2021年1月25日月曜日

もう一度、文学は実学である

  アメリカはじまって以来の、バカげた大統領――シルヴァーランド(略)――あいつは――ほとんど考えられないくらいの極右反動で、まるできちがいじみた男だった。南部の大資本家と称するギャングどもの手先で……二十世紀アメリカのアッチラ大王だった。憎悪、孤立、頑迷、無智、傲慢、貪欲――こういった中世の宗教裁判官のような獣的な心情を、“勇気”や、“正義”と思い込んでいた男だった。世界史の見とおしなど全然なく、六年前にはもう一度“アカ”の国々と大戦争をおっぱじめるつもりだった。――なぜ、こんな男を、アメリカ国民がえらんでしまったのか、いまだにわからない。私は軍人ではあるが、あの時ばかりは、アメリカの後進性に絶望した……。

 これはトランプ前アメリカ大統領のことではありません。1964(昭和39)年に小松左京が書いた『復活の日』というSF小説に登場するアメリカ史上最悪の大統領シルヴァーランドの素描です。小説はさらに次のようにつづきます。

 彼は豪放磊落をよそおっていましたが、あらゆる暴力政治家がそうであるように、彼の豪放さは、子供じみた恐怖心をさとられまいとするための仮面でした。――彼の性格には、南部人的な賭博師のそれがありました。賭博師は、結局いちかばちかにかける無謀な勇気の方が、理性より価値があると思っています。彼は暴勇がありましたが、彼の知性は見せかけで、究極的な所では、子供じみた判断から抜け出せませんでした。――すなわち、たとえどんな卑劣なことをしてでも、最高の権力をにぎったものは、無条件にもっともえらい人間で、したがって最高の判断は、常に最高権力者のみがくだすべきだ、という暴君的な信念です。(略)つまり彼は、暴君の常として、人間を誰一人信じられなくなっていたのです(以下略)

 

 アメリカの第46代大統領にジョー・バイデン氏が就任し二期目をめざしたトランプ前大統領は二度目の弾劾訴追を受けるという史上初めての汚名を着て退場せざるを得ませんでした。国会議事堂への襲撃、破壊という民主主義を踏みにじる暴虐を扇動しながらトランプ氏はその責任を否定しています。

 

 ところで最近気になる意見を述べる人がいました。それはトラップ氏を評価するもので、彼の言い分は得票率でバイデン氏と拮抗し7千万票という空前の得票を得たトランプ氏を一概に否定するのは民意を無視するものだというのです。

 こうした論調を容認するならばヒトラーの「ナチス」さえ否定できなくなってしまうのではないでしょうか。ナチも表面上は選挙によって圧倒的勝利を得て権力を手中にしています。日本の東条内閣も大政翼賛会という選挙組織を活用して選挙に大勝利しているのです。こうした歴史を教訓として民主主義のあり方の反省のもとに戦後政治は進められてきました。トランプ氏の在任中の「うそ」は二万回を超え、欺瞞と虚構で民意を操作して政権を維持してきたのです。(わが国の先の総理も桜を見る会の答弁で百回以上のウソをつきましたが謝罪の言葉を吐いただけで弾劾もお咎めもなく政界に影響力を保持したままポスト菅選びに力を及ぼしています)。

 

 アメリカの再生は『トランプの否定』から進められるべきです。トランプを選ぶ、というゆがんだ形でしか今の格差が極大化した「分断社会」の政治的表現ができなかったことを痛切に反省すべきなのです。新自由主義というもっとも偏形した資本主義を究極まで野放図に放置した結果、インフラも分配も市場に委ねたことで格差が極大化し分断が無辺大に拡大してしまったのです。救い難かったのはそうした政治社会状況を批判すべき「第三の権力」といわれるマスコミまでがヒエラルキー化して「上流知識人階級」として大衆から遊離してしまったために分断社会への傾斜を修正できなかったことです。確実に存在する「放置されつづけた」経済社会の成果分配から排除された99%の国民をどのようにすくい上げる社会に変革していくのか。トランプという選択しかなかった彼らに、民主主義と公正な競争をもたらす社会にアメリカをもういちど変革する、そうした選択肢を提供する政治状況をどのように創出するか、われわれはそこにアメリカの底力を期待したいのです。

