2014年3月24日月曜日

或る年金生活者の告白



 無業で健康な年寄りがこれだけ多く世間に満ち溢れたことはかってなかったに違いない。まさに前代未聞、空前絶後である。何故こうなったかを考えてみるにこれまでは生きることと仕事をすることはほとんど同義語に近かったから―55歳の定年を迎えてあと数年、悠々自適の暮らしがあって寿命が尽きるというのが普通のひとの人生であったから溢れる余裕が無かった。ところがここにきてひとの寿命が飛躍的に延びてしまった。何しろ人生僅か50年と言われたのがほんの半世紀前のことであり、それがあれよあれよと言う間に6070年になり今や男80歳女85歳が当たり前になり、にもかかわらず定年はまだ65歳~70歳であるから『余生』を15年~20年も戴くことになってしまった。結構極まりないことなのだが少々戸惑っている、これが偽りのない「年金生活者の告白」であろう。

 仕事―報酬の伴う―のひとつの効用は「強制力」が働くことである。ほとんどの仕事は「毎日決まった時間」に会社へ行く事が条件になっている。これが「生活のリズム」を作ってくれていて、ある意味で『惰性』で生活していける効果を与えてくれる。仕事を離れて『自由』ななかで、自分を律して生活をしていくということは意外と『困難』の伴うことなのだがこれは体験しなくては分からない。惰性に陥らずに『健康』を維持しながら長生きしようとさまざまな工夫を凝らして「年金生活者」は生きているのである。
仕事のもっとも重要な側面は『生きがい』であろう。これについては様々な考え方があるがここでは「社会の役に立つ」ことと考えてみることにする。無業になってボランティアで活躍している友人は多いが何か物足らないと感じている。その一番の原因は「社会とのつながり感」の希薄さである。間違いなく社会の役に立っているのだが「生きがい」と呼ぶには何かが足りない。現役時代を振り返ってみると「達成感の共有」が仕事の最大の喜びであったように思う、そしてその先に社会があり報酬があった。ボランティアには達成感を共有する「仕事仲間」が無いかあっても『連帯感』が希薄である。僅かでも報酬が伴うと「つながり感」が増幅されるのだがボランティアは原則無報酬である。それでまったく構わないのだが、これまでの現役時代の感覚がまだ抜け切らないことが与って『無報酬の善意』を素直に喜ぶことができないでいる、というのが実感ではないか。

仕事と報酬の関係について我々の抱いている「常識」を払拭するには新渡戸稲造の「武士道」にある次の言葉が有益かもしれない。
「あらゆる種類の仕事に対して報酬を与える現代の制度は、武士道の信奉者の間には行われなかった。金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事のある事を、武士道は信じた。僧侶の仕事にせよ教師の仕事にせよ、霊的の勤労は金銀を以て支払はるべきでなかった。価値がないからではない、評価し得ざるが故であった。/蓋し賃金及び俸給はその結果が具体的なる、把握し得べき、量定し得べき仕事に対してのみ支払はれ得る。/量定し得ざるものであるから、価値の外見的尺度たる貨幣を用ふるに適しないのである。弟子が一年中或る季節に金品を師に贈ることは慣例上認められたが、之は支払いではなくして献げ物であった」。
 
新渡戸は「霊的な勤労」として僧侶や教師を想定しているが今や現実的でない。それを「ボランティア」に置き換えてみれば納得いくのではないか。「金銭なく価格なくしてのみ為され得る仕事」であり「価値がないからではない、評価し得ざるが故」に「量定」できない仕事―それがボランティアなのではないか。弟子(現役のひと)たちが勿体ないと感じて「捧げ物」を贈ろうというのなら「忝く(かたじけなく)」頂戴しても良いのではないか。

「余生20年時代」の無業で健康な生活への戸惑いから、そろそろ次のステップへ!

