2019年5月27日月曜日

アイデンティティー渇望症候群

 平成から令和への代替わりの時に示した国民、そしてマスコミの「狂騒」は事前の想像をはるかに超えるものだった。令和初の宮中一般参賀には14万人が押し寄せ、天皇と皇族の応拶は予定以上の回数行われた。京都御所や幾つかの地方に設けられたお祝い記帳にも多数の国民が列を成し、即位の礼をはじめとした関連皇室行事が詳細に放送され十連休中にもかかわらず多くの国民はテレビに見入った。
 そうした一連のテレビ報道の画面から伝わってくる異常な「熱」は、素直な「祝意」だけでなく、無理矢理「浮かれて」いるような、見方を変えれば「必死さ」「飢餓感」をさえ感じさせた。彼らは「何のために」「何を求め」て餓えていたのだろうか。
 
 上皇は平成の時代を「戦争のない時代」だったと規定された。結果として、少なくとも日本は戦争をすることはなかった。しかし、その代わりに、国民の皆が「戦後復興」に向かって一致協力して邁進するという『一体感』は失われてしまった。貧乏だったけど、飢えと隣り合わせの深刻な貧乏だったけれど、他人を羨み絶望することはなかった、みな、頑張れば、先には幸福がある、と信じてガムシャラに突き進んだ。資本家と労働者という「階級意識」は強く労働組合と資本家の「労使交渉」は夜を徹して行われ「0点何パーセント」かの賃上げの積み増しを求めてしのぎを削った。大企業は5%8%のベースアップを獲得したが町工場の工員さんも二千円か三千円給料が上った。大企業は3ヶ月プラス一律十万円のボーナスが支給されたが下請けのパートさんにも「ご苦労さん賃」として薄ペッらなものだがボーナス袋が渡された。少しづつ生活は豊かになったし子どもたちは「高校くらい」「短大くらい」には行けるようになった。
 70年経って、平成になって、正社員と派遣・臨時の差がどんどん拡がった、専業主婦が消えて「共働き」が普通になった、進学校と専門・専科高の分別がはっきりしてきた。東京一極集中が進んで地方から若い人が都市へ多く流れた。大災害が頻発して被害をうけた地方の復興がなかなか捗らない中、東京2020オリンピック・パラリンピックが行われるようになり2025大阪万博とIRリゾ-ト開発が決定されたと「大阪の一部」は浮かれている。
 バラバラになっている。貧富の差が拡がった、国民が分断されたとマスコミはあげつらうが、豊かな人とそうでない人、正社員の人とそうでない人、政治を動かしている人とそうでない人というような、はっきりと具体的な『差』を、皆が意識している。
 
 そんな日本国民に『天皇』だけは「差」をつけずに、いやむしろ、困っている人、弱っている人、貧しい人にこそ、平等に「接して」くださった。『最後の頼み』として『天皇』がいらっしゃる。いま、日本国民の唯一の『紐帯』、それが『天皇』なのだ。そんな切羽詰った心情が露呈したのが「代替わり」に示された国民の姿だったのではないか。
 
 歌人の永田和宏は平成天皇をこんなふうに意味づけている。「平成の天皇陛下が模索してこられた〈象徴〉の意味は、このように『寄り添うこと』と『忘れないこと』という二つの大きな要素からなっていると思っている。」「被災地訪問の第一の意味は被災者を慰め励まし、『寄り添うこと』に間違いないが、両陛下にあっては『忘れないこと』という思いが加わる。」「この忘れないは、戦争犠牲者への追悼、慰霊の旅においてこそつよく表れるものではある。」(2019.5.19京都新聞「天眼――〈象徴〉に徹することの意味」
 国民の天皇に対する心情の分析については同じく京都新聞の大沢真幸「論考2019――平和支持 日本人の無意識(2019.5.23)」が鋭い。
 まずはっきりと言えるのは、平成の天皇・皇后が実行したことは、実際に日本人がやったこと、できたことをはるかに超えていたという点だ。平均的な日本人は、天皇ほど迷いなく素直に憲法の平和主義を支持したわけではない。社会的弱者と距離を縮めようと努力したものも少ない。日本人は、天皇のようには戦争の傷を直視できず、侵略戦争の過ちを素直に認めることもできずにいる。(略)日本人は、二人が自分たちの代理人として行動したかのような気分になっている。(略)天皇が表明したのと同じレベルで、戦争の過ちを恥じている。だがそれを行動には移せない。なぜか。無意識のうちでは罪を認めている者が、それでも言い訳をしてしまうのと同じ理由からである。勇気が欠けているのだ。(略)とすれば、令和の課題ははっきりしている。自らの無意識の真実に殉ずること、つまり無意識のうちに願望しながら実現できなかったことを、今度こそ政治的に実質のあるものにすること、これである。(太字、下線は筆者
 
