2011年8月29日月曜日

入門書のこと

 三月十一日(あのひ)より/棄民の自覚/八月末(大船渡・桃心地、23.8.21日経俳壇より)

 六十の手習いで漢文を攻めようと思ったとき先ず手にとったのはやはり「新唐詩選・岩波新書」であった。この書は40数年前に一度挫折している、にもかかわらず漢文といえばこの本から始めなければと思い込んでいたのは入門書の定番として確固たる地位を保持しているからであろう。奥付をみれば「初版1952年8月10日第90刷2008年2月5日」となっている。
 今回も歯が立たなかったが、それは入門書の体裁をとっていながら内容が相当ハイレベルでとりわけ三好達治担当の後篇は冒頭に長詩3篇を配しておよそ初心者にやさしく漢詩を教え導こうという気配など微塵もないからだ。それどころかいい加減な気持ちなら漢詩など読もうと思うな、と戒めているようにすら感じられる書き振りになっている。

 あれから4年、久し振りに手にとって見て吉川幸次郎、三好達治両師の鑑賞力に感嘆させられた。読み下しは少々上達していても理解に必要な中国の歴史や漢詩・漢文の常識となっている故事を知らないから詩を感じる域にまで至らない。両師の解説に込められている豊富な知識学識を読むことによって理解が進み詩としての文学性を深く感じることができた。
 
 良い入門書とは分かり易く読み解いて理解させるだけではなく、難しいことを敢えて解らないままに放って置いてそれでもその学問を学んでみようという意欲を起こさせるものだと思う。研鑽を積んで再度その入門書を読んだ時、自分の進み具合が判定できるようなものが良い入門書というのだろう。

 「解り易く」するために大切な部分を犠牲にすることが少なくない。理解するためには学習が必要なのだがその努力をしない風潮が強い。「知識は必要ない、知恵が大事なのだ」と嘯くお笑いタレントが重宝がられる現在の日本では「結局良いの、悪いの」と結論だけを求めてしまいがちだ。その究極が原子力発電で「結局安全なの?」と安全のための多層なステップを検証する退屈で複雑な過程をはしょったために『安全神話』を安易に受入れてしまった。
 「フクシマの教訓」をどう生かすか。

 「生涯鏡中に在り」(新唐詩選P197より)。恐いことばである。

2011年8月22日月曜日

私が公園のゴミ拾いをするわけ

 公園は「牛ケ瀬公園」といい桂離宮の南約1kmの桂川西岸にある。昭和57年に開設され南北170米東西90米約15㌶の大きな公園である。北側に公式の軟式野球場(有料)があり南側はフリースペースになっている。フリースペースの中央は壁打ちの壁のあるグラウンドで西側がテニス用東側がソフトボールやサッカーに適した設計になっている。その北側丁度公園の中央に東屋があって畳大のベンチが2基、日除け屋根がある。グランドの南は植栽を挟んでブランコ砂場鉄棒にベンチがある小さな子の遊技場になっている。その西側には中央のよりやや小ぶりの休憩所がありこちらは屋根が藤棚になっている。グランドの西側フェンスを挟んで登り棒平行棒腹筋用に設えられたベンチが2基ある野外の簡単なジムのようなスペースがあり、更に通路を挟んだその西側の植栽のなかに自然木のテーブル2基と長いすがあって木陰で憩えるスペースになっている。グランドの東側には水飲み場があり半径10米位のレンガ造りの縁石が配してあり丁度欅の大木の木陰で休める仕掛けになっている。楠、欅、椎、ハナミズキなどの植栽が公園中に施されており30年を経過して木々は立派に成長し野球場横の東西の通路などはさながら緑の回廊の様を呈し紅葉の頃ともなれば地域の人たちの目を楽しませてくれる。

