2022年7月25日月曜日

想滴々(22.7)

  沖縄のコロナ発症率がとび抜けています。人口10万人当りの発症者数は全国平均633.6人に対して沖縄は1770.7人になっています。同じ観光県である北海道は272.2人、京都606.1人です(東京938.0人、大阪982.2人/7月21日現在)。全国平均の約3倍東京大阪の約2倍です。この数字を報道しながらマスコミはなんら疑問を呈さず分析もしません。観光客が多いからなら京都は祇園祭があったばかりですから沖縄並みになってもおかしくないはずで観光が原因とは思えません。観光以外に沖縄の特殊事情といえば「米軍基地」の存在です。以前デルタ株が猛威をふるっていた頃基地の感染対策が不徹底でいい加減だったので対策強化を申し入れアメリカ軍も同意して以後厳重に感染防止に努めると約束しました。現在のアメリカ軍基地の感染対策について政府は明らかにしていません。西欧世界の潮流としてオミクロン株に対してはデルタ株と異なり「withコロナ」の姿勢を鮮明にして「脱マスク」など3密も強制しなくなっています。我が国と大きな違いがあるのです。沖縄市民は軍属として基地で勤務する人も少なくありませんし米兵の市内通交も自由です。ノーマスク、3密無視の基地と米兵が感染拡大に影響しているであろうことは容易に想像できます。

医療機関ひっ迫も急で「医療非常事態宣言」も出ています。政府はどうして米軍に抗議しないのでしょうか。

 

 安倍元総理が暗殺されて3週間近くになります。安倍さんは「戦後レジームからの脱却」をライフワークにしていました。そしてその中心に「憲法改正」があるのは周知のことです。占領下で占領軍の圧力のもとに制定された憲法を独立した国民国家にふさわしい、終戦直後の混乱した世上のもとに定められた憲法を21世紀の現状にふさわしい憲法に改めようというのです。一見この考え方は正しいように見えますが安倍さんたちの憲法改正には矛盾も含まれています。占領国――占領していたアメリカ軍の圧しつけたものは憲法だけではありません。全国にある130以上に及ぶ米軍基地も圧しつけられましたしその70%は沖縄にあります。その影響で首都の制空権は横田基地にあるアメリカ軍が占有していて首都でありながら我が国の航空機は首都の上空を自由に飛行することができないのです。憲法が圧しつけだというのなら米軍基地もそうですし制空権の剥奪も圧しつけです。

 私は決して「愛国者」ではりませんがこの首都上空の制空権剥奪だけはどうしても許せません。戦後70年以上経っても制空権が返還されないことに怒りを覚えます。憲法が圧しつけであったかどうかについては見方が分かれますが制空権の剥奪は事実です。日米安保の問題があるからアメリカに強硬な申し入れができないのでしょうが戦後レジームからの脱却を本気で願うのなら、憲法よりもむしろ横田基地撤廃をまず第一にアメリカに迫るべきでしょう。

 

 安倍さんの暗殺に関しては朝日新聞の川柳が炎上しています。多くは引きませんがたとえば「疑惑あった人が国葬そんな国」のような安倍さんを批判した川柳が多く掲載されたことに反感を抱いた人たちが朝日新聞に抗議したのです。森・加計問題や「さくらを見る会」の私的利用など多くの疑惑を国民の少なからぬ人たちが追求していたと思うのですが暗殺されるや否や一切を無かったことにして国民総服喪になって8年以上に及んだ安倍政治の総括もされずマスコミこぞって「国葬」に無批判な報道をしています。しかし「国葬」に関する法的体系はまったくないのに行政府の代表にすぎない「総理大臣の一存」で国葬が決定されるというのはあまりに言論府であり立法府である「国会軽視」が過ぎるのではありませんか。

 朝日新聞の批判に多いのはマスコミは「不偏不党」で「公正中立」でなければならないという意見ですがそれはどうでしょうか。今のわが国の新聞は朝日と毎日は左(リベラル)、読売と産経は右(保守)とはっきりいろわけされているのではありませんか。大体安倍さん自身が「私の意見を詳しく知りたいなら読売新聞を読んで下さい」と宣言したのですから読売が政府寄りの新聞であることは厳然たる事実です。新聞に不偏不党を求めるのは筋違いです。

 

