2023年1月30日月曜日

「常識」の罠

  80年という長さはやっぱり相当なものです、自分がその身になってつくづくそう思います。長い間生きていて変わったものの一番は「常識」です。例えば古い時代劇映画を見ているとセリフの飛んでいる場面に出会うことがあります。差別用語が使われているのでしょう。でも当時はなんのためらいもなく誰もが普通に使っていたのですから差別されていた人たちには辛く悔しい時代だったろうと申し訳ない気持ちにおそわれます。

 最近の例で言えば岸田総理の賃上げ要請です。ご丁寧に「官製春闘」などというデタラメな言葉を平気で使用するマスコミもいますから何をか言わんやですがそれほど給料――賃金の決定が経営者の専権事項になっていて、そのことに誰も「疑問」をもたなくなっているのです。「常識」になっているのです。

 

 「賃金」は「労働の対価」ですから「労働市場」で決まるのが本当――常識であって政治マターではありません。そもそも春「闘」ですから誰かとダレかが「闘う」ものなのであって要請――お願い事ではないのです。それを世間が忘れてしまっているのです。では、誰とダレが闘うのかといえば経営者と労働者です。労働者は一人では無力ですから「労働組合」という団体になって「交渉」――闘うのです。その労働組合の組織率が最盛期(1950年代前後)50%を超えていたものが今や(2021年)16.9%にまで低下しているのですから労働組合の交渉力が地に堕ちて企業側――経営者の一方的な支配力が労働市場を制圧するに至っているのです。労働市場における「労使の競争」が消滅して経営者の一方的な支配の状況に成り果てているのです。

 なぜこんな事態になってしまったのか。バブルが崩壊して、企業の競争力が急激に低下してこのままでは国際競争に勝てないという「危機感」が我が国全体を被うようになって、とにかく「経営の自由度」を高める必要がある――労働が経営の足を引っ張るようなことがあってはいけないという意識が労使で「共有」されて「組合離れ」が起こり組織率が低下に転じて今日に至っているのです。

 もうひとつ「経営の自由度」を高めるために――結果として「成長の成果」の「適正配分=賃上げ」されるように「法人税の減税」も行なわれました。1980年代法人税の引き下げ競争が世界的に拡大して、わが国でも1985年「43.3%」あった税率が2018年には「23.2%」にまで低下しています。

 賃金コストの減少と法人税の減税で「経営の自由度」を高めグロ-バル競争に勝てる体質に企業力を高めるという思惑は見事に失敗して「失われた30年」に陥ってしまいました。「投資の決断」と「賃上げの英断」を下す経営者はなく「懶惰」を経営者の「常態」にしてしまって「内部留保」だけが積み上がり今や500兆円を超えています。無能な経営者の「将来不安」に対する消極的防衛策の塊りです。

 労働市場での「労使の競争」の消滅は企業から「競争力」を奪う結果を招いてしまったのです。

 

 反対に「労使の競争」を促進し労働者が「経営参加」するまでに力をもったのがドイツです。その結果とうとう今年ドイツはGDP世界3位の地位をわが国から奪取するかもしれません。ドイツの労働者の経営参加システムは「共同決定制度・従業員代表制」と呼ばれ「監査役会」の1/2(大企業)または1/3(中企業)を労働者代表にしなければならない制度です。1951年西ドイツ時代に淵源を持つこの制度は1976年拡大共同決定法が施行され現在の形になりました。この制度の力だけではないでしょうがドイツの成長力は、例えば2010年以降の平均成長率は2%を超えています(2.16%)(その間のわが国成長率は1%にも達していません)。

 

 2001年総理に就任した小泉さんは長年の日本型経営で失われた「競争」を復活させるために「規制改革」を推進しました。それを踏襲した安倍さんと菅さん、そして岸田さんの自民党政権はあらゆる「経済政策」を駆使してデフレ脱却、成長回帰を目指しました――ついにはセロ金利、異次元の金融緩和まで動員したのですが結果を上げることはできずここに至ってその悪影響で「異常な物価高」を招いています(ロシアのウクライナ侵攻の影響も否定できませんが)。

 ということは現在わが国が陥っている「成長力ゼロ化」は決して「経済的現象」ではないと結果づけてもいいのではないでしょうか。ゼロ金利、異次元の金融緩和を10年以上も継続して行うという措置は究極の「経済対策」をほどこしたといっていいと思うのです。その結果、流通する国債の50%以上を日銀が保有して「国債市場」が成立しない状況を呈したのですから、市場が日銀に代表されるわが国の経済政策に「ノー」を突き付けていると見ざるを得ないのです。

 

 規制改革で「競争」を喚起して国の成長力を奮い立たせようという考え方は今でも正しいと思います。ところが結果として労働市場での「労使の競争」を消滅させたのは、経営者の経営自由度を高めるために「労働組合を弱体化」させるという政策がまちがっていたのです。反対に緊張感を高めるために「労働者の経営参加」を促進した方が成長力を高めるということをドイツの「共同決定制度」が示唆しています。これは純粋な「経済政策」というよりも「社会経済制度」の変革とみた方が本質をついているのではないでしょうか。

 

 そうした視点でわが国を再点検すると「女性軽視」と「教育の不平等」が浮上します。

 女性の能力をどれほど活用しているかの指標として世界経済フォーラムの「ジェンダー・ギャップ指数」がありますが2022年のスコアは146ヶ国中116位という恥ずかしい結果になっており経済だけでなく政治でも女性の進出――意思決定参画度は先進国中最低です。このことの意味するところは国として甚大な能力の損失を放置しているということです。女性の能力が男性より劣るという「常識」は今や完全に通用しなくなっており女性の優れている分野は多方面にわたっています。大体家事労働と経済活動の両立を完ぺきにこなしているキャリアウーマンが溢れているのに「イクメン」と持ち上げられている男性の家事労働は女性の半分にも満たないのですから女性の能力は男性を凌駕する面も多分にあることは認めねばなりません。

 教育が「親の経済力」に左右されている現状は子ども――若者の能力の不完全活用につながり国全体として「能力廃棄」しているに等しいのです。世界を見渡しても経済を牽引しているのは「若い力」に負うところが大なのですから「教育の機会均等」を実現して誰もが望む「高等教育」を享受できる制度を早急に実現して「教育の競争」を活性化する必要があるのです。

 

 労働者、女性、若者の能力を活用するためにわが国の社会経済制度を変革する。変革をもたらすのは「常識を疑う勇気」です。

 

 

 

 

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