2021年5月31日月曜日

ダイバーシティの受け入れ方

  キリスト教の考え方――信仰に「神の似像」というのがあります。人間は「神の像」と言われて、他の被造物とは異なり、神に似せて創造された特別な存在だという考え方です。神が世界を創造するとき、全知全能の存在である自らを一つや二つの被造物を創造したくらいでは表現しきれないので、様々の動物もあれば天体もあるというように、実に多様なものから構成したのです。多数の多様な被造物を作り出し、そのすべての被造物が総体として織りなす世界ができることによって、はじめて全知全能の神が世界となって現れるのです。そうした被造物のなかで人間は、他の被造物とは異なり、神に似せて創造された特別な存在だと考えられたのですが、それが「われわれ(神)にかたどり、われわれ(神)に似せて人を造ろう」という神の言葉となって聖書の創世記の中に出てくるのです。すなわち、人間は神と同様に、知的な存在であり、自由意思を有し、自分の在り方を自分で決めていくことができる主体的な存在として創られたのです。キリスト教ではこうした特別な存在とし人間が造られたことによって、その能力を十全に活用して、自らの有する善を他の被造物にも分かち与える、すなわち自然界がうまく機能するように適切に管理していくことができる、そういう発想が聖書の人間観の根底にあるのです。(山本芳久著『世界は善に満ちている』を参考にしています

 

 最近ダイバーシティ(diversity)――多様性ということがよく言われます。LGBT(性的少数者――「レズビアン(女性同性愛者)」「ゲイ(男性同性愛者)」「バイセクシュアル(両性愛者)」「トランスジェンダー(性別違和)」)もその一つですし、性別や人種や民族、健常者・障碍者は多様性の大きな範疇です。学歴も出自、所得の多寡なども多様性ですし「部落」はわが国の歴史的な多様性と考えてもいいでしょう。こうした多様性を受け入れ、活用することで生産性や社会的厚生が向上するという考え方がグローバル化した社会の在り方として認められつつあります。しかし頭では分かっているのですが「実感」として「皮膚感覚」として受け入れるには少なからぬ抵抗感があるというのが偽らざるところでした。それが「神の似像」という考え方を知った時胸にストンと落ちたのです。

 わたしたちはややもすれば「ふつう」という尺度で判断しがちです。そこから人種、民族、健康などで黒人や韓国人、中国人、障碍者などの差別をしてしまいます。大卒であるかどうか、部落出身者でないか、お金持ちかなどで排除することも知らず知らずのうちに仕出かしています。しかし実は、こうしたあらゆる存在はすべて「神の分身」として創造されたのですからどれか一つ欠けても「完全な世界」にはならないのです。レズもゲイも男女の性交者と同列に「あるべきかたち」として存在しているのです、これまでのように「レズ」「ゲイ」も認めるというのではないのです。あらゆる存在がみなそろって「完全」になるのです。戦争のない――平和で人類がそろって健康で幸せな生活の営める世界が出現するのです。

 人類だけでは「完全」な世界――地球にはなりません。生物の多様性、天体としての地球の、環境が保全されなくては地球の完全性は維持できないのです。

 

 人間は「神と同様に、知的な存在であり、自由意思を有し、自分の在り方を自分で決めていくことができる主体的な存在」として創られたのですから、その能力を十全に活用して、自然界がうまく機能するように適切に管理していくことができる、はずなのです。

 実際、人間は長い人類史の過程を経て、今が最も「発展」し「成長」した段階に達しているはずなのに、一歩まちがって核戦争のボタンが押されたり温暖化が加速度的に悪化したりしたら、人類は絶滅してしまう、そんな「危機」に瀕しているのをどう説明すればいいのでしょうか。

 人類を絶滅の危機に追い込んでいるのは、キリスト教を信仰しているアメリカ人であったり、イギリス人、フランス人、ロシア人などの先進諸国(日本も含まれています)であるのは何故でしょうか。大統領就任式の宣誓に聖書に手を置くのは信仰に恥じない行いを誓うのではないのですか。

 

 人間は歴史と共に「進歩」「発展」するものと信じてきました。科学の発達がその実現を加速してくれると願ってきました。しかしそれと歩調を合わすように「信仰」や「倫理」を「生きる価値」から排除してしまいました、いや「見えないもの」にしてしまったのです。

