2018年1月29日月曜日

羽生さんはすごい!

 将棋ソフトに名人が負けた!とマスコミが囃し立てたことがあった。このことをインタビューされた永世七冠羽生さんはこう答えた。「ソフトは凄いと思います。思いがけない妙手を繰り出すこともあります。でも、そのうちのいくつかは我々も考えつく『手』なのですが、『美しくない』から敢えて『指さない』手も含まれています(そのままではないがおおよそこんな風に答えていた)」。すごい!羽生さんは凄い!そう感じた。われわれレベルでは考えも及ばない境地だが、羽生さんや佐藤名人クラスになれば、いやプロ棋士の一定ランク以上の人たちには分かりあえる言葉なのだろう。人間とAIの間には案外こんなところに本質的な『差異』があるのかもしれない。愛とか、思いやりとか……。
 問題になっている白鵬の「取り口」についても同じようなことが言えるのではないか。昔千代の山という名横綱がいたが彼の得意技は「突っ張り」であったし時には「張り手」にもなった。しかし千代の山に対して批判めいた誹謗中傷を行う人はいなかった。では白鵬の「張り手」「エルボー」との根本的な「差」はどこにあるのか。羽生さんの言に従えば白鵬の取り口には『美しさ』がないということか。「品格」などという曖昧なことばで横綱や大相撲を飾り立てようとする向きがあるが、そうではなくて、たとえ「プロスポーツ」であっても『強さ』以外に『美しさ』が求められるところに「大相撲」の特殊性がるのではないか。プロレスや総合格闘技など強さを競うプロスポーツはいろいろあるが、それらと大相撲が一線を画しているのは様式美と言っても良い『美しさ』にあって髷を結い、廻しを着ける装いがそれを如実に表しているように思う。普段着のトレパン、トレシャツが戒めるられるのも様式美が損なわれるからであり、機能より美しさが優先されてこその『大相撲』なのである。
 
 美しくない、といえば「小室哲哉、不倫!」と騒ぎ立てる「文春砲」も醜悪だ。芥川賞だ直木賞だと我国文学興隆の先導役を演じながら、一方で「ゴシップジャーナル」で底なしの『醜聞』を書き立てて「利益追求」にはしる「文藝春秋社」とは一体何ものなのだろうか。そもそも「文学」を存立の基盤とする出版社が『不倫』などという誤用に近い「漢語」を臆面もなく雑誌の表紙に用いるなど愚行以外の何物でもない。
 ところで「小室騒動」だが、さすがのテレビのワイドショーも芸人らの浮気騒動と同一に報じることには二の足を踏んだか、一方的な「ゲス不倫」扱いにはためらいがあって「この報道で誰一人幸せにならない」と否定的なコメントさえ出ていた。文春批判でネットが炎上したりコンビニが文春不売宣言したりとこれまでの不倫報道とは様相を異にしている。
 そもそも芸人らの「情痴」騒動はセックスを「刹那の快楽」として「消費」しているにすぎない。消費を「つまみ食い」と言い換えても良い。それが証拠に報道されるとスグに「お詫び」して「交際終了」を宣言している。本気の「性関係」なら騒動になってもおいそれと関係を解消できるはずもない。
 小室氏の女性との「関係」は「刹那の快楽」ではなく複雑で重層的な関係であったようで、結局「引退」という選択に至った。過酷な結末になったが彼のこれからはもっと「苛烈」かもしれないし、「豊穣な人生」になる道も残されている。まだ62歳だ、彼の「可能性」に期待したい。
 
