2021年10月25日月曜日

京都の料亭の料理はなぜ高いか 

  先日BS8の「京都 美食の細道(11月17日)」という放送を観ました。女優の松下奈緒さんがお客様、京都の料亭「木乃婦」の主(あるじ)高橋拓児氏の案内で京の名店のご自慢料理やお菓子、お茶を楽しむという番組は木乃婦の主が相手ということで各店が表面的な応対ではなく調理や接待のオクまで開陳するという趣向になっていました。鱧に鮑、ぐじなどの高級な食材が惜しげもなく使われてお出汁も最上級の昆布、鰹節がふんだんに用いられるうえに下拵えに二日もみっかもかけた料理を贅沢な器に盛り付けるのですから「上等のお料理」がもてなされるのも当然なのだと納得させられます。下賤の身ですから妻と一緒になって「このお料理、最低でも二万円はするな」「そんなんで食べられますか」などと下世話な感想を述べながら二時間の番組を堪能しました。

 

 そして思ったことは「これは商品ではない」ということです。「最小のコストで顧客満足を実現して利益の最大化を図る」、そんな哲学はここにはないのです。「十分儲けてもらいましょう、その代わりもっと美味しいものをつくってくださいね」というお客に「ご満足していただけましたでしょうか。この次もお待ちしております」と応えるお店。料理を介して「快楽」と「研鑽」というお金で買えないもの、お金を超えたもの――『贈与』の『交換』が行なわれているのだと思いました。そしてこれは「市場」ではなく「部族」の「思考」ではないかと考えたのです。部族というのは祖先を同じにした血族共同体ですが、京都という街はつい最近まで部族の「しっぽ」を頑固に継承してきた土地柄だと思うのです。「京料理」はそうした「部族文化」の代表ですが「西陣織」もその一つです。細かく見れば100以上も工程があると言われていますが、これはある意味で「西陣村」という血縁共同体がお互いに相手を思いやりながら繁栄を永続させようと図った汗の結晶です。「コストの最小化・最適化」をしようとするなら工程の合理化が図られて当然ですがそうすると各工程に蓄積されてきた技術が「減耗・消滅」するおそれがある、そうなると「西陣織」という「ブランド」が傷ついてしまう、「高いけれども西陣織だから」と「高価を納得づくで買ってくれる――顧客満足」が得られなくなる。短期ではコストカットが実現して利益向上があっても長期で見れば価格下落を招いて「西陣織」の高級志向が減少・消滅してしまう。そう考えると「古いまま」の西陣織工程を順守しつづけた方が賢明な道になるわけです。

 

 私たちはこの五十年ほどのあいだわが国が守っていかなければならない『価値』を考えもなく無造作に捨ててきたように思います。その代わりずいぶんと『便利』は手に入れました。安いもの、簡単に手に入るものばかりを求めた結果多くの「仕事」が消えていきました。スーパーとコンビニと百円ショップばかりが栄えておっちゃんおばちゃん、おねえさんおにいさんと「いいのが入ったよ」「じゃあ貰おうか」という毎日の生活の楽しみと安らぎを失ってしまいました。

 

 弟子修行を何年、十何年とかけて技術を習得しなければならない仕事が減って、アルバイトですぐにでも出来る簡単な職種が多くなって失業率は減ったけれども「給料」は少なくなってしまいました。回転寿司や外食チェーン店の「お手軽な」イタメシやハンバーグは毎週のように家族で食べていますが、料亭やレストランの「おまかせ」や「コース」料理は一生に一度も食べたことがないという若い人が増えたのではないでしょうか。テレビ創世記に放送されたフランキー堺主演の、町の靴屋さん(?)が一年間節約に節約を重ねてお金を貯めて年に一回だけレストランで豪遊するというドラマを覚えていますが、どっちが幸福なんでしょうね。

 

 救いはあります。「ネット販売」です。つぶれかけていた京都の「螺鈿」のお店がネット展開して世界中のファンが商品を求めているというニュースを見ましたがこんな話は少なくありません。今後もこうした例は増え続けることでしょう。機能化した廉価な商品に飽きた消費者はいづれ機能以外の「サムシング」のある商品が欲しくなるのです。わが国にはそうした商品が数多くありました。それがどんどん「グローバル化」で消されてきましたが、今ならまだ間に合います、なんとか継承していきましょう。地方活性化のひとつのあり方がここにあると思います。

 

 終戦直後の貧しさは今の比ではありませんでした。それに堪えることができたのは、皆が貧乏だったし未来に希望があったからです。現状は不公平で明日良くなるという保証がありません。生きづらい世の中になったのもです。               

