2019年10月28日月曜日

『夏物語』随想 

 川上未映子の『夏物語』という小説が話題ををよんでいる。AID(非配偶者間人工授精)を望む女性とAIDで生まれて苦悩する男性の関係を縦軸にしながら「生のつくられ方〟」への戸惑いをシリアスに描く作者の集大成的作品で、角田光代の『八日目の蝉』と双璧を成す現代文学の傑作と私は評価する。
 
 格差の拡大と貧困という現実があって、離婚がめずらしくなくなって――離婚率が40パーセント近くなって、シングルマザー、ファーザーが子持ち家庭の三割を超えている。生涯未婚も増えている。「生涯未婚率」とは、「調査年に50歳の男女のうち結婚歴がない人の割合」を指し、1990年の調査以降急増傾向にある。2015年の国勢調査では50歳男性の23.4%、50歳女性の14.1%一度も結婚歴がなかった。なお、90年には男性5.6%、女性4.3%と差はほとんどなかったから、こうした傾向をこのまま放置しておくことはできないこうした社会背景をつかんだうえで個人の問題として「出産」を考えてみると――とくに女性の立場から考えてみると問題は想像以上にシリアスだ。
 
 セックスができない女性――好きな相手でもセックスができない、痛いというだけでなく、肩を触られただけで嫌悪感を抱き、それ以上にすすむと、なんでこんなことをしなければならないのだろうと思ってしまう。アセクシャリティ(無性愛)未成熟なのか。こんな女性が少なくないらしい。そんな女性が三十才目前にして子どもが欲しくなる。小説はここからはじまる。
 「でもわたしはこのままいくんか ひとりでよ(略)わたしはこのままひとりでいい/いいけど、わたしは会わんでええんか(略)誰ともちがうわたしの子どもに/おまえは会わんで いっていいんか/会わんで このまま」
 彼女はAID非配偶者間人工授精)を選択肢の一つとして検討を始める。夫・パートナー以外の第三者から精子提供を受ける人工授精法のひとつ提供者の身元は伏せられることが多い。我国では病院勤務の若い医者の精子が多く提供されているという。地方都市の旧家の跡取りに子どもができない場合などに利用されることがあり数万人のAIDによる子どもが存在しているらしい。配偶者の男性が死んでから明らかにされることが多く、知らされたときの喪失感、欠落感の大きさ、深さは深刻である。
 「産んでくれと頼んだ覚えはない」というのが子どもの反抗的言動の定番だが、最近インドでそのような裁判があった。当人の同意なく産んだことで、子が親を訴えたのだ「僕を産んだ罪」が社会問題化し、「存在のない子供たち」――父親を知らない、半分出自のない子供の存在が無視できなくなっていて、なかには無戸籍の子どももいるわけで彼らの教育やセーフティーネットをどうするかは排除するわけにいかない問題だ。
 
 彼女はAIDで生まれた男性に出会う。地方の旧家の跡取り息子の父のもとに生まれる。結婚後数年子どもが生まれず嫁と折り合いの悪い姑の強制によってAIDで出産させられて生まれたのが彼だった。父の死後嫁姑の確執があって感情的になった姑が「お前にはこの家の血は一滴も流れていない」と喚き立てて真実が明かされる。突き放された彼は欠落感、喪失感におそわれ中年になっても立ち直れないでいる。AIDを語る会の世話役を務めている彼のもとにAIDを理解しようとしていた彼女が訪れ交際が始まる。
 無名の精子を提供されて、できた子どもが物心ついたときに打ち明けた方がよりよい対処法といえるだろうか。おとなになってから知ってもその後の人生に破滅的な影響があるのに幼い子どもが耐えられるはずがない。
 「僕がずっと思っていたのは、ずっと悔やんでいたのは、父に――僕をずっと育ててくれた父に、僕の父はあなたなんだと、そう言えなかったことが」/わたしは逢沢さんの顔を見た。/「父が生きているあいだに本当のことを知って、そのうえで、それでも僕は父に、僕の父はあなたなんだと――僕は父に、そう言いたかったんです」。
 中年に達した彼の心の底にあった思いだ。
 