 今期の芥川賞と直木賞が女性作家に独占されたことが驚きをもって迎えられていますが近年の出版事情を少しでも知っている人なら当然と捉えているのではないでしょうか。私のように流行作品に目もむけないものでさえ新作小説で評価するのは殆どが女性作家のものです。古井由吉が亡くなってからは保坂和志くらいを偶に手に取るだけで圧倒的に女性の作品が面白い昨今なのです。ここ数年で男性作家の作品で面白かったのは松家仁之の『泡』だけと言っても過言ではないほど男性作家冬の時代なのです。

 ここ数年の私のベスト3は『八日目の蝉』角田光代、『夏物語』川上未映子、『姉の島』村田喜代子になります。男性作家の牙城ともいえる時代小説でも杉本苑子、澤田瞳子、朝井まかてなどの女性作家が目立っている有様です。

 なにがこうまで女性作家活躍を招来したかといえば、まず文章が上手いのです。私などの常識からいえば文章修行は作家の最低条件と思うのですがこれがそうでもないのです。粗製乱造の弊かテニオハすら十分に使えない、語彙が貧弱といった作家が少なくないのです。もうひとつ顕著なのが「問題意識の時代性あるいは緊迫性」が男性作家の作品に少ないのです。先に挙げた3作品は性の問題、生殖の問題、高齢社会の問題、カルト教団の問題、戦争について、など多様な問題についてしっかりと現実を踏まえて、実体験、実感にもとづきながら冷静に距離を置いて諧謔も交えて共感を呼ぶ表現に仕上げられた作品は「男性には到底書けない」内容に仕上がっているのです。

 

 今は「女性の時代」なのです。政治も企業もいつになっても男性中心、おっさんとじじいばかりが威張っているから日本経済は、社会は閉塞感がおおっているのではないでしょうか。成長が止まっているのもそのせいなのではないでしょうか。

 

 

 

2022年7月18日月曜日

妄想的ディストピア

  大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境に入ってきました。頼朝が死んでいよいよ尼将軍政子の登場、三谷幸喜がどのように描くか、興味津々です。

 頼朝以降の歴史は中央集権から地方分権への歴史と見ることができます。奈良・平安の律令国家は中央集権制で朝廷から派遣された官僚が地方を統治していましたが武士が出現して地方に割拠するようになり頼朝によって政治の中心が京都から鎌倉に移動、家康が「地方分権」を確立するのです。200余に分割された政治的経済的に独立した地方国家の集合体としての「日本」ができたのです。徳川氏も勿論天領以外に財政権はなく約700万石の大大名であったわけです。独立採算の各大名は収入増に努めざるを得ず新田開発、特産品の開発にしのぎを削りました。徳川時代250年の各大名の創意工夫の集積が「地方資産」となり、商品経済の発展にともなって幕府の相対的な優位性が失われ倒幕に至ったのです。

 明治政府は後進性を脱するために「富の集約」を早急に行う必要に迫られ「中央集権」を強烈に、短期集中して行いました。地方の疲弊は進行しましたが世界経済のフローバル化が今ほどでなかったので地方の特色は何とか維持されていました。ところが冷戦終結後「自由主義・資本主義」が唯一の世界の統治システムと考えられて一気にグロバリゼーションが進展し「東京一極集中」が加速、「地方疲弊」が顕著になって今日に至っています。

 

 そんなところに「コロナ禍」がおそい「東電の節電要請」という異常事態が出来したのです。コロナ禍は人口の集中している大都市を中心に感染が拡がり経済活動を停滞させました。人口の3割、大企業の集中度が70%を超える「東京」はコロナの襲来によって機能不全に陥り日本経済に甚大な損害を与えました。そして今回の「東電の節電要請」は東京への集中度が『キャパオーバー』していることを表したのです。我が国の電力は大手10社で過不足なく当該地域に供給できる体制をとっています。東電が電力ひっ迫に陥ったのは想定された以上に人口と産業が集中した結果です。

 コロナ禍と東電の節電要請は東京一極集中が「危険水域」を超えていることを『緊急警告』したのです。

 

