2023年1月30日月曜日

「常識」の罠

  80年という長さはやっぱり相当なものです、自分がその身になってつくづくそう思います。長い間生きていて変わったものの一番は「常識」です。例えば古い時代劇映画を見ているとセリフの飛んでいる場面に出会うことがあります。差別用語が使われているのでしょう。でも当時はなんのためらいもなく誰もが普通に使っていたのですから差別されていた人たちには辛く悔しい時代だったろうと申し訳ない気持ちにおそわれます。

 最近の例で言えば岸田総理の賃上げ要請です。ご丁寧に「官製春闘」などというデタラメな言葉を平気で使用するマスコミもいますから何をか言わんやですがそれほど給料――賃金の決定が経営者の専権事項になっていて、そのことに誰も「疑問」をもたなくなっているのです。「常識」になっているのです。

 

 「賃金」は「労働の対価」ですから「労働市場」で決まるのが本当――常識であって政治マターではありません。そもそも春「闘」ですから誰かとダレかが「闘う」ものなのであって要請――お願い事ではないのです。それを世間が忘れてしまっているのです。では、誰とダレが闘うのかといえば経営者と労働者です。労働者は一人では無力ですから「労働組合」という団体になって「交渉」――闘うのです。その労働組合の組織率が最盛期(1950年代前後)50%を超えていたものが今や(2021年)16.9%にまで低下しているのですから労働組合の交渉力が地に堕ちて企業側――経営者の一方的な支配力が労働市場を制圧するに至っているのです。労働市場における「労使の競争」が消滅して経営者の一方的な支配の状況に成り果てているのです。

 なぜこんな事態になってしまったのか。バブルが崩壊して、企業の競争力が急激に低下してこのままでは国際競争に勝てないという「危機感」が我が国全体を被うようになって、とにかく「経営の自由度」を高める必要がある――労働が経営の足を引っ張るようなことがあってはいけないという意識が労使で「共有」されて「組合離れ」が起こり組織率が低下に転じて今日に至っているのです。

 もうひとつ「経営の自由度」を高めるために――結果として「成長の成果」の「適正配分=賃上げ」されるように「法人税の減税」も行なわれました。1980年代法人税の引き下げ競争が世界的に拡大して、わが国でも1985年「43.3%」あった税率が2018年には「23.2%」にまで低下しています。

 賃金コストの減少と法人税の減税で「経営の自由度」を高めグロ-バル競争に勝てる体質に企業力を高めるという思惑は見事に失敗して「失われた30年」に陥ってしまいました。「投資の決断」と「賃上げの英断」を下す経営者はなく「懶惰」を経営者の「常態」にしてしまって「内部留保」だけが積み上がり今や500兆円を超えています。無能な経営者の「将来不安」に対する消極的防衛策の塊りです。

 労働市場での「労使の競争」の消滅は企業から「競争力」を奪う結果を招いてしまったのです。

 

 反対に「労使の競争」を促進し労働者が「経営参加」するまでに力をもったのがドイツです。その結果とうとう今年ドイツはGDP世界3位の地位をわが国から奪取するかもしれません。ドイツの労働者の経営参加システムは「共同決定制度・従業員代表制」と呼ばれ「監査役会」の1/2(大企業)または1/3(中企業)を労働者代表にしなければならない制度です。1951年西ドイツ時代に淵源を持つこの制度は1976年拡大共同決定法が施行され現在の形になりました。この制度の力だけではないでしょうがドイツの成長力は、例えば2010年以降の平均成長率は2%を超えています(2.16%)(その間のわが国成長率は1%にも達していません)。

 

 2001年総理に就任した小泉さんは長年の日本型経営で失われた「競争」を復活させるために「規制改革」を推進しました。それを踏襲した安倍さんと菅さん、そして岸田さんの自民党政権はあらゆる「経済政策」を駆使してデフレ脱却、成長回帰を目指しました――ついにはセロ金利、異次元の金融緩和まで動員したのですが結果を上げることはできずここに至ってその悪影響で「異常な物価高」を招いています(ロシアのウクライナ侵攻の影響も否定できませんが)。

