2011年3月28日月曜日

何故「大連立」なのか

 何故「大連立」なのか、どうして今「挙国一致内閣」にならないのか。
 連立には保身と党利党略しかない。今必要なのは国難に遭遇した国のあるべき形であり「挙国一致」以外にない。リーダーには真摯な人間性が問われるが、「生かされている命に感謝し、全身全霊、正々堂々とプレーすることを誓います」と宣誓したセンバツの創志学園野山慎介主将以上の『純正・清廉』を備え、成熟した市民社会にふさわしい新しい社会システムを構築する『構想力』とそこへ導く『哲学』が求められる。

 我国の災害復興はこれまで『補完性』と『原形復旧(現物支給)』など多くの規制に縛られてきた。復旧復興の第一責任者は被災市町村でありその自治体の資源の限界を超える範囲毎に上位の自治体・国が補完していく、というシステムは今回の災害では機能しないし現物支給の原形復旧は無意味且つ不可能である。加えて今回の『壊滅的破壊』を復旧・復興するのに「土地の私有財産権」をこれまでのように「個別具体的な資産」として認めたままで解決できるのかという根源的な問題にも踏み込まなければならないことを政治家は自覚しているだろうか。

 東京一極集中と地方の過疎化が益々加速しないかという危惧、とりわけこれを契機として「過疎化」を既成事実として受容し「地方切り捨て」が広範囲に行われないかという惧れを強く抱く。港湾、農地、道路等のインフラを復旧する費用は公的負担とすることは可能でも、船舶、漁網、農機具や住居などは「私有財産の自己管理責任」の原則に拘泥し公的支援の対象外になってしまわないか。津波に襲われた自己所有の土地に従前通りの家屋を復旧する『愚かさ』を役人は押し付けないか。
 政治家や官僚(役人)による『官製の審議会構想』で地方の過疎化を解決しようとするのではなく、この災厄を契機に他府県に移住していた若者も取り込んで復興が設計できるような『条件整備』―例えば「壊滅した市町村の土地を私有財産制を保ちながら公共財化する」「現物支給から金融支援への転換」などを『挙国一致内閣』で早期に実現するべきである。

 3月13~19日の海外投資家による日本株への投資は週単位としては過去最高の8910億円の買い越しだった。海外の人たちの我国復興への期待は絶大である。菅直人はこの期待に応えられるか。

2011年3月21日月曜日

原発事故について

 読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」に加藤登紀子さんがゲスト出演した時野放図な原発推進に警鐘を鳴らしたことがあった。マスコミから原発批判がすっかり消えてしまったこの時期に、批判するべきはキチンと批判する彼女の姿勢に『緩んでしまった我日常』を愧じた。
 
 大阪府庁と府警の間にあった「水素ステーション」が昨年末で「事業仕分け」された。こんな一等地に1日数人の参観者しかない、トヨタ製の1億円する水素ガス式電気自動車を1千万円の年間使用料を払って啓蒙する意義に疑問を感じていたから当然の措置だが、その技術説明員さんが一通り説明を終えたあとこんなことを言った。「そんなことより、原発原発と騒いでいますが本当に大丈夫なんでしょうか。私の個人的な意見ですが怖いですね」。
 
 日本の原発の稼働率が65%と低い現状を米韓並みに85%前後に高めるべきだという論調が年々高まっていた。しかしそこにこそ『被爆国』としての『良心』があると誇りを感じていた。だからこそ世界一の品質という評価が得られているのだと信じていた。ところが今回の事故の経過を見ていると原子力安全・保安院と電力会社の関係は『馴れ合い』ではなかったのかという疑問を強く抱いた。たとえ不備があったとしても施設と住民の安全を最優先に手順が踏まれ「安全の担保」が厳密に整序されていたとは思いにくい。

 結局「原子力安全・保安院」が経済産業省の一機関である限り、推進派の力が強い中で安全最優先の行政を進めることは不可能である。内閣府に設置されている「原子力安全委員会」を原子力を安全に利用するための国による管理・規制を担当する「独立した機関」に格上げするか、或いは行政とは全く独立した「安全確保の絶対的な機関」を設立するかのどちらかにしなければ安全の確保は不可能である。
 同時に「電力の自由化」を強力に進めて「地区別の寡占状態」を打破し電力事業を競争に曝すことで、東電にみるような『思い上がった殿様商売のブラックボックス事業』から脱却させる必要がある。