 結局彼女は彼の精子を受けて受胎し出産する。しかし彼とは事実婚というかたちで――シングルマザーとして育て、彼とは会いたいときに会い、夫と子どもも普通につき合っていくという。
 出産のとき彼女はこんな感情に満たされる。
 わたしが知っている感情のすべてを足してもまだ足りない、名づけることのできないものが胸の底からこみあげて、それがまた涙を流させた。
 
 恋愛なり見合いなりで結婚して、セックスして出産して子どもをもうけて生涯添い遂げる……。こんなかたちを「当たり前」の「生循環」と考えている旧世代の常識と現実との乖離は計りしれないほど隔たっている。性的少数者としてのLGBTが社会的存在を認められつつある現在、レズのカップルが子どもを望むこともありえない話ではない。AIDはそんなカップルにとっては必要な制度であろうが倫理的な検討は深まっていない。
 
 出産については「反出生主義」という考え方が200年以上前から ショーペンハウアーやベネターなどの哲学者に支持されている。人を生みだすこと自体が悪であるという出産に対する否定的な反出生主義。子供を持たない人生の方が豊かであり、子供を作るつもりがないと考えるチャイルド・フリー」派もある一定程度いつも存在するし、現在は増加傾向にあるのではないだろうか。
 
 少子高齢化時代を迎えて出生率を高めることばかりが『善』であるかのような風潮が支配的であるが、「ひとつの生をこの世に送りだすプロセスと、その全過程を物理的にはほぼ女性だけが担うことの、暴力性と不均衡に対する違和感、懐疑、問いかけ」を描いた『夏物語』は、関西弁がバンバンでてくる飄逸な未映子節炸裂の文体と相俟ってまちがいなく今年の収獲である。
 
 
 
 
 

2019年10月21日月曜日

『人間の建設』読書ノート

 神戸の東須磨小学校の教師いじめ問題の信じられない実体が明らかにされたと思えば全国の学校で認知されたいじめの件数昨年度54万件を超えて過去最多となったという調査を文部科学省が発表した。「いじめ」(教師のいじめはいじめではなく暴行事件だと思うが)は子ども社会に限らず教師の間にも、教育委員会も文科省も含めて教育界全体の問題として捉えるべき問題であって、その底には今我国で行われている『教育』が本来の意味での教育ではないのではないかという根本的な疑問がある。
 そこで新潮文庫の『人間の建設』という数学者岡潔と文芸評論家小林秀雄の対談集を繙(ひもと)いて先賢の教えを学んでみよう。(驚くべきはこの対談が昭和四十年におこなわれていることである。)
 
 いまは学問好きになるような教育をしていませんね。(略)好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。(野球の選手などの例)。ところが学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないですな。(略)学問の権威というものがあるでしょう。学問の、社会における価値ですね。それが低下している。(略)社会に認められていないですね。(p10) 
 いまの中学生は同級生を敵だとしか思えないというのです。私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落としていると思います。(略)獣類にはいろいろな本能や欲情がある。ところが獣類の世界が滅茶苦茶になることはない。なぜ、ならないかと言うと、獣類の頭には、本能や欲情に対する自動調節装置がついているのですね。(略)ところが人間の頭には本能や欲情に対する自動調節装置は全然ないのですね。その代わり意識して自主的にそういうものを抑える力が大脳前頭葉に与えられているのです。人間はその働きを行使することによってのみ人として存在し得るという、そういう構造になっているのです。(略)そういう事実を無視した教育をやれば、非行少年は減りません。(p120)
 ここで語られている第一のことは「義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい」ということだ。最近は「仲間」ということばが幅を利かせているが、両先達は「友だち」と言っている。スマホのアプリでつながった「友達百何十人」という驚くべき数字の友達ではない、人生を通じて友情を保てる本当の友人――となっていくであろう、幼友達。同級生をそんな友だちと呼べるような教育が行われていないと昭和四十年に感じられていたものが55年経っていよいよぬきさしならない酷い状況に至ってきているのだ。
 まちがった教育を受けた子どもたちが、獣性を抜けきらずに「意識して自主的にそういうものを抑える力が大脳前頭葉に与えられているのです。人間はその働きを行使することによってのみ人として存在し得るという、そういう構造になっているのです。(略)そういう事実を無視した教育をやれば、非行少年は減りません。」と診断された状況がなお一層悪化している。
 なぜそうなったかといえば「いまは学問好きになるような教育をしていませんね。(略)好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむずかしい。(略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります」。とにかく、何でも、やさしく分かり易く、が大事であって、本来何度も何度もテキストを読み返してやっと理解できることも、素早く、90分の試験時間に解けるような学習方法を身に着ける、そんな教育ばかりを十六年やって社会に放り出される。これでは難しい学問に向かい合う力は身に着かないし、ということは社会に出て遭遇する解決困難な問題に対処する力も教育されていないことにもなってしまう。今年もノーベル賞を受賞するすぐれた頭脳が我国から選ばれたが十年後にもそんな状況が続いているかは極めてあやしい。
 こうした事情は「学問の権威というものがあるでしょう。学問の、社会における価値ですね。それが低下している。(略)社会に認められていないですね。」という結果をもたらし、学校と先生への不信に結びついてくる。
 