 ということは現在わが国が陥っている「成長力ゼロ化」は決して「経済的現象」ではないと結果づけてもいいのではないでしょうか。ゼロ金利、異次元の金融緩和を10年以上も継続して行うという措置は究極の「経済対策」をほどこしたといっていいと思うのです。その結果、流通する国債の50%以上を日銀が保有して「国債市場」が成立しない状況を呈したのですから、市場が日銀に代表されるわが国の経済政策に「ノー」を突き付けていると見ざるを得ないのです。

 

 規制改革で「競争」を喚起して国の成長力を奮い立たせようという考え方は今でも正しいと思います。ところが結果として労働市場での「労使の競争」を消滅させたのは、経営者の経営自由度を高めるために「労働組合を弱体化」させるという政策がまちがっていたのです。反対に緊張感を高めるために「労働者の経営参加」を促進した方が成長力を高めるということをドイツの「共同決定制度」が示唆しています。これは純粋な「経済政策」というよりも「社会経済制度」の変革とみた方が本質をついているのではないでしょうか。

 

 そうした視点でわが国を再点検すると「女性軽視」と「教育の不平等」が浮上します。

 女性の能力をどれほど活用しているかの指標として世界経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ指数」がありますが2022年のスコアは146ヶ国中116位という恥ずかしい結果になっており経済だけでなく政治でも女性の進出――意思決定参画度は先進国中最低です。このことの意味するところは国として甚大な能力の損失を放置しているということです。女性の能力が男性より劣るという「常識」は今や完全に通用しなくなっており女性の優れている分野は多方面にわたっています。大体家事労働と経済活動の両立を完ぺきにこなしているキャリアウーマンが溢れているのに「イクメン」と持ち上げられている男性の家事労働は女性の半分にも満たないのですから女性の能力は男性を凌駕する面も多分にあることは認めねばなりません。

 教育が「親の経済力」に左右されている現状は子ども――若者の能力の不完全活用につながり国全体として「能力廃棄」しているに等しいのです。世界を見渡しても経済を牽引しているのは「若い力」に負うところが大なのですから「教育の機会均等」を実現して誰もが望む「高等教育」を享受できる制度を早急に実現して「教育の競争」を活性化する必要があるのです。

 

 労働者、女性、若者の能力を活用するためにわが国の社会経済制度を変革する。変革をもたらすのは「常識を疑う勇気」です。

 

 

 

 

2023年1月23日月曜日

アメリカってそんなに信用していい国ですか

  年寄りの多くは最近の政治家や企業人に不安を抱いているのではないでしょうか。自衛隊の急速な軍隊化や原発の再稼働・新増設など行政の独断的暴走もありますが、アメリカという国をほとんど『隷属』に近い姿勢で『信用』していることへの不安です。アメリカはまだ250年にも満たない歴史しかもたない『未熟』な「新興国」です。アメリカが「旧大陸」と呼ぶヨーロッパの先進国はアメリカの暴走――たとえば最近でいえばGAFAなどアメリカのIT世界企業の野放図な振る舞いに対しても毅然と「成長に応分な負担」として「課税」を義務付けています。ヨーロッパ先進国以上に不条理な対応をされてきたのがわが国であることは幕末以降の日米関係の歴史を振り返ってみれば明らかです。

 

 幕末アメリカのペリーは4隻の軍艦の威容を浦賀に見せつけ圧倒的な軍事力で威嚇して日米和親条約の強引な締結に追い込みました。朝廷の勅許を得ない幕府の独断専行は尊王攘夷派の激高をよび桜田門外の変によって井伊大老の暗殺とその後の混乱をもたらしたのです。一方ロシアはプチャーチンが1隻の軍艦で下田に寄港し川路聖謨ら日本側外交使節団との国際慣行に則った外交交渉によって日ロ和親条約を締結したのです。

