2011年8月15日月曜日

小さな異変

 夏休み、公園のごみ拾いは大忙しだ。中学生が一晩中屯してゴミを撒き散らすのだ。畳大の2基のベンチに10人前後が集まって夕方から明け方まで与太話をしながら飲み食いし、タバコを吸ったり中には酒を飲んだりするのもいる。その場のゴミ拾いだけで20分以上かかることもある。
 ところが今年は少々事情が変わってきた。小さい子供の遊戯場にあるベンチで小学生5、6人が悪さするのだ。こちらの方は菓子の包装紙が主だがタバコの吸殻も少しは混ざっている。小学生はまだ2回しか見ていないが又あるかもしれない。
 公園ではないが夏休み前のある日9時頃に中学校の裏門の近くを通ったとき女子生徒が帰っていくのに出くわしたことがあった。授業が始まったばかりなのにどうしたのだろうと不審に思った。

 これは憶測だが学校の教科書の内容が大幅に増量されたことと関係がないだろうか。「脱ゆとり」を図って、国語25%算数33%社会16%理科36%(いずれも小学校の場合)ページ数が増えている。中学校も同様の改定が行われた。これに応じて授業時間も増えているが適切であるかどうかはまだ判断できる段階でない。
 
「ゆとり教育」はそれまでの「詰め込み教育」の反省から生まれた。そして「ゆとり教育」で子供の学力が著しく低下したという社会的な抗議に対応した形で今回の「脱ゆとり」に転換したということになっている。しかし本当に教科書の内容が少なかったから教育レベルが落ちたのかどうか。もしそうなら少し前マスコミが騒いだ『灘高校伝説の国語教師』の存在はどう評価すればいいのか。中勘助の「銀の匙」という1冊の文庫本だけを教科書にして3年間教えたという教授法は彼の個人的な資質と能力にのみ起因した成功譚なのだろうか。

 「落ちこぼれ」という形で『見離され切り捨てられる』子供は絶対に出してはいけない。今英国で起こっている暴動も結局「効率」という尺度で「見捨てられた」若者がそのはけ口を求めて起こした暴力的破壊行為だといわれているではないか。このまま「落ちこぼれ」を放置しておけば「対岸の火」ではすまなくなる。

 私の憶測が杞憂で終わることを願っている。
 (8月15日を休刊日にする新聞人に社会の木鐸たる矜持はあるのだろうか。)

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