2022年1月31日月曜日

資本主義が変わった後に

  自国一国優先主義の終焉、制限のない競争による資源配分制度の改革、今ある仕事の半分近く無くなった社会に対応する仕組みをどうするか、この3つの課題を解決する「新しい資本主義」を創らないと21世紀は乗り越えられない、私はそう考えています。そんな資本主義に変わったとしたら……。

 

 資本主義は民主主義を両輪として発展してきました。そのどちらもイギリスとアメリカが手本となってきたと言えますがそのお手本のはずの両国の民主主義がおかしくなっています。アメリカではトランプ大統領の出現と国会議事堂への暴力的破壊行動、イギリスのブレグジットは異変の兆候でしょう。しかし私が注目するのはコロナ禍への対応です。世界の感染者数3億6千万人超のうち両国で8千6百万人25%を占めています。感染のメカニズムは多様で複雑ですから一概に決めつけることはできませんが世界的な蔓延に両国の爆発的な感染拡大が少なからぬ影響を与えたことは間違いないでしょうし国として、国民として責任を感じるべきです。武漢発のウィルスであるとして国際世論の中国への責任追及は厳しいものがありますがアメリカとイギリスへ批判の声が上がらないことには奇異の感を否めません。そしてまったく問題にされていませんが世界の総感染者とされている3億6千万人という数字は正しいのでしょうか。医療体制も統計を担当する機関も整っていない途上国や難民キャンプの感染者はどのようの処理されているのでしょう。「世界の感染者数」に含まれているのでしょうか。もし計数されていないとすれば3億6千万人は4億人にも4億5千万にもなっているはずです。そしてそうした国々にはワクチンや酸素は勿論のことECMOもICUもありませんから感染すればなすすべなく死亡しているにちがいありません。

 アメリカやイギリスなど民主主義の先進国でワクチン接種や移動、外出の自粛、マスク着用や3密を避ける対策が厳密に行われないのはなぜでしょうか。アメリカやフランスでワクチン接種が義務化されようとしても反対勢力が何万人というデモを起こして結局義務化ができないでいるのは何故でしょう。民主主義の根幹である「自由」と「人権」が関係しているのは明らかです。自分たちの国の「自由のあり方」に疑問を感じ、それが原因で「富の偏在」をもたらしたと考える人たち――特に若い人たちが「ウォール街占拠デモ」を起こしたのはもう10年も前のことです。そして彼らの理論的な支柱となっている、民主党の大統領候補にも名乗りを挙げたバーニー・サンダースは民主社会主義者を公言し今のアメリカの民主主義のあり方に公然と疑問を突きつけているのです。

 欧米の民主主義を奉じている先進国にはそれぞれそこに到る歴史的過程がありますから一概に断じることはできないのですが、しかしそれだけにトクヴィルの「自由は道徳なしには保持しえず、道徳は宗教なしには根拠を失うことになる」という言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。

 

 民主主義に対する疑問の表れとして近年の「民主主義勢力の後退」という事実があります。冷戦終結後一挙に民主化した世界の情勢は2000年ころから停滞、10年代半ばからは非民主化が加速し2020年にはどちらかと言えば民主的な国を含めた「民主勢力92ヶ国」に対して「非民主制の国87ヶ国」にまで接近してきています。

 一体今の世界はほんとうに「民主的な運営」が行なわれているのでしょうか。たとえば「国連」には「拒否権」をもつ5ヶ国(米国、英国、フランス、ロシア、中国)が存在しています。これらの国は第二次世界大戦の主たる戦勝国です。戦後復興を速やかに遂行していく上に――利害関係の調整を効率的に行うための「緊急避難的」措置であったはずの「特権」が「既得権」として今だに存続している事実は決して「民主的」ではありません。「核兵器禁止条約」は2020年10月に発効しましたが今現在締結国は59ヶ国に過ぎません。事実上「核保有」という特権は上記国連拒否権を持つ5ヶ国とゴリ押しで保有を進めたインド、パキスタン、北朝鮮、イスラエルなど12ヶ国が独占しているのです。そして富裕国と貧困国の格差は拡がる一方で「経済的平等」は無視されつづけています。

 