 ABCD包囲網がわが国を太平洋戦争に追い込んだというのは一面的すぎる見方かも知れません。しかし1930年代後半(昭和10年頃)から、海外進出する日本に対抗してアメリカ、イギリス、中国、オランダなどが行なった経済封鎖(石油などの戦略物資の輸出規制・禁止)が日本経済を窮地に追い込みわが国が戦争にかじを切ったのは否定できません。この包囲網を主導したのがアメリカです。

 そして原子爆弾の広島・長崎への投下です。連合国側は1945年7月のポツダム会談においてポツダム宣言に同意していましたから第二次世界大戦終結は共有されていたのです。わが国も終戦の最終的つめに向けて国内調整が進んでおりこの情報は連合国側にも伝わっていたはずです。この状況でなぜアメリカは原子爆弾を使用したのでしょうか。もしこの爆弾の威力が非人間的被害をもたらすものだという認識がアメリカにあった上での原爆投下であったなら絶対に許されるものではありません。もしそれが確たる数値として把握できていなかったから「実験」として軍が使用したとしたら余りにも「非倫理的」です。事実は――アメリカは原爆を武器として戦争に使用したのです。絶対に許されることのない『蛮行』です。韓国がわが国に執拗に「謝罪」を要求するのに比べてわが国はアメリカに対してあまりに「寛容」すぎるのではないでしょうか。

 次は「ニクソンショック」と「米中の頭越し外交」です。1971年8月15日突然アメリカのニクソン大統領がドルと金の交換停止を宣言したのです。それまで兌換紙幣として圧倒的な市場信用を保障していたドルの金による保証が打ち切られたのです。そしてこれをきっかけとして固定相場制から変動相場制へ金融市場が転換することになります。私たちは360円/1ドルという記憶が今でも強く残っていますがこのドル高円安の恩恵の下わが国は戦後の壊滅的破壊から短時日で復興を果たし1955年から1973年の高度成長期を実現できたのです。高度成長が1973年に終わりを迎えていることからも明らかなようにニクソンショックのわが国経済に与えた影響は甚大でした。ニクソンショック、二回にわたる石油危機などの経済危機をわが国経済は国主導の護送船団方式で乗り越えてバブル経済へと進んでいくのですが、製造業の不振を金融経済化によってアメリカ経済が息を吹き返すきっかけになったのは紛れもなくニクソンショックであり、わが国経済がこれによって経済構造を強制転換させられたのは否めません。

 1971年7月15日ニクソン訪中が事前発表されましたが緊密な同盟関係にあるはずのわが国への通知はその僅か数十分前でした。翌年2月に訪中は実現し1979年米中国交は正常化し冷戦の終結へ大きく転換していくのです。田中訪中は1972年9月で日中正常化も進みますが、頭越し外交は日米の同盟関係が米中国交正常化よりも下位にしか認識されていないという事実をあからさまに突き付けたことを鮮明に記憶しています。

 米軍駐留経費の受入国負担の国別比較は両国の力関係(従属度)を反映する一つの指標になると考えられますが、これがわが国の異常に高率な負担になっているのです。日本約75%、韓国、イタリア約40%、ドイツ30%強と突出しています。ここにきて岸田総理が防衛費GDP2%に増額、今後5年間で43兆円増額と表明しましたがこれでわが国はアメリカ国防予算の肩代わりを務めることになりますから、結果としてわが国の対米追従はますます深まりまさに「隷属的地位」になるのではないでしょうか。隷属を表す他の指標として「日米地位協定」があります。わが国とヨーロッパを比較してみると、国内法の適用はわが国以外は「原則適用」となっており、更に管理権について基地内立ち入りに関してわが国以外は原則立ち入り権を確保しています。なぜわが国だけがかくも「隷属的地位」に甘んじなければならないのでしょうか。