 「進歩」や「成長」はそれほど良いものでしょうか。結局それは「便利」しかもたらさなかったように思うのですが。

2021年5月24日月曜日

コンビの怪

  二階と甘利、高須と河村、安倍と岸、このコンビがどんな関係なのかは皆さん先刻ご承知でしょう。いずれも自民党(保守系)がらみの不祥事の当事者と目されている人たちで二階、甘利は河合案里氏選挙違反事件の自民党本部から支給された1億5千万円の選挙資金の出納をめぐる責任なすり合いのふたり。高須、河村は愛知県知事大村氏リコール事件署名偽造容疑の責任なすり合いの当事者。安倍、岸は政府主導ワクチン大規模接種予約システム不良に関する見当はずれのマスコミ批判を行なったふたりです。

 

 河合夫妻による選挙違反事件は投票依頼に使用された巨額買収資金の出所についていまだに真相究明されていません。買収に使用された資金総額は2千9百万円、買収対象者は地元議員やスタッフ合計100人に上っていますがその資金がどこから出たかについては不明です。問題は自民党から支給された通常の10倍の1億5千万円という高額な資金がどんな性格のもので誰が支給を決定したかという点です。資金には「政党交付金」という税金が含まれていてその税金が買収という違法な使われ方をしたのですから自民党の政党責任は問われて当然です。1回の選挙の2年ほどの間に1億5千万円という巨額を支給されれば「どんな手段を使ってでも当選しろ」という強迫観念に襲われるのは至極当然で、結果最も古典的で確実と思われる「買収」に手を染めたのもこれまた当然の成り行きです。とすると今回の選挙違反事件は自民党の「強迫」という側面も否めませんから河合夫妻をそこまで追い込んだ自民党の誰が主たる責任者だったのかは追求されなければなりません。普通に考えれば党務の総括責任者である幹事長だろうと想像されますし、自民党参議院議員選挙対策本部長も少なからず関与していても不思議はありません。ところがこのふたりが二人ともその責任を否定しているのです。だとすれば1億5千万円という巨額なお金が総括責任者でも選対本部長でもないだれだか分からない普通の職員が出金し支給できるような「政党組織」ということになりますから、そんないい加減な政党に毎年170億円もの巨額な政党交付金を支給することに国民は納得できません。提出を義務付けられている「使途等報告書」の真偽にも正当性が疑われます。野党もマスコミも手を拱いていないでしっかり追求してください。

 

 大村氏のリコール事件署名偽造について絶対に許せない高須氏の発言があります。事件が明るみに出た最初の会見での「私はこんなケチなことは絶対にしませんよ!」ということばです。金に不自由のない自分が、僅かな金で署名を買うようなケチなことはしないということを言ったのでしょうが、署名をカネで買うことは決して『ケチ』なことではありません。絶対に許されない民主主義の根幹を揺るがす重大な冒涜行為です。そうでなくとも『格差』が拡大している現在のわが国において富の多くを「富裕層」と呼ばれる一部の国民が独占しており、その金の力で署名や票を自由にできるようになってしまえば、わが国の民主主義は完全に崩壊してしまいます。高須氏は激情に駆られて思わず口走ってしまったのでしょうが、それだけに彼の本音が迸ってしまったのです。これまでの彼を検証すれば彼が金の力でなんでも好きなようにできるという驕った振る舞いを繰り返してきたことは歴然としています。彼だけではありません、富裕層と目される何人かの人たちの「金力」で一般市民を翻弄する振る舞いは目に余るものがあります(それに翻弄される側も情けないのですが)。

 河村名古屋市長の無責任ぶりにも唖然とします。逮捕された事務局長は彼が推薦した人です。にもかかわらず河村氏は署名偽造に一切の責任を認めようとしません。河村氏は高須氏と共謀したわけですから結果責任を負うのは当然です。