2021年10月18日月曜日

さいとう・たかをと司馬遼太郎

  さいとう・たかをさんが亡くなりました。誠に残念であり心から御悔やみ申し上げます。彼の最大の功績は「マンガ」を大人のメディアにしたことです。そのために「劇画」という造語を発明し定着させました。もし彼がいなかったらマンガが日本のサブカルチャーとして世界に発信されることはなかったでしょうし、したがって「コスプレ」文化もこんなに大々的に流行しなかったでしょう。何よりも「ゲーム」が産業としてここまで成長することは考えられなかったでしょうから、そうなると現在の世界経済はまったく様子が変わっていたことは確実です。すぎやまこういちさんの劇画音楽というジャンルも出来ていなかったわけで……、なんて考えてくるとつくづくさいとう・たかをという人の偉大さが浮かびあがってきます。最近のテレビドラマの原作にマンガが多いですがおとなの鑑賞に耐えるマンガがあればこそで、そう考えるとテレビのあり方さいとうさんは影響を与えていることになって、マンガ「大人の文化」にしたさいとう・たかをさんはつくづくい存在だったのだと思い知らされます。

 

 おとなのマンガのはしりは白土三平の『カムイ伝(19641971)』(「月刊漫画ガロ」)です。(のちに『カムイ外伝』となって週刊少年サンデー(小学館)の掲載になります)。『巨人の星(19661971)』の連載が「週刊少年マガジン(講談社)」で1966年にはじまりそれを追って『あしたのジョー(19681973)』が同じ「週刊少年マガジン」で連載されることによって少年漫画雑誌をおとなが買うようになるのです。1964年に東京の広告会社に入社した私はエラリークイン(の探偵小説)の回し読みサークルをつくるのですがやがてそこに「少年サンデー」が加わります。広告会社というある意味「知的な」会社の若手の社員が漫画などを読むということで一部上層部のヒンシュクを買うのですが、1968年に小学館が「ビッグコミック」を創刊するようになり「こんなものが流行ると思うかい」と私のところへ雑誌部の部長が「ご意見拝聴」に及んで我が社で「マンガ」がおとなの読み物として認知に至ります。

 「あしたのジョー」のライバル力石徹が連載中に死ぬのですがその葬儀が講談社で行われます。それは詩人で作家の寺山修司の発案で唐十郎やその他の少なからぬ知識人も参加したというのですから「マンガ」はほとんど「おとなのメディア」に成長していました。それを決定づけたのが『ゴルゴ13』だったのです。ビッグコミック創刊から同誌の看板作品としてスタートした同作はたちまち人気を博し以来53年間人気は衰えることなく今日につづいているのですからギネスに賞されるのも当然でしょう。

 

 今でも強く印象に残っているのは「水素自動車」の開発に関わる一作です。開発はすでに終わっていて生産を待つばかりなのですが開発者が暗殺され市場化は闇に葬られてしまいます。暗躍したのは「石油メジャー」です。水素自動車の有効性がガソリン車を凌駕することを知った石油メジャーは世界経済を牛耳る存在感を脅かされると考え開発者の暗殺をスナイパー――ゴルゴ13に依頼するのです。さいとうさんは「ゴルゴ13」で水素自動車のメカを詳細に描き、そのリアリティは説得力に富み、実現性の近いことを訴えますから石油メジャーの焦りが緊張感をもって迫ってきます。当時の経済情勢を考えると――30年前頃のことで石油産業の世界経済に占める重要性は最高位にあった状況でしたから、水素自動車が出現すれば石油メジャーの威信は一挙に壊滅するにちがいありません。開発者暗殺にリアリティを感じさせるのに十分でした。

 そして今、トヨタが水素自動車を市場化しようと動き始めました。カーボンニュートラルが世界の潮流となり電気自動車が主流となった今頃水素自動車は市場競争に耐えることができるのでしょうか。とはいえ「石油メジャー」に被害が及ばないことだけは確かです。なんというタイミングでしょうか。さいとう・たかをの「慧眼」恐るべし!

