2015年9月26日土曜日

漢詩に老いをみる

 さすがの猛暑も九月半ばを過ぎると勢いが翳り、つれて昼が短くなった。陽の昇るに合わせて活動を開始する体内時計のアジャスターが経年劣化し、中途半端な時間に睡眠が途切れて夜明けまでの時間を持て余している。そのつれづれに枕頭の漢詩集を紐解いて「老い」を詠じたものを散見してこの稿を起こすことにした。
 
 老いのはしりは「物忘れ」である。隠逸の詩人・陶淵明はその間の事情を『欲辦已忘言(弁ぜんと欲して已に言を忘る)』(何か言おうとして立ち上がったが何を言おうとしたのか忘れていた)と詠じている(「飲酒・陶淵明」より)。次に来るのは鏡に映った我が身の衰えを感じたとき。それを張九齢は「照鏡見白髪(鏡に照らして白髪を見る)」と題してこう詠じた。『宿昔青雲志/蹉跎白髪年/誰知明鏡裏/形影自相憐(宿昔青雲の志/蹉跎たり白髪の年/誰か知らん明鏡の裏/形影自から相憐れまんとは)』。その意は「遠い昔、若かった日には大きな望みを抱いていたが挫折があって今は白髪の老人になってしまった。あのころ、誰が考えただろうか、鏡の中に映った老いた我が身を嘆こうとは」とある。
 成人男子の器官の衰弱過程を「ハ、メ、マラ」と順じる人があるが、昔は今のように入れ歯も無かったから歯が抜けると実に憐れであった。その様を滑稽味をもって韓愈は「落歯」と詠んだ。「『去年落一牙/今年落一歯/俄然落六七/落勢殊未已/餘存皆動揺/盡落應始止(去年一牙を落とし/今年一歯を落とす/俄然として六七を落とし/落つる勢い殊に未だ已まず/余の存するものも皆動揺し/尽く落ちて応に始めて止むべし)』」。訳せば「去年は奥歯が一本抜け、今年は前歯が一本抜けた。ちょっとの間に六本七本と抜け歯の抜ける勢いはなかなか止みそうにない。後残ったのもみなぐらぐらしている。きっと全部抜け落ちるまではおさまらぬらしい」となるのだろうか。
 
 老いの漢詩で最も人口に膾炙しているのは劉希夷の「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わって)」ではなかろうか。「『年年歳歳花相似歳歳年年人不同/寄言全盛紅顔子/應憐半死白頭翁』(年年歳歳花相似たり/歳歳年年人同じからず。/言を寄す全盛の紅顔子/応に憐れむべし半死の白頭翁)」。劉希夷の嘆きはこうである。年毎に咲く花は同じでも花を見る人は変わっていく。今を盛りと誇りたげな若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れんでおくれ、と。
 年を取ったら「可愛い年寄り」になれとよく言われるが、南宋の陸游もそう感じていたのだろう。こんな風に詠んだ。「書適(たのしみを書す)」。「『老翁垂七十/其實似童児/山果啼呼覓/郷儺喜笑随/羣嬉累瓦塔/獨立照盆池/更挟残書讀/渾如上學時』(老翁七十に(垂)なんなんとする/その実童児に似たり/山果は啼き呼んで覓め/郷儺(きょうだ)には喜び笑って随がう/群れて嬉(たわむ)れて瓦塔を累さね/独り立って盆池を照らす/更に残書を挟んで読めば/渾べて上学の時の如し)。この年よりははや七十になろうというのに実際はまるで子どもみたいなものだ。木の実があると泣き喚いて欲しがるし、村の鬼やらいの行列には喜びはしゃいでついて行く。大勢の子どもと一緒になって瓦で塔を積んで遊んだり、ひとりで庭の池に姿を映したりしている。またボロボロになった本を小脇に挟んで読んでいるところは、はじめて塾に上がったときとそっくりだ。
 