 もっと美しくないものがある。
 「ABCD包囲網」を知っている人は多いと思う。1930年代後半(昭和10年頃)に日本に対して行われた貿易制限のことで、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)頭文字を取ってそう名づけた。日本が第二次世界大戦に突入した大きな原因がこの貿易制限にあることはまちがいない。貿易制限は「経済制裁」と言い換えても良い。時代劇的な用語を用いれば「兵糧攻め」である。「兵糧攻め」は戦(いくさ)である。
 北朝鮮問題の解決策のひとつとして我国は「経済制裁」の強力な推進を「トランプ・アメリカ」と歩調を合わせて世界を先導している。80年前、ABCD各国の主導によって我国に対して行われた「貿易制限=経済制裁」を今、我国は北朝鮮に行っている。
 制裁の強化は加速するばかりで、とうとう北朝鮮船舶に対する臨検を実力行使する段階にまで至っている。公海上を航行する北朝鮮船籍を、実力を持って拿捕し、積荷を検査して「協定違反品」があれば没収も行える。こんなことを行う権利をアメリカは何故持っているのか。
 「経済制裁」という言葉から、「兵糧攻め」を連想し、「ABCD包囲網」を想起した。これはまちがいなのだろうか。
 
 こんなことを言えば、北朝鮮が「核拡散防止条約」に違反して「核兵器を不法所持」しているから世界が団結して北朝鮮を制裁し「核兵器放棄」を促すのだ、と反論されるに違いない。しかし何故、アメリカ、イギリス、ロシア、中国、フランスには核保有が認められるのだろうか。第二次世界大戦の戦勝国で条約締結時既に核兵器を保有していたからという理屈が持ち出されるであろうが、そもそも「核拡散防止条約」は『核軍縮』を大目標として締結されたものだ。締結されてから50年(1970年から)経っているのにこれまで保有国が「核兵器廃棄」を真摯に実行してきたとはとても言えない。あまつさえ、アメリカのトランプは北朝鮮に「核兵器攻撃」で脅しさえかけている。
 
 これを「美しくない」と言わずしてなんとしよう。
 80年前の我国が狂気に走ったように北朝鮮が走らないと誰が言えようか!
 
 

2018年1月22日月曜日

ユートピア?ディストピア?

 昨年、ある意味で最も衝撃的だったのは「3メガバンク、3万3千人の人員削減!」という報道だった。AIなどの活用によって人員や業務のスリム化を図るというもので、「仕事が消える!」と騒がれた『2045年問題』が現実感をもって迫ってくるニュースだった。具体的にはみずほフィナンシャルグループ(FG)が今後10年で1万9000人三菱東京UFJ銀行が約9500人、三井住友FGは約4000人を想定しており、例えばみずほFGは、国内外の従業員数を現在の約6万人から約4万人にまで削減する方向だが、その「削減分」は窓口業務のデジタル化や、AIを活用して穴埋めしていくとされている。
 2014年にイギリスのデトロイト社が「今あるイギリスの仕事の内35%が今後20年でロボットに置き換えられる可能性がある」という衝撃的な発表を行い、その後オックスフォード大学の研究でも、「今後10年~20年ほどでアメリカの702の職業のうちおよそ半分が無くなる可能性がある」と報告された。我国では2014年に経産省が「AIやロボットなどの技術革新によって、何もしなければ2030年度には国内雇用が735万人減る」との試算を発表しているが、これは労働力人口の約1割に相当する。
 かって我国は製造現場でロボットを効率的に活用して生産性を飛躍的に向上させ「ものづくり革命」と誇ったが、その時期、「ロボットが製造現場から仕事を奪う」とブルーカラーの危機が叫ばれた。今回の第四次産業革命ではAIやIoT、ビッグデータ、ロボットによってホワイトカラーの仕事が奪われると囃し立てられている。これに対して識者の多くは「ロボットのできる仕事はロボットに任せて、人間は人間にしか出来ない仕事にシフトしていかなければならない」などという無責任な発言を臆面もなく言いつのるばかりだ。
 