 現在の不安定で危険な状況からいつ解放されるか予断を許さないが、犠牲を無駄にしない、将来展望に結びつく国民の納得の得られる結果が導かれることを祈念して止まない。

2011年3月14日月曜日

政治資金規正法について

 ローマ大学ルイージ・グイソ教授がいうように文化を「民族的、宗教的、社会的な集団がほぼ変化させない形で異世代に伝達する習慣的な信条と価値」と定義するならば、戦後65年たった我国は文化の変節点を迎えているのかもしれない。ひとつの例証として明治大正世代と昭和一桁世代の2010年での人口比率を見ると明治大正世代は2.92%、昭和一桁世代を加えても10%に過ぎずその社会的影響力は相当弱くなっている。この世代が『戦前の儒教的教育世代』であることを考えると戦前から続いている或いは戦後すぐにつくられた制度や法律はそろそろ根本的に再検討する必要がありそうだ。

 政治資金規正法は昭和23年に施行された。その目的や基本理念は「政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もって民主政治の健全な発達に寄与する」「政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される浄財であることをかんがみ(略)いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない」「何人も、外国人、外国法人又はその主たる構成員が外国人若しくは外国法人である団体その他の組織から、政治活動に関する寄附を受けてはならない」などとしている。
 当時を考えると、東西冷戦のせめぎ合いが熾烈な時期にあり共産主義の浸透を極度に恐れていたが赤化勢力の攻勢は生易しいものではなかった。又仮想敵国による国土侵犯も現実的な脅威でありこうした脅威のひとつの形として「朝鮮総連や民団」もあった。
 しかし現在では冷戦は終結する一方、グローバル化と少子化の中で外国人は労働力として必要なばかりでなく在日朝鮮人他日本社会の成員として無視できない存在となっている外国人も多数に上り今後この傾向は益々高まっていくと思われる。
 
 政治資金の趨勢は、企業や組合からの献金の制限は更に厳しくなるであろうし政党助成金もこのまま存続する可能性は少なく、個人献金の比重が加速度的に高まることが予想される。

 今でも一部の地方では外国人の存在は無視できないが近い将来確実に多くの地域でこの傾向が定着するだろう。そのときの政治資金授受のあり方を考えると「外国人からの寄付禁止条項」には大幅な修正が加えられること必定である。

2011年3月7日月曜日

旅の絵本

 「ドミニク・ヴィス/武満徹を歌う」の流れる中で「大岡信の現代詩」を読む。疲れてくると安野光雅の「旅の絵本」を開く、ちょっと上等のウィスキーを嘗めながら。不思議な安らぎの安野ワールド。

 その安野光雅のことば。「絵を見るとき、題名を先に見て、絵の意図を読み取ろうとする人がある。題名を変えても絵の価値が変るということはない。/文字は説明的な意味を持っているが、絵は説明ではない。詩もちがう気がする。言葉で書くほかないが、その言葉の説明的な意味から逃れようとしているように見える。」(日経・私の履歴書から)

 武満徹と大江健三郎は「オペラをつくる」で次のように語り合っている。
絵画をみる場合は受身で見るけれども、音楽を聴く場合は、能動的に聴くというのも、本当にそうなのだと思います。(略)音楽を人間が生み出したのは、耳があるからではなく、喉があるからだという。(略)耳があるからということで人間が音楽をつくり出したのなら、自然の音を模倣するような音楽になっただろう、『田園交響曲』のような標題音楽からはじまっていったんだろう、という。ところが、人間が喉を使って歌をつくることから音楽が生じているという。
 文字言語の言葉というものでは言い表せない感情、言葉をいくら補っても言葉では補えないものを音楽、歌にしようというふうに考えています。/言葉の起源は歌なので、歌うということを検証したときに言葉が出てくる。言葉の後に歌がくるのではなく、歌というものは常にあって、それがいろいろな歌のかたちとして、言葉として顕れてくる。それは小説であったり、また、詩や戯曲であったりする。
 ヴェルディは音楽の力によってシェークスピアよりも少ない言葉で同じことを達成していると思います。逆にいうと、シェークスピアが達成したようなものを小説家が達成しようと思ったら、シェークスピアの10倍の言葉が必要だと思います。

 三人が言っているのは『音楽や絵画、詩の優越性』と『言葉の不完全性』である。だから我々は言葉を注意深く使わなければならないし、言葉の重みを知らなければならない。
 「満目(まんもく) 生事を悲しむ」、今の政治状況は余りにも悲しい。