 しかし我々酒飲みの理想は詩仙・李白の「山中にて幽人と對酌す」の境地にある。『「両人對酌山花開/一杯一杯復一杯/我酔欲眠卿且去/明朝有意抱琴来(両人對酌すれば山花開く/一杯一杯また一杯/我酔うて眠らんと欲す卿且(きみしばらく)去れ/明朝意あらば琴を抱いて来たれ)』。ふたりで酒を酌み交わす傍らに山花が咲いている。一杯一杯さらに一杯と飲み進めばいい気持ちになって眠くなった。私はもう寝るから、友よ帰れ。もし明日朝、気が向いたら琴を抱いて来ておくれ、と。親しいからこそ我侭が言える、羨ましい限りである。
 そんな李白の真骨頂はこの嘯(うそぶ)きにあろう。昔から聖人も賢者も死んでしまえばそれっきり、ただ飲んべえだけが歴史に名をとどめている(「『…古来聖賢皆寂寞/惟有飲者留其名』(古来聖賢皆寂寞/惟だ飲者のみ其の名を留むる有り)」(「精進酒」より)、と。
 
 漢詩に学んだ我が古人(いにしえびと)。現代の我が民も華人ももう一度この文化を共有すべきではないか。
※この稿は「中国名詩選・岩波文庫」から引用しています
 

2015年9月19日土曜日

詭弁

 集団的自衛権行使を容認する安保法制が可決された。これに先立って容認派の一部でこんな言辞が盛んに弄された。「60年安保のときのデモはこんなものではなかった。今の10倍いやそれ以上だった。それでも岸首相は敢然として日米安全保障条約を締結した。今となって、あのときの安保条約締結を間違っていたという人はほとんどいない。政治というものは民衆がどんなに盛大なデモで反対を唱えようと、日本の将来にとって不可欠の、有益と思える施策は敢然として推進すべきなのである。その功罪は後の歴史家が評価してくれるに違いない」と。これはとんでもない『詭弁』である。
 
 先人たちは、60年安保をギリギリの線で締結に踏み切ったがこの条約の危うさも十分に認識していた。際限なく、アメリカの要求に屈してしまったら、我国の発展成長はない。国力の多くを経済を中心とした国民生活に振り向けなければ国民の安寧・福祉向上はない。そうした政治の選択が「集団的自衛権行使の拒否」であった。重要なことはこの選択が保守も革新も含めてのものであったということである。先人たちは先の戦争で多くの国民に犠牲を強い、国土のほとんどを壊滅したことへの『深い反省』を『共有』していたのである。
 戦後の我国の国家防衛はアメリカの強権に翻弄されつづけてきた。終戦直後は戦力保持を完全に封じられ徹底的に国の組織を「反戦体制」に構築させられた。先の戦争を経済的に操作した「財閥」を解体し「農地解放」を貫徹、戦争教育を若人に吹き込んだ弊を正すべく「民主教育」を徹底実施した。戦争に直結する航空機産業は我国から排除された。しかし1950年の朝鮮戦争の勃発と東西冷戦の激化は、アメリカの世界戦略の転換をもたらし、我国に「警察予備隊」を創設させる。その後アメリカは「保安隊」から「自衛隊」へと戦力増強を要求しつづけたが、先人は保革の別なく賢明にも「集団的自衛権行使」は断固拒否して今日に至った。この間アメリカはその圧倒的な経済力を背景に「世界の警察」を任じ、経済・軍備の両面で世界を統治してきた。東西を二分してきた「ソ連」は経済力においてアメリカに格段に劣っていたために国力を消耗し「ソ連崩壊」を招いた。その後の世界のグローバル化は「戦力保持のコスト」増大をもたらしアメリカの軍事費は幾何級数的な増大を強いられ、さすがの経済大国も国力疲弊を招くに至った。しかも後進国の成長とEUの成立によって世界の政治状況は複雑化しアメリカの勢力圏維持には英国と親米欧州諸国以外に我国の協力が不可決の情勢となり我国の「集団的自衛権行使容認」をアメリカが強力に要求することに繋がった。
 安倍首相の狂信的とも思える「安保法制改変」への意欲はこうしたアメリカの要求に応えるものであり、その原動力は、裏でどんなアメリカの圧力があったかは一般国民には不可侵の領域であるが、それとともに彼の偉大なる祖父・岸信介と大叔父・佐藤栄作の成し遂げられなかった「真正なる戦力保持」を成し遂げんとする『功名心』である。(しかし、戦争経験者であった彼の賢明なる祖父と大叔父はアメリカと一蓮托生の戦争体制を望んでいたとは思われないが)。
 