 そもそも今回の発端を再考すれば「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」が彼らの政治信条に反する展示であるから展覧会を中止しろ、という一部世論を背景にした「恫喝」でした。それに伴って投入された「公的資金」を返還しろという要求もしたのですが、彼らの要求が退けられて「リコール」という挙に出たのです。その間に世論を扇動したり大村氏を罵倒するなどもあって、どこか浮ついた『遊び』のようなノリとも受け取られるような感覚で「リコール」を組織し弄んだのです。リコール成立に必要な署名を集めることができないことが明らかになったために「高須先生に恥をかかせてはいけない」という忖度が働いて今回の愚挙に打って出たのでしょうが、高須氏、河村氏はキチンと責任をとるべきです。それが「ケチなことはしない」と大見えを切った人の取るべき「始末のつけ方」です。

 

 政府主導ワクチン大規模接種の予約システム不良に関する安倍元首相と岸防衛相のマスコミ批判は正直言って取り上げるにも値しない「横車」的難くせの仕業と切り捨ててもいいのですが朝日新聞と毎日新聞に「為する」思惑がありそうなのでそれを矯めるために取り上げることにしました。7月末に高齢者の接種を完了するという菅総理の無理筋とも思える「オリンピック戦略」に同調した突然の自衛隊活用大規模接種ですから準備不足によるシステム不良を招来したのも無理からぬところで、架空情報予約だけでなく他にもまだ不都合があるようで充分なシステムチェックを行なえなかった自衛隊も苦しい事情を口にできない無念さがあることでしょう。朝日と毎日だけでなく日経、産経もシステム不良を確認して早期の改修を促しています。実施段階で高齢者に大混乱を与えずに済んだと考えれば自衛隊とすれば感謝こそすれ「逆ねじ」を食らわしてことを隠蔽する積りなどまったくなかったと推量します。今回の安倍、岸両氏の毎日、朝日批判は「贔屓の引き倒し」で自衛隊としてもさぞ迷惑に違いありません。

 

 安倍さんという人はわが国の最高権力者としては資質に問題のある人で、在任中鹿児島に行ったとき地元受けを狙ったのでしょうが「維新の薩長」同様に互いに協力していきましょうと発言してそっぽを向かれたことがありました。教科書歴史では明治維新以来薩長はわが国の近代化に協力邁進してきたように教えられますが、実際は西郷さんが国賊扱いされて以来長州(山口県)嫌いは鹿児島県人の真情なのであって、加えて陸軍の長州に対して海軍の鹿児島は軍隊にあっては犬猿の仲なのです。そうしたわが国の正確な歴史認識のない人の浅薄な歴史観で国民が分断される愚は二度と繰り返したくないのです。

 

 各種の不祥事にコンビで当事者が現われるのは今の政治が「責任者不在」の末期的症状に陥っていることを明かしているのかもしれません。

 

 

2021年5月17日月曜日

ワクチン予約をスムースに行なう方法

  どうしてこうも役人というものは同じ過ちを繰り返すのでしょうか。電話にしろネットにしろそれなりの「容量」を用意しておかなければパンクすることはこれまで何度も経験したではありませんか。何故それが分からないのでしょうか。若い役人の中にはITに強い優秀な人もいるはずですからこうした事態――電話回線がたったの8回線だったりネットの受付容量が少なかったらパンクすることぐらい常識として知っているでしょうし当然上司にも提言しているはずで、にもかかわらず上司がそれを採用しないのでしょうか。それにしても一二の自治体だけでなくあっちでもこっちでも同じ状況が出来しているのはやはり役人の能力と組織が劣化しているからなのでしょうか。もしそうならわが国は取り返しのつかない危機的状況に至っていることになるのですが……。

 

 ワクチン予約の根本的な問題点はワクチンの「決定的」な不足です。医療従事者と高齢者合わせて約4千万人(医療従事者480万人高齢者3600万人)に対してまだ医療従事者の70%弱、高齢者に至っては1%そこそこのワクチンしか供給できていないのですからそのわずかなところへ「無制限」の受付を行えば予約希望者が殺到して受付事務が混乱、パンクするのは誰にでもわかる道理です。ただお役所というものは「不公平」の誹りを受けることを極度におそれる習性がありますから受付を何らかの縛りで制限することはできなかったのかもしれません。

