幅に増えそうな傾向が報道されていました。それが豪雨予報で予定中止を余儀なくされた人が相当数あったことでしょう。もしこの気象異変がなかったら、東京人の全国拡散に歯止めがかからなかったと思います、そして感染爆発は「大災害レベル」に達したかもしれません。雨の被害は恐ろしいですがコロナ禍にとっては僥倖ともいえる『天の配剤』になることを祈るばかりです。

 

 それにしてもどうして日本人はこうも変わってしまったのでしょうか。最近は「同調圧力」などと悪いことのように言われますが、もともとの日本人は「愛他意識」があって人様に迷惑ををかけない、世の中を良くしようという気持ちが強い民族だったはずなのです。そうした日本人を小泉八雲はこんな風に描いています(『日本人の微笑』1894年)。

 古い体制に育った日本人のなかに、決してほめすぎにはならない、礼儀正しさや、無心無欲や、善意に満ちた優雅に、われわれは出会うことがある。当世風の若い世代の連中のあいだからは、こういったものはほとんど姿を消している。卑俗な模倣と、陳腐きわまる浅薄な懐疑を超えることもできずに、いたずらに古い時代と古い習俗とを嘲笑する若い人たちを見かけることがある。いったい、彼らは父祖から受け継いだはずの、あの崇高な魅惑的な美質はどこへ行ったのであろうか。

 千年以上もむかしに中国の文明と同化しながら、しかも独自の思考や感情形式を保持している日本は、はたして西洋文明と同化することができるだろうか。ただ一つ、希望を持てる目ざましい事実がある。それは、西洋の物質的優越に対する日本人の讃美が、決して西洋の道徳にまで及んでいないことである。東洋の思想家たちは、機械の進歩と倫理の進歩とを混同するような重大なへまをおかしたり、また、われわれの誇る西洋文明のもつ道徳的弱点に気づかぬようなことはない。

 皮相な見地からすると、西洋流の社会形態は、古くより人間の欲望を自由に発達させた結果、華美と浪費をきわめ、はなはだ魅力的である。要するに、西洋で一般に行われている物事の状態は、人間の利己心の自由な活動にもとづいているから、そうした特質をじゅうぶんに発揮することによって、はじめて到達されるのである。

 一見したところ、西洋文明は、利己的な欲望を満足させるのに適しているから、いかにも魅力的に見えるが、しかし、人間の願望が自然の法則をつくるという仮説を基にしている以上、究極するところそれは、失意と堕落に終わるにちがいない。……西洋諸国は、最も深刻な闘争と幾多の消長をへて、今日の有様となった。だから、闘争をつづけるのが、彼らの運命なのである。

 西洋かぶれの日本人は、自国の歴史を、西洋流に書くつもりでいるのか。彼らは、本気で自分の国を、西洋文明の新しい実験の場にしたいと考えているのであろうか。

 

 130年前、日本に魅せられて帰化した外国人の心配が、あたかも現実になってしまったのす。

 

2021年8月9日月曜日

金メダル交換してあげて下さい

  名古屋市の河村市長が金メダルをガブリと噛んでしまいました。ソフトボールで優勝し表敬訪問した日本代表の後藤希友投手の金メダルを了解も得ず突然ガブリと噛んでしまったのです。当然のことながら怒りや非難、SNSの炎上などで追い詰められた彼の言い訳は「最大の愛情表現だった。迷惑をかけているのであれば、ごめんなさい」というものです。意味不明です、優勝の称賛と努力への敬意こそ市長としての表敬への返礼であるはずで、「愛情」など誰も期待していないし予想すらしていなかったにちがいありません。後藤さんは金メダルを大事にしていくことでしょう、それを取り出すたびに、あのいやらしい「おっさん」が唾液まみれにした「おぞましい」場面を思いだすにちがいありません。一生その記憶は消えないでしょう。最高の栄誉と称賛のしるしが彼女にとってはいやらしい、おぞましい記憶として一生ついて回るのです。

 IOCかJOCか、どちらでもいいです、金メダルを取り替えてあげて下さい。スペアの1個や2個はあるでしょう。どうか彼女の金メダルをまっさらキレイなものにしてあげてください。

 

 しかし彼は何故こんな暴挙に出たのでしょうか。その後もいろいろ言い訳をしているようですが納得できできるものではありません。ただ言えることは、余りに「子どもっぽい」振る舞いであったということです。テレビで何度も見たシーンを前後不覚で衝動的に実行してしまった、ということなのでしょう。そういえば最近政治家の子どもっぽい振る舞いや言動が多すぎるように感じます。最たるものは安倍元首相と菅総理の「キチンとやります」でしょう。それはまるで出来の悪い子供が親に叱られて、「チャンとやらなあかんやないの。言うた通りキチンとしいや」「うん、分かった。チャンとやる、言われた通りキチンとする」。