 デモは政治に変化をもたらさない、という考えが優勢である。しかし本当にそうだろうか。国民の多くが戦争を拒否し平和を願う気持ちが強ければ国を動かす力に結実する可能性は極めて高いのではないか。何故なら今法制の賛否に関わらず「平和の希求」は日本国民の総意であるからだ。全国民に共有された思念は必ず「法案」の誤りを正す方向に収斂するであろうことを示唆するこんな教示がある。
 サルのイモ洗いは、アメリカの思想家ケン・キース・ジュニアが書いた『百番目のサル』という著作によって、本来とは違う形で世界の人びとに知られるようになった。/いわく、日本の幸島で、イモを洗って食べる習慣がサルの間に広まった。99番目まで徐々に増え、ちょうど100番目にまで達したとき、不思議なことに、遠く離れた場所のサルたちが、いっせいにイモを洗うようになった。あくまで架空の物語で、事実ではない。しかし世界中でベストセラーになった。/本のテーマは核廃絶運動だった。人間の意識は共有し得る、表立って運動しなくても、深く思いをめぐらし、それを伝えていくことで、あるとき核は廃絶されると説いた。幸島のサルの物語は、そうした集団的意識をもとに反核運動を進めるシンボルになった。(27.9.13日経・サイエンス「チンパンジー博士の“知の探検”・松沢哲郎京大霊長類研究所教授」より)。
 法案が通っても、辛抱強く「戦争反対」を訴え続ければ国民的共有意識となって政治を動かすに違いない。
 
 今回の安保法制は60年安保が担保していた『他国へ戦争を仕掛けることへの歯止め』を無くすという意味で根本的に異なっており、デモの多寡に関わらず『安保法制の改悪』である。
 人々が正義を掲げて殺すことをやめないかぎり、この世界に安らぎはない(「日々の光」ジェイ・ルービン著より)。                    

2015年9月13日日曜日

安倍政権と株安

 昨今の株式市場の動静に一喜一憂するのは愚の骨頂とは思うが8日の株価に何か象徴的な感じを受けたので書いてみたい。8株価日経平均株価1万7427円08銭で前日比433円39銭安となりこれは昨年末終値(1万7450円77銭)を下回り年初からの上昇分を打ち消した。折りしも当日は自民党総裁選の告示日であったが立候補者はなく安倍首相の無投票再選が決まった。本来ならご祝儀相場でも良かったはずがこの株価、ひょっとして市場の「安倍再選」へのシグナルではないのか。
 