 最後に「年次改革要望書」について考えてみます。これは両国の経済発展を推進するために改善が必要とされる規制や制度の問題点を互いに要望しあう制度で2001年からスタートし2009年の鳩山政権で廃止されました。しかし淵源は1993年の宮沢・クリントン時代に遡り廃止されたとはいえいまだに形を変えて復活、存続がささやかれています。小泉総理時代に行われたいろいろな「規制改革」はこれにもとづくものであり、これによって日本経済は金融を中心にアメリカに侵食され「失われた30年」に追い込まれたのです。

 

 ざっと思いつくだけでもこれだけアメリカのわが国に対する裏切りや暴力的介入があるのです。頭越しの米中外交を思う時、アメリカ経済が中国排除を進めた結果経済不振に陥れば再び頭越しに中国との経済関係修復をされる可能性は決してゼロではありません。そのとき中国敵視を打ち出している現政権の政策のままで中国経済抜きの成長を成し遂げることができるのでしょうか。

 

 アメリカは『未熟』な国です。この百年間、覇権はイギリスからアメリカに移りその圧倒的な経済力と軍事力を背景に「世界の警察国家」として振舞いましたが力の外交――軍事介入したほとんどすべての「紛争」は解決に失敗しています。国力低下した今、軍事的同盟関係とブロック経済で対中「勢力均衡」を図ろうとしていますが「破綻」する可能性の方が高いでしょう。

 

 「均衡」ではなく「共同」への「第3の道」へ世界を先導する政治家が世界から、そしてわが国から出てくることを期待せずにはいられません。

 

 

2023年1月16日月曜日

おもちゃがない

  8ヶ月を超えた孫は「人見知り」真っ最中、月に2回ほどしか会っていない私は致し方ないとしても、娘に頼まれてホイホイと嬉しそうに世話しに通っている妻には少々気の毒な気もしますが徐々に見知り度が緩和してきていますからもうちょっとの辛抱と我慢しているようです。赤ちゃんのこの時期はやっと他者の認識ができるようになって「母親」という絶対的な保護者に依存する成長段階ですから「人見知り」は大事な過程です。周りのおとなの辛抱強い愛情が必要な時期でもあります。

 

 お年玉に「たいこ」をあげようと、珍しく妻と意見が一致して探したのですがこれが難事業でした。胴が木製で革をはった昔ながらの「太鼓」をイメージしてあちこち探し歩いたのですがありません。そもそもいわゆる「おもちゃ屋さん」がないのです。ゲーム機やゲームソフトを扱っている玩具店や大型玩具ストアはあるのですがそんなところに和風太鼓はあるはずもなく、ほとんどのおもちゃは電池式電子音付きのタイプばかりです。それでもなんとか見つけた大型店のすみっこに陳列してあったプラスチック製の片側だけ「面」のある「たいこ」には「3才~」というシールが印刷してありましたが他にイメージに合う「たいこ」がなかったのでこれに決めました。

 はじめて子ども連れで正月挨拶にきた娘夫婦はそれなりの雰囲気をただよわせていてなかなかのものでした。予想通りシクシク泣き出した孫でしたが案外早く場になじんで、大勢にかまってもらって満足な様子であっちへいったりこっちにきたりと愛想をふりまいています。頃合いを見計らって「たいこ」を見せたのですがほとんど興味を示さないばかりか、ではと「堂本ひさお(尚郎)」の画集を渡すとこれが気に入って分厚い本を手当たり次第にページめくりしはじめたのです。装丁がしっかりしていて表紙がちょうどいい厚さでめくりやすく中身の絵のページがしっかり目のアート紙で手に合ったのでしょうか、抽象画に見入っているようにおとなしくしていたのが突然ビリビリと破ってしまったのです。そして破いた紙片をヒラヒラさせたりじっと見つめたりしているのです。パタンと表紙を閉じてまた切れ端をはさんだりとしばらく遊んでいました。「おとうさん、これ3才以上て書いてあるやん」、箱の年令制限をみて娘はちょっとムリかなといいながら「たいこ」を持って帰りました。

