2019年2月25日月曜日

悪夢の民主、暗黒の自民

 安倍首相が「悪夢の民主党政権」と自民党大会で発言したのに対して立憲民主党の岡田克也元民主党代表が取消を求めたが安倍首相はこれに応じず「少なくともバラ色ではなかった」と更に言を重ねる傲慢さを示した。岡田氏も単に取消を求めるのではなく「民主を悪夢と例えるのなら、今の安倍自民党政権は〝暗黒政権〟だ」くらいの応酬をしても良かったのではないか。悪夢は目覚めればそれまでだが、暗黒は脱出か破壊がなければ解決はないのだから。それが証拠にアフリカや中近東の民族はヨロッパ先進国の、そして南米諸国はアメリカの、暗黒政治への抵抗として「難民」と化して『脱出』を試みているのであり、ベネズエラではマドゥロ大統領の暗黒政治を破壊すべく「二人の大統領」で抵抗を示している。わが日本は脱出はほとんどあり得ないが――しかしそれでも富裕層はタックス・ヘイヴンへの資産逃避というかたちで〝脱出〟をしている――破壊は選挙で『政権交代』という選択を示せる、野党が脆弱するぎるから次の次の…選挙になるだろうが。それにしても安倍一強政権の綱紀の緩みは目に余るものがある。森友・加計問題をはじめ自衛隊日報問題、財務省文書改竄問題と枚挙に暇もないが、今回の厚労省の「毎月勤労統計などの不正問題」に至っては言語を絶する大問題と言う以外ない。
 そもそもわが国が明治以降、紆余曲折はあっても近代化を果たしアジアで先行して先進国として発展してきたのは「官僚」が優秀だったからだというのは一応の評価を得ている『常識』となってきた。その官僚機構がこれほどまでに劣化してしまってはいくら民間が頑張ってもその成果をあまねく国力として国の発展に結びつけていくことは不可能になってしまう。それでも政治がしっかりしておればまだ救いがあるが、これが今や目も覆うがかりの体たらくであるのだから救いようが無い。議院内閣制の『悪弊』が最悪の状態に達している現状は「立法」と「行政」を厳格に分立する体制に変革する時期を迎えているのではないか。行政府の長が議会の多数党から自動的に横すべりする現行方式は完全に行き詰まっている。大統領制がなじまないわが国は「首相公選制」を真剣に検討しても良いのではないか。
 このままではロシアや中国と同じように自民党総裁の任期を二期から三期に延長するだけでは終わらず、さらに四期延長さえ自民党の一部で囁き始められているように「安倍一強独裁」が永久化――少なくとも5期15年くらいに延長される可能性は絶無とはいえない現状である。
 安倍一強『暗黒政治』の一日も早い終焉を自民党自身が真剣に考えなければこの国の正常な未来への道は開けないであろう。
 
 それにしても政治家の「言葉の劣化」は止まるところがない。これまでのわが国の政治家なら例え身内の集会であっても他党を『悪夢』などと表現することはなかったと断言できる。少なくとも『敬意』をもって他党に対してきた。いくら少数政党であっても多数を恃んで「見下し」たり「嘲った」りする言動はなかった。少数政党が代表するその背後にいる「国民」を「切り捨てる」ような『多数の横暴』は節度をもって『謹んで』きた。それが今や『力による暴挙』を恥じることなく蛮行している。政策の誤りを指摘されてもデータをねじ曲げて「強弁」で押し通してしまう。行政マンの人事権を盾に『忖度』を誘導し、「わたしが指示した覚えはない」を繰り返す厚顔無恥さは止まるところがない。短期的にはこうした強権政治が社会体制を一定の方向へ導く結果をもたらすだろうが、そのことによる行政の劣化はその後の国の発展を阻害してしまうであろうことは想像に難くない。
 考えてみればここ数年の行政の不祥事は、文科省、財務省、防衛省、厚労省、総務省、外務省、内閣府とほとんど全行政機構に及んでおりこれをこのまま放置しておいて良いわけがない。根本的に「国のかたち」を考え直す時期にきている。
 
 政治家の「言葉の劣化」は国内に止まらない。韓国国会議長文喜相氏の「盗人猛々しい」などという言葉は外交上、決して使われるはずのないものだ。その前の慰安婦問題の解決として「天皇の謝罪」を求めた発言も常軌を逸している。なぜ、今、こんな発言が韓国のトップ層から出てくるのだろうか。
 考えられるのはこの3月1日が「3.1運動」の百周年だということだ。1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起った独立運動の記念日を迎えて、韓国の文政権の支持率低下が無視できない限界に至っている現状を、「反日感情」の高揚で人気回復を狙っているという見方だ。文政権のなりふり構わぬ政権運営は目に余るものがあり慰安婦問題、徴用工問題など「反日」「嫌日」を煽って己の失政――失業率の悪化、成長率の鈍化など――を糊塗しようとする姿勢が余りにも露骨すぎる。
 わが国としてはこうした韓国の煽動に乗るのではなく冷静に対処するのが賢明である。
 