 アベノミクスは金融緩和、財政政策、成長戦略の「3本の矢」であったがここにきて成長戦略に対する失望を内外から突きつけられ中国経済の失速も重なって先行きに不透明感が漂っていた。即ち円安の副作用、地方再生、成長と財政再建の両立など課題が鮮明になっている。しかし問題は経済以外にも有り、集団的自衛権行使を容認する安保法制や戦後70年談話、原発の再稼動などが国民に先行き不安を抱かせている。
 こうした情勢は内閣府が発表した8月の景気ウォッチャー調査に如実に現れており、街角景気の実感を示す現況判断指数(DI)が49.3となり前月比2.3ポイント悪化、好・不況の分かれ目となる50を7ヶ月ぶりに下回った。2~3ヶ月先の見通しを示す先行きIDも悪化し50を割り込んだ。経済の専門家は中国など海外経済の減速や株価下落が主たる要因と見ているがそれだけだろうか。
 街角景気調査は小売店の販売員やタクシードライバーなど景気を敏感に感じ取る仕事に就く約2千人に足元の景況感や先行きを聞いている。確かに販売傾向やタクシー乗車客数、貨物トラックの荷動きなど身近な商売の動きを敏感に感じる人たちだがそれと同時に「安保法制」への激しい反対運動や説明不足と批判される政治手法への不信感、原発再稼動への不安など現政権への信頼の揺らぎも感じていることは間違いない。こんなとき政権与党が安倍一極集中の「物言えぬ政党」に硬直化した「安倍無投票再選」を打ち出した、それへの『不満』と『不安』が大幅な株価悪化という市場のシグナルとなったのではないか。
 
 最近関西のテレビで「保育料算定における年少扶養控除の取り扱い」に関する矛盾を訴える報道が各局から放送されている。例えば5人子どもをもっているある家庭の公立保育園の保育料が今年の4月から3万3千円に改定され昨年の6千600円から大幅アップされたのだ。年間に直すと30万円以上の増額になるわけで一般家庭にとっては見過ごすことのできない事態にもかかわらず、前以て何の連絡もなく突然「保育料の改定について」という通知が届いて実施されたという。行政に訴えても、国の指導に基づいているので減免等の措置は行えないという対応に終っている。
 詳細はこうだ。所得税等に適用される所得控除のうち平成23年度から年少扶養控除は廃止されている。公立保育所等では両親のどちらかの収入から年少扶養控除を控除して所得を算出しその所得に基づいて保育料が算定されているが、この控除措置が廃止されたのだ。ただ一時に実施するのではなく経過措置として4年間(平成26年まで)据え置かれてきたのが、期限切れの今年からは全廃はせずに子どもの人数にかからわらず一律一家庭2人の子どもとして控除額を算定し保育料を決定する方式に改定された。従って件の家庭の場合、昨年までは〈年少扶養控除38万円×5=)190万円控除されていたのが(38×2=)76万円に減額され120万円近く算定所得が増えることになり保育料が5倍になったという訳である。
 少子化でこどもを如何に増やすかが大問題になっている昨今、こんな逆行する―子どもを多く産めば産むほど負担が増える制度を何の検討も加えず制度変更してしまう『粗雑な』政権運営に不満が高まる。
 ほかにも現在財務省で検討中のマイナンバーを利用した「消費税の軽減制度」や、消費税8%増税時に販売現場を厳重に監視する備えを怠ったために、〈増税前の内税5%上乗せされた販売価格〉をそのまま増税後の小売価格とした販売現場の『ズル』を見逃した(その結果3%増税が実質8%増税になった)意図せざる過剰増税など、政権が想定していない「市民への負担増」はまだまだありそうだ。
 
 金融緩和は「市場=国民の期待」に働きかける施策であると為政者は説明した。安保法制への不信、社会保障に対する不安、原発再稼動を取り巻く不透明感などが国民の将来に対する期待を揺るがしている。上に述べた保育料など経済制度の細かな綻びも含めて『国民への丁寧な説明責任』を怠って問答無用の政権運営が今後も継続するならば、戦後70年つづいてきた『民主国家日本』の破綻は意外と現実感をもってくるかもしれない。
 

2015年9月6日日曜日

ディタルテレビの楽しみ方

 平成23年に地上波テレビがデジタルに切り替わってから早4年になる一向にテレビ局はその特徴を生かしていないし面白い番組も出てこない。随分高い買い物になった、と思っている人も多いに違いない。そんな中で少しでもデジタルテレビを楽しむ方法を「アナログ人間」なりに考えてみたのでご披露したい。
 