 カントは「世界平和は新たに創出すべきものである」と言いました。未成熟な人間社会では戦争こそが自然な状態であるから絶えず平和に向かって「進行形」であらねばならないと戒めたのです。同様に「民主主義」も「専制主義の誘惑」に対して絶えず戦いつづけなければならないはずなのに戦後80年安住し、停滞しつづけてきたのですから『民主主義の劣化』が起こって当然なのです。民主主義の先進国は今こそ『謙虚』に民主主義の「進化」に向き合わねばなりません。コロナはそう諭しています。

 

 ところでカントは何故戦争状態を人類の自然な状態と考えたのでしょう。彼は18世紀の人ですから世界経済は農業全盛の時代でした。農業にとって土地(領土)と労働力(人口)は主たるの生産資本ですから戦争による領土拡大はそのまま経済成長を促し国家を富かにしました。日本が第二次世界大戦に突入せざるを得ないと考えたのは「資源を持たない国」にとって資源調達を容易にするため他国の資源を独占する「領土拡張」は当然だったのです、ABCD(米、英、中、蘭)包囲網で経済封鎖をうけていましたから。

 しかし今や先進諸国は農業立国の段階を脱却していますしコロナを契機として「制限のない競争」による「資源配分制度」が改められ資源配分を「国際的な協調システム」に改革することができたなら、戦争を行なう理由はどこにあるのでしょうか。中国の「一帯一路」もロシアのウクライナ侵攻も結局「資源の安定確保」が目的なのだとすれば。

 しかしことはそんなに単純ではないかもしれません。「権力」は「自己増殖」を本質としていますから。

 

 これまでの歴史で人類は数多くのパンデミックを経験してきました。そしてその都度改革をくり返してきたのです。今度のコロナ禍も少しでも世界が良くなる方向に変わる契機になれば絶大な代償を支払った価値があることになるのですが……。

 果たして今の人類にそれだけの『叡知』がそなわっているでしょうか。

 

 

 

 

2022年1月24日月曜日

新しい資本主義(続)

  「新しい資本主義」が取り組まなければならない三つ目の課題は「仕事が無くなる」という問題です。ちょっと前、ワークシェアーとかベーシックインカムが話題になりました。一過性だったのか尻すぼみになっていますが現実はその必要性が徐々に高まっているのです。

 

 2015年12月、野村総研と英国オックスフォード大学の共同研究が発表され、10~20年後にはわが国労働人口の約49%の就いている職業がロボットやAIに取って替わられる可能性が高いという推計結果が報告されました。アメリカの会計士が過去10年間に数万人規模で減少していることが例証として挙げられ機械に仕事を奪われる仕事ランキングも予想されていてそれによると1位が小売店販売員、2位が会計士3位一般事務員以下セールスマン、一般秘書などがつづいています。わが国では2017年に3メガバンクが3.2万人の業務削減を目ざす構造改革を表明し支店の閉鎖や窓口業務整理など目に見える形で進行しています。しかしみずほ銀行はAI人員を過剰に削減して大きな業務支障を発生させ信用棄損を招いていますから道のりは厳しいようです。

 今回のコロナ禍によって「リモートワーク」が有無を言わさず強制されたためにロボットやAIによる「仕事の置き替わり」が加速されそうな状況になっています。「対面」でするのが当然とされてきた多くの仕事が、対面が強制終了されてしまうことになれば「AI化」「ロボット化」が重要な解決策につながるからです。ホテルのフロント業務やコンセルジュ業務はロボット化が進行しています。アメリカの会計士の仕事がAI化で急減したように「士(さむらい)仕事」――弁護士、計理士、会計士、弁理士、社労士など――のうちの多くの部分はAI化が可能ですから対人交渉(法廷業務など)を担当する上級業務以外の「士」仕事はAIに取って替わられる可能性が極めて高いでしょう。お役所の「定型業務」の多くもAI化が適していますから「受付業務}の一部を残してほとんどの業務はAI化され、判断・調整業務を担当する上級公務員が残る以外は不必要になる日も近いかもしれません。

 2035年(2015年から数えて20年)はあと10年少しで『現実』になります。半分は極端すぎるとしてもそれに近い仕事が「人の仕事」から消えることを前提に「資本主義」を変える覚悟が必要です。