 ところが翌日娘から動画付きで届いたLINEには、付属部品を一切取り外した「たいこ」だけを投げつけたり転がしたりしてキャッキャと笑い転げている孫の姿がありました。投げつけるたびにドンドンと太鼓の音がしてコロコロしていく後を笑い声をあげながら素早くハイハイで追いかけていく姿はシンから楽しんでいるように感じられました。「スティックとヒモは危ないからはずしたら急に遊ばはるようになった」と娘の説明。孫はおとなたちの「押しつけの遊び」を否定して思いもかけない「あそび」を発明したのです。

 

 この太鼓にはスティック2本とヒモが付いていて、太鼓を首から吊るして2本のスティックで叩きながらブラスバンドのように行進する「あそび」をイメージして「3才~」の「おもちゃ」と設定したのでしょう。しかし我が孫はそうした大人の思惑をはみ出たところで0才8ヶ月なりの遊びを見出したのです。これは「叩く」ことに興味をもって床といわず壁といわずテーブルも箱も叩きまくっている孫の姿に「よし太鼓をお年玉にやろう」と思い込んだジジ、ババの思いとそれとも知らない孫がとんでもないあそびを発明したのです。

 大体子どもの遊びが「おとなの制限」内におさまると考える方がおかしいのです。「ゲーム」の悪影響でしょう。子どもはいつでもおとなの思惑を超えて手こずらせてきました。大人の考える「遊び道具」がひとつもない状況でも子どもはあそびを発明し勝手に楽しむものです。それでこそ「子ども」なのです。与えられる「おもちゃ」は少なくて子どもたちが思い思いで「つくり出した」遊び――道具のある場合もない場合も――で楽しんだものでした。それがいつの間にか「全部」が「与えられた」おもちゃで遊ぶようになったのです。「3才以上」という「制限付きおもちゃ」ばかりになってしまってその結果年齢と共に「おもちゃ」は増え続け、子ども部屋の一角は使われなくなったおもちゃの収納場所に成り果てているのです。

 

 大人は「無批判」におもちゃ屋さんの年齢制限を受け入れて「年齢制限シール」の貼ってあるおもちゃを与えてそれで良しとしています。その結果本来なら「プラスティック太鼓」単体で1000円から1200円で買えるおもちゃがスティック2本とヒモ付きの「3才~」の「知育おもちゃ」に形をかえて「2300円」で買わされているのです。「福笑い」が輸入物の「福笑い」にとって変わって「顔プレート3枚」と「顔部位」が50個ついて4300円になっておもちゃ売り場に並んでいるのです。

 

 今の社会は「シール(レッテル)」――「レッテル社会」になってしまっています。幼稚園から「名門」というレッテルがあってそれが小学校から大学まで拡張されてそのゴールは「大企業」というレッテルに結びつくのです。「あそび」は「買う」もの「消費するもの」に成り果てて「年齢制限付き知育おもちゃ」から「ゲーム」になって「ディズニーランド」と「USJ]になり「パック旅行」までがラインナップされた「商品」が提供されています。そうでありながら「創造力」のある人材が求められ「失われた30年」からの脱却は「創造力」をもった「若者」が救うのだと「教育改革」がすすめられているのです。 

 

 「3才以上」と制限のつけられた「たいこ」を投げて音と転がりを楽しんで、ジジの画集を乱暴にめくり遊んでページを破いて喜んでいる8ヶ月の孫。このまま成長して欲しいと願いながら「変わった奴」と「仲間はずれ」にされるのではないかと心配している「ジジとババ」が世の中にどれほどいるのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月9日月曜日