 ここからは私の「妄想的ディストピア」です。東京一極集中に歯止めがかからず、地方の都市化も急速に進展して「限界集落」が全国に蔓延し「耕作放棄地」と「荒廃農地」が国土の3割を超えてしまいました。地方都市の相続放棄された土地を含めると国土の5割が危機的状況にあります。土地価格の2極化が進み都市の土地は急騰する一方で疲弊した地方の土地価格は急落します。下落した地方の土地に外国資本が群がり二束三文の価格で買占められていきます。気がつくとわが国国土の半分近くを外国資本が占めていました。日本人需要のない中山間地域のほとんどが外国資本が所有した結果「水源」は外国資本が権利保有し、山林も同様の状況だったので木材供給が外国資本に握られるようになります。農地の半分は外国資本が占めていましたから耕作者はアジアを中心とした外国人出稼ぎ労働者や日本人失業者が低賃金で従事するようになります。人口に占める外国人比率は地方の半分以上で50%を超えています。社会保障や選挙権が外国人にも付与せざるを得なくなり地方議会を中心に外国人議員の比率が三分の一を超えるようになりました。

 日本人としてのアイデンティティは失われ国民の貧富の格差は異常に拡大し国の「分断」は極限に達しています。

 

 私の妄想は絵空事でしょうか。いやそんなことはない、ひょっとしたら2050年ころにはそうなっているかもしれない、そう思った人が相当あるのではないでしょうか。国会議員の「人口比配分」で地方の議員数が年々減少して東京圏をはじめ都市圏選出議員が増加しつづけています。都市化の恩恵としての高収入と政治的発言権増大の両方を得ることを都市住民は当然と考えています。都市と地方の分断、これは今後想像以上に拡大するにちがいありません。

 

 我が国の歴史は地方分権と中央集権の繰り返しです。地方分権が最も進展したのが250年の徳川幕藩体制のときです。それからまだ150年ですがこの短期間で日本という国はその全貌を激変させました。その間に価値観が何度も転換して今日に至っています。

 このままでは国民のすべてが幸福になるとは思えません。参議院議員選挙は終わりましたが「国のかたち」が真剣に問われた選挙であったとはとても思えません、もう時間は残されていないのに……。

2022年7月11日月曜日

民主主義の原則を知らない国会議員

  マイナンバーカードの普及率で地方交付金減額。この記事に接したとき「日本はいつになったら中央支配が終わるのだろうか」と暗澹たる気分に襲われました。西欧先進国モデルやアメリカ方式をお手本に追い付け追い越せの時代は「中央先導方式」は有効でしたが「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とアメリカを中心に世界の国が日本を学ぶようになって以降はお手本が無くなり「先進国に学ぶ」我が国の成長システムが機能しなくなってしまったのです。それと同時に中央が描いた計画に地方が従っていくという「中央支配のシステム」にも矛盾が生じて効率性が著しく低下し、多様性の時代と相まって「地方創生」が叫ばれるようになったのがこの時期です。

 マイナンバー制度が定着しないのは制度自体が国民に信頼されていないからです。加えてKDDIの通信事故みみられるようにハード面に脆弱性があり、行政からの個人情報漏洩が後を絶たずデジタル化が中央地方とも非常に遅れている現状があります。こうした状況があるにもかかわらずマイナンバーカード普及の遅れの責任を地方に負わせて、制度の趣旨とまったく関係ない「地方交付金」制度で中央が地方を締め付けようというのですから「理不尽」極まるのです。お上意識がいまだに抜けきらず「地方は政府と中央のいうことをきいておればいいのだ」といわんばかりの振る舞いが絶えないのですから、「地方創生」はいつになっても実現できないにちがいありません。

 

 驚いたのは麻生自民党副総裁の「弱い子がいじめられる」発言です。強い奴はいじめられないのだ、と続くこの発言はウクライナ戦争を「牽強付会(けんきょうふかい…自分の都合のいいように強引に理屈をこじつけること)」して我が国の軍備増強を正当化しようとした発言なのでしょうが、この発言には見過ごせない問題が潜んでいます。まず麻生さんは戦争を「子どもの喧嘩」程度の軽いものと認識しているということです。あるいはお好きな劇画「ゴルゴ13」の描く世界情勢の「戦争」とみているのかもしれません。しかし実際の戦争は勝つ方も負ける方も「死者」が必ず出るのであって兵器の進歩した現在、核兵器で「敵基地攻撃」でもすれば一挙に何万人という死者、負傷者がでるのです。戦争や軍備増強は「子どの喧嘩」や「劇画のストーリー」になぞらられるような軽々しいものでないことを麻生さんは肝に銘じるべきです。

 