 ロボットやAIによって具体的に仕事や職場がどのように変わっていくかを予想することはそんなに簡単なことではないが、メガバンクが表立って数字を示して、10年という区切りで、30%以上の人員削減ができると表明したことは重大な事実である。そしてこれまでの傾向から、役所や銀行などの大企業での変化は数年の時間のズレはあっても我国のほとんどの場所で現実となってきているという歴史がある。こうした事情を重ね合わせると、「2045年問題」は相当な緊張感を持って取り組まなければならない問題だということが分かってくる。
 注意すべきは仕事がどう変わるかというような技術的な側面ではなく、もしそうなったら「社会」はどう変わるか?どう変わらねばならないか?という視点でこの問題に対処すべきだということだ。
 
 いまの社会は、「人は職業について、所得を得て、生活する」というシステムになっている。幸い我国では失業率が世界最小の3%台で推移していることもあってこのシステムは良好な状態で運用されている。膨大な財政赤字を抱えてはいるが企業と市民からの税収と借金で政府も何とか機能している。しかし、もし2045年問題」がこのまま現実となって「失業率30%」を超えるようなことがあれば、このシステムが『破綻』することは火を見るよりも明らかだ。
 一方でここ数年、「人手不足」が深刻化して「省力化」「生産性の向上」を今まで以上に図らなければ企業の存続が危ぶまれる情勢に到っている。ひとつの仕事に要する人員数が減少するとともに仕事自体も必要でなくなる可能性はいよいよ現実化している。同時進行で「高齢化」は加速して2042年に65歳以上が3900万人近くなってピークを迎え、更に高齢化率は2060年には40%にまで達すると予測されている。労働力人口の減少と「無職者数」の増加は歴史的必然として覚悟しなければならない。
 
 ほうっておけばまちがいなく、仕事は減るし、労働力人口も減る。
 問題は、乱暴な言い方だが、四千万人の労働力人口(20176500万人の4割減)で、五百兆円のGDP(現在の我国のGDP)を生産できるかということだ。もし可能ならば、仕事が減っても労働力人口が減って無職者が増えても、今程度の生活を全人口に保障することができるということになる。
 
 楽観的かもしれないが、決して不可能ではない、と、思う。
 ただ、「人は職業について、所得を得て、生活する」という価値観の大転換をしなければならない。そうでないと、「負担と受益の均衡」「弱者切捨て」を標榜する「新自由主義者」の呪詛が大合唱となるに違いないから。
 限られた有能な職業人と政治家が、AIやロボットを最大限に活用して資源を最適利用し、国民すべての福祉を実現するに足る成果をもたらす社会を経営する。仕事(社会的な富を生み出す)は選ばれた人たちの特権であって、無職の普通人は仕事以外の「社会的つながり」で社会の構成員となり「生きがい」をもって生活していく。こんな社会が実現できれば、ひとりの老人をひとりの若者が支える「不平等な社会」を心配することもなくなる。
 
 仕事がなくなって、労働力人口が減って無職者が増える。このことを前提にしないと、20年後30年後の社会は考えられない。にもかかわらず、生産性はAIやロボットの活用によって飛躍的に向上する。これも相当な確率で実現されそうだし実現しなければ日本は成立っていかなくなる。
 これだけの条件をクリアするためには、「人は職業について、所得を得て、生活する」という価値観からパラダイムシフトしなければならないことは確かなようだが、それを実現するための道すじは「未知の領域」だ。
 しかし次の時代を予感させる「考え方」はすでにいくつも現われている。
 例えば『ベーシックインカム』や『ワークシェアリング』ということばが喧しく言い立てられたことがあったが、当時は新し物好きの軽薄な学者やマスコミ人の「言葉遊び」にすぎなかった、しかし20年後までには、必ず必要になる。ベーシックインカムが国民すべてに支給されねばならなくなるであろうし、少ない仕事を多くの人が希望すれば必然的に「ワークシェア」することになる。今ほど潤沢な所得は慎しまなければならないから『シェア経済』も当り前になるにちがいない。
  
 20年後の社会をユートピアにするかディストピアにするかは、「今既に起っている変化」をしっかり認識し、それを確実に取り入れて、想像力を活かした社会を「創造」するかどうかにかかっている。
 