2014年3月17日月曜日

反科学史



 最近十年でもっとも感銘を受けた―というか影響を受けた言葉は中谷宇吉郎の『科学の方法』にある次の一節である。「自然というものは、広大無辺のもので、その中から科学の方法に適した現象を抜き出して調べる。それでそういう方法に適した面が発達するのである(p103)」。この言葉はこう言い換えても良い。「科学は自然の実態を探るとはいうものの、けっきょく広い意味での人間の利益に役立つように見た自然の姿が、すなわち科学の目で見た自然の実態なのである(p39)」。

 ビッグ・データであるとかビット・コインなどというITがらみの単語がメディアに溢れているがこれらも結局、今の科学の発展段階に適した面が、人間の利益に役立つように発達したものだと断言して良い。ということは、科学で解明されないもの、科学が見落としているものがあるということを我々は絶えず意識しておく必要がある。
 ビット・コインをはじめて知ったとき、とっさに数年前マスコミを賑わした「仮想空間―セカンドライフ」を思い出した。アメリカのリンデンラボ社のゲーム「セカンドライフ」は、ゲーム内の土地をレンタルする仕組みを作り「不動産デベロッパー」が「島」と呼ばれる土地をリンデンラボから仕入れそれを他のユーザーに「賃貸」して利益を上げる、というビジネスモデルであった。当時はデベロッパーとして相当な利益を上げた人が出て話題になり又この空間での「店舗」を広告媒体として有望視する向きもあって一部の新聞や週刊誌で特集を組まれるほどであった。しかしこれを模倣したサイトが「マルチ商法」を企てるなどの反社会的な動きもあって「仮想空間ビジネス」は雲散霧消してしまった。ビット・コインの本質がどんなものかは今後の真相究明を待たねばならないが、いずれにしてもネットビジネスの危うさは枚挙に暇がない。

 「文字」が発明されたとき話し言葉のもつ「多面性」「重層性」が相当犠牲になった。ネット社会が出現して「ネットことば」になって「ことばの豊かさ」は極限まで削ぎ落とされて「言葉のもつ意味」はほとんど「一語=一意味」に成り下がり「思考の記号化」という危険な様相さえ呈するに至っている。その典型例が「アラブの春」かもしれない。ネットの持つ瞬時的な波及力が驚異的な運動に結びつき旧権力を打破して「アラブの民主化」が実現されるかに思えた。しかし多くの国の現実は「民意の漂流」となっているがそれは「ネットことば」の「不完全性」の齎す必然である。ネットで集められた「群集の多様性」を、極端なまでに単純化された「ネットことば」では包摂し得ない、或いは捨象した「言葉の持つ重層性」を収拾できない結果による「混沌」が今の「アラブの春」なのだ。

 「科学の方法に適した現象」「人間の利益の役立つように見た自然の姿」という「人間に都合の良い科学」の最たるものが「原子力爆弾」であり「原子力発電」であろう。人体への「悲惨な影響」や「自然界への想像を超えた不幸な連鎖」は検証されずに原爆は我が国に投下された。原発の「統御の限界」や「廃炉の技術(使用済み核燃料の処理を含めて)」が科学の対象になる前に原発は「実用化」され「安全神話」が流布された。その負の結果は「自己責任」として地元の「被害者」に押し付けられ「豊かな社会」は現地から「遠い都市市民」に占有されている。

 これまで「科学」は「進歩」するものであり人類の発展に必ず貢献するものとして捉えられてきた。しかし科学が見落としていたもの、捨象してきたもの、すなわち「科学の負の側面」がようやく明らかになってきた。これからは「科学の負の側面」の歴史―「反科学史」にも目を注ぐ必要がある。