 言葉の劣化といえばトランプ米大統領に止めを刺す。ボキャブラリーが貧弱で決して上品と言えないSNS上の言葉づかいはこれがアメリカのトップかと思えば、これまでの歴史からは想像もできない人物の登場といえる。しかしここではその一々に言及するのは遠慮して彼の志向しようとしていることについて考えてみたい。
 概括すれば彼は「(第二次世界大戦の)戦後体制の破壊」を企図している。即ち国連を中心とした「国際協調体制」の否定と離脱だ。戦後一貫して繁栄を謳歌してきたアメリカが今世紀初頭に「国内侵略―破壊」を歴史上初めて経験し、時を同じくして経済的繁栄に影がさしはじめた。アメリカ経済を牽引してきた製造業を担ってきた「ラストベルト」――そこに蓄積する不満は「内向き」を要求する勢力の「固定化」を引き起こす。
 しかしこうした「戦後体制」の否定と世界統治体制の再構築は歴史的必然でもある。国連の安保理常任理事国に偏在した「権力」は現状にそぐわなくなっている。経済規模だけでみても米・中以外は世界経済に占める位置の低下は明らかであり、人口変動と経済成長のグローバル化はG7をG20に発展させても何ら有効な機能を発揮しないでいる現状をみれば「戦後体制」の再構築は不可避と言えるのではないか。
 国連の体制見直しは世界共通の課題である。
 
 更に言えば文明史的には「国民国家」の存続自体が危うくなっているのかも知れない。
 
 
 
 

2019年2月18日月曜日

荒凡夫 

 昨年12月に七十七歳になりました。病弱だった私がここまで生きられるとは、それもいたって良好な健康状態で生き永らえるとは不思議な気がします。弟たちや親戚のものたちも驚いています。おかげで年明け早々親戚の最長老が急逝したためにとうとう私がその席に座る羽目になってしまうという思いもかけない事態にさえなっているのです。しかし問題はここからです、なんとなれば男性の平均寿命は81.07歳(2017年現在)ですからあと5歳ばかりが残された私の寿命ということになるのですがどうもそんなことでは済みそうにない気がしているのです(女性の平均寿命は87.26歳、健康寿命〈介護を受けたり寝たきりになったりせずに日常生活を送れる期間、2016年現在〉は男性72.14歳、女性74.79歳になっています)。齢のせいもあって、加えて診察料の負担が1割ということに甘えて、内科、歯科、眼科、整骨に定期的にお世話になっているのですがどのせんせいも「いたって健康」と太鼓判を押してくれており、なかでも歯科は32本(28本の永久歯プラス親知らず4本)全部が虫歯なし、歯茎極めて健康と年齢からは考えられない驚くべき状態だと、受診のたびにお褒めを頂戴しているのです(現在省と日本歯科医師会8020――80歳になっても20本以上自分のを保とう」という運動推進しています)。食欲有り飯は旨い、排泄快調ですからこれまで通り普通に生活しておればあと十年ほどは健康寿命が保てそうに感じているのです。なぜそんな「不遜」な気持ちをもてるのか?
 
 何年かまえ、テレビでトライアスロンの80歳超クラスで完走したふたりの男性のインタビューがあって、そのうちのひとりの方が六十歳を過ぎてから水泳をはじめてトライアスロン挑戦が実現し今年やっと完走できたと嬉しそうに話しているのが印象に残っていまです。また日本スポーツマスターズ(シニア世代を対象とした綜合スポーツ大会)で105歳の男性が100m走に出場し42秒22で見事完走、77才の女性が円盤投げで記録を出したりする姿を見ていると、そして多くの方が七十歳近くからそれぞれの種目をはじめられているということを知ると、人間の能力に限界はないということが実感をもって教えられるのです。
 最近センテナリアン(百歳を超えた人)の方々がテレビに出演されることがよくあるのですがいずれの方もすこぶる矍鑠としておられて、現役の薬剤師であるとか商店の会計を預かっているとか、お肉が好きで週に二回は食するとか、とにかくみな、生きることを楽しんでいる様子がありありと分かるのです。
 なにか特別なコツがあるのではないか?
 