 となれば一度の受付で「対象者全部」を受け付ければいいのです。例えばある行政区N(ある県のある市)の接種対象高齢者総数が3万人であれば3万人をすべて「受け付け」てしまえばいいのです。そして全員に通し番号を付して、ただし今回はワクチンが2千人分しかありませんから01番から2000番の2000人の方を今回分として受け付けます、その他の人はワクチン配布量が決定次第順次接種実施者として組み入れていきます、対象者は供給された分――例えば5000人分なら受付番号の2001番から7000番の方を接種対象者としますからネットで確認してください、ネット利用が不可能な人に対しては電話(郵便)で通知します。

 もうひとつの方法は「ワクチン接種券(既に配布が終わっていますが)」に通番を付けておいてこれを利用する方法です。行政区Nなら3万人ですから01~30000を付与しておいてワクチンが供給されるごとにその供給量分の接種対象者を決定する方法です。決定のし方はコンピューターを使ったランダム数で行います。第1回目が3000人分ならランダムに決定された(01から30000までの数字)3000人を接種者として決定します。通知の仕方は上と同じでもいいですし、前もって登録されているネットアドレスや電話を使う方法でもいいでしょう。

 このような受け付け方式で行えば受付事務が1回で済みますし接種を受ける高齢者も「待機」という不便はありますが一度でケリがつきますから不満は最小限で抑えられるでしょう。加えて接種者の日時と時間を指定すれば「打ち手不足」解消もできます。

 優秀な役人が多いのですからいろんな方法が思いつくはずでITの専門家の知恵を拝借すればもっと「かしこい」方法もあるかもしれません。なにもかも「自前で」、不慣れなことまで抱え込んでやってしまおうとするから混乱と「税金の無駄づかい」を繰り返すのであって、また権力を振りかざしてなにかと「地方への介入」を行なう中央のお役所なのですからこんなときこそお得意の「マニュアル」をつくって混乱を未然に防ぐこともできたはずで、平時のどうでもいいときには余計な口出しをするのにこんな非常時には地方に丸投げしてしまう、そんな中央官庁なら「権限と予算」を地方へ譲るほうが我が国全体としてはずっと効率的だと思うのですがどうでしょうか。

 

 コロナがらみで言えば高橋洋一内閣参与の「さざ波」発言が物議を醸していますが、「日本はこの程度の『さざ波』」という認識になんらまちがいはありません、むしろよくぞ言ったというものです。アメリカの3200万人、インドの2200万人に比べれば日本の65万人は微少なものです。許容できないのは〈笑笑〉です。1日の感染者数わずか5000人で医療崩壊するわが国の医療体制の脆弱さ、昨年暮れに供給開始されたコロナワクチンがいまだに人口の1%にも満たないワクチンしか供給できていない医薬品供給体制の不完全さに決定的な政治と行政の劣化があるのです。高橋氏はその政治と行政のトップにいる菅総理の最側近頭脳なのです、最前線で総理を補佐している『当事者』なのです。その立場の人が〈笑笑〉と笑っている場合ではないのです。弁明で「客観的事実」を述べただけと言っていますが、それは彼が「経済評論家」なら許されますが今や彼は「当事者」なのです。海外で笑われている惨状を一日も早く改善するのがあなたの仕事なのです。それを忘れてもらっては困るのです。

 この内閣は「当事者意識」のない人が多すぎます。「マスクはいつまでしなけりゃならんのかね」と記者に質問した麻生副総理。麻生さん、あなたは副総理なのですよ。菅さんと一緒になって「先頭に立って」コロナ終息に粉骨砕身してもらわなくてはならないのです。マスクを不要にするのはあなたなのです。河野コロナ担当大臣は「私は運び屋ですから」と接種現場の混乱に不関与を公言しますが、いやいやあなたも「当事者」ではありませんか。供給量の早期確保も未達成なのに接種体制確立も管掌外だというのであれば「コロナ担当大臣」って一体何をする大臣なんですか。

 

 一番の「当事者意識」「不感症」なのは菅総理大臣です。「先頭に立って」コロナ終息に尽力し「国民の安全・安心」を達成します、と「壊れたテープレコーダー」のように繰り返しますが具体策も達成日限も示さず、「専門家の先生のご意見をうかがって」と「壊れたテープレコーダー」のように言いながらその意見を取り入れた「科学的」な対応策はこれまで一度も実施されたことがありません。それであるのにオリンピックは既定路線として「開催ありき」で突き進んでいます。菅さん、あなたはコロナを一日も早く終息させて国民の安全と安心に『責任』をもつ政治と行政の最高の『当事者』ではないのですか。オリンピック開催を強行してコロナが爆発的に「感染拡大」して医療が崩壊し死者が激増したときの『責任』を「自己責任」と『覚悟』していますか。