 2011年の「3.11東日本大震災」の復興がまだほとんど進んでいないことを忘れて、わずか二年後の2013年9月に「2020東京五輪・パラリンピック」が決定した。2014年広島土砂災害、2016年熊本地震、2018年6月大阪北部地震、30年7月豪雨、9月台風21号による暴風・高潮。これだけの大災害が次々と国土を襲い被害者が復旧・復興に苦悩しているにもかかわらず2018年11月24日2025大阪万博開催が決定した。しかもIRリゾ-ト開発と併せてという条件で。IRリゾ-トとなにやらわけのわからない名称を付けているがなんのことはない「カジノ」という博打場のことである。
 「3.11」は地震・津波だけでなく福島第一原子力発電所事故という今後半世紀に亘る復興処理を国民の税金を費かって行わなければならない。昨年の風台風で吹き飛ばされてしまった屋根瓦の修繕がまだ終っていないそのさ中に、累積した大災害の被害者救済と復興を忘れて「2025大阪万博――バクチ場付き」を開催することにしてしまった。
 
 令和の代替わりを寿ぎ、平成の天皇・皇后を慕い敬愛しながら、日本中のあちこちの国民が災害の被害にあえいでいることを「忘れて」、オリンピックだ万博だと浮かれている。そっちの方は「天皇」が私たちの代理人として「寄り添って」くれるであろうと、タカをくくって。
 
 天皇頼みを止めて、実現しなければならないことを「今度こそ政治的に実質のあるもの」にしなければ世界の笑いものに成り果ててしまう。〈象徴〉として懸命に模索された平成天皇に報いる道はそれしかない。
 
 

2019年5月20日月曜日

老いのうた

 晩酌のせいか――最近は晩飯が終って一時間もするとコロンと九時ころには眠ってしまう――老いという経年劣化によるものか夜中に必ず目が覚める。小用を済ませて床に入って寝ようとするとき枕元の二三冊の歌集や句集を読むことにしている。小説は面白さに引き込まれるとかえって目が冴えるし専門書は集中力が要求されるから催眠には逆効果になってしまう。そこへいくと短歌や俳句は一首一句が区切りだからあとにひかない。再睡眠へのつなぎとしては格好である。
 もとは短歌には興味がなかった。韻文全体が苦手だったが俳句はアンソロジー――たとえば『百人百句―大岡信』などの佳句集が手許にあったので比較的なじんでいた。それが短歌好きになったのは「読者文芸」のせいだと思う。どの新聞も週に一回は読者投稿を募った「読者文壇」のような紙面が設えてある。若いうちは無視していたのが齢を取るとともに興味を引かれるようになって、特に同年輩の「老い」を題材にした歌や句に共感を覚えることが何度かあって必ず読む習慣ができ、読むうちに俳句より短歌に気に入ったものが多いことに気づき、短歌も捨てたものじゃないと思うようになった。それは多分、素人にとって十七文字より三十一文字のほうが字数が多い分思いが込められやすいせいではないか、素人は――といっても投稿者の多くは結社に入って日頃研鑽を積んでいる人たちらしいが――どうしても説明的になってしまうから文字の多い方が表現しやすいのかもしれない。と、勝手に思っているのだが、そんなことで短歌を読むようになって、読むほどにアンソロジーよりも作家の個人集に惹かれるようになった。
 