 

 『復活の日』は感染力が爆発的に変異したウィルスが事故によって拡散し、わずか四ヶ月で地球を破滅してしまいますが孤絶した南極大陸に残された一万人の研究者たちが人類再生の戦士となって地球復活を目指すところで小説は終わります。ヘルシンキ大学の文明史担当教授ユージン・スミルノフが絶滅に瀕した地球上の誰かに向かって聞かれることもない最後の抗議を無線局を通じて放送します。

 

 

 自己よりすぐれたものに対するあさましい反感、文明への過信からくる無条件の楽天主義(こんな他愛もないものに人類はほんろうされたのです)(略)常に災厄の規模を正確に評価するだけの知性を、全人類共通のものとして保持し、つねに全人類の共同戦線をはれるような体制を準備していたとしたら、――災厄に対する闘いもまた、ちがった形をとったのではないでしょうか?

 

 今わが国に決定的に不足しているのは「災厄の規模を正確に評価するだけの知性」です。政府の専権事項としてでなく、日本全体が「共同戦線をはれるような体制」を、今からでも遅くないから準備できたとしたら「災厄に対する闘いもまた、ちがった形」をとれる可能性を残しているのではないかという希望にすがらざるを得ません。

 

 小松左京は知識人(とりわけ哲学者)の役割と教育に期待しました。そして「全人類的意識」の醸成をねがっていました。今わが国に「知識人」は存在しているでしょうか。日本学術会議を「行政のしもべ」化しようと権力をふるう政治が跋扈する今のわが国は小松左京の描いた未来とは決定的に逆の方向に進んでいます。

 

 作者小松左京に荒川洋二のあの言葉をおくって敬意を表したいと思います。 

 「文学は実学である」。

 

 

 

 

 

 

 

2021年1月18日月曜日

老人よ、町に出よう

  もはや戦後ではない(1951年の経済白書)と煽られて高度成長に突き進んでいく日本経済の中で、当時全盛だったマルキシズムで哲学する若者のエネルギーは、安保闘争(1960年)、ベ平連(1965年)、学園紛争(1970年)と挫折を繰り返して行き場をなくしていまいました。そんなとき寺山修司の発した「書を捨てよ、町に出よう」(1971年)という言葉は若者のマグマに点火して瞬く間に評論に、演劇に、映画にと拡散したのです。あれから五十年、当時の若ものも今や後期高齢者、あの頃憧れた「アウトロー(競馬、バクチ、酒、女)」とは似ても似つかぬ「世間様のアウトロー」に成り果てています。今さら東映仁侠映画でもあるまいし、まして免許返納の身ではイージーライダーも気取れません。

 プレスリーに、ポール・アンカに、ビートルズにうつつをぬかしていた若者が年古(ふ)れば「ど演歌」に転向する「不可解」。同様に安保、ベ平連、学園紛争と「社会参加」に身を挺していた若者が、年金生活者に長ずるや一切社会と「没交渉」というのでは人生に「禍根」を、いや「汚点」を残すのではないでしょうか。 

 ではどうするか。それを考えてみようというのです。

 「若者たち(現役の人たち)」)は選挙のたびに自らの身を削って「年寄りにやさしい」政策を提案しつづけてくれています。その結果、今や彼らは食うや食わずの「窮境」に陥っているのです。年寄りはそこまで彼らに「甘え」きっていいのでしょうか。分断された日本社会を「うまし国やまと」に再生させるためにわれわれ年寄りは今こそ無い知恵をふり絞る時ではないでしょうか。

