2014年3月3日月曜日

情報の奔流と母性

近くの公園の昼下がり。幼い子どもらが母親に遊んでもらっている。僅かに盛り上げて設えてある四阿(あずまや)の10糎にも満たない段差を1歳前後の男の子が両足を揃えて跳び降りる風をぎこちなく繰り返している。それが少し大きくなると水飲み場のレンガの縁石の30糎位の高さから跳ぶようになり小学校の一年生にもなると公園の外周1米ほどの塀を綱渡りよろしく平均を取りながら歩いて挙句に飛び降りようとして「危ない、止めなさい!」と叱られる。彼らの空想は『跳ぶ』から『飛翔』に変遷しているのに違いない。

子どもたちが数人で遊んでいる、時々振り返って母親を見つけると安心してまた駆けていく。眼差しの先に母親がいないと不安気に周囲を見やる、やっと見つけて仲間の中に突っ込んでいく。乳母車に乗せられてうつらうつら揺られている子もふと目覚めた目の先にいつも母親がいてくれるから安心して目を瞑る。もし遊んでいるとき母親を見失ったら、乳母車の前に母親を見つけることができなかったら、子どもはさぞかし不安に駆られることだろう。でも、見つけた母親が夢中になって「スマホ」に耽っていたら、それでも子どもは安心できるのだろうか。

幼児と一緒にいる親、とりわけ授乳中の親には、こういってよければ、子供に寄り添われながらボーッとできること(略)、ぼんやり考えごとをすること、夢想することが欠かせないのだ。(略)「夢想」とは、ピオン(イギリスの精神分析家ウィルフレッド・ピオン)によれば、「子供が必要とする愛情や理解を供給する心理的源泉」である。授乳が行われるとき、母親から子供に与えられるのは母乳やミルクだけではない。ピオンが「愛情」や「理解」と呼ぶものもまた、子供へ注がれる。これは母親の本質的な機能だ。(略)母親の夢想する能力とは、それゆえ、子供を押し潰す原初的な不安から子供を守る能力であり、子供に夢を見させる能力であり、子供の思考を育み、ゆくゆくは子供自身が(略)母親と同じ力をもてるように導いてやる能力なのである。(略)とすれば、スマートフォンや携帯機器の全盛によって、それらの機器から離れることができない親たちの身に起こっているのは、まさに「夢想の破壊」というべき事態でなくて何だろうか。(略)そこから帰結するのは、子供が夢を見ること、思考することを可能にする心的素材の欠乏であり、いいかえれば無意識の不在である(立木康介著「露出せよ、と現代文明は言う」河出書房新社、太字下線は筆者による)。

電車の4人掛けの席に子どもと親が座る。会話を交わすこともなく両親はスマホを始め子どもは所在無げに窓の外に目を遣る。最近よく見る光景であるがこの両親はスマホというおもちゃが手放せないのだ。親に成りきれていないのだ。親は子供を「食わせてやる」だけの存在に成り下がってはならない。

子供の環境はテレビやビデオの映像に触れて育つのが普通になっている。少し大きくなると「テレビゲーム」が与えられる。小学校へ通うようになれば安全面からも携帯やスマホを持つようになる。こうして幼い頃から『情報の奔流』のなかで成長するから「空想」する期間が極めて短くなっている。空想はやがて思考につながり思索へと深まっていくのだが、今の子どもたちにはこの過程がかなり省略されている。情報の奔流に身を曝して、選択する能力を身に付ける機会もなく、空想する楽しみも知らないうちに幼児期を終え、「思考」し「思索」を深める訓練も経ずに大人になるとしたら、情報に飲み込まれ漂流してしまうに違いない。


 厖大な情報を流す権力(政治的、社会的、文化的)には、いたって都合の良い時代になったものだ。

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