2013年1月28日月曜日

古典新訳文庫

 古希を過ぎても頗る健康でいられるのが嬉しい。肉体(消化器系循環器系)だけでなく視覚聴覚味覚も正常に機能しているから会話が弾む、食事もうまいし酒が楽しい。何といっても本が読めるのが有難い。明るいところならルビも競馬新聞の馬柱もルーペなしで読んでいる。

 ところで最近やたらと「速読術」の広告が目に付くがどうして早く読みたいのだろう。『10分で一冊の本が読める』と謳っているがそれにどれほどの価値があるというのか。情報過多時代の情報処理能力アップで情報発信力もアップ!の惹句もある。受験やビジネスに有効、というのが狙いか。
  確かに情報過多である。しかし「好んで過多状態に追い込んでいる」面無きにしも非ず、といえないか。スマホが普及した最今とにかくスマホを手放さない、ゲームをしているのかもしれないが。テレビにインターネット、スマホにiTunes、新聞雑誌の紙媒体とこれだけメディアが多ければ情報が溢れるのも当然である。役所を見ていると夥しい印刷物で事務所が埋められている上に一日中PCのディスプレーを見ている。会議が多いから情報処理能力はビジネスマン必須に違いない。
 溢れる情報に浸っている彼らは、情報のない状態に耐えられるだろうか。質と価値に無頓着にただ情報に流されて安心していないだろうか。多くの人が警告しているように、情報源の選択と情報の価値判断が要求される時代である。

 速読術への疑問は「言葉の不完全性への畏れ」が感じられないからで、言い方を変えれば「書物への批判精神」が欠如しているように思うからだ。歳を重ねたせいだろうか「言葉」というものはつくづく厄介なものだと思う。余程細心に用いないと言葉に裏切られる。話し言葉は草稿のある演説を除けば刹那に発せられるもので練る暇がないから不完全で仕方ないが、推敲を重ねた文章でも完全ということは望みにくい。譬喩、陰喩、暗喩、アフォリズム(金言警句)と修辞を凝らして言葉の不完全性を補い言語の多重性を練り重ねて完全を期した「名文名作」でも緩みがあったり志向性が狙いと異なったりしていることがある。
 『確かな一冊』の『遅読』を併行してやってほしい、そう感じる。

 後悔していることがある。60年近い読書生活を通じて「分かったつもりで理解できていない」書物の余りに多いことだ。難解なものを読みこなすことが貴いかのように錯覚していたのかもしれないし、難解さを権威と混同していたフシもある。この歳になって見栄もハッタリも必要でなくなり残された時間で少しでも読書を楽しみたいと思うようになって、読み易い本を選ぶようになった。光文社古典新訳文庫でミルの「自由論」カントの「啓蒙とは何か」を読んでスッキリ収まるものがあった。新潮文庫の「反哲学入門(木田元著)」はこれまで理解できずにきた哲学の体系がスーッと頭に入った。
 
読書が楽しくなってきている。

2013年1月21日月曜日

豊かさの先に

 人類の歴史は「飢餓からの解放」の歴史であった。今でこそ「飽食の時代」などといわれているが我が国でもほんの50~60年前までは満足に食べることのできない人が少なくなかったし今でも世界中に10億人近い人が飢餓に苦しんでいる。
 歴史を人口的にみるときジャガイモのもたらした恩恵は大きい。穀類は生育が難しく収量に限界があってヨーロッパでは一般庶民の主食になることはほとんどなかった。有名なミレーの「落ち穂拾い」は農場に雇われた農夫たちが収穫後の農地に落ちている穀物を拾い集めている姿を描いたもので彼ら農夫に許された収量は一握の砂にも等しい乏しさであった。ところがジャガイモはどんな荒地でも、寒冷地でも収穫が可能であったのでジャガイモの普及は一般庶民の栄養状態を一挙に改善した。貧困層にとって家族数の適正維持は重要問題であったから「産児制限」は必須であったが今のように避妊器具の発達していなかった当時の避妊術は「間引き」か「性交中断」しかなかった。ジャガイモによる食糧事情の改善は貧困層にも恩恵を及ぼし爆発的な人口増加を実現、産業革命による「ヨーロッパの時代」を招来することになる。