 

 人類の歴史は「飢餓からの解放」の歴史でした。人類の進歩は『飢餓の克服』を『豊かさの実現』で可能にしてきました。それでもまだ「貧困ライン―1日1.90ドル」以下で過ごす貧困層が2019年時点で総人口の10%近い約7億5千万人存在していますがコロナ禍で2021年には1億人近い増加が見込まれています。 

 これまでの人類は貧困からの脱出(生活維持)を「仕事をする」ことで実現してきました。「賃金(労働)」「所得(金融)」「利益(企業)」を仕事を通じて得ることでそれを可能にしたのです。その賃金・所得・利益に課税した「税収」を基に「国家」は存立しています。『仕事』――「個人の生命」や「国家の存立」を支えている仕事が無くなってしまうとこのシステムは成り立たなくなるのは自明の理です。

 2021年わが国の失業者数は182万人、生活保護を受けている人の数は205万人弱になっています。労働人口は約7千万人ですから「再分配政策」でセーフティネットの維持が可能な範囲に収まっていますが失業者が1千万人規模になればとても今のシステムでは対応できなくなってしまうでしょう。

 ここ20年近く問題になっている「非正規雇用者」は今や総労働の4割弱に達していますがこれは見方を変えると一種の『ワークシェアー』です。仕事の流れを業務分析し細分化して代替可能な部分をワークシェアーしたのが非正規雇用者ですが、1999年末には1200万人台(25%以下)だったものが2020年には2100万人弱4割近くにまで増加したのです。わが国は国際的に低失業率を誇っていて2020年の2.8%はアメリカの4.2%ドイツ、韓国の3.1~3.3%に比べても低いですしヨーロッパ先進諸国は軒並み8%を超えていますから相当優秀なことになります。しかしこれがワークシェアーによる非正規雇用の増加によって演出されているとしたら見方が一変します。

 わが国はすでに仕事が減少しておりそれを「ワークシェアー」でしのいでいるのではないでしょうか。今後この傾向が加速度的に上昇し、失業者の増加とそれ以上の非正規雇用が増加して国民の平均所得が低下、低所得層の割合が飛躍的に増加するかもしれません。なみに生活保護受給の所得基準は月収13万円以下年収では156万円以下ですが、所得階層別分布では200万円以下が約2割、300万円以下は33.4%を占めています。今後下位層へのシフトが増加して200万円以下が5割りを超えるようなことになれば社会保障システムの持続可能性が破壊されてしまいます。しかし決して可能性のないことではないのです。

 

 人類は長い間、「仕事」を通じて収入(給料、所得、利益)を獲得し生活を維持、収入への課税によって国家を存立させてきましたが、仕事が減少することによってこのシステムを維持することが困難になる可能性が非常に高くなっているのです。野村総研とオックスフォード大学の共同研究がそうした事態の2035年ころに現実化することを示唆しています。少なくなった仕事を非正規雇用という形でワークシェアーしてきたのが21世紀のわが国ですが、コロナ禍が仕事のロボット化、AI化を加速させることで一挙に「人の仕事減少時代」に突入してしまうかもしれません。生活保護ではなしに「ベーシックインカム」を基本としなければならなくなるかもしれません。しかしそうなると「原資」の調達をどうするのでしょうか。

 古代ギリシャでは「奴隷制民主政」で市民の生活が保障されていましたが21世紀の資本主義的民主政は「ロボットとAI」が奴隷に取って替わってくれるのでしょうか。

 

 仕事減少時代の社会の仕組みを考えるとき、経済封鎖を解かれた後のキューバの町のおばさんが「生活は苦しかったけど学校と病院がタダだった昔の方が良かったね」と言っていたのが印象的に思いだされました。

 

 自国一国優先主義の終焉制限のない競争による資源配分制度の改革仕事をして得る収入(賃金・所得・利益)て生活を維持するシステムからの脱却。「新しい資本主義」は最低この3つの課題を解決しなければならない、私はそう考えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