 最近読んだ『前登志夫歌集 大空の干潮(ひし)』は久々のヒットだったので幾首か楽しんで貰おうと思う。
草花の名をつぎつぎと忘れゆく老の山蹈み狭霧に酔へる(晩夏)
木枯しの夜は歌詠まむ飛び散れる木の葉にまぎれあそぶ神をり(賜 物)
紅葉のいちめんに敷ける庭に舞ふ風あり老のほむらのごとく( 〃 )
大根や白菜くれし隣人ともみぢを語り、死者の夕闇 ( 〃 )         
雄雄しかり、角ある山の鹿立てり。野生は神の賜物なれば( 〃 )
三輪山の磐座のへにこだまするおほるりの聲晝のさみどり(おほるり)
青草に睦める虹のほどけゆき山ほととぎす空を引き裂く(雹)        、
山姥(やまはは)の乳房豊けし、飲みあまし睡りしわれは蛹のごとし(蛹)
 短歌にしろ俳句にしろ、いいなぁ、面白い、と感じる第一は「表現や言葉選び」の斬新さ、面白さにある。上記の歌はそんな種類のものだ。
 (晩夏)の歌は、山歩きの好きな作者が山を登りながら路々の草花の美しさに目を奪われ、この花なんだったかな、これはなんといったかな、と以前ならスッと名前の出てきたものが物忘れの激しい昨今の老いを嘆きながら、一方でそれを楽しんでいる作者の余裕が「狭霧に酔える」という表現にうかがえて羨ましい。「あそぶ神あり」は作歌がつぎつぎと捗って嬉しい気持ちが「あそぶ神」となっているのだろうし、庭一面の真っ赤な紅葉を「老いのほむら」と「炎」に「老い」を重ねる作者の「生々しさ」に生に対する執念を感じる。「野生は神の賜物」「さなぎ(蛹)」は発想が斬新。三輪山――の歌は、「おほるりの聲晝のさみどり」とリズム感が心地よいのと「音」と「色」が鮮やか。青草の――の虹がじょじょに薄らいで消えていく様を「虹がほどける」と表現されるとツイ「うまいなぁ」と感嘆させられ、一際高く響き渡るほととぎすの鳴き声が「空を引き裂く」と静寂が一層引き立ってくる。
 
 この歌集は作者の77才から80歳にかけての歌を集めたもので老いと病に対する切実なものも多い。しかし、82歳で亡くなるまでの最晩年に至って「老い」にユーモアを感じられるのが嬉しい。つぎにその老いの歌を数首。 
 
たのしみて日々を過ぐさむ、晩年のわれをめぐれる夏花の白(朱)
こののちは長く生きたし何ひとつ語らず逝きし死者たちのために(くちばし)
戦ひに子を失ひし悲しみをみな怺へをり皺ふかき貌ら(赤き指)
もうながく都に出でぬこの翁亡き人の数に友らは入るる(雪の谷間)
寒き夜は背中合はせて座るべしをのこの友のつれなかりける( 〃 )
明け方に縮緬雑魚を抓みをり酒を断ちたる世捨人ひとり(世捨人)
人間の幸福とは何、ゆっくりと山に生きたり老いふかめつつ( 〃 )
くるしみてわれひざまづく青き日やほととぎすの聲草に沁みゆく(山ほととぎす)
 
 80才近くなってくるといちばん堪えるのは友人知人や親族が亡くなることだ。もし、さいわいにして今の医学の進歩から百才近くまで生きられたとして、親しい人がひとりも居なくなったとしたら……、こんなことを考える老人は多いにちがいない。もうながく――、はそんな寂しさをさらりと詠っている。こののちは――、は友人知人がつぎつぎと欠けていくなかで何とか生きる意味を見いだそうとしているのだろう。
 
もう少しお待ちくだされ、何ひとつ悟ることなく過ごし来つれば(大空の干潮)
 これくらいのユーモアと余裕をもって老いの生活が送れたらいいだろうなぁ、と思いつつ今日の稿を終えたい。
 
 
 
 

2019年5月13日月曜日

連載700回を迎えて

 たのしみて日々を過さむ、晩年のわれをめぐれる夏花の白――前登志夫(『歌集 大空の干潮』より
 
 表通りの街路樹の「なんじゃもんじゃ」が花ざかりを迎えている。初夏の鮮やかな青空に白い雪の結晶のような可憐な花が映えて美しい。2016年になんじゃもんじゃに植替えられて翌年5月の連休明けにはもうはなやかに咲きほこった姿に感嘆して『なんじゃもんじゃ』というタイトルで連載600回目(2017年5月22日)のコラムを書いている。それから二年後の今日700回の連載になるから毎週一編のペース(月曜公開)を守っていることになる。64才の2006年4月13日がスタートだから14年目に入った。昨年12月「喜寿」を迎え、まぁまぁの健康を保てているのは喜ばしい。
 今から振り返ってみると2006(平成18)年はエポックメーキングな一年だった。1月11日に「禁煙」をした、夜中に煙草が切れていつもなら起きて近くの自販機まで買いに行くのだがその夜はなぜか面倒臭くなって寝てしまって、以来今日まで禁煙できている。4月にコラムを書き初めて10月からテニスをはじめた。10年間テニス三昧で暮らしてテニスに耐えうる体力をつくりあげた。52kgしかなかった体重が59kg前後を保持し年間6、7回罹いていた風邪――必ず一日二日は寝込んでいたのが今では風邪気味だなと感じてもそれを抑え込むだけの体力になった。血圧が若干高めだが降圧剤の服用で日常生活に支障を来たすようなことはなく、歯は年三、四回の定期診断で歯周病もなく親不知も含めて32本の永久歯がすべて健康な状態を保っており、75才になってから眼科も年三回ほど健康診断を受診して視力や白内障などの衰えを防いで「読書生活」を愉しんでいる。
 