 

 『ゴルゴ13』で勉強したという人は結構多いでしょう。特に世界の政治情勢を学んだという人や中東情勢を教えられた人は少なくありません。わが国政治の重鎮――麻生太郎氏もそのうちの一人であることは周知ですし彼も公言して憚らないのですから実際そうなのでしょう。

 しかしさいとうさんは「歴史家」ではありません。知識は豊富ですしジャーナリスティックな存在ですから「虚偽」を書くということはなかったでしょうが彼が書いたのはあくまでも「フィクション」です、歴史の真実ではありません。入り口として中東情勢へ導く存在としては絶大だったと思いますが中東情勢を本当に学ぶならさいとう・たかをで止まらず次のステップに進むのが本当でしょうし、政治家であったら当然だと思うのですが彼が――麻生さんが「井筒俊彦」を読んだということは伝えられていません。

 

 同じようなことは司馬遼太郎さんにも言えます。司馬さんは国民的作家と言われるほどファンをもっており彼によって歴史を見る眼が変わったという人は多くいます。知識の多さは驚異的で読書量に至っては彼が何か新しいテーマに取り組むと行きつけの本屋の関係する書棚の本が一切合切漁りつくされていく――書棚が一つまるまる空になったという伝説があるほどです。また彼は新聞記者の出ですから簡明な文章で分かり易く伝えてくれますから取っつきやすい作家でもありました。しかし彼の本質はジャーナリストで「歴史家」ではありませんから彼の著作を読んで歴史を学んだというのは錯覚でしかありません。やはり本当に歴史を学ぶのなら網野義彦や宮崎市定は最低でも繙くべき著述家です。

 

 さいとうさんも司馬さんも魅力に富んだ作家ですしその視野は広く知識量も豊富です。しかしさいとうさんも司馬さんも自分たちを先導者としてさらに先に進んでくれるのを望んでいたのではないでしょうか。そして彼らが愛した日本の未来が誤まった道を歩まないように歴史を正しく見、「批判的な眼」で政治を考えることを望んでいたように思うのです。

 

 さいとう・たかをと司馬遼太郎。彼らが現代日本に刻んだ足跡は偉大であったと心から悼まずにはいられません。

 

 

 

2021年10月11日月曜日

赤ちゃんは皆早産で生まれる

  馬の出産場面を見ると涙が出てきます。生み出されてスグに覚束ない四肢を懸命に踏ん張ってくず折れてもくず折れても立ち上がろうとする必死な姿はけなげいたたまれない気持ちになってしまいます。そして失敗をくり返したすえにようやく四本の足で踏ん張り切ったときの感動は関係者でない私でさえ涙ぐんでしまうのですから生産者の方々にとってはどれほどうれしいか想像に難くありません。それにくらべて人間の子どもはどうしてあんなにも未完成でたよりないかたちで生まれてくるのでしょう。そして二年も三年も親の庇護に頼らないとこどもに成らないのでしょうか。

 

 われわれの祖先が二足歩行をはじめたとき、ガニ股で真直ぐに歩くことができず平衡感覚も危なっかしいものでした。そのころの人類は道具や火を使うまでに知能が発達していない弱い存在でしたから、大型の捕食動物から逃れるにはスムースに早く走ることが不可欠でした。足をまっすぐ素早く踏み出して走るには太もものつけ根のはばと骨盤のはばが同じになるように骨盤を狭くする肉体改造が必要だったのです。一方で進化の過程で人類の脳の容量は他の霊長類の3倍ほどに成長しましたから狭くなった骨盤(産道)を子どもに成りきった脳の大きさで産み出されることは不可能なのです。そこで子どもに成り切る前に出産するように人体が変化――進化したのです。それが「早産」で出産するようになった人類進化の過程です。早産――未完成ですから他の哺乳動物のように自力で授乳できませんし母体にしがみつく能力もない状態で産み出されることになったのです。ヨチヨチ歩きできるのが約1才ころ、離乳食は1才半ころまでつづきますからこの時期までは母親は手が離せません。3才になってようやく子どもとしての成長が一段落して親の手が離れる余裕が生まれます。

 当時の人類は「狩猟採集(死肉食)」の発達段階でしたから、男たちは長時間をかけて狩りをするのですが女や子どもたちに与えられる食物の量は決して十分ではありませんでした。ですから「閉経後の女たち」が採集する植物性食物は大事でした。おばあちゃんたちの居住地周辺で採集する食物は有益だったのですが、それ以上に重要な働きは彼女たちの孫の世話でした。彼女たちの子育て支援のおかげで体の丈夫な若い母親たちが遠くまで食物を採集に行けることで群れ全体の食物事情が安定したのです。

 祖母たちのこうした支援は「おばあちゃん仮説」とよばれています。生殖だけが群れでの役割とすると「閉経後の女たち」は無用の存在になるのですが、「おばあちゃん」の子育て支援は彼女たちの余命延長をもたらしたのです。

 