 そこで著名な長生き俳人――金子兜太さんの健康法をたずねてみようと思います(『金子兜太養生訓(黒田杏子著白水社)から引用)。 
 私は現在、長寿への意思というものをはっきりもって生きております。どうもね、ただ成り行きに任せていたのでは長生きはむずかしいのではないかと思っています。(p12
 そうなのだろう、漫然と無為に惰性的に生活をしていたのでは、精神も肉体も緩んでくるにちがいない。そうなると健康は保持できなくなってしまう。病院のお世話になり介護が必要になるのは目に見えている。
 自分(注、一茶のこと)は本能丸出しの煩悩具足の人間で、どうにもご立派な人間になれない。他人様には迷惑をかけないかたちで、このままでいくしかしようがないということで、「愚のうえに愚を重ねる」と言った。そして、そういう人間は一言で言えば「荒凡夫あらぼんぷ)」というものだと言った。「荒凡夫の愚の生活を阿弥陀如来さま、お許し下さい」という調子で書いた。
 彼の言う荒凡夫――それが私にとっては大きな座右の銘です。自由な平凡な男という意味です。私は「荒」を、(略)自由にとっています。(略)自分のありのままで生きていく。ただ、人には迷惑はかけない。ここに自由ということがあると思う。(p114)
 一茶を研究しつくした金子さんは「荒凡夫」という生き方に「長寿」の秘訣を発見したのにちがいない。 
 荒凡夫で生きる、長生きをすることだけしか私の能はないと割り切っているのです。長生きをしたいのではなくて、わたしの生存している価値は長生きをするということだけだ。これは私にとっての価値で、他人様の価値でもなんでもないんだけれど、それしかないと思っているのです。(p116)
 生きるだけが取り柄だから、がんばって生きよう長生きを私の人生の目標にしよう。そのためにはあらゆる手段を講じて、自分を長生きさせよう。こう思った。それで、あの、ひどく律儀な自己戒律を設けた。薬は必ずのむなど、そういうことを始めたということです。(略)生きられるところまで生きる。ただし、条件として人に迷惑をかける状態になったらやめる。元気で長生きする。(p117)(太字、アンダーラインは筆者
 
 最近、長生きは才能だ、と思うようになりました。健康で長生きするためには相当な工夫と努力――努力というとちょっとちがう、継続といった方がしっくりくる。金子さんの工夫はこうだ。
 なにもかも、私はすべて自分の肉体に聞きながらやっている、体でやっているということです。(略)頭に聞くのではなくて(略)たとえ、こういうふうなことだと頭ではわかっていても、どうも自分の体が納得しないということがあるでしょう。それはいっさいやらない。(略)動物的なカンだ。(p120)
 そうなのです、自分の肉体と相談しながら観察し毎日の塩梅(あんばい)を工夫していく。体重を毎日量る、これだけでもかなりの体調管理ができるのに、「体重くらい…」と馬鹿にして無暗とサプリメントや薬に頼っている人が多い。こうした人は「頭で健康を考えている」ことになるのだと思います。
 
 いつ寿命が尽きるかなんてことは知りようがない。そうであるならばいくつになっても三年なり五年なりの目標を持って愉しみを深めていく、そんな継続が意思的な「長生き」を実現してくれるのではないか。そしてこうしたスタイルには無理がないように思う。生きられるところまで生きる、ということになるのではないでしょうか。
 
 キレイ(ダンディ)で楽しそうな「ご老人」を見ていると心が和む。そんな年寄りになりたいと希っています。
 
 
 

2019年2月4日月曜日

嵐とネガティブ・ケイパビリティ

 ジャニーズ事務所のアイドルグループ、嵐の活動中止が波乱を巻き起こしている。
 2016年にスマップの解散騒動があり、そのあとTOKIO山口メンバーの不祥事がつづきそして嵐である。昨年は「タッキー&翼」のふたりがそれぞれ一線を退き滝沢秀明は「ジャニーズ・アイランド」の社長という裏方に転進した。この間安室奈美恵引退もあり軽音楽業界は大震撼がつづいている。ジャニーズ事務所としては屋台骨の二大グループが傘下から消失するのだから大打撃だろう。滝沢の制作畑への異動はこうした現状を打破しようという狙いがあってのものだろうが、いわゆる「ジャニーズ商法」はSNS時代を迎えて完全に行き詰まっている。「演歌」時代の終焉は「レコード・CD」メディアの終焉と軌を一にしているのに対して、ジャニーズ商法とAKB商法の行きづまりは「CD+地上波テレビ」というメディ・ミックスによるアイドル商法の終わりを告げているのだろう。
 嵐の活動中止宣言から来年末までの二年間の経済効果は三千億円とも四千億円ともいわれており、今もつづいている「伝説のバンド・クイーン」を描いた『ボヘミアン・ラプソディ』の100万人を超える観客動員数を考えあわせると音楽の持つ文化的・経済的インパクトは絶大であることが分かる。
 わが国軽音楽界が今後どのような方向に進んでいくのか、興味がつきない。
 