2022年1月17日月曜日

新しい資本主義

  岸田さんが自民党の総裁になって「新しい資本主義」を表明したとき大いに期待したのですが見事に裏切られました。せめて「新自由主義からの脱却」だけでも打ち出せたら分断と格差のグローバル経済を改革する第一歩を踏み出せたのですがそれも元総理や副総理への忖度によってもろくも尻すぼみしてしまいました。

 

 コロナ禍で分かったことはグローバル化した現在では一国の経済を世界から切り離して運営し成長を達成することが不可能になっているということです。先進国がワクチンを独占して2回接種、3回接種を行ったところで貧しい発展途上国の蔓延を放置したままでは終息は実現しません。いい例がイスラエルで、世界最先端のワクチン接種を行っているにもかかわらずブレイクスルー感染をくり返しています。それは多分国境を接しているシリア、ヨルダン、エジプトなどから感染が浸み込んでくるからでしょう。ワクチンが『有限な資源』である限り世界全体で「分配の適正化」を図らなければ結局自国の終息も、世界の終息も達成できないのです。ファイザーやモデルナが「特許権」を「解放」すれば生産量の拡大と価格の低廉化が実現できますから終息を早めることができるのですが、今のままなら世界的な終息はあと3、4年先になるにちがいありません。コロナが終息しなければ経済の復興・再生もありませんから、結局ワクチン接種を自国だけが先走って途上国を置き去りにしておく限り富裕な先進国経済の復興はありえないのです。

 こうした現象はすでに起こっていました。それは「難民」の問題です。アメリカはメキシコなどの南米諸国から、ヨーロッパはアフリカや中近東諸国からの難民で自国経済が毀損されています。難民の低賃金が自国民の仕事を奪い失業に追い込む、こんな事体がアメリカでもヨーロッパでも起こって不満と不安が増幅し、格差がますます拡大して分断が危険水域に達しています。わが国も対岸の火事ではありません。わが国で就労している外国人労働者は2020年10月時点で172.4万人に達しています。わが国の労働力人口は6868万人(2020年)ですから総労働力の3%近くが外国人で賄われており安閑としておられません。中国、ベトナム、フィリピン、ブラジルなど途上国からの労働力は今後増加の一途をたどることでしょう。

 これまで一国の経済運営は国家の「存続」を第一目標として自国の成長と国民の豊かさの達成が図られてきました。生産力を拡大することで企業が活性化し雇用の増大と賃金アップを実現することによって国民が豊かになるように経済が運用されてきたのです。しかもこれまでは「先進国クラブ」が世界の富を独占して7ヶ国かせいぜい20ヶ国が繫栄すればそれで良しとされてきました(南北問題は半世紀以上の長きに亘って論議されてきましたがそれは建て前のことです)。繁栄から取り残された途上国の存在は表だって取り沙汰されることはありませんでした。ところが新型コロナの世界的な感染は途上国を無視しつづけることを許さなくなったのです。先進国の「健康と安全」を実現するためには『途上国を巻き込んだ世界』全体でワクチンを接種しコロナを終息させることが「必須条件」になったのです。先進国クラブの「わがまま」が通用しなくなったのです。

 地球上を占有し尽くした200近い「国民国家」が等しくその「存続権」を認め合うような世界にならざるを得ない状況にコロナ禍が追い込んだのです。自国一国優先主義の終焉をコロナが宣告したのです。

 

 何故富める国とそうでない国が生まれたかといえば、『競争』という美名のもとに「有限な資源」を強い国の『独占』に放置してきたからです。そもそも弱い国は「競争の場」にさえ『参加』できないでいました。戦前は「植民地」として先進「宗主国」の『収奪』のほしいままにされました。戦後は「国民国家」として独立したのですが、それは民族、宗教、領土を無視した先進国の「恣意な線引き」による理不尽なものでした。そして国家体制が未成熟なまま「地球上の有限な資源やエネルギー」をめぐる国家間の『争奪ゲーム』に放り出されたのです。勝負ははじめからついていました。歴史上まれな80年近い戦争のない時代がつづいたこともあって、豊かな国の野放図な資産蓄積が累積し国家間の格差が異常に拡大してしまいました(勿論国内の格差も拡大しましたが)。そうした国家間の格差をあらわにしたのが「ワクチンの不公平な配分」だったのです。