 核家族化が進んで「子育て」負担が母親一人の肩にのしかかっているようですが、これは不自然です。本来「子育て」は群れ全体で行うものです。その際頼りにされるのが「おばあちゃん」の支援です。昭和の中頃までは大家族制が残っていましたから二世代三世代同居が普通でおばあちゃん、おおばあちゃんの支援は自然と行なわれました。それによって産婦の一日も早い職場復帰――農作業(や家業)の労働力として若い母親は戦力として有効活用されたのです。

 大家族が子育てに有効だったのは絶えず幼児の周りにおとな(や大きい子供)がいて、幼児に話しかけたり歌ったりの「はたらきかけ」があったことです。幼児は無防備で無力ですから「安全」の保障が不可欠です。まわりが「無音」になってはたらきかけが無くなるとたちまち「不安」を感じます。不安はストレスになって成長を妨げます。たえず自分が保護されているという安全感が幼児の成長の土台になっているのです。母親の胸に抱かれている、何かの用事で下に置かれるようなときでもいつでも母親からの「声かけ」がある、鼻歌が聞こえる、こうした「接触感」が幼児の成長にどれほど有効かはかり知れません。

 

 これまでの「子育て支援」は幼児保育の無償化に代表されるように、どちからといえば3才から就学前の支援が主力になっていました。しかしほんとうに支援が必要なのはそれ以前、1.5才までが一番重要な時期でさらに3才までがそれに次ぐ支援の必要な期間なのです。3才以降はある程度幼児の生育が固まってからなので「幼児教育支援」と呼んだ方が適切といえるのではないでしょうか。

 

 母親のネグレクトや虐待が幼児の成長に決定的な悪影響を及ぼすのは明らかです。子育て世代の貧困をどうしても防ぐ必要があるのも幼児の生育に不可欠な母親を中心とした家庭の「温かさ」が阻害されるからで、現在育児休業が子どもが1才になるまでになっていますが更なる延長やその他の支援の充実が望まれます。

 

 少子高齢化が進んでいますから少子化は必然として受け入れざるを得ないでしょう。それなら全ての子どもが母親の温かな愛情に包まれて幼児期を過ごせるように、豊かな情操と才能に恵まれた子どもに育つような「子育て支援」を政治も、社会も、家族と一緒になって実現しなければなりません。

 今のように「自助」にまかせていたのでは「全き成長」を日本のすべての子どもにゆきわたらせることは不可能です。

 

2021年10月4日月曜日

父の遺産

  核家族化が定着し女性の社会進出が共働きを一般化した現代では、介護の社会化(他人任せにする)は当然の流れであり受け入れざるを得ない現実でしかし赤の他人が障碍者や高齢者の介護を家族になり替わってお世話するということは決して生やさしいことではありません。特に技術的なことでなく精神的な面で『寄り添う』ということはなかなかできることではないと思うのです。ところが介護職の資格は最短で1.5ヶ月で取得でき、しかも精神面の研修は「心構え」の範囲にとどまっているのは大いに疑問を感じます。

 障碍者施設や老人ホーム、高齢者施設で虐待が絶えないのはこうした資格取得の安易さにあると考えるのは誤りでしょうか。晩年の父の介護を少しは経験したものとして強くそう思うのです。

 

 フィリップ・ロスの『父の遺産』は死を直前にした父と子の関係をえがいた小説ですが介護の本質を理解する素材としても一級の作品になっています。

 在米ユダヤ系アメリカ人3世の息子と父の話です。ユダヤという人種差別とそれゆえの低学歴というハンデを背負いながら父は生命保険会社の地域責任者にまで上り詰めた成功者です。大学を卒業して作家になった息子ですがそうした人生を歩んできた父の存在はいくつになっても絶対的なのです。その父が86歳になって脳腫瘍に冒されます。長時間を要する手術は年齢的に不可能ですから病状は徐々に進行し、日常生活にも不都合が生じるようになります。しかし頑固でプライドの高い父はその現実を受け入れることができず気ままに振舞います。業を煮やした息子がとうとう一線を越えてしまいます。

 そのとき私は、父に向かって四語を、いままでいっぺんも言ったことのない四語を発したのだった。“Do as I say”――「僕の言う通りにしなさい」と私は父に言った。「セーターを着て、散歩用の靴をはきなさい」

 いくつになっても敬語をつかい、尊敬の念を抱きつづけてきた息子が第一のハードルを越えたのです。父に「指示する」こと、まして「命令する」ことにためらいのあった息子がようやく父を力づくで承服させなければならなくなったのです。