 自民党が一から政治を勉強し直さねばならないのが山際大臣の「野党の話は聞かない」発言です。青森での選挙の応援演説でなんとか自陣営の候補者を有利に導こうとして、「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と放言してしまったのです。当然批判が噴出して官房長官の説諭を受け、誤解を招いたとして謝罪はしましたが発言撤回はしていません。ということは選挙違反になるかもしれないから、投票を迷っている無党派層の反感をおそれて、一応謝罪して反感を和らげようとしたのでしょうが、自身は発言が「民主主義の原則」に反対する発言であるとは考えていないのでしょう。そして彼が発言撤回しないのを許している自民党の議員の皆さん全部がそうなのだということを意味しているのです。

 二大政党制を前提とした小選挙区比例代表並立制が導入されてから僅かな得票率の差が獲得議席数のアンバランスな配分となって現れるようになり「勝った方の独り勝ち」な議席数となって勝った方の独善的な政治運営が行われる傾向が強くなってきました。そこへ「内閣人事局制度」が設置されて内閣の官僚支配が顕著になって政治状況が一変、「自民党一強独裁」になったのです。55年体制には欠点もあり批判もされましたが、反対党の少数意見にも配慮が行われ政権党の意見――多数意見だけでなく少数意見も政策に反映されました。民主主義は今より正常に機能したのです。ところが小選挙区制は勝った方――政権党の意見だけが政治に反映される傾向が強くなり、強者の意見――企業や富裕層、高齢者の意見ばかりが政策に反映されるようになったのです。

 しかし民主主義の要諦は「多数決制度」の欠陥である反対意見――少数意見を切り捨てずに広く取り込んで国民の『分断』を防ぐことにあります。それによって独裁者の偏狭で恣意的な政治に優る多様性に富んだ遍く国民を幸福に導く「民主主義の優位性」を保証することができ政治的安定性につながるのです。

 先の衆議院議員選挙で自民党は得票率48%、投票率53%を考慮すると僅かに25%の国民の支持しか得ていないのです。一人の暴君が支配する独裁制ではありませんが25%の支持層の支援を確実にする選挙至上主義に徹して、25%の支持層の意見を重視した政策に偏重した政治運営を行っています。その結果、アベノミクスの強引な推進にもかかわらず成長力は衰え賃金は伸びず財政規律は緩む一方で、とうとう円安、株安、資源高という最悪の経済情勢に至ったのです。

 

 少数意見――といっても国民の75%の意見ですから多様です。女性の意見、LGBTの意見、伝統的家制度に反対する意見(たとえば夫婦別姓だったり専業主婦で親子4人のモデル家族像からはみ出た人たちなど)、東京一極集中に反対する地方の意見(人口比議員配分制度で国会議員を選べなくなった)などなど現在の自民党政権では無視されつづけている国民層の意見です。「失われた30年」は国民の25%の自民党支持層の意見を偏重し、75%の「少数意見」を無視した結果といっても決して間違っていないのです。

 野党の意見を聞かないという山際大臣の考え方は、民主主義の原則――多数決制度の運用は少数意見を無視しない、少数意見をくみ上げて国民を『分断』しないように配慮する――をまったく無視しているのです。そして山際大臣に発言撤回させないで済ましている自民党の人たちも民主主義の原則に背いているのです。

 

 参議院議員選挙が「国のかたち」を問う本質に根ざした選挙であったか、民主主義の原則に則った選挙であったか。大いに疑問を感じる選挙だったのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

2022年7月4日月曜日

歴史はくりかえす

  何とも陳腐で手垢にまみれたタイトルですが昨今の世界情勢を見ているとそうとしか表現できないではありませんか。NATOに日米韓首脳会談、日米豪印のクアッド(QUAD)、IPEF(インド太平洋経済枠組み)等々中国とロシアを仮想敵国と見たブロック経済協定や安全保障同盟が次から次と林立する情勢はまるで第二次世界大戦前の我が国――日本を取り巻くABCD包囲網(米英蘭中等)をはじめとした日本締め出し先進国同盟と二重写しになるではありませんか。

