2010年12月27日月曜日

回顧2010

 今年を振り返ってみて尖閣問題で露呈された我国の『シビリアン・コントロール』の不備はショックであった。危機の伝達が外務大臣や官房長官よりも総理大臣が下位にあったなどの事実は世界でも有数の軍備を持ちながら有事の際の有効性が全く担保されていないということを明らかにしたからである。一体この国で実際にその訓練が行われたことはあるのだろうか。そのマニュアルは存在するのだろうか。不安は募る。

 『競争』が消費者に有利に働くということを身近に実感できたのは森之宮の中華料理店の例であった。近くに有名な中華チェーン店が出店するということで経営者夫婦は戦々恐々であった。今まで無風状態に胡坐をかいていたせいで客数は決して多くなかった昼食時が、サービスメニューを充実したお陰で1階ばかりか2階まで満員の盛況になったのには驚かされた。競争は店にもお客にもいい結果を齎したのだ。これに比べてワンコインタクシーの規制は誰を喜ばせたのだろうか。

 世界には民主主義国と呼べる国が65カ国しかないという事実を教えたR.A.ダールの著作「デモクラシーとは何か」は刺激的であった。しかもその内の42カ国でしか民主主義が機能していない現実を知らないで外交を考えていることの危うさを政治家は自覚しているだろうか。

 池澤夏樹の透徹した「文学を通したアメリカ解析」は示唆に富んでいる。「土着のインディアンから収奪したこと、アフリカから連れてきた黒人を奴隷として強制労働させることで国の発展を図った、という事実がアメリカ人の深層心理に原罪意識として存在しているのではないか」「法律と倫理、治安、セキュリティーを自前で賄わなければいけなかったという歴史」「アメリカは若い国である。ヨーロッパのように罪を知らない、まだ穢れていない。なぜならば、罪のない悔い改めた清らかな人たちだけが、メイフラワー号で渡ってきて造った国だから、アメリカはイノセント(純真無垢)である、という信念」など。

 歴史的転換点を迎えている我国。「物皆は 新たしき良し 唯人は 舊りぬるのみし宣しかるべし」という万葉人の心意気で連載を続けていきたい。

2010年12月20日月曜日

減税は財政支出に勝る

 米国が10年間で約8580億ドル(約72兆円)に及ぶ減税(ブッシュ減税)や失業保険給付の延長を決定した。当初は年収25万ドル以下の所得層に限って考えられていたが共和党との調整で富裕層にも配慮した制限無しに落ち着いた。これは金融危機を受けて2009年に成立した景気対策の当初規模約8000億ドルを上回るもので、景気低迷や雇用悪化への危機感を共有した議会と政府が「最悪の事態」を避ける措置に踏み切ったものである。

 これに対する米国内の論調は次のようになっている。ワシントン・ポスト「減税終了は脆弱な景気回復を脅かす。景気対策として現実的期待を抱かせる賢明な政策」、ウォール・ストリート・ジャーナル「税率が成長に重要で企業を泥棒扱いするのは投資と雇用を阻害し、減税は財政支出に勝ることを(オバマは)認めつつある。企業が元気づけられ雇用を増やせるとの合図を送っている」、ニューヨーク・タイムズ「失業給付延長を妨害していたら数百万の米国民が苦しむところだった。ただ、無期限に富裕者向けの減税を続ける余裕はない」。

 一方我国の来年度税制大綱は12年ぶりの法人税率引下げを大々的に打ち出し景気活性化と雇用拡大を狙ったと政府は訴えているが、内容を見ると法人税減税(5%)5800億円、個人増税4900億円で実質減税額900億円という、将来の見えない負担に歪みのある、効果を疑うものになっている。個人増税は、サラリーマンの必要経費である給与所得控除を年収1500万円超で245万円打ち切りとする、相続税の基礎控除を縮小するなど富裕層を狙い撃ちにしたもので、小手先の帳尻合せといわれても仕方がない。

 我国と米国のGDPは2009年50680億ドルと142560億ドルで約2.8倍の差があるが、それにしてもこの驚くべき危機対応の差はどう説明したらいいものか。米国の民主党と共和党による国の命運を賭けた真剣勝負のせめぎ合いに対して、我国の政治家には全く愛国の情熱が感じられない。経済状況はデフレが20年も続いている我国の方が深刻なはずなのだが。