 しかしこのハードルが次へのスッテプの最低限の「苦難」であったことがやがて分かるのです。

 

 自分ではまるで意図していなかったけれど、父の入れ歯を唾液から何からひっくるめて手に取り、ポケットに放り込むことによって、私たち親子のあいだに広がっていた境界線を越えることが私にはできたのだ。もう子供でなくなって以来、当然の成行きとして広がっていった物理的、肉体的な隔たりを、私は一気に縮めてみせたのだ。

 尊敬と畏怖がふたりを隔てていたがゆえに父と息子は母親との関係と根本的に異次元のものとならざるをえません。しかし、老いて病に能力を棄損された父親は信じられないほどの衰えをさらすようになります。

 

 ウンコはあたり一面に広がっていた。バスマットの上に塗りたくったように広がり、便器の縁に沿って伸び、便器の手前の床にも山になっている。(略)結局服を脱いでシャワーに入るまでのあいだに、そこらじゅうにウンコを塗り広げてしまったのである。見れば、洗面台の上のホルダーに立てた私のハブラシの毛先にまでくっついている。/「いいんだよ」と私は言った。「いいんだよ。大丈夫、何とかなるよ」(略)「石鹼をつけて、一からやり直そう」と私は言って、言われた通り父がもう一度体に石鹸を塗りはじめるのを見届けてから、父の服やタオルやバスマットをかき集め、廊下の戸棚に行ってピロケースをひとつ出してそこにまとめて放り込み、ついでにバスタオルをもう一枚出してやった。それから父をシャワーから出し、そのまま廊下まで連れていって、床の汚れていないところで、新しいバスタオルで体を包んで拭いてやった。「父さん頑張ったよ」と私は言った。「でも残念ながらはじめから負けいくさだったみたいだね」/「ウンコもらしちゃったんだよ」(略)「子供たちに言うなよ」(略)「誰にも言わないよ」(略)「クレアにも言うなよ」/「誰にも言わないよ」と私は言った。「心配要らないよ。誰にだったあることさ。もう忘れて、ゆっくり休みなよ」(略)バスルームはまるで、悪意に満ちた暴漢が家じゅうを荒らしまわった末に名刺を残していったという趣だった。父の世話はひとまず済んだわけだし、大事なのは父なのだから、私としてはできることならドアに釘を打ちつけて、こんなバスルームのことなど綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。(略)私は忍び足で寝室に戻っていった。父は眠っている。まだ息をしていて、まだ生きていて、まだ私とともに在る。はるかな昔からずっと、私にとってわが父でありつづけてきたこの男は、いまひとたび新たなる退歩を生きぬいたのだ。私がバスルームに上がっていくまでの、父が一人で自分の体を浄めようとした英雄的な、勝ち目なき苦闘を思うと、ひどく切ない気分になった。父がさぞ自分を恥じ、情けない思いを味わっただろうと思うと、たまらない気持ちになった。けれどそれもこうやって終わり、すやすや眠っている父を見ているうちに、これも私にとっては願ってもない体験ではなかったかという気がしてきた。父が亡くなる前の行ないとして、これもまた、正しい、しかるべき行ないなのだ。子が父のウンコを掃除する。そうするしかないからするのだ。でも、いったんやり終えてみると、あらゆるものが、まったく違ったふうに感じられるようになる。ひとたび嫌悪感を捨て去り、むかつく思いを無視し、原初のタブーのようにがっちり固められたもろもろの先入観をつけ抜けてしまえば、人生には慈しむに足るものがすごくたくさんある。

 そしてこうして、仕事を完了してみて、何故これが正しいのか、なぜしかるべき行ないなのか、私はこの上なく明確に理解した。あれこそが父の遺産なのだ。(略)私にとっての父の遺産。金でもなく、聖句箱でもなく、髭そりマグでもなく、ウンコ。

 

 

 はじめて電車で「どうぞ」と若い人に席を譲られたときのとまどいと恥ずかしさは老いを受け入れなければならない諦念が植えつけられるきっかけなのです。つい最近までほとんど意識することなく行なっていた日常の振舞いに不都合が生じて他人の介助が必要になったときのショックは計り知れないものがあります。衰えは容赦なくせまってきて、そのつど『プライド』が踏みにじられるのです。そんな「老人」の心理の奥底を知ってほしいと「他人」に望むのは無理なことなのでしょうか。

 しかし介護の本質はそこにあるように思うのです。介助の一挙手一投足を律するのはそんな「心の通(かよ)い」があってこそなのです。