2021年10月4日月曜日

父の遺産

  核家族化が定着し女性の社会進出が共働きを一般化した現代では、介護の社会化(他人任せにする)は当然の流れであり受け入れざるを得ない現実でしかし赤の他人が障碍者や高齢者の介護を家族になり替わってお世話するということは決して生やさしいことではありません。特に技術的なことでなく精神的な面で『寄り添う』ということはなかなかできることではないと思うのです。ところが介護職の資格は最短で1.5ヶ月で取得でき、しかも精神面の研修は「心構え」の範囲にとどまっているのは大いに疑問を感じます。

 障碍者施設や老人ホーム、高齢者施設で虐待が絶えないのはこうした資格取得の安易さにあると考えるのは誤りでしょうか。晩年の父の介護を少しは経験したものとして強くそう思うのです。

 

 フィリップ・ロスの『父の遺産』は死を直前にした父と子の関係をえがいた小説ですが介護の本質を理解する素材としても一級の作品になっています。

 在米ユダヤ系アメリカ人3世の息子と父の話です。ユダヤという人種差別とそれゆえの低学歴というハンデを背負いながら父は生命保険会社の地域責任者にまで上り詰めた成功者です。大学を卒業して作家になった息子ですがそうした人生を歩んできた父の存在はいくつになっても絶対的なのです。その父が86歳になって脳腫瘍に冒されます。長時間を要する手術は年齢的に不可能ですから病状は徐々に進行し、日常生活にも不都合が生じるようになります。しかし頑固でプライドの高い父はその現実を受け入れることができず気ままに振舞います。業を煮やした息子がとうとう一線を越えてしまいます。

 そのとき私は、父に向かって四語を、いままでいっぺんも言ったことのない四語を発したのだった。“Do as I say”――「僕の言う通りにしなさい」と私は父に言った。「セーターを着て、散歩用の靴をはきなさい」

 いくつになっても敬語をつかい、尊敬の念を抱きつづけてきた息子が第一のハードルを越えたのです。父に「指示する」こと、まして「命令する」ことにためらいのあった息子がようやく父を力づくで承服させなければならなくなったのです。

 しかしこのハードルが次へのスッテプの最低限の「苦難」であったことがやがて分かるのです。

 

 自分ではまるで意図していなかったけれど、父の入れ歯を唾液から何からひっくるめて手に取り、ポケットに放り込むことによって、私たち親子のあいだに広がっていた境界線を越えることが私にはできたのだ。もう子供でなくなって以来、当然の成行きとして広がっていった物理的、肉体的な隔たりを、私は一気に縮めてみせたのだ。

 尊敬と畏怖がふたりを隔てていたがゆえに父と息子は母親との関係と根本的に異次元のものとならざるをえません。しかし、老いて病に能力を棄損された父親は信じられないほどの衰えをさらすようになります。

 

 ウンコはあたり一面に広がっていた。バスマットの上に塗りたくったように広がり、便器の縁に沿って伸び、便器の手前の床にも山になっている。(略)結局服を脱いでシャワーに入るまでのあいだに、そこらじゅうにウンコを塗り広げてしまったのである。見れば、洗面台の上のホルダーに立てた私のハブラシの毛先にまでくっついている。/「いいんだよ」と私は言った。「いいんだよ。大丈夫、何とかなるよ」(略)「石鹼をつけて、一からやり直そう」と私は言って、言われた通り父がもう一度体に石鹸を塗りはじめるのを見届けてから、父の服やタオルやバスマットをかき集め、廊下の戸棚に行ってピロケースをひとつ出してそこにまとめて放り込み、ついでにバスタオルをもう一枚出してやった。それから父をシャワーから出し、そのまま廊下まで連れていって、床の汚れていないところで、新しいバスタオルで体を包んで拭いてやった。「父さん頑張ったよ」と私は言った。「でも残念ながらはじめから負けいくさだったみたいだね」/「ウンコもらしちゃったんだよ」(略)「子供たちに言うなよ」(略)「誰にも言わないよ」(略)「クレアにも言うなよ」/「誰にも言わないよ」と私は言った。「心配要らないよ。誰にだったあることさ。もう忘れて、ゆっくり休みなよ」(略)バスルームはまるで、悪意に満ちた暴漢が家じゅうを荒らしまわった末に名刺を残していったという趣だった。父の世話はひとまず済んだわけだし、大事なのは父なのだから、私としてはできることならドアに釘を打ちつけて、こんなバスルームのことなど綺麗さっぱり忘れてしまいたかった。(略)私は忍び足で寝室に戻っていった。父は眠っている。まだ息をしていて、まだ生きていて、まだ私とともに在る。はるかな昔からずっと、私にとってわが父でありつづけてきたこの男は、いまひとたび新たなる退歩を生きぬいたのだ。私がバスルームに上がっていくまでの、父が一人で自分の体を浄めようとした英雄的な、勝ち目なき苦闘を思うと、ひどく切ない気分になった。父がさぞ自分を恥じ、情けない思いを味わっただろうと思うと、たまらない気持ちになった。けれどそれもこうやって終わり、すやすや眠っている父を見ているうちに、これも私にとっては願ってもない体験ではなかったかという気がしてきた。父が亡くなる前の行ないとして、これもまた、正しい、しかるべき行ないなのだ。子が父のウンコを掃除する。そうするしかないからするのだ。でも、いったんやり終えてみると、あらゆるものが、まったく違ったふうに感じられるようになる。ひとたび嫌悪感を捨て去り、むかつく思いを無視し、原初のタブーのようにがっちり固められたもろもろの先入観をつけ抜けてしまえば、人生には慈しむに足るものがすごくたくさんある。

 そしてこうして、仕事を完了してみて、何故これが正しいのか、なぜしかるべき行ないなのか、私はこの上なく明確に理解した。あれこそが父の遺産なのだ。(略)私にとっての父の遺産。金でもなく、聖句箱でもなく、髭そりマグでもなく、ウンコ。

 

 

 はじめて電車で「どうぞ」と若い人に席を譲られたときのとまどいと恥ずかしさは老いを受け入れなければならない諦念が植えつけられるきっかけなのです。つい最近までほとんど意識することなく行なっていた日常の振舞いに不都合が生じて他人の介助が必要になったときのショックは計り知れないものがあります。衰えは容赦なくせまってきて、そのつど『プライド』が踏みにじられるのです。そんな「老人」の心理の奥底を知ってほしいと「他人」に望むのは無理なことなのでしょうか。

 しかし介護の本質はそこにあるように思うのです。介助の一挙手一投足を律するのはそんな「心の通(かよ)い」があってこそなのです。

 

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