 

2018年1月15日月曜日

寝正月

 久し振りに寝正月を決め込んだ。朝酒してソファでゴロ寝、テレビを横目に軟らか目の本を数冊パラパラ見。そんななかに『どどいつ入門(中道風迅洞著徳間書店刊)』があった。
 「都々逸」は七七七五の二十六字句(歌)で、日本独特の短詩形のひとつである。川柳に似た軟文系で川柳よりエロっぽいものがよく知られている。少し前までは寄席でも「都々逸漫談」が演られていて相当際どい「おとな」向けの都々逸がうけていたが、客層が変わって廃れてしまったようだ。
 
 程よく老いたが残り火消えず かき立てるには荷が重く(木村ひさ子)
 この現代都々逸が気に入ったのは自身がその年ごろにあるから身につまされたのだろう。老いから遠い時代に抱いていたイメージでは、この年代―七十代にも至っておれば「枯れて」いて、生臭い欲望はとっくに消えているはずなのだが、とてもその境地にはほど遠い我が身が愧ずかしくもあり、情けなくもある。物欲も金欲も色欲も、残り火どころか火勢は一向に衰える気配もなく、俳人金子兜太のいう「性欲はあっても性力がない」老身を嘆くばかりである。
 
 たとえ姑が 鬼でも蛇でも ぬしを育てた 親じゃもの
 ぐちも言うまい りん気もせまい 人の好く人 もつ果報
 けんかしたとき この子をごらん 仲のよいとき 出来た子だ
 夫婦の機微を突いた句。嫁姑問題はいつの時代にもあったものなのだろう、好きで一緒になった夫を生んでくれた人と思えば気も静まろう、浮気っぽい夫だがそれだけ持てていると思えば納得もいく、憎たらしい顔を見るのもイヤな夫、この子ができた頃はあんなに好きだったのに。昔の人は煮えたぎる気持ちの「おさめ方」が上手だったようだ。
 花も紅葉も 散ってののちに 松のみさおが よく知れる
 弱いようでも 心の意気地 石さえもたげる 霜ばしら
 こぼれ松葉を あれ見やしゃんせ 枯れて落ちても 二人連れ
 雪の化粧は さらりとやめて 素肌じまんの 夏の富士
 最近余り使われなくなった言葉に「心意気」がある。すっぱりとしていさぎよい心だてをあらわす言葉だがいいことばだし、もっと大事にしたい「心情」だと思う。冬枯れの野に常緑を際立たせた松の木の清々しさを昔の人は好んだようだ。その松の木からこぼれ落ちた松葉を見れば二葉が対になっている、愛しさが胸をうつ。
 枕出せとは つれない言葉 そばにある膝 しりながら
 よその夢見る 浮気な主に 貸してくやしい 膝まくら
 すねてかたよる 蒲団のはずれ 惚れた方から 機嫌とる
 重いからだを 身にひきうけて 抜くに抜かれぬ 腕まくら
 からかさの 骨の数ほど男はあれど ひろげてさせるは 主ひとり
 都々逸らしい色っぽい句。戦後しばらく「女郎屋」と呼ばれる売春街があった。また「妾(めかけ)」として妻以外に情人をもつ男も少なくなかった。そうした色街の女性や囲われ女の気持ちを句にした都々逸こそどどいつの真髄と言っていいかもしれない。晩婚非婚が珍しくなくなった現代、なにもかもさらけ出した男女の交わりでさえ辟易するのにそれを写真や動画にとってSNSでネットにアップして平気な今どきの若者には実感はないかもしれないが、こうした情感こそ我国の「性文学」の本領だろう。それを「隠微」と言ってしまえばそれまでだが。
 私しゃ春雨 主しゃ野の花よ 濡れるたびごと 色を増す
 風が戸叩きゃ うつつで開けて 月に恥ずかし 我が姿
 ぬしとわたしは 玉子の仲よ わたしゃ白味で きみを抱く
 赤い顔して お酒をのんで 今朝の勘定で 青くなる
 色が黒うて 惚れ手がなけりゃ 山の鴉は 後家ばかり
 色気の中に滑稽味をただよわせる技術も都々逸の得意技だ。フランス小咄や艶笑喜劇に通じる領域だが、「バツ一」などと表現する現代日本人には最も不得意な分野になってしまった。
 
