2021年10月11日月曜日

赤ちゃんは皆早産で生まれる

  馬の出産場面を見ると涙が出てきます。生み出されてスグに覚束ない四肢を懸命に踏ん張ってくず折れてもくず折れても立ち上がろうとする必死な姿はけなげいたたまれない気持ちになってしまいます。そして失敗をくり返したすえにようやく四本の足で踏ん張り切ったときの感動は関係者でない私でさえ涙ぐんでしまうのですから生産者の方々にとってはどれほどうれしいか想像に難くありません。それにくらべて人間の子どもはどうしてあんなにも未完成でたよりないかたちで生まれてくるのでしょう。そして二年も三年も親の庇護に頼らないとこどもに成らないのでしょうか。

 

 われわれの祖先が二足歩行をはじめたとき、ガニ股で真直ぐに歩くことができず平衡感覚も危なっかしいものでした。そのころの人類は道具や火を使うまでに知能が発達していない弱い存在でしたから、大型の捕食動物から逃れるにはスムースに早く走ることが不可欠でした。足をまっすぐ素早く踏み出して走るには太もものつけ根のはばと骨盤のはばが同じになるように骨盤を狭くする肉体改造が必要だったのです。一方で進化の過程で人類の脳の容量は他の霊長類の3倍ほどに成長しましたから狭くなった骨盤(産道)を子どもに成りきった脳の大きさで産み出されることは不可能なのです。そこで子どもに成り切る前に出産するように人体が変化――進化したのです。それが「早産」で出産するようになった人類進化の過程です。早産――未完成ですから他の哺乳動物のように自力で授乳できませんし母体にしがみつく能力もない状態で産み出されることになったのです。ヨチヨチ歩きできるのが約1才ころ、離乳食は1才半ころまでつづきますからこの時期までは母親は手が離せません。3才になってようやく子どもとしての成長が一段落して親の手が離れる余裕が生まれます。

 当時の人類は「狩猟採集(死肉食)」の発達段階でしたから、男たちは長時間をかけて狩りをするのですが女や子どもたちに与えられる食物の量は決して十分ではありませんでした。ですから「閉経後の女たち」が採集する植物性食物は大事でした。おばあちゃんたちの居住地周辺で採集する食物は有益だったのですが、それ以上に重要な働きは彼女たちの孫の世話でした。彼女たちの子育て支援のおかげで体の丈夫な若い母親たちが遠くまで食物を採集に行けることで群れ全体の食物事情が安定したのです。

 祖母たちのこうした支援は「おばあちゃん仮説」とよばれています。生殖だけが群れでの役割とすると「閉経後の女たち」は無用の存在になるのですが、「おばあちゃん」の子育て支援は彼女たちの余命延長をもたらしたのです。

 

 核家族化が進んで「子育て」負担が母親一人の肩にのしかかっているようですが、これは不自然です。本来「子育て」は群れ全体で行うものです。その際頼りにされるのが「おばあちゃん」の支援です。昭和の中頃までは大家族制が残っていましたから二世代三世代同居が普通でおばあちゃん、おおばあちゃんの支援は自然と行なわれました。それによって産婦の一日も早い職場復帰――農作業(や家業)の労働力として若い母親は戦力として有効活用されたのです。

 大家族が子育てに有効だったのは絶えず幼児の周りにおとな(や大きい子供)がいて、幼児に話しかけたり歌ったりの「はたらきかけ」があったことです。幼児は無防備で無力ですから「安全」の保障が不可欠です。まわりが「無音」になってはたらきかけが無くなるとたちまち「不安」を感じます。不安はストレスになって成長を妨げます。たえず自分が保護されているという安全感が幼児の成長の土台になっているのです。母親の胸に抱かれている、何かの用事で下に置かれるようなときでもいつでも母親からの「声かけ」がある、鼻歌が聞こえる、こうした「接触感」が幼児の成長にどれほど有効かはかり知れません。

 

 これまでの「子育て支援」は幼児保育の無償化に代表されるように、どちからといえば3才から就学前の支援が主力になっていました。しかしほんとうに支援が必要なのはそれ以前、1.5才までが一番重要な時期でさらに3才までがそれに次ぐ支援の必要な期間なのです。3才以降はある程度幼児の生育が固まってからなので「幼児教育支援」と呼んだ方が適切といえるのではないでしょうか。

 

 母親のネグレクトや虐待が幼児の成長に決定的な悪影響を及ぼすのは明らかです。子育て世代の貧困をどうしても防ぐ必要があるのも幼児の生育に不可欠な母親を中心とした家庭の「温かさ」が阻害されるからで、現在育児休業が子どもが1才になるまでになっていますが更なる延長やその他の支援の充実が望まれます。

 

 少子高齢化が進んでいますから少子化は必然として受け入れざるを得ないでしょう。それなら全ての子どもが母親の温かな愛情に包まれて幼児期を過ごせるように、豊かな情操と才能に恵まれた子どもに育つような「子育て支援」を政治も、社会も、家族と一緒になって実現しなければなりません。

 今のように「自助」にまかせていたのでは「全き成長」を日本のすべての子どもにゆきわたらせることは不可能です。

 

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