 キチンとする、とは普通おとなは言わないでしょう。目上の者――親が言いつけた「プログラム」を百点満点めざして一所懸命努める場合に言う言葉遣いです。おぼろげですが歴代の総理が「キチンとやります」と言ったのを聞いた記憶がありません。安倍さんという人は祖父、大伯父、父親ともども非常に優秀な人たちでした。彼もそのあとを踏襲すべく平沢勝栄復興大臣(元東大生)の家庭教師の薫陶を得たのですが祖父たちと同じ学歴を得ることはできませんでした。そんな安倍さんの生い立ちをみると彼が「キチンとやります」を常套句としていたであろう幼少時が彷彿とします。

 菅さんは安倍さんと後継の「中継ぎ」ですから彼独自の政治目標というものがないままにコロナ禍という「国難」に対応させられましたから「無策」なのも仕方ないのです。とにかく周りの提案する施策を懸命に実現する以外ないのです。したがって「キチンとやる」という言葉が自然と口をついて出るのです。

 政治家としての信条と政策体系を具備した「ひとかどの」政治家でなければこの難しい状況を打破できません。現状は「子どもっぽい」連中による弥縫策の連続で最悪の状況に陥っていくのを手を拱いて静観するしかないのです。

 

 「ピーター・パン症候群」ということがマスコミをにぎわした時期がありました。年齢的に大人なのに、精神的に子どものままでいる「おとな・こども」の男性のことで、社会人としての能力に疑問のある人が多いといわれています。先の政治家の皆さんは一応それなりの成果を上げてこられましたからこの範疇に入れるのは気の毒な気もしますが精神的にはどうなのでしょうか。『ゴルゴ13』で外交を勉強する大物政治家はいますが……。

 「おとな買い」というのがあります。シリーズ物の漫画本を全巻まとめ買いする、子どものころ欲しかったヒーローの合金フィギアを何体もコレクションする、などですが妻や恋人の「冷ややかな」視線に気づいていません。回転寿司や外食チェーン店での日常的な外食通いも一種の「子どもっぽい」習慣的行動といえるかもしれません。

 

 おとなと子どもの差の大きなポイントは「欲望管理能力」ではないでしょうか。子どもにはこの管理能力が不足していますから「だだ(駄々)をこねる」ことになるのですが、要するに湧きおこった欲望を堪えることができるかどうかに大人と子供の根本的な分かれ目があるように思います。河村氏はこれがなかったのです。

 戦争を経験したわれわれ世代は「物資不足」の時代を実体験しました。生活を営む上で最低限必要な食糧や道具、住むところさえ無い状況を知っています。急速に復興して「まがいもの」で必要を満たす時代を経て間もないうちにドンドン「もの」が溢れる時代が来ました。「大量生産・大量消費」の時代が来たのです。ところがそのうち「自分が本当に欲しいもの」かどうか分からないものを「買わされる」時代がやってきます。そして「コンビニ」と「100円ショップ」が現われたのです。

 この頃から「何でも買ってもらえる時代」になっていきます。『まがいもの』でも『安い』から『かたち』だけは「欲望の満足」が得られるようになったのです。そして「辛抱のきかない時代」になってしまいました。『今』です。

 

 わたしが大事にしたいのは『本もの』と『本当に欲しいもの』です。「ファストファッション」はつくられた流行を超低廉価で提供される衣装です。二年もてばいい方で、というのは明らかに二年前に流行ったファッションだということが誰にでも分かってしまうからです。親子四人で5千円もあれば腹一杯食える寿司やハンバーグ店があります。合成調味料と過剰な塩分糖分で「味覚」が成長できなくなっています。

 一方で美術館や博物館は勉強好きの高齢者で溢れていますが、彼らは掛け軸の草書が読めませんし読めても意味の分からない人がほとんどです。

 

 「子どもっぽい」大人たちが政治をし、子どもを教える「悪循環」。何とかしないといけないのですが、もう余り時間は残されていません。

 

 

2021年8月2日月曜日

金メダル考

  スケードボード女子ストリートで西矢椛もみじ)選手が金メダルを獲得しました。誠に喜ばしいことですが何故か「違和感」を感じました。別に西矢選手の優勝にケチをつけるのではありません、13才という彼女(?)の年令に頭をかし()げたのです。おんなの児と呼ぶのが普通の中学校2年の女子が優勝する、そして金メダルが授与される。授与されたその「金メダル」とはなにものなのかと考えずにはいられなかったのです。

 