 それ(素読教育)を昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。(略)意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは「論語」の意味とは何でしょう。(略)一生かかたってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。(p145)
 わかり易い教育は「意味の理解」を最重要視してきた。しかし意味の理解できること――義務教育や高校で理解できることなど、タカが知れている。そうではなくて、知らないことも「丸ごと」「すがた」として「覚える」ことの「有効性」を今の教育は捨ててしまっている。分からないままに社会に出て、何年も何十年も経って経験を積み重ねて、分からないできたことと経験が結びついて、あるとき分からなかったことがやっと分かるようになる、それが本当の学問ではないか。
 
 知性や意思は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。(略)常識は、感情をもととして働いていくわけです。(略)感情の満足、不満足を直観といっているのでしょう。それなしには情熱はもてないでしょう。人というのはそういう構造をもっている。(p39)
 知性ばかりを重視してきた我国の教育――知識教育。しかし人間は感情の動物です、感情が納得しなければ道徳ばかりか学問さえも成立しない。たとえば原子爆弾を作った科学者たちは「感情」と素直に向き合っていただろうか。
 「科学が進歩するほど人類の存在が危うくなるという結果が出ることだって、ベドイトゥング(意義)について考えが足りないのです。(p47)」 
 
 昭和四十年にふたりの「知の巨人」が危惧した我国教育の危機が最悪の段階に達している。今こそ教育の根本を見直す時期だ。
 
 

2019年10月14日月曜日

劣化する行政

 ブルーネットが公園の砂場に張られた。先日のゲリラ豪雨のような大雨で公園もそうとう被害があったのでその修復工事の一環なのだろう、みなそう思った。ところが一週間経っても二週間経ってもネットはそのままの状態で放置されている。「おじさん、どうなっているのですか?」、利用者のお母さんの疑問。そこで公園管理事務所に電話する。「ネコ除けネットですやん」、そんなこと分からないのか?といわんばかりの言い振り。それはないだろう、あなた方にとっては常識かも知れないけれど一般市民はネコ除けネットなど見たこともない。普通なら砂場の傍に「これはネコ除けネットです。遊ぶとき開いて終ったら叉キチンとネットで砂場を覆ってね。ネコがウンチすると汚いでしょう。気持ちよくお遊びしましょう」とかなんとか注意書きするのが親切というものだろう。多分ネコのウンチ被害のあった公園の利用者から苦情があって行政が対応したのだ。それはいいのだが、あと一歩の詰めが足りない。
 最近行政の対応は随分迅速に行き届いたものになった。さらに進んで「かゆいところに手の届く」ようになれば言うことないのだがそこまで望むのは無理か?
 