 しかし昨年の秋ころから体力の衰えを感じるようになってきた。
 毎朝四時半ころ目覚めて寝床で朝刊を一時間熟読、起床して二時間ほどのルーティンをやる。尻肉からはじめて背筋までのストレッチを10部位前後、仏壇を開いて新水をお供えしてお花の水換えを済ますと近くの公園へ出かける、インターバル速歩を2kmほどこなして公園に着く、ラジオ体操と目と口咽喉の運動、ゴミ拾い(これも2006年にスタートしてそのころは毎日40ℓのゴミ袋1~2杯もあったものが小学校と中学校の先生方のご指導が功を奏して今では週1回程度で済むようになった)、家に帰って仏さんを拝んで般若経を唱える。そして朝食を終えると大体八時になっている。
 このルーティンが最近キツくなってきた。公園から帰ってくると息が上っている。ズボラして公園行きを止めようかと思うことも少なくないが一日がふつかになってその内ルーティンをこなせなくなると今の健康が害われてしまいそうで、それが怖くて気張って公園行きをつづけている。しかし確実に年齢の衰えは起きている。
 
 体力の向上とともに「読書量」が増えて昨年は年間百冊を超えた。今読み終わったばかりの大江健三郎の『宙返り』は上下二巻で総頁九百ページを超える大著でこれまでなら手の出せなかった作品だが、オーム真理教事件を踏まえて現代と宗教に取組んだ平成の精神状況を総括したような作品だということを知って読んでみたくなって、読んでみると滞りなく読むことができた。コラムを書くために読む、読むことでまたコラムが書ける、このインプットとアウトプットの循環が読書そのものを質的に変化させて、それまでの読みっぱなしでは得ることのなかった『蓄積』をもたらし、そのことでアンテナが鋭くなって『見る眼』と『考える力』が敏感になっていく。八十歳近くなっても知的好奇心が衰えないのはこうした「読書生活」のお蔭であることはまちがいない。同年輩の友人知人が眼の衰えを嘆き集中力の減退に悩まされて読書から遠ざかっているのに比べればあり難いことだ。
 
 そうした読書生活を振り返ってみると、『老いの力』も与って「思索」が『奔放』になってきた。書物を『批判的』に読むようになった。『直観』を大事にして、多勢が「良い」ということには「眉に唾する」ようになったがそれを直ちに口にすることは憚るようにしている。ひとの話をよく聞くようにして意見が異なる場合は「そういう見方もあるわなぁ」「一般にそう言われているか?」と敢えて「異見」を述べないことがおおい。それでも、この人なら、この場所なら、と思うときは互いに意見を戦わすこともありそんな時は酒が進んで気がついたら三時間を過ぎていたということが少なくない。
 