 英語が小学校から必修科目になる昨今。グローバル化には危機感を抱くが「文化の断絶」には無頓着な風潮にむしろ危機感を覚える。          

2018年1月8日月曜日

日馬富士問題の深層 (続)

 二つ目は「力士の給料と雇用関係」についてである。
 数日前、テレビのコメンテーターが「横綱の給料って安すぎませんか?」と言っているのを聞いて唖然とした。確かに横綱の月給282万円というのは安いが収入は給料だけでなく、ボーナス(年間二か月分)、本場所手当や報奨金などがあり懸賞金も少なくないから実質年収は5000万円を下らない。しかし問題は別の所にある。所謂「タニマチ」といわれる「ご贔屓」からの祝儀がバカにならない金額なのだ。年6場所の本場所と年間80ケ所前後の地方巡業が編成されているが、地方巡業のほとんどの日に地元有力者の接待を受けている(こうした活動も大相撲の大きな仕事の一つになっている)。タニマチは少なくとも70万円から100万円程度の出費は覚悟しなければならないから関取の実入りは50万円は下らないだろう。年間にすれば相当な金額になることは確かだ。勿論本場所でもこうした交際は日常化しているから関取の収入は表向きの給料の何倍(5倍近く)もあるのではないか。関取に限らず「部屋」にもタニマチはついていて「後援会」を通じて「部屋贔屓」しており「部屋経営」の大きな柱になっている。(部屋経営は力士数に応じて協会から支給される補助金と後援会からの資金援助そして親方の個人マネーで成立っている)。
 大相撲の歴史からも明らかなように相撲は「パトロン・スポーツ」の性格が強い興行形態を長く行ってきた。協会という形に統合されて「財団法人日本相撲協会」が設立された1925年になってようやく現在に近い体制が整い、2014年に公益財団法人として承認されて今日に至っている。今でも「興行」という形態を保っている大相撲は、一般の企業経営のように財務活動のすべてが『透明化』されているわけではなく、表立って公表されている財務指標は現実の半分にも満たないかもしれない。
 貴乃花が改革しようとしている最大の眼目は「大相撲財務の統合と透明化」にある。実際彼は後援会制度(メンバーズクラブ)をオ-プンにして①スペシャルサポーターズ年会費10万円②アシストメンバー年会費2万円③キッズクラブ年会費3千円の三種類を公募している。
 
 給料問題のもう一つは「力士の雇用関係」についての視点である。給料の支払い対象は十両からで、十両は月額約100万円、平幕約130万円、三役170万円、大関約234万円、横綱約282万円となっている。幕下以下には基本的に給料は支払われず、場所手当と成績に応じた奨励金が支給されて幕下で年収約100万円、最下位の序ノ口でも年収約40万円ほどは保証されている(引退に伴う退職金―養老金と呼ばれている―も幕下以下には支払われない)。給料が雇用関係に基づいて支払われるものだとすれば、幕下以下と「部屋」或いは「相撲協会」とはどういう関係になるのだろうか。そもそも力士と部屋或いは相撲協会との関係は雇用関係として認識されているのだろうか。給料が協会から支給されるのであれば、力士は協会との雇用関係は成立しているのか、その場合、部屋との関係はどうなるのだろうか。
 丁稚奉公が普通であった昭和初期までは別にして、戦後は労働法規が整備されてどんな小企業であっても雇用主と被雇用者という雇用関係が成立するようになっている。大相撲協会も「公益財団法人」として認定されるようになった現在、弟子と部屋或いは相撲協会との雇用関係を明確にすることは必須の条件であろう。
 貴乃花は改革に「雇用問題」も考えに入れているのだろうか。
 