 科学の持っている正負の両面を正当に評価し、西欧科学偏重の「欧米中心の世界史」を根本的に見直すことによってグローバル化が実りあるものになるのではないか。

2014年3月10日月曜日

掘り出し物

 数年前から古書店を冷やかす愉しみを楽しんでいる。それまでは何か不潔な感じがして忌避していたのだが、考えてみれば図書館の本には何人もの人が触れているわけでそこへいくと古本は一人か、たかだか数人に過ぎない。突然そう気づいて、以後ふっ切れたように古書店通いするようになったというわけである。
 とっかかりがなかったわけではない。図書館で読んだ本を手元に置きたくなって、それが絶版になったものでたまたま古書店で手に入れるという幸運に恵まれたのだ。古書店との相性は良く、以前から欲しかった本を数冊格安で手に入れている。小林秀雄の「本居宣長」などその最たるもので、出版当時から―30年ほど前から何故か読めずにいたのが昨年文庫上下二冊本を手に入れ一気に読むことができた。古典の原文引用が半分近く占める難解なこの本が読めたのは私の読書履歴のちょうどいいタイミングだったのだろうが、その時期に目玉コーナーに陳列してあったという巡り合わせを行きつけの古書店が与えてくれたのも相性の良さの証だろう。
 今年は新年早々「誹風柳多留」文庫本全五冊を入手して幸先が良い。毎晩就寝前に数頁読むのを楽しみにしているが江戸庶民の教養の高さを痛感している。川柳は和歌俳句と違って市井の一般市民の文芸である。ところが歌舞伎、文楽、歴史故事に加えて和歌・俳句や源氏物語などの古典の知識・教養がその底に秘められているから『解説』抜きでは到底読めない。それに時代時代の風俗が詠みこまれているから江戸庶民の暮らしの匂いが鮮やかに感じ取れる。全五冊を読み終える頃には江戸風俗に相当通暁していることだろう。
 そこで一句。「秋がわき先(まづ)七夕にかわきぞめ―せつせつな事せつせつな事」(秋は情欲が増進する、それを『秋がわき』というが、七夕の牽牛織女の一年に一度の逢瀬は、さしづめ秋の『かわき初め』であろう。天象の卑俗化である)とある。

 ぶらりと書店や図書館へ行って出会う本にも相性がある。先日図書館でフト手にとった「夢幻抄―白洲正子」もそんな一冊である。白洲次郎の妻で随筆家の正子のものはこれまでにも何冊か読んでいるが「はずれ」のない作家でこの「夢幻抄」も「掘り出し物」だった。なかでも「青山二郎の日記」は出色である。西洋にはサロンという「文人墨客の社交場」があり文芸や文化―そして醜聞も―の発信に力があったが我が国ではそれが育たなかった。代わって花柳界がその亜流となったのだが青山はその人望と財力で巧まずして邸宅をサロンとした。小林秀雄、永井龍男、中原中也、柳宗悦など蒼蒼たる面々が青山サロンのメンバーを占めている。
 さて二郎の日記から抜粋を。
柳宗悦を理解してゐる友達はゐる。手助けをする友達はゐる。バカ惚れに惚れたって言ふどろどろの友達はゐる。併し人間と人間がぶつかって彼を愛してゐる友達がこの畠にはゐない。人に愛情を持たせない処が彼の一面だ。単独で寂しい人とゐうのはあゝゐふ人だ。 ※ぜいたくな心を清算する(はぶく)必要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。/唯々気は優しい女とこそ暮らしたいのが亭主としての唯一の願ひその外に百の落度もものかは ※二郎の前の別れた女房は気の利くこと天下一品にて二郎を亭主にして寸分のすきもない女だったが心のそこにわだかまりがあって遂にとけずに温かい心を持たぬ気の毒な女ゆえに遂にひゞが入った/要求は無法 愛情は無償 ※ 金をもうけるのは易しい 使うのは尚易しい 蓄えるのは殆んど絶望/善は悪の対象だが、悪は善の対象では無い。悪は万物の原動力である。 ※ 世に直感といふものは無い。直感と主張する『経験人』がある許りだ。 ※ 対当でない相手と喧嘩はしない 世界的常識。