 ずっと以前から「今の若い人はかわいそうだ」と呟いできました。「給料が安すぎる」「われわれは住宅ローン、十年か十五年で家を建てた。今の若い人たちは三十五年もローンを組む。大変だ」と同情してきました。マイカーを持たない、旅行に行かない、なにが楽しいんだろう。持たないんじゃない、行かないんじゃない、持てない!行けない!のだという現実を知るべきです(彼らにとって携帯代の負担が大きすぎるのでもあるのですが)。

 

 サラリーマンの平均年収(国税庁民間給与実態統計調査より)は1998年(平成9年)の467万円をピークに減少に転じ2009年(平成21年)406万円まで落ち込みますが徐々に上昇、2019年(令和元年)には436万円まで回復しています。しかし今年はコロナ禍で大きく減少することでしょう。減少の原因はいろいろありますが非正規雇用者の増加が最も大きな要因と考えられます。2000年非正規雇用者は1273万人(全体の26%、正規雇用者3630万人)でしたが2019年には2165万人(38%、正規雇用者3494万人)にまで増加しているのです。収入面で問題なのは手取り額が大幅に減少していることです。年収700万円の手取り額は2002年(584万円)から2017年(537万円)の間に50万円も減っており500万円でも35万円減少しています。これは社会保険料――特に健康保険料と厚生年金保険料の増加によるものでなかでも高齢者の健康保険料の肩代わり分の増加の影響は無視できません。

 年収が減少しているうえに教育費の負担などで家計がひっ迫したために、我々年寄り世代は専業主婦が主流だったのが今では共働きが普通になっています。それを実感したのはコロナによる学校が休校されたときです。平日の午前中、普段ならめったに出歩く人のない時間帯ですが子どもらと連れ立って公園へ向かう若いお母さんの多かったこと、こんなに女性が働いているのかと驚きました。そのことはジェンダー面からは悪いことではないのですが若い人たちの生活が豊かになっていないことに問題があるのです。

 それに比べて年金生活者の何と安泰なことか。コロナ禍で世間は大混乱しているのに年金はビタ一文減りません。キチンキチンと銀行口座に振り込まれます。有り難いことです。それもこれも現役の若い人たちのお陰なのです。 

 ここまで世話になっている若い人たちにわれわれ年寄りにできることはないのでしょうか。

 

 コロナ自粛でお金を遣わなくなった、そんなことをいう年寄りが増えています。なかにはその分孫につぎ込んでいる人もあるようですがそれはそれで結構なことです。でも月に千円くらいの余裕ならあるのではありませんか。その千円を若い人のために寄付すると一千万人で百億円になります。七十才以上の高齢者は約三千万人。決して不可能な数字ではありません。年間で一千二百億円、二千万人が寄付すれば二千四百億円です。年寄りで若い人の力になりたい、一緒になって社会を少しでも良くしたいと思っている人は決して少なくありません。そうした願いの最も簡単で実現可能性の高い方法のひとつが『寄付』ではないでしょうか。

問題は法律です。今の法体系では誰でもいつでも簡単に寄付のできる法律になっていなのです。そこを何とかするように政治に働きかけねばなりません。

 

 医療費の窓口負担でもそうです。基礎疾患を持っている年寄りは少なくありませんが、重症でなく毎月1回薬をもらうだけで小康を保っている、そんな人が私の周りに沢山います。彼らの負担はせいぜい二千円くらい、高くても五千円までです。これが一挙に二倍になるのはきついけれでも一・五倍程度なら何とか工面がつくクラスは結構多いのではないでしょうか。それが何の相談もなく二倍になる法律が決定されそうな気配です。

 年寄りのことは年寄りでなければ分からない。そうであるのに、若い人もそう思っているのに、実際は若い人が頭の中で「つくった年寄り像」で政治も行政も動いています。どうして年寄りを「マーケティング」しないのでしょうか、調査に基づいて「生きた年寄り像」を構築しその(マクロ)データを政策立案に生かそうとしないのでしょうか。高齢者像も多様ですし考えも一様ではありません。政策決定の前に年寄りに「パブリックコメント」や「住民説明会」や「ヒアリング」をなぜ開いてくれないのでしょうか。

 