 閑話休題。「大金持ちの貴族がお雇のメイドと結婚した。これによるGDP(国内総生産)への影響はいかに」という問題。正解は、GDPは減少する、である。メイドとして雇用されている間は「給与」が発生するからGDPに計上されるが結婚した後彼女の仕事は「無償の家内労働」となりGDPから抹消されるからである。
 2000年に施行された介護保険制度によってそれまで家族で面倒を見るのが当たり前とされていた「介護」が社会化され家内労働から生産・サービス財となって有償化されGDPの大きな一つの項目になった。
 太平洋上の人口5000人足らずの小さな島嶼国。自給自足と隣同士の融通で過不足なく生活している。年寄りや病人の面倒は勿論家族の務めである。国連がGDP統計を取ろうとしても島に市場がないからほとんどセロ。しかし住民は皆、満足して暮らしている。

 安倍政権になってデフレ脱却を旗印に相当強引に金融財政政策を展開し経済を成長させようとしている。しかし上述したようにGDPという尺度は幸福度を表すには万全とは言い難い指標だということを理解する必要がある。数字上は2%なり2.5%の成長を示しているが実感がないとか、大企業は儲けているが中小企業や一般庶民には恩恵が及んでいないとか、GDOへの不信感は根強い。
 
 食うに困らない年金生活者が多いにもかかわらず余生を楽しんでいるように見える年寄りは思いの外少ない。経済は「本当の幸せ」「満足のゆく生き方」を実現するためのひとつの要素であり物質的な豊かさは「選択肢」の幅を広げるに過ぎないことを彼らは実感している。

 遥かなる島嶼国は桃源郷か……。

2013年1月14日月曜日

阿呆と下手

 桜宮高校バスケットボール部員自殺事件の報道が繰り返される中でこんなことを考えていた。

 勉強ができないと「お前は阿呆やなぁ(馬鹿だなぁ)」と言われるがスポーツが出来ないからといってそうは言われない。バスケットが下手や、野球が下手だと言われる。しかし同じ勉強でも書、絵画、音楽は「字が下手、絵が下手、歌が下手だ」と評価される。語学もこの部類に入るかもしれない。思うに『下手』と評価される種類のものは上達のためのプログラムがあって修練を積めばある程度のレベルまで到達することが可能な範疇のものをいい一般には『技能』と呼ばれて『獲得』するものと考えられている。勉強はそうしたテクニカルなものの他に何かを合わせて習得する必要があり学問を『修める』と表現される。

 勉強のテクニカルな面だけを捉えてプログラミングし効果を上げたのが「学習塾」である。プログラムの内容と修練の度合いで到達度が高まっていく。『勉強の技能化』が学習塾であるから勉強(広く教育と言ったほうがより的確だが)に含まれている何かを捨てている。「何か」とは同窓会を思い出せば良い。恩師の優しさ厳しさや級友との友情、そして淡い恋心などで盛り上がる。それは「学校」という場で勉強することを通じて醸成されたもので、少年野球や学習塾では手に入れられないものである。
 部活は学校生活の一部だから技能を高める以外に考慮するものがあるはずなのだが彼の顧問はそれを忘れていた。だがそれは何も彼だけに限ったことでなく部活に携わる人やそれを見守る私たちも同様に考える必要がある。部活を廃止してクラブチームや地域チームに移行すべしという意見があるが「学校」を純化するためには有効な一方策かもしれない。

 政治家育成をプログラミングして有能な政治エリートを養成しようとしたのが「松下政経塾」だろうが今のところ成功しているとは言い難い。それはプログラムに誤りがあったのか「政治」が技能化するには適さない範疇のものかのどちらかだろうが、我国経済の発展段階や民主主義の成熟度を考えるとき「我国の政治家」は4、5年程度の塾課程で養成できるレベルのものではないといえるのではないか。