 嵐の会見での桜井翔の発言に感服した。「誰か一人の思いで嵐の将来を決めるのは難しいと思うと同時に、他の何人かの思いで誰か一人の人生を縛ることもできない」という言葉は重い。リーダーで最年長の大野君が休止希望を訴えたときはメンバー全員ビックリしたにちがいない。そりゃぁそうだろう、ジャニーズのトップに躍り出ただけでなく並居る軽音楽界の人気者を抑えて歌手・ア-ティスト人気No1を占めファンクラブ会員数も250万人を誇る、まさに「人気絶頂!」なのだから、他のメンバーには「今、止める」という選択肢は「絶無」であったことはまちがいない。
 「そんな馬鹿な!」という気におそわれただろうし、理不尽!と感じたとしても当然といえる。しかしこのメンバーの優れたところはここから先にある。感情的になって喧嘩別れするような短慮に走ることなく、こたえを拙速に出さず、みんなの思いをそれぞれに大事にしながら、なんとか収束点を求めようとした態度にある。「誰か一人の思いで嵐の将来を決めるのは難しいと思うと同時に、他の何人かの思いで誰か一人の人生を縛ることもできない」という、答えのない、宙吊りの不安定な状態に耐えながら、どう結論づけたらいいのかを五人が呻吟しつづけた。共演者たちが口ぐちにするように、その間彼らの苦悩は一切うかがえなかったというから今どき稀有な大した「肝っ玉」である。
 
 こうしたどうにも答えの出ないどうにも対処しようのない事態に耐える能力」を『ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability、以下NCと略す)』という。直訳すれば「負の能力」となるが「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」である。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力ともいえる。NCは拙速な理解ではなく、謎を謎として興味を抱いたまま、宙ぶらりんの、どうしようもない状態を堪えぬく力である。その先には必ず発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力を生み出す能力である。 
 これと正反対なのがポジティブ・ケイパビリティ(positive capabirity)で、問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力で、今の学校教育や職業教育が普段に追求し、目的としているのもこの能力である。こうした能力は「脳」の基本的な機能に即しており、そもそも脳は「分かりたい」と働くのが正常なのであって分かるために欠かせない「意味づけ」を求めて脳は働く。我々の脳は生来的に物事をポジティブに考えるようにできているのである。(入学)試験は、問題に対していかに早く、正確に「(すでにある)答え」を導き出すものであるから、今回の嵐のような、答えのない問題に対処するときには役に立たない。
 嵐のメンバーは「耐えた」。どうすれば皆が納得のいく答えを見出せるか、じっくりとあせらずに。その態度こそ「ネガティブ・ケイパビリティ」である。「発展的な深い理解が待ち受けていると確信して、耐えていく持続力」を発揮したのである。来年末までに彼らがどんな姿を見せてくれるのか、期待したい。
 
 翻って、現在は「答えのない」時代である。トランプのアメリカも、メイのイギリスも、マクロンのフランスも、世界中が「見えない出口」を求めて迷走をつづけている。わが国だってそうだ、成長が望めなくなって、少子高齢化で社会保障は緊急度を増しているし日米の関係は安定感を欠いている、こんな環境はこれまで誰も経験したことがない。数を頼みに「弱者切捨て」「少数意見無視」で強引にことを進めようとしても事態はますます混迷の度を深めるばかりだ。
 
 冷静に考えてみれば、ヨーロッパ・アメリカの難民騒動は二世紀に亘る植民地支配で搾取を極め疲弊させたアフリカや中近東、南米諸国の「反乱」であり、原因は「先進国」自身にあることを彼らは気づこうとしない。
 わが国は敗戦によって壊滅的な被害を受けたが、国民の総力を結集して高度成長を達成し国民を豊かにして厚い中間層を育てることで民主主義と資本主義を機能させて繁栄を齎した。しかしいつのまにか、中間層が消滅して、1%の富裕層(の企業とお金持ち)とそれ以外の豊かでない人に分断されてしまった。グローバル時代を乗り切るために企業の税金を安くして競争力を高め、企業が儲かれば個人の所得も多くなると説得されてそんな社会の実現に協力したが、結局は400兆円を超える内部留保(企業の利益)を企業は積み上げたが個人の所得は「横ばい」のままで地方は疲弊の極に至っている。
 
 答えのない不安定、不確実な状態に耐え、拙速に右か左に決めるのではなく、弱者の意見や少数者の意見も取り入れて、発展的で深い理解を獲得して、新たな「幸福のかたち」を導き出す。「ネガティブ・ケイパビリティ」が求められている時代、今はそういう時代なのだ。それを身を以て示してくれたのが『嵐』だった。
 
 「キレる年寄り」も「自国第一主義」の先進国も『嵐』に学ばねばならない。
本稿は帚木蓬生著『ネガティブ・ケイパビリティ』を参考にしています