 見事なものだ。これほどの構想力で建造された公園は他にないであろうしバブル期でこそ許された贅沢である。今後このような公園はつくれない、いわば高度成長の記念碑的なモニュメントといえる。我々は後世代にこうした公的資産を劣化させることなく受け継いでいく責務がある。では公園という資産の劣化とはどういうことか。来園者が減少すること、立派な施設が利用できなくなることである。劣化させないためには『維持管理』ではなく『ファシリティマネージメント』という視点が必要なのだが行政は相変わらず維持管理で十分と考え、年に数回の維持作業や月に何回かの巡回で十分と考えている。「破れ窓理論」を持ち出すまでもなく、日々のゴミの散乱や不法投棄の蓄積で僅かな間に来園者の足を遠ざけ荒んだ心にしてしまうことに行政は気づいていない。
 
 私が公園のゴミ拾いする理由のひとつは公園の劣化を防ぐためである、オーバーだがそう考えている。

 ところで公園は鬱屈した子供や閉塞感に押し潰されそうになっている子供のはけ口にもなっている。飲み食いしゴミやタバコの吸殻を撒き散らしてうっぷんを晴らしている。彼らが更に悪い道に行くのを踏み止まらせるには「誰かに見守られている」という安堵感が必要だ。学校で切り捨てられ親にも見離されたと追込まれている彼らに、捨て散らかしたゴミがチャンと拾われている、ただそれだけのことでそんな効果を与えられないか。
 ゴミ拾いをするもうひとつの理由である。

 早起きして公園へ行く、毎朝が清々しい。
 間違いなくこれがいちばんの理由だ。

2011年8月15日月曜日

小さな異変

 夏休み、公園のごみ拾いは大忙しだ。中学生が一晩中屯してゴミを撒き散らすのだ。畳大の2基のベンチに10人前後が集まって夕方から明け方まで与太話をしながら飲み食いし、タバコを吸ったり中には酒を飲んだりするのもいる。その場のゴミ拾いだけで20分以上かかることもある。
 ところが今年は少々事情が変わってきた。小さい子供の遊戯場にあるベンチで小学生5、6人が悪さするのだ。こちらの方は菓子の包装紙が主だがタバコの吸殻も少しは混ざっている。小学生はまだ2回しか見ていないが又あるかもしれない。
 公園ではないが夏休み前のある日9時頃に中学校の裏門の近くを通ったとき女子生徒が帰っていくのに出くわしたことがあった。授業が始まったばかりなのにどうしたのだろうと不審に思った。

 これは憶測だが学校の教科書の内容が大幅に増量されたことと関係がないだろうか。「脱ゆとり」を図って、国語25%算数33%社会16%理科36%(いずれも小学校の場合)ページ数が増えている。中学校も同様の改定が行われた。これに応じて授業時間も増えているが適切であるかどうかはまだ判断できる段階でない。
 
「ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」の反省から生まれた。そして「ゆとり教育」で子供の学力が著しく低下したという社会的な抗議に対応した形で今回の「脱ゆとり」に転換したということになっている。しかし本当に教科書の内容が少なかったから教育レベルが落ちたのかどうか。もしそうなら少し前マスコミが騒いだ『灘高校伝説の国語教師』の存在はどう評価すればいいのか。中勘助の「銀の匙」という1冊の文庫本だけを教科書にして3年間教えたという教授法は彼の個人的な資質と能力にのみ起因した成功譚なのだろうか。

 「落ちこぼれ」という形で『見離され切り捨てられる』子供は絶対に出してはいけない。今英国で起こっている暴動も結局「効率」という尺度で「見捨てられた」若者がそのはけ口を求めて起こした暴力的破壊行為だといわれているではないか。このまま「落ちこぼれ」を放置しておけば「対岸の火」ではすまなくなる。

 私の憶測が杞憂で終わることを願っている。
 (8月15日を休刊日にする新聞人に社会の木鐸たる矜持はあるのだろうか。)

2011年8月8日月曜日

盂蘭盆会

 今週はお盆の入り、来週は五山の送り火である。
 お盆は盂蘭盆会といい父母や祖霊を供養する行事で日本では推古天皇6年(606)から行われている。「盂蘭盆経」の説話に起源についてこう書いてある。釈尊の高弟・目犍連が餓鬼道に墜ちて苦しんでいる母親を救いたいと釈尊に教えを乞うと、自恣(じし:安居《あんご》の修行の明ける)の7月15日に僧衆を供養するように、といわれ教えの通りにすると母が救われたという。

