2019年5月13日月曜日

連載700回を迎えて

 たのしみて日々を過さむ、晩年のわれをめぐれる夏花の白――前登志夫(『歌集 大空の干潮』より
 
 表通りの街路樹の「なんじゃもんじゃ」が花ざかりを迎えている。初夏の鮮やかな青空に白い雪の結晶のような可憐な花が映えて美しい。2016年になんじゃもんじゃに植替えられて翌年5月の連休明けにはもうはなやかに咲きほこった姿に感嘆して『なんじゃもんじゃ』というタイトルで連載600回目(2017年5月22日)のコラムを書いている。それから二年後の今日700回の連載になるから毎週一編のペース(月曜公開)を守っていることになる。64才の2006年4月13日がスタートだから14年目に入った。昨年12月「喜寿」を迎え、まぁまぁの健康を保てているのは喜ばしい。
 今から振り返ってみると2006(平成18)年はエポックメーキングな一年だった。1月11日に「禁煙」をした、夜中に煙草が切れていつもなら起きて近くの自販機まで買いに行くのだがその夜はなぜか面倒臭くなって寝てしまって、以来今日まで禁煙できている。4月にコラムを書き初めて10月からテニスをはじめた。10年間テニス三昧で暮らしてテニスに耐えうる体力をつくりあげた。52kgしかなかった体重が59kg前後を保持し年間6、7回罹いていた風邪――必ず一日二日は寝込んでいたのが今では風邪気味だなと感じてもそれを抑え込むだけの体力になった。血圧が若干高めだが降圧剤の服用で日常生活に支障を来たすようなことはなく、歯は年三、四回の定期診断で歯周病もなく親不知も含めて32本の永久歯がすべて健康な状態を保っており、75才になってから眼科も年三回ほど健康診断を受診して視力や白内障などの衰えを防いで「読書生活」を愉しんでいる。
 
 しかし昨年の秋ころから体力の衰えを感じるようになってきた。
 毎朝四時半ころ目覚めて寝床で朝刊を一時間熟読、起床して二時間ほどのルーティンをやる。尻肉からはじめて背筋までのストレッチを10部位前後、仏壇を開いて新水をお供えしてお花の水換えを済ますと近くの公園へ出かける、インターバル速歩を2kmほどこなして公園に着く、ラジオ体操と目と口咽喉の運動、ゴミ拾い(これも2006年にスタートしてそのころは毎日40ℓのゴミ袋1~2杯もあったものが小学校と中学校の先生方のご指導が功を奏して今では週1回程度で済むようになった)、家に帰って仏さんを拝んで般若経を唱える。そして朝食を終えると大体八時になっている。
 このルーティンが最近キツくなってきた。公園から帰ってくると息が上っている。ズボラして公園行きを止めようかと思うことも少なくないが一日がふつかになってその内ルーティンをこなせなくなると今の健康が害われてしまいそうで、それが怖くて気張って公園行きをつづけている。しかし確実に年齢の衰えは起きている。
 
 体力の向上とともに「読書量」が増えて昨年は年間百冊を超えた。今読み終わったばかりの大江健三郎の『宙返り』は上下二巻で総頁九百ページを超える大著でこれまでなら手の出せなかった作品だが、オーム真理教事件を踏まえて現代と宗教に取組んだ平成の精神状況を総括したような作品だということを知って読んでみたくなって、読んでみると滞りなく読むことができた。コラムを書くために読む、読むことでまたコラムが書ける、このインプットとアウトプットの循環が読書そのものを質的に変化させて、それまでの読みっぱなしでは得ることのなかった『蓄積』をもたらし、そのことでアンテナが鋭くなって『見る眼』と『考える力』が敏感になっていく。八十歳近くなっても知的好奇心が衰えないのはこうした「読書生活」のお蔭であることはまちがいない。同年輩の友人知人が眼の衰えを嘆き集中力の減退に悩まされて読書から遠ざかっているのに比べればあり難いことだ。
 
 そうした読書生活を振り返ってみると、『老いの力』も与って「思索」が『奔放』になってきた。書物を『批判的』に読むようになった。『直観』を大事にして、多勢が「良い」ということには「眉に唾する」ようになったがそれを直ちに口にすることは憚るようにしている。ひとの話をよく聞くようにして意見が異なる場合は「そういう見方もあるわなぁ」「一般にそう言われているか?」と敢えて「異見」を述べないことがおおい。それでも、この人なら、この場所なら、と思うときは互いに意見を戦わすこともありそんな時は酒が進んで気がついたら三時間を過ぎていたということが少なくない。
 
 700回のまとめとして二三、結論めいたものを独断と偏見を恐れず書いてみたい。
 現在の状況で声を大にして言いたいことは「言葉は不完全なものだ」ということだ。コラムを書くようになって単に読書するに止めず考えを「文字化」する必要があり、意識したこと、想念を、言葉にして書こうとしたとき、ぴったりと当てはまる言葉が出てこないことが少なくない。類語辞典を調べても納得できないままに、言葉を重ねたり形容詞を付けてその場をしのぐことを「テクニック」とするようになった。対面で話すときなら語調や身振り手振りとの合わせ技で「言葉を膨らます」ことができるが「はなしことば」「書きことば」だけで思いを十分に表すことは不可能に近い。それを、「書きことば」だけで、しかも「50字」前後の短文で意思疎通を行う「SNS」に何の疑いも抱かずに『交流』ができていると信じ切っている現在の世相に非常な『危うさ』を感じる。
 もうひとつは、日本の近代化――明治維新以来の西洋化は完全に失敗だったといこと。端的にいえば、オーム真理教事件で精神的な失敗が、福島原子力発電所事故で物質的な失敗が証明された。さらに2016年に起った「相模原障害者施設殺傷事件」はその失敗が取り返しのつかない深いところまで至っていることを思い知らされた。
 最後に、アメリカという国の『未熟さ』をそろそろ国際社会は認識すべきではなかろうか。アメリカは旧世界――ヨーロッパの歴史的所産である「資本主義と民主主義の実験場」として最良の成果を産み出した国という賞賛を集めたが、それは早計な判断だったのではないか。アメリカは二つの世界戦争で壊滅的な被害から免れた。そのアドバンテージによる『僥倖の繁栄』を享受しその圧倒的な資本力を背景に戦後の世界体制を主導して75年が経過した。その結果「アメリカ型政治経済方式」は世界中に「格差」と「分断」を撒き散らすに至っている。「主義」という観念が歴史の所産であり歴史の重みを引きずりながら現実と主義が妥協し相互に修正しながら実行されるのが歴史ある国の通常の「かたち」だ。ところがアメリカには引きずる歴史がなかったから――多くの国民がほとんど同じスタートラインに立っているようなものだったから『アメリカン・ドリーム』を共有できた。しかし建国から250年が経ち、75年間も国力を上げての戦争が途切れて、国民の富に格差が如実に現れるようになって、国が分断されるようになるとアメリカ自身が「主義」に修正を加えないと国が成立っていかなくなってきた。今のアメリカは丁度そんな時期を迎えているわけでトランプの出現もサンダース勢力の伸長も歴史的必然なのである。
 
 連載1000回まであと300回、年に50回として6年、すると年齢は83才になっている。それまで今の健康を維持できるか?知的好奇心と頭脳の明晰さを保っていられるだろうか?
 
 もう少しお待ちくだされ、何ひとつ悟ることなく過し来つれば――前登志夫(『歌集 大空の干潮』より
 
 
 
 
 
 
 
 

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