 700回のまとめとして二三、結論めいたものを独断と偏見を恐れず書いてみたい。
 現在の状況で声を大にして言いたいことは「言葉は不完全なものだ」ということだ。コラムを書くようになって単に読書するに止めず考えを「文字化」する必要があり、意識したこと、想念を、言葉にして書こうとしたとき、ぴったりと当てはまる言葉が出てこないことが少なくない。類語辞典を調べても納得できないままに、言葉を重ねたり形容詞を付けてその場をしのぐことを「テクニック」とするようになった。対面で話すときなら語調や身振り手振りとの合わせ技で「言葉を膨らます」ことができるが「はなしことば」「書きことば」だけで思いを十分に表すことは不可能に近い。それを、「書きことば」だけで、しかも「50字」前後の短文で意思疎通を行う「SNS」に何の疑いも抱かずに『交流』ができていると信じ切っている現在の世相に非常な『危うさ』を感じる。
 もうひとつは、日本の近代化――明治維新以来の西洋化は完全に失敗だったといこと。端的にいえば、オーム真理教事件で精神的な失敗が、福島原子力発電所事故で物質的な失敗が証明された。さらに2016年に起った「相模原障害者施設殺傷事件」はその失敗が取り返しのつかない深いところまで至っていることを思い知らされた。
 最後に、アメリカという国の『未熟さ』をそろそろ国際社会は認識すべきではなかろうか。アメリカは旧世界――ヨーロッパの歴史的所産である「資本主義と民主主義の実験場」として最良の成果を産み出した国という賞賛を集めたが、それは早計な判断だったのではないか。アメリカは二つの世界戦争で壊滅的な被害から免れた。そのアドバンテージによる『僥倖の繁栄』を享受しその圧倒的な資本力を背景に戦後の世界体制を主導して75年が経過した。その結果「アメリカ型政治経済方式」は世界中に「格差」と「分断」を撒き散らすに至っている。「主義」という観念が歴史の所産であり歴史の重みを引きずりながら現実と主義が妥協し相互に修正しながら実行されるのが歴史ある国の通常の「かたち」だ。ところがアメリカには引きずる歴史がなかったから――多くの国民がほとんど同じスタートラインに立っているようなものだったから『アメリカン・ドリーム』を共有できた。しかし建国から250年が経ち、75年間も国力を上げての戦争が途切れて、国民の富に格差が如実に現れるようになって、国が分断されるようになるとアメリカ自身が「主義」に修正を加えないと国が成立っていかなくなってきた。今のアメリカは丁度そんな時期を迎えているわけでトランプの出現もサンダース勢力の伸長も歴史的必然なのである。
 
 連載1000回まであと300回、年に50回として6年、すると年齢は83才になっている。それまで今の健康を維持できるか?知的好奇心と頭脳の明晰さを保っていられるだろうか?
 
 もう少しお待ちくだされ、何ひとつ悟ることなく過し来つれば――前登志夫(『歌集 大空の干潮』より
 
 
 
 
 
 
 
 

2019年5月6日月曜日

平成という時代

 令和という新時代を迎えて平成を振り返る試みがいろいろ行われているが、市井の一市民として印象に残っている事柄から平成を考えて見たい。
 
 三年ほど前、『無事』というカードが郵便ポストに挿しこまれていた。B6ほど(大体13㌢×18㌢)の黄色の色紙に「無事」と印刷され「K学区 自主防災会」とある。ラミネートフィルムで保護されヒモで吊るされたカードに印刷物が添えられていてそれには「災害時避難されるときドアに吊り下げて置いて下さい。災害時の安否確認を表示します」といったようなことが記されていた。
 平成の30年は繰り返される「大災害」の歴史であった。関西人にとって1995年の阪神・淡路大震災の恐怖はいまだに記憶に生々しいが、2011年の「3.11東日本大震災と福島原子力発電所事故」は日本人の自然災害に対する認識を根本的に改めさせた。南海トラフ地震のリアリティが一挙に緊迫化するとともに、全国に54基ある原子力発電所が災害に対してあまりにも『脆弱』であることが明らかになった。そして2014年夏に起きた広島市安佐南地区地滑り災害は「これまで経験したことのない」「数十年に一度」の大雨が現実化していることを認識させ、2016年の「熊本地震」とつづいた「平成の大災害」は気象庁をはじめ我国の防災体制の根本的な「変革」を迫った。
 その熊本地震後の秋に近くの公園で幼稚園児や小学校の児童と保護者が一緒になった防災訓練が行われ、その直後にこの防災「無事」カードが配られたように思う。町内会の役員さんに聞いたところでは、防災会の最小単位の「役員」を「町内会長」が担当しており、緊急時一々戸別に安否確認にするのは不可能なので各戸の玄関ノブにこのカードを吊り下げることで安否確認の効率化を図る目的でこのカードが発案されたという。「K学区防災会」の組織の詳細を知らなかった私は我が地区の防災体制に不安を覚えた。
 
