2014年3月10日月曜日

掘り出し物

 数年前から古書店を冷やかす愉しみを楽しんでいる。それまでは何か不潔な感じがして忌避していたのだが、考えてみれば図書館の本には何人もの人が触れているわけでそこへいくと古本は一人か、たかだか数人に過ぎない。突然そう気づいて、以後ふっ切れたように古書店通いするようになったというわけである。
 とっかかりがなかったわけではない。図書館で読んだ本を手元に置きたくなって、それが絶版になったものでたまたま古書店で手に入れるという幸運に恵まれたのだ。古書店との相性は良く、以前から欲しかった本を数冊格安で手に入れている。小林秀雄の「本居宣長」などその最たるもので、出版当時から―30年ほど前から何故か読めずにいたのが昨年文庫上下二冊本を手に入れ一気に読むことができた。古典の原文引用が半分近く占める難解なこの本が読めたのは私の読書履歴のちょうどいいタイミングだったのだろうが、その時期に目玉コーナーに陳列してあったという巡り合わせを行きつけの古書店が与えてくれたのも相性の良さの証だろう。
 今年は新年早々「誹風柳多留」文庫本全五冊を入手して幸先が良い。毎晩就寝前に数頁読むのを楽しみにしているが江戸庶民の教養の高さを痛感している。川柳は和歌俳句と違って市井の一般市民の文芸である。ところが歌舞伎、文楽、歴史故事に加えて和歌・俳句や源氏物語などの古典の知識・教養がその底に秘められているから『解説』抜きでは到底読めない。それに時代時代の風俗が詠みこまれているから江戸庶民の暮らしの匂いが鮮やかに感じ取れる。全五冊を読み終える頃には江戸風俗に相当通暁していることだろう。
 そこで一句。「秋がわき先(まづ)七夕にかわきぞめ―せつせつな事せつせつな事」(秋は情欲が増進する、それを『秋がわき』というが、七夕の牽牛織女の一年に一度の逢瀬は、さしづめ秋の『かわき初め』であろう。天象の卑俗化である)とある。

 ぶらりと書店や図書館へ行って出会う本にも相性がある。先日図書館でフト手にとった「夢幻抄―白洲正子」もそんな一冊である。白洲次郎の妻で随筆家の正子のものはこれまでにも何冊か読んでいるが「はずれ」のない作家でこの「夢幻抄」も「掘り出し物」だった。なかでも「青山二郎の日記」は出色である。西洋にはサロンという「文人墨客の社交場」があり文芸や文化―そして醜聞も―の発信に力があったが我が国ではそれが育たなかった。代わって花柳界がその亜流となったのだが青山はその人望と財力で巧まずして邸宅をサロンとした。小林秀雄、永井龍男、中原中也、柳宗悦など蒼蒼たる面々が青山サロンのメンバーを占めている。
 さて二郎の日記から抜粋を。
柳宗悦を理解してゐる友達はゐる。手助けをする友達はゐる。バカ惚れに惚れたって言ふどろどろの友達はゐる。併し人間と人間がぶつかって彼を愛してゐる友達がこの畠にはゐない。人に愛情を持たせない処が彼の一面だ。単独で寂しい人とゐうのはあゝゐふ人だ。 ※ぜいたくな心を清算する(はぶく)必要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。/唯々気は優しい女とこそ暮らしたいのが亭主としての唯一の願ひその外に百の落度もものかは ※二郎の前の別れた女房は気の利くこと天下一品にて二郎を亭主にして寸分のすきもない女だったが心のそこにわだかまりがあって遂にとけずに温かい心を持たぬ気の毒な女ゆえに遂にひゞが入った/要求は無法 愛情は無償 ※ 金をもうけるのは易しい 使うのは尚易しい 蓄えるのは殆んど絶望/善は悪の対象だが、悪は善の対象では無い。悪は万物の原動力である。 ※ 世に直感といふものは無い。直感と主張する『経験人』がある許りだ。 ※ 対当でない相手と喧嘩はしない 世界的常識。

 ぜいたくな心を清算する(はぶく)必要はない。ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。

芸術はここから生まれる。

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