 フト浅田真央さんが浮かびました。浅田さんはジュニア時代に日本最高レベルの演技を見せ、シニアも含めた全日本代表クラスに上りつめました。ところが2006年のトリノ・オリンピックは「五輪前年の6月30日までに15才」という年齢制限に87日足らなかったために出場がかなわなかったのです。もし彼女がトリノに出場していたら優勝したに違いないという関係者は少なくありません、もちろん素人の私もそう思っています。今から思うと15才のころが彼女の全盛期だったのかもしれません、シニアになって何度もオリンピックに出場しましたがとうとう優勝はかないませんでした。原因はいろいろあるでしょうが彼女の肉体が年令とともに脂肪のつきやすい体質だった、そのために年令と共に演技が衰えてきたのかもしれません。そしてアイススケートという競技が、とくに女子の場合、成熟した女性には適さない競技なのではないかという考え方も一方にはあるようです。その後オリンピックの年令制限が変更になって今の条件なら浅田さんは出場できたのですから彼女は本当に不運だったと気の毒に思います。

 

 アイススケートが成熟した女性に不向きな競技であった、それ以上にスケードボードは若い――幼い年齢層に有利な競技なのではないか。そんな気がしてならないのです。アイススケート以上に全盛期が若年化する競技なのではないか、そう思うのです。まだ歴史の浅い競技ですからこん後の趨勢を見てオリンピック競技として残すべきかどうかの結論を待ちましょう。

 

 さてそこで、です。中学校2年の女の子(あるいは高校2年)が世界最高レベルの技術を披露したのですからそれは称賛されて当然です。子どもが「遊び」が面白くて夢中になって、一所懸命努力して、他人の何倍も研鑽して今日をあらしめたのですから文句のつけようもありません。それが分かっていても、認めてもいて、それでもなお「違和感」があるのはなぜでしょうか。

 柔道男子73キロ級で2連覇を果たした大野将平さんの金メダルを思うとき、このふたつの金メダルを同列に並べることに抵抗を感じるのは私だけでしょうか。

 それなら水泳男子200米バタフライ銀メダルの本多灯選手は19才ではないかと言われればそれもそうなのですが。

 

 結局歴史が浅く、選手層が圧倒的に少ない競技だということが、そしてつい昨日まで「子どもの遊び」とみられていた(おとなが見ていた)競技だということが違和感の原因なのではないか、とにかく「子どもの遊び」という認識が根強く残っているのです。柔道は1882年に嘉納治五郎によって近代柔道が創設され今では世界200ヵ国が連盟に参加していてわが国の競技人口は約16万人もいます(ブラジルは200万人、フランスは56万人です)。それにくらべてスケートボードのわが国の競技人口はせいぜい3000人に過ぎません。競技としての歴史のちがい、競技人口の多少、年齢層の厚さ、そして競技技術の完成に至る道程の長さ深さ。すべての点でこの二つの競技を比較するのは無意味なことに思えます。

 

 「より速く、より高く、より強く」というオリンピックのモットーからはみ出た競技も最近は少なくなく、スケートボードもそうした競技種目の一つです。1896年の第1回のアテネ大会では8競技43種目だったのが2020東京では33競技339種目にまでインフレ化した近代オリンピックは、完全に「変質」しているのです。120年以上の歴史を経てオリンピズム自体も変質してしまったのです。オリンピックの政治利用、商業主義が批判されています。最近ではオリンピックは悪政を隠す「スポーツウォッシング(悪化した政治状況や社会的評判をスポーツによって洗い流そう、覆い隠そうとすること)」だなどという言説も出てきています。IOCという組織の「不健全さ」も無視できないところにまで高まってきました。

 オリンピックは完全に「変革期」を迎えているのです。

 

 ところで危惧されていた「東京2020」のオリンピックとしての価値に疑問を感じさせる事実が散見されるようになっています。男子サッカーで日本がフランスに〈4―0〉で圧勝してマスコミをはじめ多くの国民が浮かれていますがそれでいいのでしょうか。冷静に考えてわが国と彼の国の実力にこれほどの差があるとは考えられません。この酷暑のなかで3戦4戦闘いつづけて優勝できる可能性を考えたとき、その僅かな可能性に賭けるよりも、その後のヨーロッパリーグでのそれぞれの選手のパフォーマンスと評価(契約金)を考えて本気の勝負を避けたとみるのは私だけでしょうか。テニスも参加選手にばらつきがあるように思えるうえに、試合開始時間に批判が出て3時開始に変更されました。ゴルフ、柔道、体操なども優勝者に世界最高の栄誉がふさわしいか、これからはじまる陸上はそんな「おそれ」は皆無で終われるのか。

 

 新型コロナのパンデミック下で強行された「東京2020」の意味は終わった後も厳しく検討されるべきです。