 ところでお盆にお寺参りするのは当然のことのように思っているが実はそんなに昔からあった風習ではない。江戸時代初期(慶長年間1613年頃)キリシタン禁制を貫徹させるために定められた「寺檀(じだん)制度」によって寺院と檀家の関係を固定化させ寺請(てらうけ)制度(檀家の人がキリシタンで無いことを証明し宗旨人別帳を作成することが義務付けられた)が実施された。その後世俗権力(幕府の権力)だけでは完全に行えない民衆支配を宗教の力を借りて徹底しようと寺檀制度が拡大される。「宗門檀那請合之掟(しゅうもんだんなうけあいのおきて)」に「祖師忌、仏忌、盆、彼岸、先祖命日に絶えて参詣仕らざる者は判形(はんぎょう)をひき、宗旨役所へ断り、きっと吟味を遂ぐべき事」「死後死体に剃刀を与え、戒名を授け申すべき事、(略)邪宗にて之なき段、慥(たしか)に受合の上にて引導すべき也。能々吟味を遂ぐべき事」などと、葬式や檀家の義務を規定している。
 即ち、お寺参りをお盆、お彼岸、先祖の命日等にキチンとやらない檀家は罰せられる、戒名を必ず授けること、などが義務化されたのである。権力側はお寺の力で民衆を管理する見返りに、寺側は権威と経済的基盤を磐石に保証されたのである。

 明治維新になって寺檀制度は廃止され、戦後になって家制度は無くなったが檀那寺と檀家の関係は未だに継続している。高齢化もあって「葬式仏教」は益々健在であるように見える。しかし人間の生死の問題を高額な戒名料に置き換えて云々するなど仏教の有り様が問われる側面も浮彫りになっている。格差が拡大し閉塞感が濃く漂っている今、宗教について神仏共に、一般人も含めて再考する時期に来ているのではなかろうか。

 五山の送り火が晴れの日になりますように。

2011年8月1日月曜日

苛政は虎よりも猛なり

 中国・浙江省で起きた高速鉄道事故の一連の報道に接して、礼記にある孔子の「苛政は虎よりも猛なり」という言葉を思い浮かべた。泰山の近くを孔子が通りかかった時墓の前で慟哭する婦人がいた。どうしたのかと声を掛けると婦人は答えた。「私は舅と夫を虎に殺されました。ところが今度は息子までも虎に殺されてしまったのです」「どうしてこの土地から引っ越さないのか」「苛政がないからです」。
 虎に殺される恐怖よりも苛酷な政治が行われていた孔子の時代、それから2500年経った今も彼の国は変わっていないのだろうか。

 中国は特異な国である。人類は長い歴史の過程で政治と宗教は分立させた方がいいということを学び並立する体制を中世の頃に築いている。日本では京都(天皇制)と鎌倉幕府(政治権力)、ヨーロパではローマ法王と各国の国王の関係である。ところが中国では民間宗教や迷信はあっても政治権力に対抗できるような宗教的権威は成立することがなかった。政治が暴走してもカウンターパワーが機能しないから反対勢力が勃興し暴力的決着がつくまで政治的安定がないのが中国の歴史である。
 共産党独裁がつづいて60有余年、積年の矛盾がマグマ化している。

 堕落し穢れた旧世界(ヨーロッパ)から無垢な人たち―悔い改めた清らかな人たちだけがメイフラワー号で渡ってきて造った国、アメリカ。しかし新世界ゆえに過去の事例を引用し今を決められない、即ち歴史がないから法律と倫理、治安、セキュリティーを自前で賄わなければいけなかった国、アメリカ。倫理の基準が自分たちの中だけにしかない、アメリカという国。
 ドルが基軸通貨となって60年余。ニクソンショックで「金という枷」を外して刷りまくったドルが、「物」の裏付けのない「デリバティブ=金融商品」がアメリカの主力商品とならざるをえなくなり通貨の暴走を防げなくなってしまった―それが『アメリカ国債のデフォルト』の実体である。

 21世紀は間違いなくこの両国が世界を主導していく。
 世界政治のガバナンスシステムは今のままでいいのだろうか。