 このまま『制限のない競争』に「有限な資源」の「配分」をまかせておくと世界は取り返しのつかない「惨禍」に見舞われることになります。世界人口は今(2020年)約78億人ですがこれが2050年には98億人にまで増加するのは既定の事実です。今でさえ富と資源の偏在が世界平和実現の「足枷」になっているのですからこの状態を放置すれば米中の新冷戦と呼ばれる「世界の摩擦」状態が更に悪化するのは明らかです。中国が「一帯一路」政策と国際法を無視した「海洋進出」を図っていますが、これは資源の「平和的」と「暴力的」の二面からの獲得政策なのです。14億を超える国民に「豊かさ」を与えるためには無尽蔵の「資源とエネルギー」が必要になります。2021年の中国の豊かさ(1人当GDP)は約1万ドルですがこれを習体制が計画(第13回全人代「2035年までの長期目標」2021.3.5)しているように先進国の中レベル(3~4万ドル)に引き上げるためには今後15年間にわたって4.73%の成長を続けなければなりません。このための資源を獲得するために賢明な中国共産党が数十年の周到な計画のもとに進めてきた二面作戦がコロナで不可能になったのです。世界が「有限な資源をめぐる国家間のサバイバルゲーム」をこのまま放置しておいてはいけないことに気づいたからです。国家は今や、自らを守るために自らの領分を部分的に放棄せねばならない、地球規模の問題解決のためにグローバルな「主権」を求める必要性に気づいたのです。

 それはまだ一部の人たちの間だけかもしれません。しかし「地球温暖化問題」にしても「核兵器不拡散」「核兵器禁止」問題にしても、まったなしの緊迫度を増してきています。

 「有限な資源の配分を制限のない競争に任すシステム」に変わって「自らの領分を部分的に放棄する」「地球規模の問題解決のためにグローバルな『主権』」を認めるシステムに改変する必要性に迫られているのです。                                          (つづく)

(この稿は福嶋亮大著『ハロー、ユーラシア』を一部参考にしています

 

 

 

 

 

2022年1月10日月曜日

老いるという生き方

  明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

 昨年めでたく傘寿を迎えることができました。毎日ご飯を美味しくいただいて健康に暮らしています、有りがたいことです。

 最近思うのですが子供のころ、年寄りは今よりずっと大事にされていましたし尊敬もされていたのではないか、それにくらべて昨今の年寄りの扱いのなんと「ぞんざい」なことか、と。そのせいもあって年寄り自身が「老い」を厭(いと)うようになって「アンチエイジング」とか「エイジングケア」だとか老いることに抵抗するようになっています。昼間のテレビを見ているとやれ「眼のかすみ、ぼやけ防止」とか「物忘れ防止」、「ひざ、腰痛防止」など年寄り向けのクスリや健康食品の広告であふれているのは驚くばかりです。なかでも「睡眠不良改善薬」には笑ってしまいます、だってそうでしょう、朝からソファで横になってテレビばっかり見て、飯食ってクソして、それで一日暮れてしまうような生活をしていてグッスリ眠れるわけがないではないですか。動いていないのですからセイゼイ4、5時間も眠っておられれば上等で浅い眠りになって当然なのです。それを薬まがいで8時間熟睡しようというのですからバチ当り、横着というのです。大体若い人の負担で後期高齢者は医療費一割負担という恩恵を受けて毎月高い薬を投与されていながらそれを完全にノミもせず捨ててしまったり、中には横流しして売り払う輩もいるらしい。そうでありながら効きもしない健康食品や薬まがいに毎月3千円も5千円も支払うというのはスジちがい、恩知らずというものです。

 

 考えてみれば年寄りが増えすぎたのです。平均寿命も延びました、戦後すぐには60才にも満たなかったのが今や男81.64才女87.74才(2020年)というのですからスゴイものです。当然年寄り(65才以上)の割合も増えていて1950年4.9%だったものが2020年には28.7%までになっています。ということは子どものころお年寄りと思っていたひとたちは今でいえば85才以上(2020年総人口比5.2%)が「年寄り」と呼ばれる年齢といっていいほどに寿命が延びたのです。