 この公園には立派な野球場があって少年野球や一般市民の野球好きで賑わっている。その野球場のカギの開け閉めを頼まれてからもう十四、五年になる。上にも書いたように最近の雨の降りようは尋常ではない。そのせいか以前はそんなに目立たなかった側溝からの雨水の溢れ方がスゴイことになってきて一雨来ると汚水が外に流れ出して近辺の住宅の迷惑になっている。これまで注意してみたことがなかった球場外周の側溝を改めて点検してみるとこれがヒドイ状態になっていた。球場から流出した砂が出入り口中心に堆積しているうえに枯葉が側溝全体を埋めていて、とくに外野側の枯れ葉の量がスゴイことになっている。数年前に民間委託になった管理会社に問い合わせてみたが一向に要領を得ず、何度かやり取りを重ねた結果、側溝の維持・管理については担当が決まっていないという。これは委託を受けた業務明細書にも記載がないから多分公園ができてから一度も掃除されていないのではないかという。公園ができて三十五年以上になっているから勿論定期点検で目だったときにはなんらかの処置はとられてきたのだろうが(そうでなければ側溝中が砂と枯葉や枯れ枝で埋め尽くされているはずだろうから)、とにかく側溝専門の維持管理者が決められないままに今日まで来ていることになる。
 それはおかしいだろうということで管理会社は専門業者に依頼するとともに日常的に維持点検することになった。業者に大雑把な現状点検をさせたところ側溝から外部の道路に敷設してある基幹の下水道管への連絡が大きな枯れ枝(幹)が塞いでいて排水不良になっていてこれを除去して原状復帰するには百万円以上の費用が必要だという。
 球場の整備や植栽の剪定などはキチンと業者に依頼して維持管理にぬかりなく努めてきているのになぜ側溝に目が届かなかったのか。机の上だけで仕事をして現場をナオザリにしがちなお役所仕事の悪弊がここにもあったのか? 
 
 お役所仕事の信じられない実体をもうひとつ。この四月から京都市の外郭団体の広報紙の編集サポーターなるものになった。その会議に二度出席してあまりの紙面のヒドサに業を煮やして「発行目的とか編集方針のようなものはないのですか?」と問い詰めると「ありません」という返答。開いた口が塞がらないというのはこのことだろう。
 社内報にしろ広報紙にしろ「発行目的」をいかに確定するかでその紙(報)の価値・効果の八十パーセントが決まるといっても過言ではない。そのうえで編集方針の適切な設定があればそれだけで広報紙の良し悪しのほとんどが決定されてしまう。勿論レイアウトや色彩の使い方などで紙面の出来映えが変わってくることはいうまでもないが。その大事な目的も編集方針もなしに180号余が発行されてきたとはどういうことか。年間四百万円以上の広報紙予算はどのようなプロセスで決定されたのか、編集会議はどのような形で行われたのか。
 外郭団体への経営状況把握や経営評価はどのように行われているのだろうか?
 
 人手不足の影響は深刻で多方面にわたっている。高度成長期の昭和40(1965~)年代初頭、人材が民間に流出して公務員の人材が急激に劣化したことがあり危機感を抱いた行政が大幅な給与改訂を行って危機を逃れたことがあった。今はそれ以来の危機である。高度成長期は農村から都市への労働力の急激な流入期にあってある意味でマスが膨れ上がっている時期で増加分の分捕り合戦であったから先行きが見通せた。しかし今回はマスが縮小するなかでの人材の取り合いになるから勝ち組と負け組みがはっきりして負け組みの被害は甚大になる。10月10日に発表されたセブン&アイHDのリストラはその格好の例で、低賃金の労働者を使い捨てしてきた事業モデルの破綻を表している。こうしたモデルは今の日本に溢れておりこれからも次々と同様の破綻が続いていくにちがいない。
 そんなかなで国と地方の行政機関に市場はどのような評価を示すのだろうか。財政逼迫の現状は大幅な賃金アップは望むべくもないからAIやロボットを活用して業務の効率化を高度に図って単純作業の人員削減を行い限られた人材を必要部署に配置する以外に方策はないであろう。しかし福祉業務のほとんどは労働集約的であるから業務の効率化には限度がある。福祉需要の急激な増大と供給サイドの投入労働量の限界をいかに調整するか、極めて困難な課題である。
 
 劣化する行政と増大する福祉需要と人手不足。切迫した状況の割には危機感が稀薄すぎる。
 我国の危機は財政ばかりでない、行政そのものの存立が危うくなっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年10月7日月曜日

西洋医療への疑問(続)

  現代人の病は無意識の底にある「精神の不安」が影響していることはほぼ確実でがんの発生や進展もその影響を無視して考えることができないことが明らかになっている。
 依存症の専門家は精神的不安の特徴を六つ析出して「自己評価が低く、自分に自信が持てない」「人を信じられない」「本音を言えない」「見捨てられる不安が強い」「孤独で寂しい」「自分を大切にできない」に類型化している。そして患者の多くが人を信じられる生育環境でなかった、信じていいと思えないまま孤独で生きてきたという環境にあったことが原因となっている。だから人を信じられるようになると人に癒されるようになる、そうすれば薬物に「酔う」必要がなくなるという。つまり依存症とは人間関係の問題なのだと結論づける。(京都新聞2019.10.1薬物依存症の診察室から
 また在宅医療に意欲的に取組む若き医師は、「訪問診療の現場で実際に必要なのは専門性を融合した総合医療です。そのためには患者と良好な人間関係をつくるコミュニケーション能力を高めることが重要で、コミュニケーションを通じて患者の不安を解消し情報交換を円滑に、密に行うことが治療の大きな要素になっている」と言っている。(京都新聞2019.9.30日本人の忘れもの知恵会議 
 