 

 オリンピックと選挙しかあの人ら、頭にないのとちがう?という妻にむかって一言もいえないのがもどかしい今日この頃なのです。

 

 

 

2021年5月10日月曜日

ご隠居さん

  今や「死語」になってしまった感がありますが昭和三十年代(1960年代)には町内に少なからず「ご隠居さん」がいました。何をするでもない、日がな一日ブラブラ町内を歩き回っている暇な爺さんが居て「結構なご身分やね」などと嫌味を言われても我関せず、悠々としながら夕方になると銭湯に浸かってサッパリして一杯呑み屋で少々聞し召して家に帰っていく。かと思えば早朝から釣りに出かけ三時ころ帰ってきて銭湯、一杯呑みといつものコースで又一日が暮れる。ご隠居の一日はそんな繰り返しで「よくあれで退屈しないものだ」と若い我々は思ったものですがご本人は飄々としたものでした。

 

 「隠居」を民法をもちだして解説するとなると家督であったり戸主などという今の若い人には分からないことが多いからそれは省略して有り体にいえば、家業を息子(後継者)にゆずって仕事――「稼ぎの場」からリタイアした男、爺さんのことです(女性のこともないことはないのですが極めて稀でした)。今で言えば「定年退職者」も隠居になる訳ですがそう言わないのは彼らが「勤め人」であって家業に従事する「自営業者」でないからです。従って自営業者が全就業者の六割以上を占めていた昭和三十年代に町内に一人や二人はいてもおかしくなかったわけで、それが昭和四十年代以降急速に自営業者が減少して今や一割少々にまで落ち込んでしまったのですから(農業従事者を含む)その存在が絶滅危惧種になったのも当然なのです。ところでこの隠居という存在は決して「ネガティブ」な意味ばかりでなく、初めて本格的な日本地図を作成した伊能忠敬は55才で隠退して年来の研究であった日本の測量に取り組み17年をかけて地図を完成させたという例もあり、研究や学問、芸術分野でも隠居してから名を馳せた人も結構あったのです。しかし多くは暇つぶしの遊びを楽しむタイプが多かったようで仕事という「稼ぎ」の場を退いたのですから「遊び」に打ち込むのは当然と言えば当然の成り行きでした。昔は遊びではなく「道楽」という言葉が普通に使われていましたが、男の道楽と言えば「呑む、打つ、買う」が王道で酒、博打、女が三大道楽でした。お金持ちの道楽は「若いころは酒と女、中年で習い事、隠居して普請道楽」で、習い事は浄瑠璃や義太夫、小唄・長唄などで落語の「寝床」は義太夫狂いの大家の旦那と丁稚の噺でご存じの方も多いはず。普請道楽は隠居所づくりに贅をこらして、石はこれが良い、木は、庭はと限りがありませんから身代を尽くすこともある「危うい」遊びでした。

 

 時はうつり世は変わって自営業者が影を潜めご隠居は消滅、「定年退職者」でまちは溢れ返っています。65才以上の男性は約1500万人、70才以上は1000万人(男女合計で人口の20%を超えました)にも上っています。

 「本当の人生はそこから、定年になって何もやることがなくなったそのときからその人の人生は始まるのに、振り返って「オレははたして生きたかしらどうかしら」と思ってしまったら、それはちょっと向きが違ったんじゃないかしら」。最近こんな文に出会いました。吉田秀和の『千年の文化 百年の文明』という本の中にある一節で、二十年近く本棚に眠っていたのをフト取り出して読んでみるとこれがなかなか面白くついつい引き込まれてしまったのですが、40年、50年近く身を粉にして働いてきて少々の蓄えと食うには困らない年金を頂きながら暇を持て余して「余生」を過ごすという高齢者が余りに多いのではないかと吉田さんは危惧しているわけです。今や人生百年の時代です、これでは晩年の20年、30年が勿体ないではないかと彼は言うのです。