 明治維新以来不平等条約改正を志向した「富国強兵」策は着々と実効を上げ、日清・日ロ戦争に勝利を収めてアジアで初めての「一等国」に昇りつめました。圧倒的優位を誇っていた間は手を差し伸べていた欧米先進国は「追い付け追い越せ」の和魂洋才で驚異的な成長を遂げた日本に脅威を感じると、一変「既得権益」保持に切り替え日本排斥に転じたのです。産業革命で東西の均衡を破った西欧諸国は以降帝国主義、植民地主義で世界の資源と市場を独占したため、後発の日本はガッチリと固められた先進国の既得権益地図を破ることはできませんでした。やむなく我が国は朝鮮併合、台湾統治、満州国建設と武力による植民地進出で資源と市場の確保に出ざるを得なくなったのです。この情勢は今ロシアがウクライナへ軍事進出している姿とまるで同じではないですか。当時わが国は「大東亜共栄圏の創設」という美名を掲げていました。今プーチンは「レコンキスタ(失地回復)」を『正義の回復』として侵略を正当化しています。それは帝政ロシア時代の版図か社会主義時代のソビエト連邦を意味しているのか理解できませんが。

 

 ただここで我々が注意しなければならないのは今回のプーチンの狂気にBRICSなどの後発・後進国や小国が理解を示していることです。そこにABCD包囲網で既得権益圏への「割り込み」を封じられた我が国と同じ構図が見えるのです。

 

 ロシアや中国の最近の動向を安定した「世界秩序」の破壊行為とする見方が我々の間に定着しています。しかし「安定した」というのは誰のための安定なのでしょうか。BRICSや世界の低開発国・小国からすれば日本を含む「先進国クラブ」にとっての「安定」とみえるのではないでしょうか。後発・後進国にとってはかって我が国が感じたように「岩盤既得権益」が「安定した世界秩序」となっているにちがいありません。

 2021年の世界のGDPに占めるG7の割合は約44%になっています。これにEU(加盟28ヶ国)の英・仏・独・伊以外の国を加えると約50%にも達しているのです。世界の国・地域は190ヶ国以上ありますから僅か30の国が世界の資源の半分を独占しているのですから、これを「安定した世界秩序」といわれたのではそこに含まれていない「それ以外の国」にとっては『不条理』と捉えても不思議はありません。「それ以外の国」――はアジア、アフリカ、中近東、南米の国々でそれらの多くは欧米先進国の植民地として長く占領・搾取されていた国々です。

 それらの国々は戦後解放され「国民国家」として独立した『未成熟』な国です。政治的にも経済的にも先進諸国とは到底比較になりません。にもかかわらず『自由で平等な』「市場競争」を強いられるのです。国際的な大資本に地方の零細企業が太刀打ちできるはずもありません。大資本の傘下に収められて「安価な労働力」と「資源」の供給国とならざるを得ず、やがてそこに厖大な人口を抱えた「需要国」として「市場」に組み入れられていくのです。

 これが「安定した世界秩序」の実態です。

 BRICSをはじめとした後進国の1人当りGDPはほとんどが「1万ドル」前後です。いわゆる「中所得国の罠」に陥って先進国並みの「豊かな国――2万ドル以上」になるために喘いでいるのです。しかし「自由で平等な」市場競争で世界経済が運営されている間は決して「先進国クラブ」の壁を破ることができないでしょう。

 BRICSの首脳はこうした世界経済の矛盾に気づいています。だからプーチンの狂気に一方的な「批判」を加えることに躊躇するのです。ところがSNSの普及は世界のすみずみまで「豊かな国」のすがたを伝えます。「豊かさ」が「幸福の指標」だという考え方を『標準化』してしまいます。

 

 最大の脅威は「インド」です。2030年には中国を抜いて世界一の人口を抱える国に成長します。インドの1人当りGDPは2200ドルにも達していません。15億人の人口を1万ドルにするだけでも厖大な資源が必要です。そのためには今「先進国クラブ」が独占している資源配分の相当部分をインドに「配分換え」しないとインドの経済成長を実現することはできないのです。今のままの「自由で平等」な市場競争に資源配分を委ねている限りはそれは不可能でしょう。

 プーチンの狂気は決して許されるものではありません。しかし世界の経済秩序が「自由で平等な市場競争」で保たれる限りは、第二第三のプーチンが出現しないという保証はないのです。

 

 我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。これはヘーゲルのことばです。プーチンの狂気を戦前の日本の姿と重ね合わすことができないでいる我々はへーゲルの箴言をなぞっていることにならないでしょうか。そして「経済成長」が永遠につづくことを前提とした、「成長」を「幸福の指標」とする神話にもソロソロ疑問を感じる冷静さを持つべき時期になっているのではないでしょうか。

 

 参院選の空疎なバラマキ論戦を見ていてこんな感慨を抱きました。