 最後に「力士のセカンドキャリアと年寄り制度」について考えて見たい。
 現在力士は約700人在席しており、内十両以上の関取は70人前後である。年寄りは約100人で部屋数は45ある。大雑把に言って親方100人、力士700人、行司などの協会関係者を200人と見積もっても約1000人で年間約100億円(平成28年の経常収益は約94億円)の売上を上げている組織として日本相撲協会はある。相撲社会は先の給料問題の件でみたように厳しい格差社会で100人足らずの関取というエリートとそれ以外の600人の下積み力士、それと年寄りというセカンダキャリアのエリートで構成されている。退職金は養老金という名目で、横綱で1500万円の基本額と50万円の在席場所数に応じた加算金が支給されるようになっている。階級によって基本額、加算金に格差があって横綱で1億円前後、十両平幕だと3千万円程度の退職金になる。しかし関取になれなかった力士には10万円から30万円足らずの「餞別」が支払われるだけである。相撲協会を従業員1000人売上高100億円規模の中堅企業と見た場合、余りにも従業員の福利厚生が劣悪すぎる。金銭的な待遇だけでなく引退後のセカンドキャリア支援もほとんど顧みられていない。こんな劣悪な従業員(力士)待遇では今の、日本の若い人が魅力を感じるはずがない。また裾野の狭いことも与って日本人入門者が減り、畢竟モンゴル(外人)力士全盛の時代となったのである。
 貴乃花の焦りにも似た「改革」熱望志向にこうした背景があるのが手に取るように分かる。
 
 更に力士の劣悪な処遇に反して100人近いの年寄り(親方)の「厚遇」がある。部屋持ちの親方の平均年収は約2000万円、平の年寄りでも1500万円近い年収があり、しかも力士と違ってある意味で生涯保障になっている(力士の引退年齢は長くて35歳前後である)。この年寄株が高額で取引されている状況を改革するために年寄名跡売買禁止が検討されたが1998年に成立した年寄名跡の新制度は形骸化している。関取クラスのセカンドキャリアとして年寄り的な制度の必要性は認められるが現状のまま、一般力士の犠牲の上に成立っている現制度の改革は急務である。
 
 以上が日馬富士問題についての私の考えである。最後にマスコミも一般ファンも疑問に思っている「貴乃花は何故『だんまり』を決め込んでいるのか?」についての推論を述べてみたい。
 今回の事件の真の『首謀者(?)』が白鵬と石浦氏であることは相撲協会関係者暗黙の事実なのではないか。しかしそれを誰も明言できない協会の『隠蔽体質』に貴乃花はある種の「諦念」を抱いている。もしそれを明らかにしたら、現在の「大相撲体制」が根底から崩れ去ることは明らかだから、根本的な改革に踏み切る『覚悟』と『将来図』が関係者間で共有されていなければならない。そこに至るにはまだ、相当な「準備期間」が必要なことを貴乃花は理解している。そこに彼のジレンマがある、だから沈黙せざるを得ない。
 
 「大相撲改革」は大事業である。伝統を継承しながら時代に適応した組織に変革することは大難事業である。しかしそれを、時間稼ぎの弥縫策でしのいできたツケが「モンゴル相撲全盛」という形の報いを受けることになってしまった。モンゴル力士の存在を否定するのではない、ただ、今のような「歪(いびつ)」なかたちでは結局今回のような見苦しい権力闘争紛いの醜態を晒すことになってしまうのである。
 日本の子どもたちが魅力を感じる「大相撲」に変えることが「伝統の継承」につながることを認識して「既得権」を『打破』するところからスタートしなければ、「大相撲」を魅力ある『プロスポーツ』に変革することは不可能である。
 
 周到で粘り強い貴乃花の「大相撲改革」に期待したい。