 西洋医療は専門特化型医療を進め高度化細分化によって専門分野を深化させてきた。高価な免疫療法のがん新薬や陽子線治療などはその成果だが進化する薬剤、治療法、検査機器は歯止めの利かない治療費の高騰を招いている。こうした傾向は今後さらに深化して遺伝子解析による「オーダーメイド医療」という方向にまで発展しようとしている。
 しかしこうした方向性は病理・治療の一側面の深化・進化であって現代人の負っている「精神の不安」からの治療は考慮されていない。さらにがんに関しては先に挙げた国立がん研究センターが九月に発表したように「老化」も発生に大きく関与している。同研究所発がん・予防研究分野の研究チームは、多くのがん変異は無秩序に入るのではなく、細胞の老化によりDNA修復能が低下し、DNAの損傷が蓄積することで変異のリスクが上がり、がんを発生させることを見出した。これまでもこうした可能性は示唆されていたのだがこの研究によって老化と発がんの関係明確になった
 
 病の「精神の不安」「老化」の影響が明らかにされている現状と高度化細分化した専門特化型西洋医療をつなぐものとして『メッセージ物質』が有用なのではなかろうか。NHK「人体」で「人体の中で臓器同士や細胞同士が繰り広げている情報ネットワーク」としてメッセージ物質を次のように説明している。
 これまでは病気ごとにそれぞれの臓器を診ることが医療の中心的な考え方でした。しかし、現在はそれだけでなく臓器同士のネットワークに注目して治療を進めることが大切なポイントであることがわかってきました。臓器の出すメッセージに耳を傾けることが、治療困難な様々な病気を克服する切り札になると考えられています。
 受精卵が分裂を繰り返しながら分化を重ねて臓器を形作っていく過程で、細胞同士が情報をやりとりする
その情報子が"メッセージ物質"である。臓器同士は常に会話するように情報交換しながら、 支え合って働いているのだが、そんな臓器との連携を図りながらながら、その内部に高度なネットワークを築き上げてきた「究極のネットワーク臓器」『脳』である
 
 スピリッチュアル・ヒーリングは手や掌で触れたり擦ったりすることでストレスで緊張した精神をほぐして「途絶」したメッセージ物質を「活性化」しているのではないか。また「語る会」や「カウンセリング」などの「ナラティブセラピー」は、患者の自主性に任せて自由に記憶を語らせることによって単なる症状の除去から人生観の転換に至るまで幅広い改善を起こさせる精神療法と考えるとこれは「語ることのカタルシス効果(日ごろ心の中に鬱積ている情緒を解放しそれにより快感を得ること)」によるメッセージ物質の活性化とはいえないか。
 
 メッセージ物質は西洋医療の専門化細分化の窮極の進化の過程で発見された。しかし現場ではそれ(専門化細分化)だけではうまく回らないという危機感を抱く医師が少なくない。そんな彼らは「総合医療」に活路を求めている。それは四十年前五十年前に逆戻りするのではない、情報通信技術を使ったデータに基づいた健康管理と最新医療技術を融合させながら医師とメディカルコーディネーター(診療以外のケア全般を担当する)と患者と患者の家族の信頼関係のもとに治療に当たる。そんな総合医療なのである。
 
 西洋医療が陥っている陥穽から脱却するために我々は思い出す必要がある、かって祭りや呪術行為、憑依現象が人間と世界の関係を安定させるものとして機能していたことを。今やこうした行為は知的なものではないと否定されているが人間は意識的に捉えられないものとの関係を持たずには生きることができない存在でもある。人間のそうした多様性、複雑性、重層性を西洋医療は忘れている。
 
 百歳時代が現実化してきた現在、「生かす医療」だけでは時代の要求にこたえられなくなっている。