 考えてみれば食事が良くなりました。いや今になってみると良いといっていいかは疑問の向きもありますがとにかく食材と料理の種類が豊富にはなっています。「粗衣粗食」という言葉は死語になり「飽食時代」などといわれるバチ当りな時代になりました。医療も驚異的に進歩しました。いやしかしそれを進歩といっていいかは首を傾(かし)げる時代になってきているかもしれません。「死生観」が変わったからです。「生老病死」「愛別離苦」が死生観であったし人生観でもあった時代――死というものに対して『諦念』をもって従容と受け容れていた親の世代から「老いと病」に『抗(あらが)う』人生観にわれわれは知らず知らずになってしまっているのです。徐々に食が細くなって衰弱して死に至る、こんな「穏やかな死」は今や『貴重』になっています。大体死を見守ってくれていた大勢の家族が、医者や看護師さん、介護士さんになっています。

 

 社会保障の理想像として「揺りかごから墓場まで」と言われた時代がありました。もともとはイギリスの政策を表したのですが戦後わが国社会保障の目ざすべき姿として標榜されました。現状は「墓場まで」は実現されたのに対して「揺りかごから」の部分が不十分だということに世間の目が向いてきて政治もやっと本格的に取り組み始めたようです。

 「揺りかごから墓場まで」という社会保障政策がなぜイギリスで生まれたかを考えてみると、イギリスで芽ばえた資本主義が産業革命で一挙にその本質を先鋭化したのです。すなわち何の制約も加えず「資本の論理」だけが暴走すると途方もない「格差」を生みだすということを。この間の事情はイギリスの国民作家チャールズJ・H・ディケンズの作品に詳らかに描かれていますが、富は一部の資本家に集中して労働者の生活はどん底の極貧を強いられ都市インフラの整備は脆弱で衛生管理は劣悪、道路にはゴミが放置され不衛生で伝染病が蔓延する最悪の社会情勢になったのです。明治維新前後にわが国を訪れた英国人などの外国人の日記やレポートには「日本という国は衛生的で美しく礼儀正しく穏やかな民衆は仲良く子ども思いである」と驚嘆しています。

 不平等で貧しすぎる大衆の存在は社会不安を極度に高めいつ革命が起こるかも分からないほどの緊迫感でイギリス全土を覆いました。そこで政治家の打ち出した政策が「分配の平等化」であり不平等な所得を再分配によって「揺りかごから墓場まで」大衆に保障することだったのです。その財政を支えたのはイギリスの「植民地主義」です。植民地からの収奪を自国の大衆救済のために費消するという構図が18世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスだったのです。戦後植民地を放棄したために財政が成り行かなくなってこの制度を破壊したのがサッチャーです。

 

 わが国の不平等は高度成長時代には「分厚い中産階級」の存在によって社会的許容範囲に収まっていました。大衆消費社会の出現は「老い」さえも『商品化』してしまいます。「長生き」もお金で買える『もの化』したのです。社会保障の天井知らずな拡充によって一般大衆にも「老いと介護」の『商品化』の恩恵をもたらしますが「負担」には限度があります。社会保障の「臨界点」がすぐそこに迫ってきています。

 

 「老いと介護」を他人事として社会(政治)任せにしておけばいい時代は終わろうとしています。医療の進歩が「快適な老い」を提供してくれるという楽観主義の現実性が揺らいでいます。老いを「生き方」として自身が引き受けざるを得ない状況になりつつあります。「百才時代」は老後(85才以降)の15年の生き方を真剣に自分の問題として意識的に取り組み答を導くよう迫っているのです。衰えをどのようにして遅らせるか、手なづけるか。社会とのつながりをどう保っていくのか。「生きがい」をどこに見いだすのか。人間としての尊厳とどう対していくのか。

 

 年賀状が配達不能で返ってきたときの不安感、ひょっとしてあいつ逝ったか……。早寐の私が目覚め、襖一枚隔てた隣室から宵っ張りの妻の寝息が聞こえたときの安堵感。 

 偕老同穴、愛別離苦、あと五年で私もいよいよ「老境」に入ります。そのとき自分なりの生き方を見いだせているでしょうか。