2023年1月9日月曜日

隠居という覚悟

  最近使わなくなった言葉に「隠居」があります。50年頃前までは近所に一人や二人暇な年寄りがいて日がな一日ブラブラしているのを見かけたものです。家業を息子に譲って悠々自適、散歩したりたまに釣りをしたりの毎日を送っているのを、よく飽きないものだと感心してみていました。随分高齢のように思っていましたが当時の平均寿命はまだ70才にもなっていませんでしたから多分60才半ばだったにちがいありません。

 さかのぼって江戸時代のご隠居さんの楽しみは「家作」でした。若い時は「女」、中年で「習いごと」、歳をいったら「家作」というのが男の道楽とされていたのです。江戸時代の商家や農家の敷地は今とは比較にならないほど広かったから離れに隠居処をつくることなど造作もありませんでしたしひっそりと独りを楽しみたい向きには少し離れた郊外――根岸あたりに隠居宅をつくって庭いじりをしたり襖絵を贔屓の絵師に描かせたりして家づくりを楽しむのが隠居の暮しぶりだったのです。

 

 人口のほとんどが「勤め人」になった今では生涯給与が隠居処をつくるほどの高額ではありませんから「家作」を楽しむなど夢物語ですが、では稼ぎをはなれた「晩年」をどう過ごせばいいのか?「後期高齢者」に突き付けられた「難問」です。コロナまでは旅行やグルメで「散財」して「気晴らし」していましたが、しかしそれだけではなにか「虚しさ」がつきまとうのも事実でそれを埋めるために文化講座に参加したり展覧会や音楽会に行って「教養」に浸る人たちが多くなっていたのです。一方では「健康」あっての長生きだと体力自慢の「健康オタク」の派の人も少なくありません。実際「平均寿命(2021年現在)」と「健康寿命(2019年現在)」には相当な差があって現在男性平均寿命81.47才(平均と健康の差8.79才)女性87.57才(12.19才)となっており男性は73才頃から、女性は75才からフレイル(虚弱)になりやがて他人の世話なしでは暮していけなくなるのですから事態は深刻です。人類は長い間「不老長寿」を夢見てきましたが「百才時代」を迎えた現実は夢見たものとは大違いなものになっています。

 

 そんなことを考えていてフト「芸術家」は充実した晩年を過ごしているなぁと思ったのです。彼らはほとんどの人が「生涯現役」でいられます。それはどういう意味か?たとえば「絵描き」の場合体力の衰えはあっても毎日が新たな「発見」と技術の「積み重ね」の毎日であるのではないか。上村松園、小倉遊亀、片岡珠子など女性画家に長寿の方が多いようですが男性にも野見山暁治らがいますし数え上げたら相当な数になるはずです。

 ということは、生活に『中心』があって歳を取っても毎日がそれへの「発見」と「積み重ね」の繰り返しがあれば、充実した晩年を実現できるのではないか。もしそうなら「生活の中心」を持つことが重要になってきます。

 

 友人に「さつき」好きがいます。三十代半ばでさつきを集めはじめた頃は「年寄り臭い」と馬鹿にしたもですが以来営々50年もつづけてくるとその道で一角の存在になっていて今でもさつきの話をするときは楽しそうで羨ましく感じます。千里に住んでいる友人は「野鳥の会」の会員で千里に家を持ってから30年以上野鳥観察が生活の中心になっています。彼らにとって「さつき」も「野鳥」も趣味の域を超えていて知識は年々豊富になっていますし会報などへの投稿であったり研究発表もするほどになっています。

 彼らはさつきや野鳥そのものが好きてあると同時に「知識」を「勉強」することも好きだからこそ今日まで長つづきしてきたのではないでしょうか。

 

 いいおとなになって「勉強が好きです」と言うことに気恥ずかしさがあって、また韜晦することも少なからずあるのではないでしょうか。私もそうした一派でしたから「本好き」と言うことはあっても「勉強好き」を口にすることはありませんでした。しかし小説も読みますが専門書にもっと興味があって、人文系はもとより自然科学ものも十冊に二冊は読んできたこれまでの傾向から「学ぶ」ということが読書の中心だったのではないか?そんな思いに至ったのです。ちょうどその頃NHKで立花隆のドキュメントがあって「私は結局勉強が好きなんですね」と若干のテレを含みながらも堂々と言っているのをみて、やっぱりと納得したのでした。たしか論語にも「学ぶに如かざるなり」とあったように記憶しています。高齢者の中には「勉強好き」が少なからぬ割合でいるはずで私もそのうちのひとりに他ならないのです。

 そんな思いがあったせいでしょうか、昨年『古今和歌集』を窪田空穂の評釈を手引きに半年かけて学ぶという経験をしました。一冊の本をこれほど根を詰めて読んだ経験は一度もなかったのですが古今集がこれほど面白いものだということにこの齢になってはじめて気づきました。そして「日本の古典」を知ることが、今在る自分の深層を探る重要な手がかりになることを実感したのです。

 

 「日本の古典」の精読と人文科学系を主とした専門書と文芸書、この三つを柱とした読書を通じた『学び(勉強)』をこれからの生活の中心としていこう。古今集の次は『伊勢物語』『山家集』『古事記』とプログラムを組んでみるとこれだけでも二年や三年はかかりそうだし十年二十年では読み切れないほど「古典」は尽きることがありません。専門書も「無意識(言葉になる以前)」系と「天皇(権力の維持装置としての)」系をテーマにしていますが「極める」にはどれだけ時間があっても足りることはありません。すぐれた文芸書は新旧無数に存在しています。

 「学び」を生活の中心に据えてこれからの人生を考えたとき「無限の時間」が相手であることに気づきました。そして、だからこの作業は「いつ休(や)んでも仕方ないのだ」という「諦念」も感じたのです。しかしそれまでは全力を尽くして取り組もう、止める時が来ても悔いを残さないように真面目にやろう、勿論楽しみながら。そんな『覚悟』が心のどこかに生まれる感覚ははじめての経験でした。

 

 いつ死んでもいいなどと考えたことはこれまで一度もありませんでした。しかし「学び」の『覚悟』が芽ばえたとき、ひょっとしたらこれをひとは「いつ死んでもいい」と表現するのかもしれないと思いました。健康であるうちは挑みつづけていこう、でも「極める」ことはないであろうから「休んだところ」が『終わり』になるのだと納得できたのです。

 さつき好きも野鳥の会もそんな覚悟で「隠居」生活を満喫しているのでしょうか。ご同輩、仲良くのんびりいきましょう、晩年を。

 

 

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