 物わかりの悪い年寄りばかりではありませんよ。若い人の力になりたい、一緒になって良い社会にしたい、そう願っている年寄りもいるということを若い人に知ってもらいたい。

 新年にあたってそう呼びかけたいのです。うちにこもってばかりいないで「老人よ、町に出よう!」、そう呼びかけたいのです。

 

 

 

 

 

 

2021年1月11日月曜日

無法者

  ちょっと皆さん、まってくださいよ、なにか勘違いしていませんか。無法者と特権階級はまったくちがいます。法律や約束を守らい『奴ら』を特権階級とかエリートとは言わないのです。国民には夜八時以後の会食を禁止しておきながら自分らにはそんなルールは適用しない、そんな政治家どもはエリートでも特権階級でもないのです、単なる「無法者」「ならず者」というのです。ネット上で若い人たちが彼らを特権階級と表現しているのをそのままマスコミがテレビで使うから、彼らも勘違いして「あぁ、俺たちは特権階級なんだ」とフンゾリ返ってしまうわけで、良識あるマスコミなら、言論人なら、「キミたちそれは違いますよ、法律を守らい奴らは『無法者』というのが正しい日本語なのですよ」とたしなめ諭すべきなのです。最近のマスコミは劣化していると以前から心ある人たちが言いつづけていますからひょっとしたらマスコミ人もエリートと無法者の正しい使い方を知らないのでしょうか。

 

 しかし若者が真実(ほんとう)の「特権階級」を知らないのも無理ないかもしれません。日本の最高権力者が、森友問題や加計学園問題・桜を見る会問題で百何回も嘘をついたり、友人知人の「誼(よしみ)」を通じて国家財産を特価で払い下げたり資格のない法人に学校の認可を与えたりする『無法』がまかり通るのを見ているわけですから、エラクなれば法律を犯してもいいのだ、それが「特権階級」というのだと「学習」するのも当然かもしれません。

 

 彼ら無法者の言い分は「われわれは選挙で信認を受けたのだから数の力でなにを押し通してもいいのだ」というのです。しかし彼らも学校で――それも極め付きの最高学府で「民主主義の根本は反対する人たちの意見も汲み取ってできるだけ多く国民が幸福になるような国家運営をすることである」と学んでいるはずなのです。先の衆議院議員選挙でも284の議席を獲得した政権党の自民党ですが181議席の野党票もあるのですから国民の約四割は自民党の政権運営に全面的に賛成しているのではないのです。野党に投票した国民の意見を丁寧に吸収して日本全体を住みよい社会にするという「心がけ」が政権運営の「根本精神」のはずが、「自助・共助・公助」とまず自分でできることを懸命にやりなさい、次はみんなの力を結集しなさい、国に頼るのは最後の砦ですと国民に「言い放つ」最高権力者がわが国のトップなのですから、コロナで零細企業が倒産することになんの「心の痛み」もないのでしょう。ひとり親でアルバイトを三つも四つも掛け持ちして子どもを育てていた女性が、コロナで雇止めになって収入のみちが断たれて住むところさえ危うい状態に陥っていてもまだ「自助」を言い募るのでしょうか。

 

 欧米には「ノブレスオブリージュ(貴族の義務)」ということばがあります。フランス語で「高貴さは(義務を)強制する」と読み、財産、権力、社会的地位を有する者はそれを保持するためには義務が伴うことを意味しています。特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合いが保たれるべきだという倫理観で、最近では富裕層、有名人、権力者、高学歴者が「社会の規範となるように振舞うべきだ」という社会的責任として用いられる場合が多いようです。イギリスでは第一次世界大戦のとき貴族階級の戦士が率先して最前線に立つこともあって貴族や王族の子弟にも戦死者が多くでており、第二次世界大戦ではエリザベス二世がイギリス軍に従軍しています。アメリカではセレブや名士がボランティア活動に積極的に参加したり寄付することはよく知られています。

 