 最近「エリート待望論」が盛んだが不毛な議論に思える。20年に及ぶデフレ、広がる格差と閉塞感から脱却したいという渇望が底流にあり無理もないが時代がエリートになじまない段階にある。森鴎外の「独逸日記」を読むと軍医学習得のためにドイツに留学した彼が異国というハンデをものともせず当時の先端知識や技術・施設を貪欲に習得し、文学や音楽など幅広い文化を楽しみ学んでいく様子が克明に記されている。その一方で現地での人脈を構築し又乃木希典や北里柴三郎など後の日本を牽引していくエリートたちとの交流も密に積み重ねている。詳細を極める地名人名施設名などの記述はドイツ人を感嘆せしめた堪能なドイツ語力の賜物であろうが何より驚かされるのは日本国内と変わるところのない行動力であり英国で神経を病んだ漱石と大きく異なる。ドイツ留学を終えた鴎外たちエリート候補生は受け入れる官僚機構が後進国日本の躍進の機関として機能していたからエリートに成長していった。
 今の日本では政治も官僚機構も機能していないうえに産業界も規制が強く柔軟性も流動性もない。こんな状態ではエリートを受け入れる可能性はなくむしろ「出る杭は打たれる」に違いない。

 規制を撤廃して既得権層を排除し柔軟な社会に変革してこそエリートは生まれてくるのではないか。

2013年1月7日月曜日

何を犠牲にするかを考えよう

立や年 既に白髪の みどり子ぞ/吉川五明。還暦を迎えた正月の句ですが私にとって今年はそれから早一周りした当り年の正月です。

 年末年始見たテレビで印象に残っていることがあります。年末に放送された世界遺産条約採択40周年・NHK京都放送局開局80周年の記念番組「未来への叡智みつめて-京都からの提言」にあったものだと思いますが、「パリの人たちが一日に使えるお湯の量を規制している」ということと「京都市が建築物の高さを原則15米に制限している」の二つです。パリでは一日に利用できる湯量が200l(場所などで変動はあるようですが)に制限されていてしかも深夜電力を利用するように義務付けられているのです。また京都では今後新たに建てられるものや改修されるものは(これも場所や建物の種類によって差はありますが)原則15米に高さが制限されるようになるのです。
 フランスは原子力発電が欧州最大の国ですからまさかこんな制限が課されているとは考えてもいませんでしたが、実際は住居を探す時に備え付けの給湯タンクの大きさや使い勝手が重要なチェックポイントになっているようで驚きました。又京都の景観条例がここまで強化されているという認識はもっていませんでした。10年程前から制限が強化され建築業界や広告業界の強い反対にあってその進捗具合に懸念がもたれていたのですが市長をはじめ行政の粘り強い取り組みで今日に至ったのでしょう。
 京都市内のマンションの値段は高くなっているようです。でも30年も経てば京都のどこからでも「大文字の送り火」を拝めるようになることでしょう。比叡山も望めるでしょうし何より『大きな空』と『きれいな空気』が京都の市民皆のものになるはずです。豊富な文化財と恵まれた環境は間違いなく人々の『憧れ』になるでしょう。京都市民の『今の犠牲』が『未来の豊かさ』に繋がっていくのです。

 明治維新と第2次世界大戦敗戦という2つの大変革期を経て我々が求めてきたものが「地下鉄サリン事件」と「東日本大震災」で否定されたことは明らかです。サリン事件が『精神的否定』であるならば3.11は『物質的否定』です。疲弊し病んだ精神が「オーム真理教」というオカルト集団に否定され、物質面の究極の到達点としての象徴「原子力発電」が自然の脅威によって否定されたのです。
 にもかかわらず我々はまだ「過去との訣別」を受け入れることができずその延長線上に未来を託す以外に道を見いだせないでいます。過去の意味するものは?極言すれば『アメリカの繁栄という幻想』でしょう。歴史という過去のしがらみをもっていなかったアメリカで近代の理念―民主主義と資本主義―は最大限実現されました。その繁栄が今大きな変節点を迎えて呻吟しています。

 歴史をもっていた我々は何を犠牲にして繁栄を追い求めてきたのか?今の繁栄の中の何を犠牲にしてこれからの新しい時代を築こうとするのか。我々はそれを決断しなければならないのです。パリの人たちや京都市民がしたように。

 政権は変わったがそれを本当に新しい時代に繋ぐのは我々国民です。