 しかしこれは無理もないのであって、これまでは現役時代を終えてからの人生はたかだか十年ほどのもので70才そこそこで寿命が尽きていましたからこの期間に関する情報がほとんどないのです。現役時代の生き方に関しては多方面から碩学の示唆に富んだ指南があったのに比べて「こちら側――仕事をはなれてから」の生き方についてはほとんどそれがないのです。それ故に突然そこに放り込まれた高齢者たちは右往左往してしまうわけで、今の状況は人生百年時代にふさわしい「人生後期の生き方」の定番ができあがるまでの混乱期といっていいのではないでしょうか。

 

 そこで人生後期――現役の仕事を離れてからの二十年、三十年の生き方を考えるうえで必要な基本的指標をランダムに取り出してみようと思います。

 仕事の対義語は「遊び」になるでしょう。一般に仕事はつらいことですから「楽しい」、仕事は時間に縛られて忙しいですから「のんびり」、仕事は稼ぎ、生産ですから「消費」、職場は戦場に例えられることが多いですから「平和」、仕事は会社(職場)で協働で行いますから「家」「家族」「ひとり」などが後期を規定する指標になるでしょう。そして仕事は手順が決まっていて結果が求められますが、後期の人生では手順のない「好き勝手」で世間が褒めてくれるような「他人の便利さ」も生み出しません。一番の特徴は他人の強制がありませんから「暇」で「退屈」が基礎的状況になるでしょう。

 遊び、楽しい、のんびり、消費、平和、家、家族、ひとり(孤独)、好き勝手、他人への便利さ無し、暇、退屈……。思いつくままに後期人生を特徴づける指標を並べてみると思いのほか「前向き――ポジティブ」な項目が多いのに驚かされます。ということは、まだお手本はありませんが工夫次第で随分楽しく、豊かな後期人生が創造できそうな気がしませんか。

 気にかかるのは「孤独」と「退屈」です。

 

 時しも「コロナ禍」です。外出自粛で巣籠りを強いられ「暇」を持て余した人や「孤独」に陥った人のDVやコロナ離婚が取り沙汰されています。こうした報道をみると、暇と退屈と孤独が基本の後期人生を楽しく、豊かに生きることはなかなか手強い課題だということを気づかせてくれます。

 

 友人に仙人のような人がいます。朝飯を食ってのんびりテレビを見ていると庭の雑草が気にかかって刈り取ろうとしたら、鎌が錆びていたので古道具屋へ行って百円で鎌を買って草刈りをしているうちに日が暮れた……、まさにご隠居然とした生活を悠々自適しています。羨ましいと思うのですが凡人にはまだまだそんな境地には至れません。なによりも若いころから読みたかった本がなん百冊と残っていますから眼がいいうちは読んで、書いての「晴耕雨読」でいきたいと願っています。

 

 後期人生、楽しみたいものですね。

 

 

 

2021年5月3日月曜日

日本死ね!を覚えていますか

  第三次緊急事態宣言が出ても何も変わらないのをみてそうだろうなと思いました。そしてあのことを思い出したのです

 

 日本死ね!という言葉がネット上を騒がせたのがもう5年も前(2016年)だったことに驚きを覚えます。そしてあの時、言葉づかいが悪いとか、お前がそんなだから保育園にも入れないんだなどと彼女を批判したり罵った人たちは、みな、今、大いに反省しているに違いありません。自分がそうい立場に追い込まれたら言葉なんか構っていられない、心の底から「日本死ね!」と言ってしまうのだということが分かったと。あれからわが国は少しも良くなっていません。それどころか「自助・共助・公助」と時の総理大臣がヌケヌケと公言して弱い人を平気で切り捨てる世の中になったしまってのです。コロナになって、なんのエビデンスも示されずに自粛自粛を求められ満足な補償もないまま「罰則付きの自粛命令」が法律化されて、飲食業をはじめサービス業の人たちがドンドン倒産に追い込まれ、非正規のシングルマザーを中心に失業者が町中に溢れ返っても「生活保護」の申請受けつけは厳重を極め、保護費自体も減額されるというあり様です。5年経ってわが国は私たち一般庶民にとって悪くなる一方です。

 一体「国―国家」というものは我々にとって何なのでしょうか。

 