 戦地から遠く離れた国会議事堂の地下のシェルターに鎮座してフィリピンやガダルカナルの最前線にいる若者に「特攻隊となって玉砕せよ」と命令していた輩、芋粥をすすって痩せさらばえた国民に竹槍で原爆に立ち向かえと号令した奴ら。新型コロナウィルス感染症という「目に見えない敵」の来襲する「戦場」で竹槍――十分な補償もせずに五万円や六万円の涙金――で企業活動中止を「自粛」という「同調圧力」で「強制」する連中は戦前の高級将校と全く同じ構図を描いていることに気づいていません。

 あれから八十年もたっているのにわが国権力者の思考方法が『竹槍精神』から一歩も進歩していないことに驚きを禁じえないのです。

 

 若い人たちにもう一度念を押しておきます。法律を破ったり約束を守らない人は『無法者』『ならず者』というのですよ、決して『特権階級――エリート』とは呼ばないのです。大事なことですからまちがわないように。                    

2021年1月4日月曜日

新春競馬放談

  いい正月でした。こんな気持ちのいい新年は何年振り、いや何十年ぶりだったでしょうか。それもこれも暮れの有馬記念を獲ったからで、それも単勝(クロノジェネシス2.5倍)、複勝(サラキア7.7倍)、それに二頭の馬連(9―14 10,330円)の完全制覇なのですから堪りません。馬連の万券は予想外でした、せいぜい7、8千円だろうと思っていたので喜びも一入です。これで年間プラスも確定しました。それゆえ誠に目出度い新年となったのです。

 それにしても2020年は競馬界にとって不滅の年になりました。3才クラシックで牡牝の無敗三冠馬が誕生するというだけでも空前絶後なのにGⅠ9勝というこれまた空前絶後をアーモンドアイが達成したのですから今後百年、いや今後こんな年が訪れることは絶対にないだろう不可思議極まる一年になりました。

 さらに不思議なのは古馬混合(牡牝)のGⅠレース(芝)の勝利馬が全部牝馬だったことです。高松宮杯(モズスーパーフレア)大阪杯(ラッキーライラック)アーモンドアイ(天皇賞秋、JC)宝塚記念(クロノジェネシス)グランアレグリア(安田記念、マイルチャンピオンシップ)そして有馬記念がクロノジェネシスなのです(天皇賞春は牝馬不出走)。

 

 なぜこんな結果になったのか、まちがいなく言える原因のひとつは「高速化」でしょう。2018年のジャパンカップでアーモンドアイが記録した2400m(芝)2分20秒6の世界レコードはいうまでもなくJRAのレコード更新が相次ぐ昨今のわが国の競馬場は高速化の一途をたどっており今や「強く、速く、逞しく」ではなく「速く、速く」の時代に突入しています。「軽く、固く」足さばきの良い競馬場に改良されているのでしょう。そうなれば強く逞しい『馬匹改良』時代の遺物ともいえるセックスアローワンス(牝馬に与えられる牡馬との斤量差、2kgが多い)は必要なのかという疑問が湧いてきます。先の有馬記念のように荒れた馬場の場合なおさら2kgの斤量差はキイテきます。ゴール前のフィエールマンの脚色の衰えはそれを見せつけました。海外に目を転じても凱旋門賞の過去10年の優勝馬は牝馬が7勝(3才牝馬3勝、4才牝馬4勝)で牡馬を圧しているのはセックスアローワンスが影響しているからでしょう。この問題は今後大いに議論されるべきです。

 もうひとつ「放牧優先主義」も牝馬に有効に働いているかもしれません。栗東や美浦の本厩舎から車で30~50分のところにある放牧と調整のために設えられた「外」の厩舎を「外厩」と呼んでおり、冷涼で静かな山よりの環境にあるので馬がリラックスでき坂路などの調教施設も整っているので効率的に調教もできます。繊細な牝馬は好環境の外厩での短期放牧はトレセンよりリラックス効果が数段優れていて牡馬よりレース後の疲労回復と次走への調整に有利に働いていると考えられるのです。