 不安がさらに高まると同時に『怒り』を覚えさせられる事実が明らかになった。それは、このカードの配布が『町内会会員』に限定されている、ということで、その後新聞で何度か報道された他地区の防災活動の記事にあった同様のカード配布も町内会会員限定であり、京都市全体で同じようなことが進められているらしいということを知ったのだ。我がマンションの町内会組織率は一割くらいで周囲のマンションも大体そんなもので、マンション以外でも組織率は低下傾向にあるという。この地域は若い子供のある夫婦が多く、子どもが小学校に通っている間はPTA活動や「地蔵盆」の関係があって町内会への参加率は高いが子どもが中学高校へ進むにつれて脱退者が増えていく。一方で高齢化も相当進んでいて古くから住んでいる層は夫婦の片方が亡くなって子供と同居するために他地区へ転居するひとが結構多い。また他地区からマンション住まいするために転入する層もあり、これらの人たちは町内会へ入ることはほとんどない。
 『防災』が「町内会会員限定」であっていいはずがない。むしろ会員さん同士は日頃顔馴染みだから災害時に声掛けも容易で安否確認も漏れなく行われるに違いないが、会員でない付き合いのうすい、とくに孤立した老人夫婦や独居老人こそ安否確認が困難で、「防災体制」の「編み目」からこぼれ落ちてしまう層になる。そしてそれが防災体制確立の「障碍」となっている。「K地区防災会」がどんな組織の下部団体か詳細を調べていないがたどっていけば「京都市防災システム」にゆきつくはずだ。そのシステムの最も下部の組織で災害発生時には現場最前線で活動する組織がこの体たらくでは「防災システム」そのものの『実効性』が疑われる。
 京都市の防災システムには以前から疑問を持っていてこんなことがあった。2012年に「東北大震災に係る復興関連予算」が全国の災害対策に『流用』された(政府をはじめ全国の行政は流用ではないと強弁しているが)。この予算を用いて近くの公園に災害緊急時に「臨時」に利用できる「トイレ」が設置されたのだが、これを地区の消防団や小学校の防災会にお披露目されたこともないし、このトイレが市の防災システムにどう組み込まれているかも定かでない。
 
 システムでいえば戦争時の「シビリアン・コントロール」が実際にどのように機能するのか、国民は理解しているだろうか。安保法制の『改悪』があって「集団的自衛権」が発動される可能性が数段高められ、現実としてカンボジアへ自衛隊の海外派遣が実行され「戦闘行為」が発生しているがそこで「シビリアン・コントロール」が機能したということは「知らされて」いない。
 平成の変化でもうひとつ気掛かりなのは、「労働組合」の組織率が17%に低迷しているにもかかわらず、非正規社員が労働者の3割を超えているにもかかわらず、「労使交渉」の結果として、政府機関の政策作成時に「労働者代表」として組織率17%の「労働組合の代表者」が参加して、法律が定められて行政が進められているという現実に「不都合な真実」をみる。
 
 この国のあらゆるシステムは、万遺漏なく、定められているように見えてその一々を末端までたどってみると、どこかで途切れてしまったり、手がかりを見付けだせなくなったりしてしまうことがしばしばだ。
 結局、多くのシステムが老朽化していて、対象とされていた市民の層がどんどん「抜け落ち」て、残された層の『既得権』化してしまって、その層と「はじき出された」層の対立が激化するか、対立が消えて「見捨てられた」層が「取り残されて」しまっている。
 それを政治が『政治化』することができず、『投票率』が際限なく低下していって、それでも「とりあえず、投票行動を起こすことが政治の劣化を防ぐ唯一の手段だ」とマスコミは市民を啓発しつづけている。
 
 最後に「ささやかな変化」として近くの公園の「市民野球場」の利用がすっかり「様変わり」したことも平成の印象深い事柄として取り上げてみたい。この十連休の利用状況がその特徴を如実に現わしているのだが、利用日は半分しかないし、利用時間も一日2時間から4時間ほどで終日利用される日は一日もない。とくに顕著なのはおとなの一般市民の利用が極端に少なくなって、5、6年前までは土日になれば、特に日曜日は一日中利用で埋まっていたものだが、最近はもっぱら「家庭サービス」に親父さん連中が専念している様子が窺える。日ごろは仕事一方で休みの日は家族サービスそっちのけで好きな草野球三昧、という親父像はもろくも崩れ去ってしまったようだ。
 少年野球もすっかり様変わりして以前なら罵詈雑言、叱咤暴言、手も出ていたのがいまや、諄々と言ってきかせ、暴力沙汰などまったく姿を消してしまった。練習日自体が減少して休養日が設定されるようになっている。
 公園の「市民球場」の利用からうかがえる市民像は「家庭重視」「個」重視の社会像が浮かび上がってくる。
 
 『連帯』の消滅。「平成」の最大の変化をそこに見出す。そして、分断され、孤立する市民の『紐帯』が『皇室』で保たれている『危うさ』を強く感じる。