 ぜいたくな心を清算する(はぶく)必要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。

芸術はここから生まれる。

2014年3月3日月曜日

情報の奔流と母性

近くの公園の昼下がり。幼い子どもらが母親に遊んでもらっている。僅かに盛り上げて設えてある四阿(あずまや)の10糎にも満たない段差を1歳前後の男の子が両足を揃えて跳び降りる風をぎこちなく繰り返している。それが少し大きくなると水飲み場のレンガの縁石の30糎位の高さから跳ぶようになり小学校の一年生にもなると公園の外周1米ほどの塀を綱渡りよろしく平均を取りながら歩いて挙句に飛び降りようとして「危ない、止めなさい!」と叱られる。彼らの空想は『跳ぶ』から『飛翔』に変遷しているのに違いない。

子どもたちが数人で遊んでいる、時々振り返って母親を見つけると安心してまた駆けていく。眼差しの先に母親がいないと不安気に周囲を見やる、やっと見つけて仲間の中に突っ込んでいく。乳母車に乗せられてうつらうつら揺られている子もふと目覚めた目の先にいつも母親がいてくれるから安心して目を瞑る。もし遊んでいるとき母親を見失ったら、乳母車の前に母親を見つけることができなかったら、子どもはさぞかし不安に駆られることだろう。でも、見つけた母親が夢中になって「スマホ」に耽っていたら、それでも子どもは安心できるのだろうか。

幼児と一緒にいる親、とりわけ授乳中の親には、こういってよければ、子供に寄り添われながらボーッとできること(略)、ぼんやり考えごとをすること、夢想することが欠かせないのだ。(略)「夢想」とは、ピオン(イギリスの精神分析家ウィルフレッド・ピオン)によれば、「子供が必要とする愛情や理解を供給する心理的源泉」である。授乳が行われるとき、母親から子供に与えられるのは母乳やミルクだけではない。ピオンが「愛情」や「理解」と呼ぶものもまた、子供へ注がれる。これは母親の本質的な機能だ。(略)母親の夢想する能力とは、それゆえ、子供を押し潰す原初的な不安から子供を守る能力であり、子供に夢を見させる能力であり、子供の思考を育み、ゆくゆくは子供自身が(略)母親と同じ力をもてるように導いてやる能力なのである。(略)とすれば、スマートフォンや携帯機器の全盛によって、それらの機器から離れることができない親たちの身に起こっているのは、まさに「夢想の破壊」というべき事態でなくて何だろうか。(略)そこから帰結するのは、子供が夢を見ること、思考することを可能にする心的素材の欠乏であり、いいかえれば無意識の不在である(立木康介著「露出せよ、と現代文明は言う」河出書房新社、太字下線は筆者による)。

電車の4人掛けの席に子どもと親が座る。会話を交わすこともなく両親はスマホを始め子どもは所在無げに窓の外に目を遣る。最近よく見る光景であるがこの両親はスマホというおもちゃが手放せないのだ。親に成りきれていないのだ。親は子供を「食わせてやる」だけの存在に成り下がってはならない。

子供の環境はテレビやビデオの映像に触れて育つのが普通になっている。少し大きくなると「テレビゲーム」が与えられる。小学校へ通うようになれば安全面からも携帯やスマホを持つようになる。こうして幼い頃から『情報の奔流』のなかで成長するから「空想」する期間が極めて短くなっている。空想はやがて思考につながり思索へと深まっていくのだが、今の子どもたちにはこの過程がかなり省略されている。情報の奔流に身を曝して、選択する能力を身に付ける機会もなく、空想する楽しみも知らないうちに幼児期を終え、「思考」し「思索」を深める訓練も経ずに大人になるとしたら、情報に飲み込まれ漂流してしまうに違いない。


 厖大な情報を流す権力(政治的、社会的、文化的)には、いたって都合の良い時代になったものだ。