 又藤田菜七子の活躍で今後女性騎手が増えそうですがそうなれば当りの柔らかい彼女らの騎乗は牝馬に好影響を与えることでしょうから、今後とも牝馬優勢は続くにちがいありません。

 

 昨年年間プラスが計上できた最大の原因はGⅠしか馬券を買わなかったからです。勝つ確率の低い競馬ですから買う回数が少なければ「損」も少なくて済みます。3年前からこの流儀に替えて損得勘定が一挙に改善しました。振り返ってみれば下級条件戦で儲けた記憶はほとんどなかったのです。データ派ですから情報の豊富な特別レース、それもG1レースこそ当たる確率の高いレースだったのですがそれにやっと気づいて買うレースをGⅠに限定したのが好結果につながりました。「見送る勇気」は競馬に絶対必要な資質です。根拠もなく、自信もないのに命から二番目に大事なお金を賭けるなど無謀以外のなにものでもありません。反対に根拠があれば安くても「獲れる馬券」は買うことです。クロノジェネシスの単勝250円は買わなければ250円の見過ごし損ですが獲れば250円プラスするのですから上下500円プラスになる、この当然のことが五十年間分からなかったのです。この積み重ねは大きいし、なにより「勝ちグセ」が勢いとなって次の馬券につながってきます。賭け事にこの「勢い」は重要なのです。

 競馬の基本は「単複」です、「勝馬」を発見しなくては馬券は当りませんから。単複主体に馬券を買っていると400円もつく単勝は絶好の「買い」馬券になります。勝馬が2頭に絞れれば馬連でも3連複(連単)でも馬券が絞れます。そして勝つ馬は確率的に人気上位の3~4頭、まちがっても5、6番人気で収まる可能性が90%以上あります、着もそれくらいの人気馬で決まりますからこの人気馬の「組合せ」をどう勝ち馬券に導くかが「馬券検討」になるのです。GⅠの場合G(グレード)レースでの実績、近走のGレースの着順(1~3着だけを評価基準にする)と近走の「上りタイム」が勝馬検討の主要素になるので、これらで判定された結果が人気につながってきます。このなかで勝馬が2頭まで絞れれば組合せは限定されて馬券の獲れる可能性は高くなります。ただし配当の高くないこともありますからそれを買う「冷静さ」が必要なのです。

 問題は10レースに1回くらい発生する低人気の勝馬、着に来る馬を見出す方法です。私の場合はGレースの実績の割に近走成績が悪く(或いはグレードの低いレースでしか好着順がなく)人気を落としている馬を穴馬に抜擢します。この前の有馬記念のサラキアは、GⅠ勝ちがなく唯一前走のエリザベス女王杯の2着がGⅠ実績だったので他のGⅠ優勝馬より下の11番人気と低評価だったのですが、3走前平場オープン、2走前GⅡと連勝、そして前走エリザベス杯2着と上り調子でかつエ杯は昨年の6着からの大幅成績アップしていたのですからこれは評価すべきで、かつ前走の上りタイムが33秒7と勝馬のラッキーライラックに優っていたので十分勝負になるはずなのです。案の定クロノのクビ差2着に追い込んで複勝770円という高配当を着けました。

 もうひとつ馬券好調につながっているのは「予想―結果―反省」を記録していることだと思います。何故その馬券を買ったか、何故勝ち馬(2、3着馬)を見逃したのか、の検討の積み重ねが「競馬力」を磨くことになるのではないでしょうか。

 

 有馬を獲った浮かれ気分で調子に乗って饒舌になってしまいました。新年は2月21日のフェブラリーSまでGⅠがありませんから馬券はお休みです。ただ今年の試みとして「騎手馬券」を買ってみようと思っています。候補騎手は北村友一、松山弘平、吉田隼人の三人です。人気如何にかかわらず目をつぶって単複を主体に買って彼らの成長を楽しみたいと思っています。暮れにどんな結果になっているか、楽しみです。

 皆様のご健闘を、そして儲けを少し奥様に分けて「妻が笑えば家庭円満」を祈っています。