隠居という覚悟

  最近使わなくなった言葉に「隠居」があります。50年頃前までは近所に一人や二人暇な年寄りがいて日がな一日ブラブラしているのを見かけたものです。家業を息子に譲って悠々自適、散歩したりたまに釣りをしたりの毎日を送っているのを、よく飽きないものだと感心してみていました。随分高齢のように思っていましたが当時の平均寿命はまだ70才にもなっていませんでしたから多分60才半ばだったにちがいありません。

 さかのぼって江戸時代のご隠居さんの楽しみは「家作」でした。若い時は「女」、中年で「習いごと」、歳をいったら「家作」というのが男の道楽とされていたのです。江戸時代の商家や農家の敷地は今とは比較にならないほど広かったから離れに隠居処をつくることなど造作もありませんでしたしひっそりと独りを楽しみたい向きには少し離れた郊外――根岸あたりに隠居宅をつくって庭いじりをしたり襖絵を贔屓の絵師に描かせたりして家づくりを楽しむのが隠居の暮しぶりだったのです。

 

 人口のほとんどが「勤め人」になった今では生涯給与が隠居処をつくるほどの高額ではありませんから「家作」を楽しむなど夢物語ですが、では稼ぎをはなれた「晩年」をどう過ごせばいいのか?「後期高齢者」に突き付けられた「難問」です。コロナまでは旅行やグルメで「散財」して「気晴らし」していましたが、しかしそれだけではなにか「虚しさ」がつきまとうのも事実でそれを埋めるために文化講座に参加したり展覧会や音楽会に行って「教養」に浸る人たちが多くなっていたのです。一方では「健康」あっての長生きだと体力自慢の「健康オタク」の派の人も少なくありません。実際「平均寿命(2021年現在)」と「健康寿命(2019年現在)」には相当な差があって現在男性平均寿命81.47才(平均と健康の差8.79才)女性87.57才(12.19才)となっており男性は73才頃から、女性は75才からフレイル(虚弱)になりやがて他人の世話なしでは暮していけなくなるのですから事態は深刻です。人類は長い間「不老長寿」を夢見てきましたが「百才時代」を迎えた現実は夢見たものとは大違いなものになっています。

 

 そんなことを考えていてフト「芸術家」は充実した晩年を過ごしているなぁと思ったのです。彼らはほとんどの人が「生涯現役」でいられます。それはどういう意味か?たとえば「絵描き」の場合体力の衰えはあっても毎日が新たな「発見」と技術の「積み重ね」の毎日であるのではないか。上村松園、小倉遊亀、片岡珠子など女性画家に長寿の方が多いようですが男性にも野見山暁治らがいますし数え上げたら相当な数になるはずです。

 ということは、生活に『中心』があって歳を取っても毎日がそれへの「発見」と「積み重ね」の繰り返しがあれば、充実した晩年を実現できるのではないか。もしそうなら「生活の中心」を持つことが重要になってきます。

 

 友人に「さつき」好きがいます。三十代半ばでさつきを集めはじめた頃は「年寄り臭い」と馬鹿にしたもですが以来営々50年もつづけてくるとその道で一角の存在になっていて今でもさつきの話をするときは楽しそうで羨ましく感じます。千里に住んでいる友人は「野鳥の会」の会員で千里に家を持ってから30年以上野鳥観察が生活の中心になっています。彼らにとって「さつき」も「野鳥」も趣味の域を超えていて知識は年々豊富になっていますし会報などへの投稿であったり研究発表もするほどになっています。

 彼らはさつきや野鳥そのものが好きてあると同時に「知識」を「勉強」することも好きだからこそ今日まで長つづきしてきたのではないでしょうか。

 