 戦後私たちは、一生懸命働けば必ず良くなる――生活は豊かになって家族を幸せにできる、万一病気などになって生活が苦しくなれば国が手を差しのべてくれる。そう信じてきました。ところがいつの間にか国は、

「本来の役目である富の再配分や、貧富格差の解消という責任を放棄し、もっぱら私企業に国家事業を丸投げし、そのことによって国家自らの責任を放棄している(『株式会社の世界史』平川克美著/東洋経済新報社/より)」のです。構造改革の名の下に「官から民へ」の大合唱で国鉄も郵政も、そしてついに「医療」も「大学」さえも民営化してしまった、その結果今、医療崩壊とワクチン不足を招いてしまっているのです。

 

 最近巨大IT企業に対する規制がEUをはじめアメリカやわが国でも強化されるようになってきました。取引先より強い立場にあることを背景に、自社に有利な契約をしたり一方的に手数料を引き上げたりすることを規制するもの過度な節税を防ぐ国際的な法人税改革のルール作りをしようとするものです。とくにEUは国境を超えた企業活動によって利益を得るグーグルやアマゾンなどの多国籍企業への対抗策として、売上高に応じて国ごとに課税する「デジタル課税」を導入する案を打ち出し各国の税制の違いを利用して税負担を抑える巨大IT企業に相応の税負担を課そうとしています(多くのIT企業を抱える米国は反対する姿勢を示していますが

 こうした巨大な国際企業の社長―CEOは国(国民国家)をどう考えているのでしょうか。GAFAと呼ばれる5大IT企業(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の1年間(2020年)の売上高は約8000億ドル(約88兆円)でこれは年間(2020年)GDPの17位オランダと18位スイスの中間に位置します(米国20兆ドル、日本5兆487億ドル)。今年のわが国の総予算は106兆円ですからその巨大さが分かります韓国53兆6千億円)。ここまで巨大化するともはや「世界」が経営を考える時の「場所的」概念の中心となって「国」は世界の構成単位として機能しているのではないかと想像するのです。これはなにも5大企業だけでなくわが国のトヨタでも三菱商事の社長でも同じことでしょう。ということは大企業にとって「国民国家」という概念はかなり「相対的」な存在になりつつあるといっていいのではないでしょうか。

 

 それとは趣を異にしますが中国の新疆ウィグル自治区やチベット、モンゴル、台湾地方の人たちにとって習近平の中国共産党支配の中国に「国民国家」というアイデンティティをもって受け入れることは不可能なのではないでしょうか。民族も宗教も文化・習慣も異なるかれらは長い中国の歴史の中で漢民族の中国の異民族、周辺国として抗争を繰り広げてきました。ある時は漢民族が異民族を統率し、あるときは異民族が中国を糾合して異民族国家の「中国」として歴史にその名を刻んできました。それが第二次世界大戦の終息の過程で蒋介石の台湾民族を中核とした中華民国が戦勝国として中国を代表したのち、毛沢東の中華人民共和国が蒋介石を追放して今日に至っているのです。現在の「中国全土」はこの終息の過程で中国に組み入れられたもので、ある種の戦力でもって暴力的に組み入れられた側面も否めないのです。

 中国という「国民国家」は原理的に相当無理のある国家的枠組みをかかえているのです。

 

 アメリカはトランプの出現で格差が急拡大し国が二分される危機を迎えました。もはや3億3千万人の国家を維持していくのが困難な事態に陥りました。バイデンが後をおそって懸命に立て直し――分断を乗り越えて団結を取り戻し再び「統一国家」として再生しようと、企業課税と所得再分配を強化して「中間層」を創出することで格差と分断を解消し「安定」を取り戻そうとしています。

 

 わが国はアメリカの強要によって構造改革を行い「官から民へ」を急速に達成してデフレからの脱却を図りましたが、成長軌道への復帰は果たさず、格差拡大と分断を招来しています。これは結局アメリカの後追いで「トランプのアメリカ」が今の日本になっているのです。バイデンがしようとしている「企業課税」と「所得再分配」機能の強化を図って「切り捨てられた」人たちを救う方向に国の経営を切り替える必要に迫られています。

 

 「 国民国家の理想は(略)全体として少しずつでも生活の質が向上していゆくこと以外にはない(前掲書)」のです。