 「録画が録画中でも再生できる」ことを知っている人はどれ位いるだろう。このことを知っておれば、楽しんでいる番組の途中で中座して一番好いところを見逃したという残念な結果が防げる。ひとつは最初から録画しておいて再生する方法だが、席を立つに番組表を開いて録画するのでも良い。後の方法なら中座したところから再生できるが、番組最初から録画しておくと早送りで途切れたところへ頭出しする面倒さがある。こんな場合は「S(サブメニュー)」ボタンを押して「チャプター一覧へ」をクリックして該当箇所のチャプターを見出し再生する方法がある。
 「録画」はコマーシャル(CM)の多い番組をCM飛ばしで楽しむ場合も重宝する。例えばCMが余り多く興が削がれ白ける日曜朝4チャンネルのニュースショーやBSの再放送ドラマなど先ず15分ほど録画してから再生して「CM飛ばし」で番組を楽しめば「イライラ解消」できる。どちらかと言えばCM好きな方だが再放送ドラマのCMは煩わしい限りである。
 CM飛ばしだけでなく録画機能はデジタルテレビを楽し必須アイテムである。
 
 その「録画」だが「採り貯め」して録画容量がパンクすることも少なくない。そんな場合は「S」ボタンの「チャプター(一覧へ)」機能を活用すると便利だ。多くの番組は幾つかのチャプターで構成されている。音楽番組は録画を残しておきたい番組のトップだが、全部ではなく何曲かを残しておきたいことが多い。そんなとき幾つかに分割されているチャプターの内から必要なものだけを残してその他のチャプターを消去すれば録画残量の節約ができる。
 この「S」ボタンは他にも「先頭から再生」「つづきから再生」「番組編集」など便利な機能があり特に編集機能の「番組名編集」を便利に使っている。クラシック番組などでで何時間かの放送で1曲だけが残しておきたいのだが曲名がタイトルになっていないので録画ストックから探すのに苦労することが多い。そんな場合タイトルを曲名に変更すれば問題は解決するのだが、いかんせん編集作業が面倒なのが残念だ。
 デジタル放送で最も活かされなければならない機能は「d(データ)」ボタンだろうが余り活用していない。「気象情報」「各地の天気」で「よく行く場所」を予め登録しておくと簡単にその地域の予報が検索できて重宝する。営業の仕事をしている人など特に便利だろう。
 現在この「d」機能で最も有り難い放送は土、日曜日放送のBS11チャンネル「BSイレブン競馬中継」である。出馬表、オッズ、配当など競馬ファンの欲しい情報がほとんど「d」ボタンで見ることができる。他局の競馬放送このサービスがないのが不思議でならない。競馬に限らずスポーツ放送ボタンに求める最も基本的なものはその競技に関するデーターのはずだがほとんどの放送でそのデータがない。その代わりに「ポイント」とかその局の番組宣伝など「視聴者志向」ではなく「局志向」のデータばかりだ。「d」機能を活用し番組を面白くようという姿勢がまだまだ希薄であるように感じる
 
 ところでフジテレビ日曜日深夜放送の「ヨルタモリ」が9月20日で打ち切りになるらしい。これで又大人の番組がひとつ姿を消す。「相変わらずキッズと若者向けに固執し(日経『私の履歴書・倉本聡』27.8.31より)」た番組が多すぎる。「朝のシルバータイム(朝6時から8時まで)に良質のドラマをつくれば喜んでみる高齢者は多いはずだ。なぜなら老人は朝5時半か6時に起きて8時ごろまですることがない。僕がそうなのであるように」とも彼は提案している。
 
 テレビ局のおとなの皆さん、もっとテレビを見てください。テレビ面白いですか?
 「d」ボタンを使ってください、欲しい情報が検索できますか。「BSイレブン競馬中継」を参考に「d」機能をもっと使い勝手のいいものにしてください。
 テレビはモットモット面白いものです。期待しています。なにしろ暇ですから…。