 いいおとなになって「勉強が好きです」と言うことに気恥ずかしさがあって、また韜晦することも少なからずあるのではないでしょうか。私もそうした一派でしたから「本好き」と言うことはあっても「勉強好き」を口にすることはありませんでした。しかし小説も読みますが専門書にもっと興味があって、人文系はもとより自然科学ものも十冊に二冊は読んできたこれまでの傾向から「学ぶ」ということが読書の中心だったのではないか?そんな思いに至ったのです。ちょうどその頃NHKで立花隆のドキュメントがあって「私は結局勉強が好きなんですね」と若干のテレを含みながらも堂々と言っているのをみて、やっぱりと納得したのでした。たしか論語にも「学ぶに如かざるなり」とあったように記憶しています。高齢者の中には「勉強好き」が少なからぬ割合でいるはずで私もそのうちのひとりに他ならないのです。

 そんな思いがあったせいでしょうか、昨年『古今和歌集』を窪田空穂の評釈を手引きに半年かけて学ぶという経験をしました。一冊の本をこれほど根を詰めて読んだ経験は一度もなかったのですが古今集がこれほど面白いものだということにこの齢になってはじめて気づきました。そして「日本の古典」を知ることが、今在る自分の深層を探る重要な手がかりになることを実感したのです。

 

 「日本の古典」の精読と人文科学系を主とした専門書と文芸書、この三つを柱とした読書を通じた『学び(勉強)』をこれからの生活の中心としていこう。古今集の次は『伊勢物語』『山家集』『古事記』とプログラムを組んでみるとこれだけでも二年や三年はかかりそうだし十年二十年では読み切れないほど「古典」は尽きることがありません。専門書も「無意識(言葉になる以前)」系と「天皇(権力の維持装置としての)」系をテーマにしていますが「極める」にはどれだけ時間があっても足りることはありません。すぐれた文芸書は新旧無数に存在しています。

 「学び」を生活の中心に据えてこれからの人生を考えたとき「無限の時間」が相手であることに気づきました。そして、だからこの作業は「いつ休(や)んでも仕方ないのだ」という「諦念」も感じたのです。しかしそれまでは全力を尽くして取り組もう、止める時が来ても悔いを残さないように真面目にやろう、勿論楽しみながら。そんな『覚悟』が心のどこかに生まれる感覚ははじめての経験でした。

 

 いつ死んでもいいなどと考えたことはこれまで一度もありませんでした。しかし「学び」の『覚悟』が芽ばえたとき、ひょっとしたらこれをひとは「いつ死んでもいい」と表現するのかもしれないと思いました。健康であるうちは挑みつづけていこう、でも「極める」ことはないであろうから「休んだところ」が『終わり』になるのだと納得できたのです。

 さつき好きも野鳥の会もそんな覚悟で「隠居」生活を満喫しているのでしょうか。ご同輩、仲良くのんびりいきましょう、晩年を。

 

 

2023年1月2日月曜日

八十才になると

 昨年一年八十才を生きてみて「歳をとるっていいことだなぁ」と思うようになりました(12月2日で81才ですが)。

 勿論わが家では初孫の誕生や長女のマンション購入などめでたいこともありましたし私自身も父の三十三回忌を務めて一応長男としての役目を果たすことができて安堵と解放感を得るという事情もあったのですが、それを差し引いてもそう感じるのです。コロナという特殊事情も大いに影響しているのはまちがいありませんが、「ムダなもの」が無くても生きていける、それも結構楽しく暮らせるのだということを知ったのです。

 生きていく上で欠かすことのできないもの、最低限の衣食住を満たすもの以外をムダとすれば、たとえば旅行であったりショッピングのような「お金を費う愉しみ」を私たちは長い間「豊かさ」と誤解してきました。しかし「コロナ自粛」は強制的にそうした「快楽」を「強奪」してしまったのです。考えてみると戦後の窮極の「貧しさ」から脱却するために懸命に働いて「成長」という「果実」を獲て、「持ち家」「3種の神器(3C・カラーテレビ、カー、クーラー)」という「欲望」を提供されて、それを手に入いれることで「幸せ」になれると「幻想」してここまで来ました。国内旅行が海外旅行へ、規格品がブランド品へ、義務教育から名門大学へと欲望は膨張の一途をたどりました。「世界第二位のGDP」に上りつめ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という称号も獲得できました。しかし「バブル崩壊」で一挙にどん底に突き落とされ、以来「失われた30年」がつづくなか更に「コロナ」という災厄に打ちひしがれたのです。