 政治家と政党の成熟度の差なのか、FRBと日銀の差なのか、それとも政治と経済に透徹した識見をマスコミが有しているかどうかの差なのか。

2010年12月13日月曜日

現場主義

 先日のこと。公園にゴミ拾いにいくと菓子の食べカスが大量に食い散らかしてあった。一体誰が?そこで近くにいた小学生に意見を聞いてみた。「こんな散らかしをするのは小学生か中学生かどっちだと思う」と。「僕らと違うよ」と先ず防御線を張ってからめいめいに考えを言いだした。「こんな幼稚なことをするのは小学低学年やと思うんやけど」というと即座に「違う。小学生やとしたら高学年やな」と皆が言う。遠巻きにしていた中から一人が進み出るとつぶさにゴミを点検し始めた。「そうや、食べたもん調べたら誰か分かるな」そういうと皆がてんでに「これは小学低学年や」「こっちは中学生や」などと品定めをやってくれたが結局結論は出なかった。

 子どもだからこそだが、菓子の種類で食べる層が異なっておりそれを調べればゴミを捨てたのが誰だか見当付けができるとは、私には想像もできなかった。賢い子はいるものだ。

 先週の日曜日「これからの協働社会のあり方を考える」円卓会議というものに出席した。「新たな市民参加推進計画の策定に当たっての提言(案)」を検討する会議であった。大学の教授と准教授が座長と副座長を占めていてふたりから資料説明と会議の進行について話があって会議が始まった。パブリックコメントやワークショップなどという今時の言葉が巧みに織り込まれたパワーポイントで作成された見映えのいい資料を読み進むうちに『奇異の念』を抱いた。何十年も前から市政協力委員やPTAなどで市政協力(参加)している既存の市政参加や市民活動が全く考慮されていないのだ。現状把握と検討、それらの評価を踏まえた関与の仕方がないままに、全く白紙の状態から市民参加を構築していくようなアプローチが図表化されている。何より、何故今、行政側からのこうした働きかけが必要であり、望ましいあり方はどうかという方向付けが全く示されていないから、総花的で提言の絞り方が見えないことが致命的に思えた。

 准教授にその旨の不満を述べると正直に不備を認め、今後の審議会に反映していきたいと言ってくれたうえに、帰り際わざわざ会議室の外まで送ってくれたのをみると私の指摘も少しは役立ったのかも知れない。

 それにしても子どもの堅実な現場主義が頼もしく思われたことであった。

2010年12月6日月曜日

糾(あざな)える縄

 第30回ジャパンカップは後味の悪い結果に終わった。1着入線のブエナビスタが降着になり繰り上がりでローズキングダムが優勝馬になった。直線でブエナビスタがローズキングダムの走路を妨害したとして審議の対象となり降着という判定になった。この結果について2つの視点から考えてみたい。

 ひとつは「妨害がなければ着順が入れ替わったか」ということ、もうひとつは「何故名手スミヨンが抜け出したあとで右鞭を入れて斜行させたか」という点である。先ず何故スミヨンがあの時点で右鞭を入れたかについて考えてみよう。この件については武邦彦調教師がサスガという見方を述べているのでスポーツニッポン11月29日の記事から引用する。「騎手の感覚からいうと、あの勢いで抜け出せば後続との距離は瞬時に開く。ところが後ろが普通の馬じゃなかった。スミヨンは抜け出したから大丈夫と勘違いした。ローズが離されずに食いついていたからこそ、走路妨害のインターフェアーが成立した」。4着ジャガーメイルのライアン・ムーア騎手が「(降着は)間違った判断」といっているのはこの『騎手の感覚』での発言だろう。世界で活躍するスミヨンやムーアの感覚ではブエナのあの抜け出し方からすれば抜かれた馬は絶対に食らいついていけないはずなのだ。ところがローズはそこから立て直して驚異の追い上げを見せ1馬身3/4の0.3秒差まで追い詰めた。
 「妨害がなければ着順が入れ替わったか」は定かではない。しかしスミヨンやムーアの常識的判断以上に着差が縮まっていたことは間違いない。ローズファンの贔屓目からは逆転はあったと信じる。
 長すぎた審議の前後で禍福が入れ替わった。有馬記念での決着に期待する。

 海老蔵の傷害沙汰に関して一言。海老蔵と新婦麻央さんの結婚がマスコミを賑わしていた頃、一部の芸能ジャーナルが「勝ち組麻央、負け組麻耶」などと揶揄することがあった。更に酷いものは『上げマン下げマン』などという下品な表現をすることもあった。しかしこうした事態を迎えてみれば果たしてこの結婚がそんなに『人の羨むもの』であるかどうか。大体「勝ち組負け組」などという表現は一面的なもので人の長い人生から見れば浅薄極まる評価に過ぎない。
 7月の結婚式から僅か5ヶ月足らずで暗転した二人の結婚生活は正に「禍福は糾える縄の如し」である。
 もう少し長い目で、幅広い見方で物ごとを考えてみてはどうだろうか。