 しかし、そこで、われわれは「ムダなもの」はなくても生きていける、それも結構楽しく生きられるということに気づいたのです。

 

 そんなことが言えるのは「年金生活者」だからだと決めつけられればそうなのでしょう。そうだと思います。仕事もせずに毎月生活に困らないだけの年金が支給されるのですから結構なご身分です。でもこれまでは「安い」だの「もっと増やして欲しい」とか文句ばかり言い募っていた年寄り連中も、コロナ不況で失職に追い込まれて困窮する若い人たちの窮状を間近に見て「贅沢」を言ったら申し訳ないという気持ちになったというわけです。

 気づけば戦後間もないころと同じように「半径1キロの生活圏」を歩きと自転車で過ごして、毎朝の散歩で行き通っている何の変哲もない町の公園が春の桜も秋の紅葉も美しいことに気づき、妻の手作りの料理でのむ「家呑み」で十分酔えることを知り、バーでなく互いの家を訪ねあう友人同志二三人の飲み会が半年一回もあればそれが愉しみでそこで交わされる会話の中で刺戟を受ける心地よさを知ったのです。

 ムダを削ぎ落した「コロナ生活」。その結果仕事を失った若い人たち。非正規雇用でアルバイトを2つも3つもかけ持ってようやく生活できていたシングルマザー。そんな人たちをドン底に追い込んだコロナは「ムダを生産」しなければ「成長」できない、成長しつづけなければ成立しない「資本主義」という制度の欠陥を剥き出しにしました。そして「市場の自由」にまかせた「資源配分」で運営される「資本主義」では「コロナワクチン」が貧しい国には行き渡らないことも分かったのです。

 

 「ムダなものを生産しなくても成り立つ資本主義」と「市場の自由な資源配分にまかさない資本主義」。これを創造することが「21世紀の課題」なのです。

 

 2022年は「プーチンの狂気――ウクライナ戦争」の年でした。しかしロシアだけでなく世界中で「行政の暴走」が蹂躙しています。プーチンも習近平も金正恩も独裁者ですから行政だけでなく立法権も司法権も独占していますがトランプの「行政の暴走」は近々指弾されることでしょう。そしてわが国の安倍、菅の「行政の暴走」は岸田に至って極限に達しました。本来国会で熟議されるべき「軍事大国化」も「原子力発電の縮小から最大活用」への大転換も「内閣の独断」で強行されようとしています。これほどの重大な政策が2021年の総選挙では公約にされていなかったのですからこれは「民主主義の冒涜」以外の何ものでもありません。「新しい資本主義」という美名で国民を欺き「国民の声」に耳をかさず「派閥の領袖の顔色」ばかりをうかがっている「聞く力総理」には本気で「新しい資本主義と民主主義」を構築して欲しいと願って止みません。

 

 明けましておめでとうございます。ウクライナ戦争、コロナ、物価高、軍事大国化、原発利用の拡大と明るい見通しのまったくない2023年を迎えるに当たって何とか希望を見いだそうとしたとき、八十才の昨年一年に感じたことを書いてみようという結論に至りました。実際この三年(コロナが2020年1月にわが国で発症して以来)、恵まれた友人、知人たちとの格差が消滅して一切のわだかまりがなくなったように感じます。あれもこれもと追い立てられるような日々が無聊の一日の連続に変化して、でも、これでもいいかというあきらめ、開き直りがめばえて昨年暮れの「行動制限のない」年末年始にもあわてて海外旅行に出かける友人もなく穏やかな年越しを迎えたようで好ましい新年になったことを喜びながら今年最初のコラムにすることができました。四月には九百回を迎えることができそうで目標の千回を目指して精進していく所存です。

 本年もよろしくお願いいたします。